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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[トンガ]]の家系をもち[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]に生まれる。オークランドのウェズリーカレッジ卒業。身長196cm、体重119kg(公式発表)の身体から生み出される圧倒的なパワーと爆発的なスピードを兼ね備え「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と呼ばれる。100mを10秒5で駆け抜ける脚力をもちWTBとして活躍。高校時代から才能を開花し、ニュージーランドU-17代表、U-19代表、U-21代表を経て[[1994年]]には史上最年少の19歳で[[ラグビーニュージーランド代表]](オールブラックス)に選出される。オールブラックスでは63キャップ、37トライ、ワールドカップ15トライを記録。[[1995年]]の[[1995 ラグビーワールドカップ|ラグビーワールドカップ]]へ出場するも決勝戦で[[ラグビー南アフリカ代表|南アフリカ]]に敗れ準優勝に終わる。ロムーは同大会で7トライをあげトライ王に輝く。
[[トンガ]]の家系をもち[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]に生まれる。オークランドのウェズリーカレッジ卒業。身長196cm、体重119kg(公式発表)の身体から生み出される圧倒的なパワーと爆発的なスピードを兼ね備え「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と呼ばれる。100mを10秒5で駆け抜ける脚力をもちWTBとして活躍。高校時代から才能を開花し、ニュージーランドU-17代表、U-19代表、U-21代表を経て[[1994年]]には史上最年少の19歳で[[ラグビーニュージーランド代表]](オールブラックス)に選出される。オールブラックスでは63キャップ、37トライ、ワールドカップ15トライを記録。[[1995年]]の[[1995 ラグビーワールドカップ|ラグビーワールドカップ]]へ出場するも決勝戦で[[ラグビー南アフリカ代表|南アフリカ]]に敗れ準優勝に終わる。ロムーは同大会で7トライをあげトライ王に輝く。
[[1996年]]の南アフリカツアーに参加するも、怪我と[[ネフローゼ症候群]]に悩まされ、[[1997年]]シーズンは数試合に出場するも、残りの試合を欠場。[[1998年コモンウェルスゲームズ]][[7人制ラグビー]]ニュージーランド代表として出場し金メダルを獲得する。[[1999年]]に開催された[[1999 ラグビーワールドカップ|ラグビーワールドカップ]]に出場し8トライをあげるもチームは準決勝で敗退。3位決定戦にも破れ4位に終わる。ロムーは同大会トライ王に輝く。この大会後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[NFL]]、[[イングランド]]の[[プレミアシップ (ラグビー)|プレミアシップ]]への移籍も噂されたが、オールブラックスでの競技生活を優先するためニュージーランドに留まる。[[2000年]]にオールブラックスメンバーとして8試合に出場。[[2001年]]に開催された第3回ラグビー7人制大会中、怪我で離脱した[[エリック・ラッシュ]]に代わり急遽招聘され、ニュージーランドを優勝に導く。[[2003年]]に[[腎臓]]機能が悪化し[[人工透析]]を開始する。病状が悪化し腎臓移植以外に回復の兆しはなく、歩くこともラグビーをすることも不可能と宣告される。[[2004年]]に移植提供者が見つかり手術は成功する(後に腎臓提供者はウェリントンのラジオパーソナリティー、グラント・ケレアマであることがわかり両者は再会を果たす)。手術後のリハビリを経て[[2005年]]にラグビー選手として復帰する。[[ニュージーランド州代表選手権|NPC]]ノースハーバーと契約するも肩を負傷しシーズンの大半を欠場する。休養中はコーチとしてチームを支え、同年のNPC終了後に[[ウェールズ]]の[[カーディフ・ブルーズ]]でプレーするため[[ケルティックリーグ]]へ移籍する。[[2006年]]4月に足首を負傷しニュージーランドへ帰国する。ノースハーバー2軍を経て、ノースハーバー配下のマッセーに所属。マッセーでも怪我に悩み、わずかな出場機会に終わる。2007年開催の[[2007 ラグビーワールドカップ|ラグビーワールドカップ]]への出場意欲を見せるも、[[スーパー14]]のチームとは契約できず、オールブラックスの選考から外れる。
[[1996年]]の南アフリカツアーに参加するも、怪我と[[ネフローゼ症候群]]に悩まされ、[[1997年]]シーズンは数試合に出場するも、残りの試合を欠場。[[1998年コモンウェルスゲームズ]][[7人制ラグビー]]ニュージーランド代表として出場し金メダルを獲得する。[[1999年]]に開催された[[1999 ラグビーワールドカップ|ラグビーワールドカップ]]に出場し8トライをあげるもチームは準決勝で敗退。3位決定戦にも破れ4位に終わる。ロムーは同大会トライ王に輝く。この大会後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[NFL]]、[[イングランド]]の[[プレミアシップ (ラグビー)|プレミアシップ]]への移籍も噂されたが、オールブラックスでの競技生活を優先するためニュージーランドに留まる。[[2000年]]にオールブラックスメンバーとして8試合に出場。[[2001年]]に開催された第3回ラグビー7人制大会中、怪我で離脱した[[エリック・ラッシュ]]に代わり急遽招聘され、ニュージーランドを優勝に導く。[[2003年]]に[[腎臓]]機能が悪化し[[人工透析]]を開始する。病状が悪化し腎臓移植以外に回復の兆しはなく、歩くこともラグビーをすることも不可能と宣告される。[[2004年]]に移植提供者が見つかり手術は成功する(後に腎臓提供者はウェリントンのラジオパーソナリティー、グラント・ケレアマであることがわかり両者は再会を果たす)。手術後のリハビリを経て[[2005年]]にラグビー選手として復帰する。[[ニュージーランド州代表選手権|NPC]]ノースハーバーと契約するも肩を負傷しシーズンの大半を欠場する。休養中はコーチとしてチームを支え、同年のNPC終了後に[[ウェールズ]]の[[カーディフ・ブルーズ]]でプレーするため[[ケルティックリーグ]]へ移籍する。[[2006年]]4月に足首を負傷しニュージーランドへ帰国する。ノースハーバー2軍を経て、ノースハーバー配下のマッセーに所属。マッセーでも怪我に悩み、わずかな出場機会に終わる。2007年開催の[[2007 ラグビーワールドカップ|ラグビーワールドカップ]]への出場意欲を見せるも、[[スーパー14]]のチームとは契約できず、オールブラックスの選考から外れる。
2009年10月、日本ラグビー協会より[[2019 ラグビーワールドカップ]]ラグビーアンバサダー(親善大使)に就任することが発表された。
2009年10月、日本ラグビー協会より[[2019 ラグビーワールドカップ]]ラグビーアンバサダー(親善大使)に就任することが発表された。


== 所属チーム ==
== 所属チーム ==

2010年7月28日 (水) 05:22時点における版

ジョナ・ロムー
フルネーム ジョナ・タリ・ロムー
生年月日 (1975-05-12) 1975年5月12日(48歳)
出身地 ニュージーランド オークランド
身長 1.96 m (6 ft 5 in)
体重 115 kg (18 st 2 lb)/254 lbs
愛称 ジョン
親族 アンドリュー・ロムージョン・タマニカ
ラグビーユニオンでの経歴
ポジション ウィング(WTB)
All Black No. 941
シニア経歴
チーム 出場 (得点)
2009– マルセイユ・ヴィトロール 2 (0)
州代表
チーム 出場 (得点)
2006
2000–03
1994–99
2005-06
ノース・ハーバー
ウェリントン
カントリーズ・マヌカウ
カーディフ
3
21
28
10
(0)
(65)
(95)
(5)
更新日:  2006年9月9日
スーパーラグビー
チーム 出場 (得点)
2000–03
1999
1996–98
ハリケーンズ
チーフス
ブルース
29
8
22
(55)
(10)
(65)
更新日:  2006年9月9日
代表
チーム 出場 (得点)
1994–2002 ニュージーランド 63 (185)
更新日:  2008年3月7日
7人制代表
チーム 大会
1994-2001 ニュージーランド
獲得メダル
コモンウェルスゲームズ
クアラルンプール1998 7人制ラグビー

ジョナ・ロムーJonah Tali LomuMNZM1975年5月12日 - ) は、ニュージーランド出身のラグビー選手である。ポジションはウィング(WTB)。

経歴

トンガの家系をもちオークランドに生まれる。オークランドのウェズリーカレッジ卒業。身長196cm、体重119kg(公式発表)の身体から生み出される圧倒的なパワーと爆発的なスピードを兼ね備え「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と呼ばれる。100mを10秒5で駆け抜ける脚力をもちWTBとして活躍。高校時代から才能を開花し、ニュージーランドU-17代表、U-19代表、U-21代表を経て1994年には史上最年少の19歳でラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)に選出される。オールブラックスでは63キャップ、37トライ、ワールドカップ15トライを記録。1995年ラグビーワールドカップへ出場するも決勝戦で南アフリカに敗れ準優勝に終わる。ロムーは同大会で7トライをあげトライ王に輝く。 1996年の南アフリカツアーに参加するも、怪我とネフローゼ症候群に悩まされ、1997年シーズンは数試合に出場するも、残りの試合を欠場。1998年コモンウェルスゲームズ7人制ラグビーニュージーランド代表として出場し金メダルを獲得する。1999年に開催されたラグビーワールドカップに出場し8トライをあげるもチームは準決勝で敗退。3位決定戦にも破れ4位に終わる。ロムーは同大会トライ王に輝く。この大会後にアメリカNFLイングランドプレミアシップへの移籍も噂されたが、オールブラックスでの競技生活を優先するためニュージーランドに留まる。2000年にオールブラックスメンバーとして8試合に出場。2001年に開催された第3回ラグビー7人制大会中、怪我で離脱したエリック・ラッシュに代わり急遽招聘され、ニュージーランドを優勝に導く。2003年腎臓機能が悪化し人工透析を開始する。病状が悪化し腎臓移植以外に回復の兆しはなく、歩くこともラグビーをすることも不可能と宣告される。2004年に移植提供者が見つかり手術は成功する(後に腎臓提供者はウェリントンのラジオパーソナリティー、グラント・ケレアマであることがわかり両者は再会を果たす)。手術後のリハビリを経て2005年にラグビー選手として復帰する。NPCノースハーバーと契約するも肩を負傷しシーズンの大半を欠場する。休養中はコーチとしてチームを支え、同年のNPC終了後にウェールズカーディフ・ブルーズでプレーするためケルティックリーグへ移籍する。2006年4月に足首を負傷しニュージーランドへ帰国する。ノースハーバー2軍を経て、ノースハーバー配下のマッセーに所属。マッセーでも怪我に悩み、わずかな出場機会に終わる。2007年開催のラグビーワールドカップへの出場意欲を見せるも、スーパー14のチームとは契約できず、オールブラックスの選考から外れる。 2009年10月、日本ラグビー協会より2019 ラグビーワールドカップラグビーアンバサダー(親善大使)に就任することが発表された。

所属チーム

NPCカウンティース・マヌカゥ(1994年 - 1999年)、ウェリントン(2000年 - 2003年)にて競技生活をおくり、2005年にノースハーバーと契約する。ウェールズのカーディフ・ブルーズ(2005年 - 2006年)に移籍する。2006年にノースハーバーに復帰。ノースハーバー2軍を経てノースハーバー配下のマッセーに所属。スーパー14では、オークランド・ブルーズ(現在のブルース)(1996年 - 1998年)、ワイカト・チーフス(現在のチーフス、1999年)、ハリケーンズ(2000年 - 2003年)に所属。オールブラックスに1994年から2002年まで選出され63キャップ。

2007年5月9日5月12日ラグビー日本代表クラシック・オールブラックス戦出場のため来日。同試合2戦とも参加。この試合ではWTBとしてプレイし、クラシック・オールブラックスの勝利に貢献した。

2007年ラグビー殿堂入り。また同年、ラグビー界への貢献によりニュージーランド・メリット勲章を授与されている。

2009年6月に、同年11月よりフランス・フェデラル1所属のマルセイユ・ヴィトロールに加入することが発表された。

私生活

関連項目

外部リンク