「デイリー・メール」の版間の差分
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1982年には姉妹紙 The Mail on Sunday が創刊された。編集傾向は最も保守的である。中間読者層(幅広い記事内容を求める読者)をターゲットとしたイギリスでは最初の新聞で、また日刊紙として発行部数100万を超えた最初の新聞でもある。 |
1982年には姉妹紙 The Mail on Sunday が創刊された。編集傾向は最も保守的である。中間読者層(幅広い記事内容を求める読者)をターゲットとしたイギリスでは最初の新聞で、また日刊紙として発行部数100万を超えた最初の新聞でもある。 |
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長い間通常版サイズの新聞だったが1971年からタブロイドサイズになった。 |
長い間通常版サイズの新聞だったが、1971年からタブロイドサイズになった。 |
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ライバル紙のデイリー・エクスプレス (Daily Express) とは対象とする読者層や政治的観点が似ているが、発行部数では3倍以上の差を付けている。 |
ライバル紙のデイリー・エクスプレス (Daily Express) とは対象とする読者層や政治的観点が似ているが、発行部数では3倍以上の差を付けている。 |
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現在の発行部数は200万部を超える。日刊紙として世界12位、英字紙としては世最大規模の新聞のひとつとなっている。 |
現在の発行部数は200万部を超える。日刊紙として世界12位、英字紙としては世最大規模の新聞のひとつとなっている。 |
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1906年世界初の英仏海峡横断飛行に対して |
1906年、この新聞は世界初の英仏海峡横断飛行に対して1,000ポンド、ロンドン-マンチェスター間の飛行に対して10,000ポンドの賞金を出す。1910年にどちらの飛行も成功し、賞金が支払われた。 |
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この新聞はドイツが大英帝国に戦争を仕掛ける計画を進めているという記事を載せた |
この新聞はドイツが大英帝国に戦争を仕掛ける計画を進めているという記事を載せた。その結果、第一次世界大戦勃発の後、戦争を招いたとして批判される。大戦が勃発した際は、アルフレッド・ハームワースが徴兵制導入を主張して論争を引き起こした。また、1915年5月21日には英雄と考えられていた当時の陸軍大臣キッチナー卿に関してこの新聞は辛辣な批判記事を載せたため、一晩で発行部数が138.6万部から23.8万部まで落ちた。株式市場の会員は売れ残りの新聞を燃やして抗議し、ボイコットを始める。当時の英首相アスキスは「我が国を破壊する新聞である」と非難した。 |
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株式市場の会員は売れ残りの新聞を燃やして抗議し、ボイコットを始める。当時の英首相アスキスは「我が国を破壊する新聞である」と非難した。 |
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キッチナー卿死 |
キッチナー卿が死去した際には、この新聞は彼の死を大英帝国の幸運と評した。 この新聞はその後[[アスキス]]首相の批判運動を繰り広げ、1916年12月、首相は辞任する。後任の[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド=ジョージ]]首相はアルフレッド・ハームワースの政府批判をかわすため、彼に入閣を要請するが断られている。 |
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[[1922年]]アルフレッド・ハームワースが亡くなる、ハロルド・ハームワースがすべての経営を行う。 |
[[1922年]]、アルフレッド・ハームワースが亡くなると、ハロルド・ハームワースがすべての経営を行うようになった。 |
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[[1926年]]発行部数が200万部を記録。 |
[[1926年]]、発行部数が200万部を記録。 |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
2010年9月21日 (火) 07:35時点における版
The Daily Mail(デイリー・メール)は、1896年創刊のイギリスでもっとも古いタブロイド紙。発行部数はザ・サン (The Sun) 紙に次いで第2位。
概説
1982年には姉妹紙 The Mail on Sunday が創刊された。編集傾向は最も保守的である。中間読者層(幅広い記事内容を求める読者)をターゲットとしたイギリスでは最初の新聞で、また日刊紙として発行部数100万を超えた最初の新聞でもある。 長い間通常版サイズの新聞だったが、1971年からタブロイドサイズになった。 ライバル紙のデイリー・エクスプレス (Daily Express) とは対象とする読者層や政治的観点が似ているが、発行部数では3倍以上の差を付けている。 現在の発行部数は200万部を超える。日刊紙として世界12位、英字紙としては世最大規模の新聞のひとつとなっている。
デイリー・メールは、アルフレッド・ハームズワース(後に授爵されてノースクリフ卿)とハロルド・ハームズワース(同じくロザーメア卿)の兄弟によって、1896年5月4日に一般紙とは一線を画す新聞として創刊された。内容を大衆向きなものとし、記事も短く分かりやすくした。また他の日刊紙が軒並み1ペニーだったなか、デイリー・メールは1/2ペニーとした。そのため同紙は創刊早々に大きな成功を収め、間もなく発行部数は50万部を突破した。
1906年、この新聞は世界初の英仏海峡横断飛行に対して1,000ポンド、ロンドン-マンチェスター間の飛行に対して10,000ポンドの賞金を出す。1910年にどちらの飛行も成功し、賞金が支払われた。
この新聞はドイツが大英帝国に戦争を仕掛ける計画を進めているという記事を載せた。その結果、第一次世界大戦勃発の後、戦争を招いたとして批判される。大戦が勃発した際は、アルフレッド・ハームワースが徴兵制導入を主張して論争を引き起こした。また、1915年5月21日には英雄と考えられていた当時の陸軍大臣キッチナー卿に関してこの新聞は辛辣な批判記事を載せたため、一晩で発行部数が138.6万部から23.8万部まで落ちた。株式市場の会員は売れ残りの新聞を燃やして抗議し、ボイコットを始める。当時の英首相アスキスは「我が国を破壊する新聞である」と非難した。
キッチナー卿が死去した際には、この新聞は彼の死を大英帝国の幸運と評した。 この新聞はその後アスキス首相の批判運動を繰り広げ、1916年12月、首相は辞任する。後任のロイド=ジョージ首相はアルフレッド・ハームワースの政府批判をかわすため、彼に入閣を要請するが断られている。
1922年、アルフレッド・ハームワースが亡くなると、ハロルド・ハームワースがすべての経営を行うようになった。
1926年、発行部数が200万部を記録。