「ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官)」の版間の差分

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'''ガイウス・クラウディウス・プルケル'''(Gaius Claudius Pulcher, ? - [[紀元前167年]])は、共和政ローマの元老院議員。父は[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]。
'''ガイウス・クラウディウス・プルケル'''('''{{lang-la|Gaius Claudius Pulcher}}'''、 ? - [[紀元前167年]])は、共和政ローマの元老院議員。父は[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]。


[[アウグル]]に[[紀元前195年]]、[[プラエトル]]に[[紀元前180年]]に選ばれる。[[紀元前177年]]に[[コンスル]]に就任、[[イストリア半島]]に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度は[[リグーリア|リグリア]]へ、そして勝利を収める。[[紀元前169年]]に[[ケンソル]]に選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルのグラックスが民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして[[紀元前167年]]に外交業務のために[[マケドニア王国|マケドニア]]へ赴き、同年死去した。
[[アウグル]]に[[紀元前195年]]、[[プラエトル]]に[[紀元前180年]]に選ばれる。[[紀元前177年]]に[[コンスル]]に就任、[[イストリア半島]]に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度は[[リグーリア|リグリア]]へ、そして勝利を収める。[[紀元前169年]]に[[ケンソル]]に選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルの[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル]]が民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして[[紀元前167年]]に外交業務のために[[マケドニア王国|マケドニア]]へ赴き、同年死去した。


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2011年4月27日 (水) 12:27時点における版

ガイウス・クラウディウス・プルケルラテン語: Gaius Claudius Pulcher、 ? - 紀元前167年)は、共和政ローマの元老院議員。父はアッピウス・クラウディウス・プルケル

アウグル紀元前195年プラエトル紀元前180年に選ばれる。紀元前177年コンスルに就任、イストリア半島に遠征、しかし失敗してローマに更迭される。再び遠征を試み、今度はリグリアへ、そして勝利を収める。紀元前169年ケンソルに選ばれるが、業績は芳しくなく、弾劾される。しかし同僚ケンソルのティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルが民衆に人気があったため告発は取り下げられた。そして紀元前167年に外交業務のためにマケドニアへ赴き、同年死去した。

家族