「ヴェルフ家」の版間の差分

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バイエルンのヴェルフ家も[[1055年]]の[[ヴェルフ (ケルンテン公)|ヴェルフ3世]]の死とともに断絶した。ヴェルフ3世の姉のクニグンデは[[9世紀]]から続く[[ロンバルディア]]の[[エステ辺境伯]][[アルベルト・アッツォ2世・デステ|アルベルト・アッツォ2世]]と結婚していたため、バイエルンのヴェルフ家は[[エステ家]]に相続されることとなった(このためヴェルフ・エステ家ともいう)。
 
ヴェルフ・エステ家は[[1070年]]にクニグンデとアルベルト・アッツォ2世の長男[[ヴェルフ4世]]が[[バイエルン大公|バイエルン]]となって[[ドイツ王国|ドイツ]]に基盤を築いた。[[ヴェルフ5世]]は神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]と対立し、[[叙任権闘争]]において[[教皇|ローマ教皇]]と結び[[教皇派]]の[[トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルデ]]と結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれるようになる。
 
[[ザリエル朝]]が断絶するとバイエルン公[[ハインリヒ10世 (バイエルン公)|ハインリヒ10世]](尊大公)は、[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]の[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]と帝位を争った。[[1140年]]の[[ヴァインスベルクの戦い]]の「掛け声」からヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと呼ぶようになり、これが[[イタリア]]に伝わり[[教皇派と皇帝派]](ゲルフ対ギベリン)となる。
 
[[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]([[1129年]] - [[1195年]])[[ザクセン公国|ザクセン公]]、[[バイエルン|バイエルン公]]を兼ね、舅の[[イングランド王国|イングランド王]][[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]と結び大勢力を誇ったが、[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]との争いに敗れ、[[ノルマンディー]]に[[亡命]]している。ザクセンとバイエルンは没収、それぞれ[[アスカーニエン家]]の[[ベルンハルト3世 (ザクセン公)|ベルンハルト3世]]、[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[オットー1世 (バイエルン公)|オットー1世]]に与えられた
 
ハインリヒ獅子公の次男[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]は皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]の死後、その弟の[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]と皇帝位を争った。当初形勢は不利だったが、フィリップが[[暗殺]]されたため為に念願の皇帝となった。しかし、ローマ教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]と対立し(この時はヴェルフ派が皇帝派となり、ホーエンシュタウフェン派が教皇派となっている)[[破門]]され、[[1215年]]の[[ブービーヌの戦い]]に敗れ、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]に皇帝位を奪われた。
 
ちなみに、オットー4世の兄・[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]]は[[ライン宮中伯]]になっていたが、子の[[ハインリヒ6世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ6世]]が子の無いまま[[1214年]]に死去した為、姻戚関係にある[[バイエルン|バイエルン公]][[ルートヴィヒ1世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ1世]]が相続、[[ヴィッテルスバッハ家]]の世襲となっていった。
 
==ハノーファーのヴェルフ家==
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