「小場義成」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
旧暦換算等
1行目: 1行目:
'''小場 義成'''(おば よしなり、[[永禄]]12年([[1569年]]) - [[寛永]]11年([[1634年]]))は、[[佐竹氏]]一門の佐竹西家当主。[[久保田藩]][[大館城|大館]]初代所預。
'''小場 義成'''(おば よしなり、[[永禄]]12年([[1569年]]) - [[寛永]]11年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1634年]][[12月17日]]))は、[[佐竹氏]]一門の佐竹西家当主。[[久保田藩]][[大館城|大館]]初代所預。


父は東家[[小場義忠]]。母は[[小場義宗]]の娘。正室は東家[[佐竹義久]]の養女(大塚信濃の娘)。子は[[小場義易]]。
父は東家[[小場義忠]]。母は[[小場義宗]]の娘。正室は東家[[佐竹義久]]の養女(大塚信濃の娘)。子は[[小場義易]]。

== 経歴 ==
== 経歴 ==
父義宗は[[佐竹義昭]]の三男で、小場義忠の婿養子となった。永禄12年(1569年)義宗の子として生まれる。[[慶長]]5年([[1600年]])主君[[佐竹義宣]]に常陸[[小田城]]を与えられ5万石を給される。慶長7年([[1602年]])佐竹家が秋田に転封となると、東家[[佐竹義賢]]と共に先乗りし、[[檜山城]]を守る。慶長8年([[1603年]])領内で[[浅利氏]]の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年([[1610年]])[[南部氏]]、[[津軽氏]]への抑えとして[[大館城]]を任され知行5000石を給される。慶長19年([[1614年]])[[大坂の役]]に参戦。
父義宗は[[佐竹義昭]]の三男で、小場義忠の婿養子となった。永禄12年(1569年)義宗の子として生まれる。[[慶長]]5年([[1600年]])主君[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に常陸[[小田城]]を与えられ5万石を給される。慶長7年([[1602年]])佐竹家が秋田に転封となると、東家[[佐竹義賢]]と共に先乗りし、[[檜山城]]を守る。慶長8年([[1603年]])領内で[[浅利氏]]の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年([[1610年]])[[南部氏]]、[[津軽氏]]への抑えとして[[大館城]]を任され知行5000石を給される。慶長19年([[1614年]])[[大坂の役]]に参戦。

[[元和]]8年([[1622年]])[[最上家信]]が[[改易]]となり、幕命により[[本荘城]]、[[滝沢城]]の受け取りの任を務める。寛永6年([[1629年]])2月佐竹家が[[江戸城]][[神田橋]]の石垣普請を命じられ、その監督を務める。工事の完成後、江戸城で[[将軍]][[徳川秀忠]]に拝謁して、時服と虎皮投鞘の槍を賜る。寛永11年(1634年)10月27日没。享年66。
[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])[[最上義俊]]が[[改易]]となり、幕命により[[本荘城]]、[[滝沢城]]の受け取りの任を務める。寛永6年([[1629年]])2月佐竹家が[[江戸城]][[神田橋]]の石垣普請を命じられ、その監督を務める。工事の完成後、江戸城で[[将軍]][[徳川秀忠]]に拝謁して、時服と虎皮投鞘の槍を賜る。寛永11年(1634年)10月27日没。享年66。
{{DEFAULTSORT:おは よしなり}}

[[Category:佐竹氏|よしなり]]
[[Category:江戸時代の人物]]
[[Category:1569年生]]
[[Category:1634年没]]
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 国会図書館所蔵「秋田小学軌鑑」
* 国会図書館所蔵「秋田小学軌鑑」

== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[佐竹氏]]
*[[佐竹氏]]

{{people-stub}}
{{people-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:おは よしなり}}
[[Category:佐竹氏]]
[[Category:江戸時代の人物]]
[[Category:1569年生]]
[[Category:1634年没]]

2010年3月9日 (火) 12:04時点における版

小場 義成(おば よしなり、永禄12年(1569年) - 寛永11年10月27日1634年12月17日))は、佐竹氏一門の佐竹西家当主。久保田藩大館初代所預。

父は東家小場義忠。母は小場義宗の娘。正室は東家佐竹義久の養女(大塚信濃の娘)。子は小場義易

経歴

父義宗は佐竹義昭の三男で、小場義忠の婿養子となった。永禄12年(1569年)義宗の子として生まれる。慶長5年(1600年)主君佐竹義宣に常陸小田城を与えられ5万石を給される。慶長7年(1602年)佐竹家が秋田に転封となると、東家佐竹義賢と共に先乗りし、檜山城を守る。慶長8年(1603年)領内で浅利氏の残党が蜂起するとそれを鎮める。慶長15年(1610年南部氏津軽氏への抑えとして大館城を任され知行5000石を給される。慶長19年(1614年大坂の役に参戦。

元和8年(1622年最上義俊改易となり、幕命により本荘城滝沢城の受け取りの任を務める。寛永6年(1629年)2月佐竹家が江戸城神田橋の石垣普請を命じられ、その監督を務める。工事の完成後、江戸城で将軍徳川秀忠に拝謁して、時服と虎皮投鞘の槍を賜る。寛永11年(1634年)10月27日没。享年66。

参考文献

  • 国会図書館所蔵「秋田小学軌鑑」

関連項目