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Category:国際テニス殿堂入りの人物
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{{テニス選手
|選手名(日本語)=エリザベス・ムーア
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|選手名(英語)=Elisabeth Moore
|フルネーム(英語名)=Elisabeth Holmes Moore
|愛称=Bessie (ベシー)
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|出身地=同・ニューヨークブルックリン
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|誕生日={{生年月日と年齢|1876|3|5|死去}}
|没年日={{死亡年月日と没年齢|1876|3|5|1959|1|22}}
|死没地=同・フロリダ州スターク
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全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは[[1959年]][[1月22日]]に[[フロリダ州]]スタークで82歳の生涯を閉じた。[[1971年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは[[1959年]][[1月22日]]に[[フロリダ州]]スタークで82歳の生涯を閉じた。[[1971年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
== 全米選手権の成績 ==
== 全米選手権の成績 ==
* 女子シングルス:4勝(1896年1901年1903年1905年) [準優勝4度:1892年1897年1902年1904年]
* 女子シングルス:4勝(1896年1901年1903年1905年) [準優勝4度:1892年1897年1902年1904年]
* 女子ダブルス:2勝(1896年1903年) [準優勝3度:1895年1901年1904年]
* 女子ダブルス:2勝(1896年1903年) [準優勝3度:1895年1901年1904年]
* 混合ダブルス:2勝(1902年1904年) [準優勝2度:1892年1905年]
* 混合ダブルス:2勝(1902年1904年) [準優勝2度:1892年1905年]
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=210 国際テニス殿堂(英語)]


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2010年3月7日 (日) 14:31時点における版

エリザベス・ムーア
Elisabeth Moore
基本情報
フルネーム Elisabeth Holmes Moore
愛称 Bessie (ベシー)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ニューヨークブルックリン
生年月日 (1876-03-05) 1876年3月5日
没年月日 (1959-01-22) 1959年1月22日(82歳没)
死没地 同・フロリダ州スターク
利き手
4大大会最高成績・シングルス
全米 優勝(1896・1901・03・05)
優勝回数 4(米4)
4大大会最高成績・ダブルス
全米 優勝(1896・1903)
優勝回数 2(米2)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 優勝(1902・04)
優勝回数 2(米2)

エリザベス・ムーアElisabeth Moore, 1876年3月5日 - 1959年1月22日)は、アメリカニューヨークブルックリン出身の女子テニス選手。19世紀の終わりから20世紀初頭の時期、全米選手権(現在の全米オープン)で女子部門の黎明期に活躍した選手のひとりである。ムーアは全米選手権の女子シングルスで4勝、女子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げ、通算「8勝」を記録した。フルネームは Elisabeth Holmes Moore (エリザベス・ホームズ・ムーア)というが、愛称の「ベシー・ムーア」(Bessie Moore)の名前で呼ばれることも多かった。右利きの選手。

エリザベス・ムーアは1892年、16歳の時に全米選手権の女子シングルスと混合ダブルスの2部門で初めて決勝に進出した。最初期の時代は、男子シングルス・男子ダブルス・女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの5部門がそれぞれ個別の名称を持ち、大会会場も別々のテニスクラブで開かれていた。女子シングルスは1887年に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)という名前で始まり、女子ダブルスは1889年から「全米女子ダブルス選手権」(U.S. Women's National Doubles Championship)、混合ダブルスは1892年から「全米混合ダブルス選手権」(U.S. Mixed Doubles Championship)という名称で公式競技に加えられた。ムーアは女子シングルスの第6回大会と、混合ダブルスの第1回大会で決勝に進んだが、この時はどちらも準優勝に終わった。初期の全米女子シングルス選手権では、1891年から決勝戦が最大5セット・マッチで行われるようになり、ムーアは初めての決勝戦でマーベル・カーヒルアイルランド)に 7-5, 3-6, 4-6, 6-4, 2-6 の5セット・マッチで敗れた。16歳6ヶ月での女子シングルス決勝進出は、1978年全米オープンパム・シュライバーが「16歳2ヶ月」で準優勝するまで、86年間全米女子の最年少決勝進出記録であった。

それから4年後の1896年、エリザベス・ムーアは20歳で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に初優勝を飾った。女子シングルス決勝ではジュリエット・アトキンソン1873年 - 1944年)を 6-4, 4-6, 6-2, 6-2 の5セット・マッチで下し、女子ダブルスではそのアトキンソンとペアを組んで優勝している。1897年の女子シングルス決勝は、2年連続でムーアとアトキンソンの対決になったが、今度はアトキンソンが 6-3, 6-3, 4-6, 3-6, 6-3 でムーアに雪辱した。1901年、ムーアは女子シングルス決勝でマートル・マカティアーを 6-4, 3-6, 7-5, 2-6, 6-2 の5セット・マッチで破り、4年ぶり2度目の女子シングルス優勝を飾った。しかし、この後全米テニス協会の運営委員たちの間で「女子選手に最大5セット・マッチはきつすぎるのではないか」という危惧の声が出るようになり、1901年を最後に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門から「最大5セット・マッチ」が廃止された。1902年以後は最大3セット・マッチで行われるようになり、現在に至っている。ムーアがプレーした最初期の全米選手権は、このような大会運営ルールの変更も多かった。

女子競技がすべて最大3セット・マッチに落ち着いた後、1903年にムーアは自身2度目の女子シングルス・女子ダブルス2部門制覇を達成した。1904年、ムーアは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を決めたが、3部門ともメイ・サットン1886年 - 1975年)と決勝対決をした。ムーアが当時18歳のサットンに勝ったのは、ウィリー・グラントとペアを組んだ混合ダブルスのみで、女子シングルスと女子ダブルスではサットンに敗れてしまう。1905年は女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に進み、女子シングルス決勝ではヘレン・ホーマンズを 6-4, 5-7, 6-1 で破り、ここで最後の全米選手権タイトルを獲得した。最後の混合ダブルス決勝では、ムーアはエドワード・デューハーストとペアを組んだが、クラレンス・ホバート&オーガスタ・シュルツ(この2人は結婚した夫婦)の組に 2-6, 4-6 で敗れた。こうしてエリザベス・ムーアは、黎明期の全米選手権に大きな足跡を残した。

全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは1959年1月22日フロリダ州スタークで82歳の生涯を閉じた。1971年国際テニス殿堂入りを果たしている。

全米選手権の成績

  • 女子シングルス:4勝(1896年・1901年・1903年・1905年) [準優勝4度:1892年・1897年・1902年・1904年]
  • 女子ダブルス:2勝(1896年・1903年) [準優勝3度:1895年・1901年・1904年]
  • 混合ダブルス:2勝(1902年・1904年) [準優勝2度:1892年・1905年]

外部リンク