「東常縁」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[室町幕府]][[奉公衆]]として[[京都]]にあり、[[冷泉派]]の[[正徹|清巌正徹]]にも[[和歌]]を学ぶが、[[1450年]]([[宝徳]]2年)正式に[[二条派]]の[[尭孝]](ぎょうこう)の門弟となる。[[1455年]](康正元年)[[下総国]]で起きた本家にあたる[[千葉氏]]の内紛を収めるため、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の命により、嫡流の[[千葉胤賢]]の遺児[[千葉実胤|実胤]]と[[千葉自胤|自胤]]兄弟を支援し[[関東]]を転戦した。だが、[[古河公方]][[足利成氏]]が常縁に敵対的な介入を図ったために、成果は芳しくなかった。
 
更に、関東滞在中に[[応仁の乱]]が発生し、所領である[[美濃国]]郡上を[[守護]][[土岐成頼]]を擁する[[斎藤妙椿]]に奪われたが、これを嘆いた常縁の歌により所領の返還がかなった。[[1471年]]([[文明 (日本)|文明]]3年)、[[宗祇]]に[[古今伝授]]を行っている。後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている。
 
常縁は'''古今伝授の祖'''として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には「常縁集」、歌学書には「東野州聞書」がある。
*[[千葉氏]]
*[[東氏]]
*[[酒井定隆]]
*[[享徳の乱]]
 
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