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'''奥野 定良'''(おくの さだよし('''将監'''(しょうげん))、[[正保]]4年([[1647年]]) - [[享保]]12年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]([[1727年]][[7月10日]]))は[[播磨国|播州]][[赤穂藩]]士。組頭1000石。
'''奥野 定良'''(おくの さだよし('''将監'''(しょうげん))、[[正保]]4年([[1647年]]) - [[享保]]12年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]([[1727年]][[7月10日]]))は[[播磨国|播州]][[赤穂藩]]士。組頭1000石。


父は家老[[奥野定次|奥野将監定次]]。母は[[大石信云]]の娘奈津。したがって47士の[[大石信清|大石瀬左衛門]]とは従兄弟の関係である。
父は家老[[奥野定次]]。母は[[大石信云]]の娘奈津。したがって47士の[[大石信清]]とは従兄弟の関係である。


[[元禄]]14年([[1701年]])3月、[[江戸城]]松之大廊下で主君[[浅野長矩|浅野内匠頭]]が[[吉良義央|吉良上野介]]に刃傷におよび、浅野内匠頭は切腹。赤穂藩は改易となった。
[[元禄]]14年([[1701年]])3月、[[江戸城]]松之大廊下で主君[[浅野長矩]]が[[吉良義央]]に刃傷におよび、浅野長矩は切腹。赤穂藩は改易となった。
赤穂城明け渡しに際して、家老[[大野知房|大野九郎兵衛]]が逐電してしまったために、代わりに[[大石良雄|大石内蔵助]]を補佐して明け渡しを行った。
赤穂城明け渡しに際して、家老[[大野知房]]が逐電してしまったために、代わりに[[大石良雄]](内蔵助を補佐して明け渡しを行った。


奥野将監は大石内蔵助の義盟に加わり、御家再興運動では大石の右腕となり助けた。元禄15年([[1702年]])7月、浅野内匠頭の弟[[浅野長広|浅野大学]]の[[広島市|広島]][[広島藩|浅野宗家]]への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると[[京都]]円山の会議で大石は吉良上野介への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟してしまった。
奥野は大石良雄の義盟に加わり、御家再興運動では大石の右腕となり助けた。元禄15年([[1702年]])7月、浅野長矩の弟[[浅野長広]]の[[広島市|広島]][[広島藩|浅野宗家]]への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると[[京都]]円山の会議で大石は吉良義央への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟してしまった。


奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。この脱盟については大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったとも浅野長矩の隠し子の姫を育てるためだったとも言われるが真相は不明である。
奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。この脱盟については大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったとも浅野長矩の隠し子の姫を育てるためだったとも言われるが真相は不明である。


その後は播磨に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて[[新田開発]]に尽力した。また晩年には播磨国多可郡中町の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に将監のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると[[1727年]](享保12年)5月22日に死去したとある。[[享年]]82。
その後は播磨に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて[[新田開発]]に尽力した。また晩年には播磨国多可郡中町の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に奥野のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると[[1727年]]享保12年)5月22日に死去したとある。[[享年]]82。


[[司馬遼太郎]]の短編小説「池田屋異聞」(『[[新選組血風録]]』収録)では[[新選組]]隊士[[山崎烝]]を奥野将監の子孫として描いているが、これはフィクションである。
[[司馬遼太郎]]の短編小説「池田屋異聞」(『[[新選組血風録]]』収録)では[[新選組]]隊士[[山崎烝]]を奥野定良の子孫として描いているが、これはフィクションである。


なお奥野の組に属していた藩士のうちからは[[潮田高教|潮田又之丞高教]]・[[木村貞行|木村岡右衛門貞行]]が吉良邸討ち入りに加わった。
なお奥野の組に属していた藩士のうちからは[[潮田高教]]・[[木村貞行]]が吉良邸討ち入りに加わった。


==関連項目==
==関連項目==

2010年5月25日 (火) 10:11時点における版

奥野 定良(おくの さだよし(将監(しょうげん))、正保4年(1647年) - 享保12年5月22日1727年7月10日))は播州赤穂藩士。組頭1000石。

父は家老奥野定次。母は大石信云の娘奈津。したがって47士の大石信清とは従兄弟の関係である。

元禄14年(1701年)3月、江戸城松之大廊下で主君浅野長矩吉良義央に刃傷におよび、浅野長矩は切腹。赤穂藩は改易となった。 赤穂城明け渡しに際して、家老大野知房が逐電してしまったために、代わりに大石良雄(内蔵助)を補佐して明け渡しを行った。

奥野は大石良雄の義盟に加わり、御家再興運動では大石の右腕となり助けた。元禄15年(1702年)7月、浅野長矩の弟浅野長広広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的になると京都円山の会議で大石は吉良義央への仇討ちを決定するが、その直後に奥野は脱盟してしまった。

奥野は一党の中では大石に次いで禄が高く、討ち入り後に細川家にお預けとなった大石は奥野の脱盟を大変に残念がっている。この脱盟については大石が吉良を打ち洩らした際に備えた二番手だったとも浅野長矩の隠し子の姫を育てるためだったとも言われるが真相は不明である。

その後は播磨に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて新田開発に尽力した。また晩年には播磨国多可郡中町の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に奥野のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると1727年(享保12年)5月22日に死去したとある。享年82。

司馬遼太郎の短編小説「池田屋異聞」(『新選組血風録』収録)では新選組隊士山崎烝を奥野定良の子孫として描いているが、これはフィクションである。

なお奥野の組に属していた藩士のうちからは潮田高教木村貞行が吉良邸討ち入りに加わった。

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