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2005年8月29日 (月) 01:40時点における版

アンリ・ギザンHenri Guisan, 1874年10月21日-1960年4月8日)は、スイス軍人第二次世界大戦下の非常事態下において軍の最高司令官(将軍)となり、事実上のスイスの最高指導者となった。

スイス西部のヴォー州フランス系の医師の家に生まれたアンリ・ギザンは、幼くして母を亡くしたものの、父親の愛情を受けて育った。やがてローザンヌ大学に進学したものの、進路に迷った末にフランスやドイツに農業技術の研究のために留学した。やがて兵役に就いた事をきっかけに軍の仕事に興味を持って職業軍人に転じて主として砲兵畑にて活躍、第一次世界大戦の頃には陸軍中央学校の教官、あるいは軍の作戦司令部の参謀として、近代戦の研究に励んだ。1932年には軍団長大佐(平時のスイスにおいては将官は設けられないため、大佐が最上位となる)兼国家国防委員会委員となり、実質上の武官のトップの地位に就いた。

1939年8月、ナチス・ドイツポーランドの関係が急速に悪化して戦争が避けられない情勢となると、ジュゼッペ・モッタら当時の連邦政府指導部は連邦議会とともに8月30日に武装中立と非常事態を宣言、政府と議会の代表からなる委員会に全権が委任された。委員会は少数派のフランス系住民出身ではあるが、実績と信頼のあるギザンを軍の最高司令官を選出して、臨戦態勢を整えた。ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には山間部を走る国境の交通網を全面的に破壊した上、平野部を放棄してアルプス山脈に要塞を築いて徹底抗戦する計画を立案した。最高43万人の民兵が動員されてスイス国内は「ハリネズミ」と評されるほどの一大防衛体制が取られた。

だが、翌年に入るとモッタが急死し、続いてイタリアがナチス・ドイツ側に参戦し、フランスが降伏した(オーストリアは既にドイツに併合されている)ため、スイスの国境は全てドイツ側陣営と接する事になった。しかも、多数派であるドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、中立政策は動揺を来たした。

1940年7月25日、ギザンは主だった軍の幹部・将校を建国伝説ゆかりの地であるリュトリに集めて演説を行い、スイスの自由と独立を守ってきた先人の精神を引き継いであくまでも国を守ってゆく事を誓ったのである(「リュトリ演説」)。
ギザンの演説は以後、スイスの国民に広く伝わり、以後ドイツ側への参加を公然と唱えるものは少なくなった。

ところが戦争の長期化とともに経済的理由から、「ドイツ側への配慮」に動く行政側(それが、ユダヤ人の入国拒否問題やナチスが不当に得た資産のマネーロンダリング容認といった事実として後に発覚する)とあくまでも両陣営何れに対しても加担すべきではないと考えてドイツ側の工作員として働いたスイス人に対して死刑を含めた厳しい処置で臨むギザンとの間に不協和音となって現れた。
だが、ギザンの徹底的な防衛戦略と国民からの支持を背景に、彼の「武装中立」路線の根本は揺らぐ事はなかった。また、ドイツ側も同盟国・イタリアとの連絡ルート確保のためにたびたびスイス占領計画を立案したものの、ギザンの戦略を打ち破るだけの戦略を見出す事は出来ずに実際の発動までには至らなかった。

やがてドイツが降伏した後の1945年6月4日、ギザンはその職務を終え、静かに引退生活に入ったという。