「千坂景親」の版間の差分

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{{武士/生誕|[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])}}
{{武士/死没|[[慶長]]11年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]([[1606年]][[5月30日]])}}
{{武士/別名|清胤、与市(通称)}}
{{武士/墓所|一花院跡([[山形県]][[米沢市]])}}
{{武士/官位|[[対馬国|対馬]][[国司|守]]}}
景親は合戦での活躍はほとんど無いが、外交・情報収集能力に優れており、景勝政権下では上杉家の外交役として活躍する。[[天正]]14年([[1586年]])に景勝の上洛に付き従い、[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[8月1日]])には[[大坂城]]で[[直江兼続]]と共に[[千利休]]の手前で茶を頂いている。<ref>『天正十四年上洛日帳』</ref>[[文禄]]4年([[1595年]])に[[伏見城]]普請総奉行に任命され、11月にはその功績を認められて伏見留守居役となる。[[慶長]]3年([[1598年]])の会津移封で大沼郡5500石を受領。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後には徳川家との和睦を主張し、[[本多正信]]と親交の深いことから、同じく和睦を主張した[[本庄繁長]]と共に和睦交渉にあたる。[[慶長]]8年([[1603年]])、[[米沢藩]]の初代江戸家老となる。[[慶長]]11年([[1606年]])、71歳で死去。家督は親戚筋からの養子である[[千坂高信]](満願寺仙右衛門)が相続した。<ref>『上杉将士書上』には「千坂対馬守清胤は上杉家代々の四家老の一人なり。分別工夫ありて、弁才見事なり。仁体よく候。倅二人。嫡子は病者にて、用立ち申さず。二男は相性愚にして、遂に家門断絶する所にて候を、古き家なる故、直江山城守兼続才覚にて、千坂が家人満願寺仙右衛門といふ者を取立て、家督を継がせ、千坂伊豆守といふ。元和の末、寛永の初、松平伊豆守信綱執権の時、名を改め、千坂対馬になる。」とある。</ref>一説では、江戸家老となった後、武門を捨てて旧領内の山崎金剛山西野坊に入門、同地に修験寺院・自正院清胤寺を開いたという。<ref>『笹神村史』通史編・資料編1</ref>
 
千坂氏は以後江戸時代を通して米沢藩筆頭家老を務め、子孫に[[江戸時代]]中期の[[元禄赤穂事件]]([[忠臣蔵]])の際に父[[吉良義央]]の援軍として出兵しようとした藩主[[上杉綱憲]]を押しとどめたという上杉家江戸家老[[千坂高房]](兵部)(ただし実際には事件の前に死去、詳細は高房の項目を参照)や[[上杉鷹山]]の藩政改革の折に[[七家騒動]]で処分された[[千坂高敦]](対馬)、幕末に[[戊辰戦争]]で米沢藩総督を務め、[[明治時代]]に[[内務省]]に入省して[[石川県|石川]][[県令]]・[[岡山県|岡山]][[県令]]を歴任し、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となった[[千坂高雅]](太郎左衛門、琢磨)、高雅の次男で[[海軍中将]]の[[千坂智次郎]]、作家の[[千坂精一]]らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
 
==参考文献==
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