「ヴェルフ2世 (バイエルン公)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
en:Welf II, Duke of Bavaria(19:53, 11 May 2010 UTC)を翻訳
 
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''ヴェルフ2世'''(Welf II, [[1072年]] - [[1120年]][[9月24日]])は、[[バイエルン大公|バイエルン公]](在位:[[1101年]] - 1120年)。[[ヴェルフ家]]では'''ヴェルフ4世'''と呼ばれる。[[ヴェルフ1世 (バイエルン公)|ヴェルフ1世]]と[[フランドル伯]][[ボードゥアン4世 (フランドル伯)|ボードゥアン4世]]の娘ユーディトの長男。[[ハインリヒ9世 (バイエルン公)|ハインリヒ9世]]の兄。
'''ヴェルフ2世'''(Welf II, [[1072年]] - [[1120年]][[9月24日]])は、[[バイエルン大公|バイエルン公]](在位:[[1101年]] - 1120年)。[[ヴェルフ1世 (バイエルン公)|ヴェルフ1世]]と[[フランドル伯]][[ボードゥアン4世 (フランドル伯)|ボードゥアン4世]]の娘ユーディトの長男。[[ハインリヒ9世 (バイエルン公)|ハインリヒ9世]]の兄。[[ヴェルフ家]]では'''ヴェルフ5世'''と呼ばれる。肥満公(the Fat)とも称される


当時、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]と[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が[[叙任権闘争]]で争っていたが、父は教皇派に与して[[1077年]]、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。[[1089年]]にヴェルフ2世は[[トスカーナ州|トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ]]と結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれていった([[教皇派と皇帝派]]を参照)。
当時、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]と[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が[[叙任権闘争]]で争っていたが、父は教皇派に与して[[1077年]]、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。[[1089年]]にヴェルフ2世は[[トスカーナ州|トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ]]と結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれていった([[教皇派と皇帝派]]を参照)。

2010年7月17日 (土) 10:28時点における版

ヴェルフ2世(Welf II, 1072年 - 1120年9月24日)は、バイエルン公(在位:1101年 - 1120年)。ヴェルフ1世フランドル伯ボードゥアン4世の娘ユーディトの長男。ハインリヒ9世の兄。ヴェルフ家ではヴェルフ5世と呼ばれる。肥満公(the Fat)とも称される。

当時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世ローマ教皇グレゴリウス7世叙任権闘争で争っていたが、父は教皇派に与して1077年、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。1089年にヴェルフ2世はトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれていった(教皇派と皇帝派を参照)。

しかし、1095年にマティルデと離婚した。この出来事は父が皇帝派に鞍替えしたためとされている。事実、翌1096年にヴェルフ1世はハインリヒ4世からバイエルン公位を授かっている。1101年に父が第1回十字軍に参戦、帰途でキプロス島で没したため、バイエルン公位を継いで皇帝ハインリヒ5世の下に属した。

1120年没。子が無かったため、バイエルンは弟のハインリヒ9世が継いだ。遺体は父と同じくヴァインガルテン修道院に埋葬された。

先代
ヴェルフ1世
バイエルン公
1101年 - 1120年
次代
ハインリヒ9世