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2010年8月31日 (火) 13:36時点における版
アッピア街道(Via Appia、アッピアかいどう)とは現存するローマ街道の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。新しいアッピア街道が1784年に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道(Via Appia Antica)とも呼ばれる。
概要・歴史
紀元前312年に当時のケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により元老院の反対のなか、すでに存在したローマとアルバーノ丘陵を結んでいた街道を改修、拡大し敷設が始まった。敷石には頑丈なベスビオ火山の火山岩が用いられた。
アッピア旧街道の当初のルートはローマ市内(カラカラ浴場付近)とアリッチャ、アッピウスのフォルム、テッラチーナ、フォンディ、フォルミア、ミントゥルノ(ミントゥルナエ)、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアだった。
紀元前190年、街道はベネヴェント(ベネウェントゥム)やヴェノーザまでさらに延長され、次の時代にはターラント(タレントゥム)とブリンディジ(ブルンディシウム)まで延長された。
「アッピア・トライアーナ」、つまりトライヤヌスのアッピア街道はより線状にベネヴェントとカノーザ(カヌシウム)やバーリ(バリウム)を繋いだ。
紀元前71年、約6000人の奴隷がスパルタクスに率いられ反乱を起こした。マルクス・リキニウス・クラッススによってこの奴隷反乱が鎮圧されると逮捕された反乱者たちは街道沿いに十字架にかけられ、それらはポンペイにまで達した。
ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが教皇ピウス6世の命により修復され再び利用された。
街道の広い部分は元の状態で現在まで保存されていて、ところどころは現在でも自動車道として使用されている(例えば、ヴェッレトリ近辺)。ローマに近い街道沿いの部分では、ローマ時代の墓碑や初期キリスト教のカタコンベを多数見ることができる。
アッピア街道上にて初めてマイルストーンが見られた。
関連項目
- オットリーノ・レスピーギ(交響詩 ローマの松)
- ラティーナ門
外部リンク
- アッピア旧街道州立公園 公式サイト
- アッピア旧街道州立公園 イタリアの公園サイト内