「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の版間の差分
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| 画像説明 = ペドロ1世([[w:pt:Simplício Rodrigues de Sá|シンプリーシオ・デ・サ]]画、[[w:pt:Museu Imperial|帝国博物館]]蔵) |
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| 在位 = [[1822年]][[10月12日]] - [[1831年]][[4月7日]]<br/<span style="font-size:75%;">ポルトガル王:[[1826年]][[3月10日]] - [[1826年]][[5月28日]]</span> |
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| 戴冠日 = [[1822年]][[12月1日]] |
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| 別号 = [[ポルトガル王国|ポルトガル王ペドロ4世 |
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| 出生日 = [[1798年]][[10月12日]] |
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[[1821年]]、ポルトガル宮廷がリスボンに帰還すると、ペドロはブラジル摂政として残留し、独立を望むブラジルの人々に擁立されて翌1822年に独立を宣言、皇帝ペドロ1世となった。ペドロ1世はリベラルな傾向が強く、[[1824年]]には[[立憲君主制]]の憲法を制定したが、アルゼンチンとの[[500日戦争]]に敗北すると事情が変わってきた。かつて併合した[[シスプラチナ州]]を失ったことは国民から大きな批判にさらされた。一説にはこの敗戦が退位の最大の原因だとする説もあるほどである。さらにインフレの昂進、各地での反乱、愛人[[ドミティリア・デ・カストロ・エ・カント・メロ|ドミティラ]]の専横を許し、ブラジル国民に絶大な人気のあった皇后レオポルディナに辛く当たった事などが原因で、人気は落ち目となった。実際にブラジルを独立に導いたのはレオポルディナの功績だったからである。ペドロはただ議会の決議を承認しただけだった。 |
[[1821年]]、ポルトガル宮廷がリスボンに帰還すると、ペドロはブラジル摂政として残留し、独立を望むブラジルの人々に擁立されて翌1822年に独立を宣言、皇帝ペドロ1世となった。ペドロ1世はリベラルな傾向が強く、[[1824年]]には[[立憲君主制]]の憲法を制定したが、アルゼンチンとの[[500日戦争]]に敗北すると事情が変わってきた。かつて併合した[[シスプラチナ州]]を失ったことは国民から大きな批判にさらされた。一説にはこの敗戦が退位の最大の原因だとする説もあるほどである。さらにインフレの昂進、各地での反乱、愛人[[ドミティリア・デ・カストロ・エ・カント・メロ|ドミティラ]]の専横を許し、ブラジル国民に絶大な人気のあった皇后レオポルディナに辛く当たった事などが原因で、人気は落ち目となった。実際にブラジルを独立に導いたのはレオポルディナの功績だったからである。ペドロはただ議会の決議を承認しただけだった。 |
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ポルトガル王ジョアン6世が没した後、ペドロ1世は自身の王位継承を辞退し、娘[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア2世]]が正統なポルトガル王位継承者とされた。しかしマリア2世は幼少のため在ブラジルのままであり、ポルトガル本国ではペドロの弟[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ミゲル1世]]が王位を僭称し(1828年 - 1834年)、極めて保守反動的な政治を行っていた。[[七月革命]]の余波がブラジルにも波及し、近衛兵までが暴動に加わるのを見て衝撃を受けたペドロ1世は[[1831年]]にブラジル皇帝位を退き、長男ペドロ・ダ・アルカンタラに譲位した。彼はイギリス軍艦に便乗して出国し、娘マリア2世の王位を主張してポルトガル本国に帰国、弟のミゲルと[[ポルトガル内戦]](1828年 - 1834年)を戦った。内戦はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命に追い込まれたが、間もなくペドロも[[1834年]][[9月24日]]リスボンの宮殿で病死し、マリア2世が名実共にポルトガル女王となった。 |
ポルトガル王ジョアン6世が没した後、ペドロ1世は自身の王位継承を辞退し、娘[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア2世]]が正統なポルトガル王位継承者とされた。しかしマリア2世は幼少のため在ブラジルのままであり、ポルトガル本国ではペドロの弟[[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ミゲル1世]]が王位を僭称し(1828年 - 1834年)、極めて保守反動的な政治を行っていた。[[七月革命]]の余波がブラジルにも波及し、近衛兵までが暴動に加わるのを見て衝撃を受けたペドロ1世は[[1831年]]にブラジル皇帝位を退き、長男[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ・ダ・アルカンタラ]]に譲位した。彼はイギリス軍艦に便乗して出国し、娘マリア2世の王位を主張してポルトガル本国に帰国、弟のミゲルと[[ポルトガル内戦]](1828年 - 1834年)を戦った。内戦はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命に追い込まれたが、間もなくペドロも[[1834年]][[9月24日]]リスボンの宮殿で病死し、マリア2世が名実共にポルトガル女王となった。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
2009年10月18日 (日) 09:36時点における版
ペドロ1世 Pedro I | |
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ブラジル皇帝 | |
ペドロ1世(シンプリーシオ・デ・サ画、帝国博物館蔵) | |
在位 |
1822年10月12日 - 1831年4月7日 ポルトガル王:1826年3月10日 - 1826年5月28日 |
戴冠式 | 1822年12月1日 |
別号 | ポルトガル王ペドロ4世 |
出生 |
1798年10月12日 ポルトガル、リスボン、ケルス宮殿 |
死去 |
1834年9月24日(35歳没) ポルトガル王国、リスボン、ケルス宮殿 |
埋葬 |
1972年 ブラジル、サンパウロ、独立記念碑 |
配偶者 | マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア |
アメリア・デ・レウシュテンベルグ | |
子女 |
マリア2世 ミゲル ジョアン・カルルシュ ジャニュアリア・マリア パウラ・マリアナ フランシスカ ペドロ2世 マリア・アメリア |
王朝 | ブラガンサ王朝 |
王室歌 | 独立賛歌 |
父親 | ジョアン6世 |
母親 | カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン |
ペドロ1世(Pedro I do Brasil、1798年10月12日 - 1834年9月24日)は、ブラジル帝国初代皇帝(在位:1822年 - 1831年)。ポルトガル国王としてはペドロ4世(在位:1826年)と呼ばれる。ブラジルでは一般にドン・ペドロ1世(ドン・ペドロ・プリメイロ)と呼ばれている。
生涯
1798年10月12日、ポルトガル摂政ジョアンの第4子(次男)としてリスボンに生まれる。長男が早く亡くなったので、実質的な王位継承者であった。1808年、ナポレオン軍のリスボン侵攻を前に、祖母である女王マリア1世や両親とともにブラジルのリオデジャネイロ市に逃れた。
ポルトガル宮廷のリオ滞在中、マリア1世が没して父ジョアン6世が即位した。王太子となったペドロは、1817年にオーストリア皇帝フランツ1世の次女マリア・レオポルディーネ(マリア・レオポルディナ)と結婚した。ペドロは粗野で横暴な人物で、ふだんは陽気だが、突然鞭を振り上げて暴れるような所もあったという。また、レオポルディナに暴力を振るう事もあり、彼女が29歳で亡くなったのは、夫の暴力が原因とも言われている。
1821年、ポルトガル宮廷がリスボンに帰還すると、ペドロはブラジル摂政として残留し、独立を望むブラジルの人々に擁立されて翌1822年に独立を宣言、皇帝ペドロ1世となった。ペドロ1世はリベラルな傾向が強く、1824年には立憲君主制の憲法を制定したが、アルゼンチンとの500日戦争に敗北すると事情が変わってきた。かつて併合したシスプラチナ州を失ったことは国民から大きな批判にさらされた。一説にはこの敗戦が退位の最大の原因だとする説もあるほどである。さらにインフレの昂進、各地での反乱、愛人ドミティラの専横を許し、ブラジル国民に絶大な人気のあった皇后レオポルディナに辛く当たった事などが原因で、人気は落ち目となった。実際にブラジルを独立に導いたのはレオポルディナの功績だったからである。ペドロはただ議会の決議を承認しただけだった。
ポルトガル王ジョアン6世が没した後、ペドロ1世は自身の王位継承を辞退し、娘マリア2世が正統なポルトガル王位継承者とされた。しかしマリア2世は幼少のため在ブラジルのままであり、ポルトガル本国ではペドロの弟ミゲル1世が王位を僭称し(1828年 - 1834年)、極めて保守反動的な政治を行っていた。七月革命の余波がブラジルにも波及し、近衛兵までが暴動に加わるのを見て衝撃を受けたペドロ1世は1831年にブラジル皇帝位を退き、長男ペドロ・ダ・アルカンタラに譲位した。彼はイギリス軍艦に便乗して出国し、娘マリア2世の王位を主張してポルトガル本国に帰国、弟のミゲルとポルトガル内戦(1828年 - 1834年)を戦った。内戦はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命に追い込まれたが、間もなくペドロも1834年9月24日リスボンの宮殿で病死し、マリア2世が名実共にポルトガル女王となった。
家族
最初の妃マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア(1797年 - 1826年)との間には、その死の前年までの7年間に毎年1人ずつ、7人の子供が生まれた。
- マリア2世(1819年 - 1853年) ポルトガル女王
- ミゲル(1820年)
- ジョアン・カルルシュ(1821年 - 1822年)
- ジャニュアリア・マリア(1822年 - 1901年)
- パウラ・マリアナ(1823年 - 1833年)
- フランシスカ(1824年 - 1898年)
- ペドロ2世(1825年 - 1891年) ブラジル皇帝
1829年にボアルネ家出身のアメリー・ド・ボアルネ(1812年 - 1873年)と結婚し、1女をもうけた。
- マリア・アメリア(1831年 - 1853年)
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