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'''由良 国繁'''(ゆら くにしげ、[[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年) - [[1611年]]([[慶長]]16年))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[由良成繁]]の嫡男で、[[渡瀬繁詮]]と[[長尾顕長]]の兄に当たる。子に[[由良貞繁]]がいる。
'''由良 国繁'''(ゆら くにしげ、[[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年) - [[1611年]]([[慶長]]16年))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[由良成繁]]の嫡男で、[[渡瀬繁詮]]と[[長尾顕長]]の兄に当たる。子に[[由良貞繁]]がいる。


由良氏の第九代当主で、[[1578年]]の父の死の前後くらいから家督を継いでいたという。[[1584年]]、[[北条氏]]の命により、[[上野国]][[金山城]]から[[桐生城]]に移ることとなった。
由良氏の第九代当主で、[[1578年]]の父の死の前後くらいから家督を継いでいたという。[[1584年]]、[[後北条氏|北条氏]]の命により、[[上野国]][[金山城]]から[[桐生城]]に移ることとなった。


[[1590年]]の[[豊臣秀吉]]の[[小田原攻め]]では、国繁は豊臣側に与しようとしたが、北条氏に脅迫されて小田原城に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男の由良貞繁と彼の妻が[[豊臣氏]]に与して功を挙げたことにより、北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。秀吉死後は、[[徳川家康]]の家臣となった。
[[1590年]]の[[豊臣秀吉]]の[[小田原攻め]]では、国繁は豊臣側に与しようとしたが、北条氏に脅迫されて小田原城に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男の由良貞繁と彼の妻が[[豊臣氏]]に与して功を挙げたことにより、北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。秀吉死後は、[[徳川家康]]の家臣となった。

2005年11月28日 (月) 12:49時点における版

由良 国繁(ゆら くにしげ、1550年天文19年) - 1611年慶長16年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将由良成繁の嫡男で、渡瀬繁詮長尾顕長の兄に当たる。子に由良貞繁がいる。

由良氏の第九代当主で、1578年の父の死の前後くらいから家督を継いでいたという。1584年北条氏の命により、上野国金山城から桐生城に移ることとなった。

1590年豊臣秀吉小田原攻めでは、国繁は豊臣側に与しようとしたが、北条氏に脅迫されて小田原城に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男の由良貞繁と彼の妻が豊臣氏に与して功を挙げたことにより、北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。秀吉死後は、徳川家康の家臣となった。