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「ヘレーネ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン」の版間の差分

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異母兄[[パウル・フリードリヒ (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|パウル・フリードリヒ]]大公の妻[[アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1803-1892)|アレクサンドリーネ]]がプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の娘だった関係で、[[プロイセン王国|プロイセン]]との同盟を模索する[[7月王政]]期のフランス王ルイ・フィリップの長男で王位継承者であるオルレアン公との縁談が持ち上がった。ヘレーネは[[カトリック]]信徒である[[オルレアン家]]とは宗旨の違う[[プロテスタント]]信徒であり、また美しくもなかったが、自由主義的な思想の持ち主だった。ヘレーネ自身、非常に野心的なプリンセスで、家族の反対を押し切ってでも将来のフランス王妃の座を逃すまいとした。
 
1837年5月30日、[[パリ]]郊外の[[フォンテーヌブロー宮殿]]において、オルレアン公と結婚式を挙げた。パリ大司教[[イアサント=ルイ・ド・ケルン]]([[:en:Hyacinthe-Louis de Quélen|Hyacinthe-Louis de Quélen]])が、宗派の違う夫婦の結婚式に[[ノートルダム聖堂]]を使用するのを禁じたため、宮殿を結婚式場に使ったのだった。以後、ヘレーネはオルレアン公爵夫人エレーヌと呼ばれた。姑の[[マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリー・アメリー]]王妃はエレーヌのリベラル傾向やプロテスタント信仰が気に入らず、長男の嫁を嫌った。オルレアン公爵夫妻の夫婦仲は良好で、すぐに2人の息子が生まれ、オルレアン王家の存続も安泰となった。エレーヌはドイツから[[クリスマスツリー]]を飾る習慣をフランスに持ち込んだことで有名である
 
オルレアン公爵夫妻の夫婦仲は良好で、すぐに2人の息子が生まれ、オルレアン王家の存続も安泰となった。エレーヌはドイツの[[クリスマスツリー]]を飾る習慣をフランスに持ち込んだことで有名である。
 
1842年7月13日、オルレアン公が馬車事故により不慮の死を遂げると、ルイ・フィリップ王の後継者には新たにオルレアン公爵夫妻の長男のパリ伯爵[[フィリップ (パリ伯)|フィリップ]]が指名された。パリ伯爵が幼くして祖父から王位を継いだ場合、成人まで摂政が置かれることも定められた。摂政にはパリ伯爵の母親であるエレーヌと、亡きオルレアン公の次弟[[ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)|ヌムール公]]の2人の名前が挙がったが、最終的な決定は下されないままだった。