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'''馬鳴'''(めみょう、アシュバゴーシャ〈Aśvaghoṣa〉、後80年頃~150年頃)は古代[[インド]]の[[仏教]][[僧侶]]。
'''馬鳴'''(めみょう、アシュバゴーシャ〈Aśvaghoṣa〉、後80年頃~150年頃)は古代[[インド]]の[[仏教]][[僧侶]]。


==生涯==
[[バラモン]]の家系に生まれ、学僧として活躍し議論を好んだ。当初は仏教を非難していたが、付法蔵第11人目の富那奢(または第10人目の脇比丘とも)に論破され、舌を切って謝罪しようとしたが、諭されて仏教に帰依し布教するようになった。
[[バラモン]]の家系に生まれ、学僧として活躍し議論を好んだ。当初は仏教を非難していたが、付法蔵第11人目の富那奢(または第10人目の脇比丘とも)に論破され、舌を切って謝罪しようとしたが、諭されて仏教に帰依し布教するようになった。


聡明で智慧があり、中インド華氏城([[パータリプトラ]])において、天賦の詩才をもって民衆を教化した時に、釈迦の弟子である[[ラッタパーラ]](Raastrapaala、頼咤和羅〈らいたわら〉)をモデルとして戯曲を作り演じたところ、多くの市民を教下し、皆それを聞いて無常を悟り、500人もの王子や人々が出家したといわれ、王はついにこの戯曲を演じることを禁止したといわれる。
聡明で智慧があり、中インド華氏城([[パータリプトラ]])において、天賦の詩才をもって民衆を教化した時に、釈迦の弟子である[[ラッタパーラ]](Raastrapaala、頼咤和羅〈らいたわら〉)をモデルとして戯曲を作り演じたところ、多くの市民を教下し、皆それを聞いて無常を悟り、500人もの王子や人々が出家したといわれ、王はついにこの戯曲を演じることを禁止したといわれる。


==著書==
後に大月氏国([[クシャーン朝]])の[[カニシカ王]]が中インドを征服し和議した結果、この王に伴われ、[[北インド]]へ赴いた。カニシカ王の保護のもとで、仏法を宣教して民衆から尊敬され、太陽のように徳のある人という意味で「功徳日」と敬称された。
後に大月氏国([[クシャーン朝]])の[[カニシカ王]]が中インドを征服し和議した結果、この王に伴われ、[[北インド]]へ赴いた。カニシカ王の保護のもとで、仏法を宣教して民衆から尊敬され、太陽のように徳のある人という意味で「功徳日」と敬称された。


詩文や著書も多くある。特に[[仏陀]]の生涯の詩で著した『[[ブッダ・チャリタ]]』(Buddhacarita、サンスクリット本は後半欠。漢訳は『仏所行讃』5巻28品、[[曇無讖]]訳)は、インド文学において最高の傑作詩文といわれる。また『[[大乗起信論]]』、『大宗地玄文本論』、『大荘厳論経』なども彼の著作と伝えられるが、その真偽については古来議論が続いており不明である。彼の伝記などは「馬鳴菩薩伝」や「付法蔵因縁伝」などに詳しい。多く現代語訳・注解も出されている。
詩文や著書も多くある。特に[[仏陀]]の生涯の詩で著した『[[ブッダ・チャリタ]]』(Buddhacarita、サンスクリット本は後半欠。漢訳は『仏所行讃』5巻28品、[[曇無讖]]訳)は、インド文学において最高の傑作詩文といわれる。また『[[大乗起信論]]』、『大宗地玄文本論』、『[[大荘厳論経]]』なども彼の著作と伝えられるが、その真偽については古来議論が続いており不明である。彼の伝記などは「馬鳴菩薩伝」や「付法蔵因縁伝」などに詳しい。多く現代語訳・注解も出されている。

==関連項目==
*[[大乗起信論]]


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2011年5月2日 (月) 18:56時点における版


馬鳴(めみょう、アシュバゴーシャ〈Aśvaghoṣa〉、後80年頃~150年頃)は古代インド仏教僧侶

生涯

バラモンの家系に生まれ、学僧として活躍し議論を好んだ。当初は仏教を非難していたが、付法蔵第11人目の富那奢(または第10人目の脇比丘とも)に論破され、舌を切って謝罪しようとしたが、諭されて仏教に帰依し布教するようになった。

聡明で智慧があり、中インド華氏城(パータリプトラ)において、天賦の詩才をもって民衆を教化した時に、釈迦の弟子であるラッタパーラ(Raastrapaala、頼咤和羅〈らいたわら〉)をモデルとして戯曲を作り演じたところ、多くの市民を教下し、皆それを聞いて無常を悟り、500人もの王子や人々が出家したといわれ、王はついにこの戯曲を演じることを禁止したといわれる。

著書

後に大月氏国(クシャーン朝)のカニシカ王が中インドを征服し和議した結果、この王に伴われ、北インドへ赴いた。カニシカ王の保護のもとで、仏法を宣教して民衆から尊敬され、太陽のように徳のある人という意味で「功徳日」と敬称された。

詩文や著書も多くある。特に仏陀の生涯の詩で著した『ブッダ・チャリタ』(Buddhacarita、サンスクリット本は後半欠。漢訳は『仏所行讃』5巻28品、曇無讖訳)は、インド文学において最高の傑作詩文といわれる。また『大乗起信論』、『大宗地玄文本論』、『大荘厳論経』なども彼の著作と伝えられるが、その真偽については古来議論が続いており不明である。彼の伝記などは「馬鳴菩薩伝」や「付法蔵因縁伝」などに詳しい。多く現代語訳・注解も出されている。

関連項目