「ウルグ・ベク」の版間の差分

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[[1408年]]、父の命を受けて[[サマルカンド]]の知事として赴任し、そこを治めた。ウルグは文化的に優れた人物であったため、父が[[明]]との国交を修復すると、サマルカンドには交易で[[中国]]文化が取り入れられるようになる。そのような中で、ウルグはイスラム系だけではなく中国の文化や学問も保護または奨励し、さらに学校や天文台などを多数建設した。このウルグの治世により、サマルカンドはイスラム文化の一大都市として大いに栄えたのである。
 
1417年、[[サマルカンド]]の現在[[レギスタン広場]]がある場所で[[ウルグ・ベク・マドラサ]]の建設を開始する。それ以外にも、ブハラとギジュドゥボンに神学校を建設。
 
1447年、父の死により君主の地位を継いだ。しかし、ウルグは政治家としては優れていたが軍人としては父や祖父に遠く及ばない人物であったため、帝国内で後継者をめぐっての争いが起こる。しかも、それを見て好機とばかりに[[ウズベク族]]までもが侵攻してきたため、帝国は混乱を極めた。そして、このような混乱の中でウルグ自身も、1449年に長男・[[アブドゥッラティーフ]]の反乱にあって殺されてしまったのである。
 
{{先代次代|[[ティムール朝]]の君主|1447年 - 1449年|[[シャー・ルフ]]|[[アブドゥッラティーフ]]}}
 
== 関連項目 ==
 
[[ウルグ・ベク・マドラサ]]
 
{{DEFAULTSORT:うるくへく}}
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