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景親は合戦での活躍はほとんど無いが、外交・情報収集能力に優れており、景勝政権下では上杉家の外交役として活躍する。[[天正]]14年([[1586年]])に景勝の上洛に付き従い、[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[8月1日]])には[[大坂城]]で[[直江兼続]]と共に[[千利休]]の手前で茶を頂いている。<ref>『天正十四年上洛日帳』</ref>[[文禄]]4年([[1595年]])に[[伏見城]]普請総奉行に任命され、11月にはその功績を認められて伏見留守居役となる。[[慶長]]3年([[1598年]])の会津移封で大沼郡5500石を受領。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後には徳川家との和睦を主張し、[[本多正信]]と親交の深いことから、同じく和睦を主張した[[本庄繁長]]と共に和睦交渉にあたる。[[慶長]]8年([[1603年]])、[[米沢藩]]の初代江戸家老となる。[[慶長]]11年([[1606年]])、71歳で死去。家督は親戚筋からの養子である[[千坂高信]](満願寺仙右衛門)が相続した。<ref>『上杉将士書上』には「千坂対馬守清胤は上杉家代々の四家老の一人なり。分別工夫ありて、弁才見事なり。仁体よく候。倅二人。嫡子は病者にて、用立ち申さず。二男は相性愚にして、遂に家門断絶する所にて候を、古き家なる故、直江山城守兼続才覚にて、千坂が家人満願寺仙右衛門といふ者を取立て、家督を継がせ、千坂伊豆守といふ。元和の末、寛永の初、松平伊豆守信綱執権の時、名を改め、千坂対馬になる。」とある。</ref>一説では、江戸家老となった後、武門を捨てて旧領内の山崎金剛山西野坊に入門、同地に修験寺院・自正院清胤寺を開いたという。<ref>『笹神村史』通史編・資料編1</ref>
景親は合戦での活躍はほとんど無いが、外交・情報収集能力に優れており、景勝政権下では上杉家の外交役として活躍する。[[天正]]14年([[1586年]])に景勝の上洛に付き従い、[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]([[8月1日]])には[[大坂城]]で[[直江兼続]]と共に[[千利休]]の手前で茶を頂いている。<ref>『天正十四年上洛日帳』</ref>[[文禄]]4年([[1595年]])に[[伏見城]]普請総奉行に任命され、11月にはその功績を認められて伏見留守居役となる。[[慶長]]3年([[1598年]])の会津移封で大沼郡5500石を受領。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後には徳川家との和睦を主張し、[[本多正信]]と親交の深いことから、同じく和睦を主張した[[本庄繁長]]と共に和睦交渉にあたる。[[慶長]]8年([[1603年]])、[[米沢藩]]の初代江戸家老となる。[[慶長]]11年([[1606年]])、71歳で死去。家督は親戚筋からの養子である[[千坂高信]](満願寺仙右衛門)が相続した。<ref>『上杉将士書上』には「千坂対馬守清胤は上杉家代々の四家老の一人なり。分別工夫ありて、弁才見事なり。仁体よく候。倅二人。嫡子は病者にて、用立ち申さず。二男は相性愚にして、遂に家門断絶する所にて候を、古き家なる故、直江山城守兼続才覚にて、千坂が家人満願寺仙右衛門といふ者を取立て、家督を継がせ、千坂伊豆守といふ。元和の末、寛永の初、松平伊豆守信綱執権の時、名を改め、千坂対馬になる。」とある。</ref>一説では、江戸家老となった後、武門を捨てて旧領内の山崎金剛山西野坊に入門、同地に修験寺院・自正院清胤寺を開いたという。<ref>『笹神村史』通史編・資料編1</ref>


千坂氏は以後江戸時代を通して米沢藩筆頭家老を務め、子孫に[[江戸時代]]中期の[[元禄赤穂事件]]([[忠臣蔵]])の際に父[[吉良義央]]の援軍として出兵しようとした藩主[[上杉綱憲]]を押しとどめたという上杉家江戸家老[[千坂高房]](ただし実際には事件の前に死去、詳細は高房の項目を参照)や[[上杉鷹山]]の藩政改革の折に[[七家騒動]]で処分された[[千坂高敦]]、幕末に[[戊辰戦争]]で米沢藩総督を務め、[[明治時代]]に[[内務省]]に入省して[[石川県|石川]][[県令]]・[[岡山県|岡山]][[県令]]を歴任し、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となった[[千坂高雅]]、高雅の次男で[[海軍中将]]の[[千坂智次郎]]らがいる。
千坂氏は以後江戸時代を通して米沢藩筆頭家老を務め、子孫に[[江戸時代]]中期の[[元禄赤穂事件]]([[忠臣蔵]])の際に父[[吉良義央]]の援軍として出兵しようとした藩主[[上杉綱憲]]を押しとどめたという上杉家江戸家老[[千坂高房]](ただし実際には事件の前に死去、詳細は高房の項目を参照)や[[上杉鷹山]]の藩政改革の折に[[七家騒動]]で処分された[[千坂高敦]]、幕末に[[戊辰戦争]]で米沢藩総督を務め、[[明治時代]]に[[内務省]]に入省して[[石川県|石川]][[県令]]・[[岡山県|岡山]][[県令]]を歴任し、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となった[[千坂高雅]]、高雅の次男で[[海軍中将]]の[[千坂智次郎]]、作家の[[千坂精一]]らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)


==参考文献==
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2009年10月11日 (日) 14:27時点における版

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時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 天文5年(1536年
死没 慶長11年4月24日1606年5月30日
別名 清胤、与市(通称)
墓所 一花院跡(山形県米沢市
官位 対馬
主君 上杉謙信景勝
出羽国米沢藩家老
氏族 千坂氏
父母 父:千坂景長、母:不明
不明
千坂太郎左衛門、長朝
高信(満願寺仙右衛門)

千坂 景親(ちさか かげちか)/千坂 清胤(ちさか きよたね)(天文5年(1536年) - 慶長11年4月24日1606年5月30日))は、戦国時代から江戸時代初期の越後国武将で、上杉氏の重臣。

生涯

千坂氏は上杉氏の四家老の一つで、蒲原郡白川庄女堂村(新潟県阿賀野市女堂)の鉢盛城主であり、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時に、謙信の重臣となった。景親は謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなく、それが謙信の他の重臣と比して景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。

景親は合戦での活躍はほとんど無いが、外交・情報収集能力に優れており、景勝政権下では上杉家の外交役として活躍する。天正14年(1586年)に景勝の上洛に付き従い、6月16日8月1日)には大坂城直江兼続と共に千利休の手前で茶を頂いている。[1]文禄4年(1595年)に伏見城普請総奉行に任命され、11月にはその功績を認められて伏見留守居役となる。慶長3年(1598年)の会津移封で大沼郡5500石を受領。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には徳川家との和睦を主張し、本多正信と親交の深いことから、同じく和睦を主張した本庄繁長と共に和睦交渉にあたる。慶長8年(1603年)、米沢藩の初代江戸家老となる。慶長11年(1606年)、71歳で死去。家督は親戚筋からの養子である千坂高信(満願寺仙右衛門)が相続した。[2]一説では、江戸家老となった後、武門を捨てて旧領内の山崎金剛山西野坊に入門、同地に修験寺院・自正院清胤寺を開いたという。[3]

千坂氏は以後江戸時代を通して米沢藩筆頭家老を務め、子孫に江戸時代中期の元禄赤穂事件忠臣蔵)の際に父吉良義央の援軍として出兵しようとした藩主上杉綱憲を押しとどめたという上杉家江戸家老千坂高房(ただし実際には事件の前に死去、詳細は高房の項目を参照)や上杉鷹山の藩政改革の折に七家騒動で処分された千坂高敦、幕末に戊辰戦争で米沢藩総督を務め、明治時代内務省に入省して石川県令岡山県令を歴任し、貴族院議員となった千坂高雅、高雅の次男で海軍中将千坂智次郎、作家の千坂精一らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)

参考文献

  • 『笹神村史 通史編』(2004年)
  • 『笹神村史 資料編1 原始・古代・中世』(2004年)

関連作品

小説

『疾風怒涛!上杉戦記』(PHP文庫、2008年)などに収録。

脚注

  1. ^ 『天正十四年上洛日帳』
  2. ^ 『上杉将士書上』には「千坂対馬守清胤は上杉家代々の四家老の一人なり。分別工夫ありて、弁才見事なり。仁体よく候。倅二人。嫡子は病者にて、用立ち申さず。二男は相性愚にして、遂に家門断絶する所にて候を、古き家なる故、直江山城守兼続才覚にて、千坂が家人満願寺仙右衛門といふ者を取立て、家督を継がせ、千坂伊豆守といふ。元和の末、寛永の初、松平伊豆守信綱執権の時、名を改め、千坂対馬になる。」とある。
  3. ^ 『笹神村史』通史編・資料編1