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'''山中 幸満'''(やまなか ゆきみつ、生年不詳 - {{要出典範囲|[[永正]]3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]([[1506年]][[5月25日]])|date=2009年4月}})は[[戦国大名]]である[[尼子氏]]の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘、曾孫は[[尼子十勇士]]の筆頭・[[山中幸盛]]出雲[[山中氏]]の祖、父は[[山中幸久]]、母は桜井尾張守為信の娘、子は[[山中満盛]]、山中満重、古志判官光政の室。
'''山中 幸満'''(やまなか ゆきみつ、生年不詳 - {{要出典範囲|[[永正]]3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]([[1506年]][[5月25日]])|date=2009年4月}})は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[戦国大名]][[尼子氏]]の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘。父は[[山中幸久]]、母は[[桜井為信]]の娘、子は[[山中満盛]]、山中満重、古志判官光政の室。曾孫は[[尼子十勇士]]の筆頭・[[山中幸盛]]


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主[[尼子経久]]は[[富田城]]に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。{{要出典範囲|永正3年5月3日に没した。|date=2009年4月}}法名は乗雲である。
家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主[[尼子経久]]は[[富田城]]に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。{{要出典範囲|永正3年5月3日に没した。|date=2009年4月}}法名は乗雲である。


なお佐々木文書山中氏([[山中幸盛#山中氏のルーツ]]も参照)始祖の山中幸久の存在は無く宇多源氏ではなく橘姓近江山中氏が尼子氏下向時に一緒に下向したと思われる。よって山中幸満の存在は創作とみるのが妥当だろう
== 山中氏のルーツ ==
後世の創作物である尼子文限帳から確認するに、山中幸盛が中老衆として尼子氏に仕えていたと表記されている。しかし、当時の一次史料である竹生島奉加帳では、一番下段に山中三郎兵衛なるものが表記されており、同年代には山中幸盛が産まれていないことからも、山中家の地位は低かったようである。


また、佐々木文書に山中始祖の山中幸久の存在は無く宇多源氏ではなく橘姓近江山中氏が尼子氏下向時に一緒に下向したと思われる。

よって山中幸満の存在は創作とみるのが妥当だろう。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2011年1月4日 (火) 04:14時点における版

山中 幸満(やまなか ゆきみつ、生年不詳 - 永正3年5月3日1506年5月25日[要出典])は、戦国時代の武将。戦国大名尼子氏の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘。父は山中幸久、母は桜井為信の娘、子は山中満盛、山中満重、古志判官光政の室。曾孫は尼子十勇士の筆頭・山中幸盛

経歴

長禄元年(1457年)、父・幸久が兄の尼子清定により幽閉され、55歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された。

家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の山中勝重がまだ若い為、月山富田城奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主尼子経久富田城に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。永正3年5月3日に没した。[要出典]法名は乗雲である。

なお、『佐々木文書』には山中氏(山中幸盛#山中氏のルーツも参照)始祖の山中幸久の存在は無く、宇多源氏ではなく橘姓近江山中氏が尼子氏下向時に一緒に下向したと思われる。よって山中幸満の存在は創作とみるのが妥当だろう。

参考文献

  • 妹尾豊三郎『出雲富田城史』 山中鹿介幸盛公顕彰会、1978年 山中家系図より
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社)、1989年