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'''ジェリンド・ボルディン'''('''Gelindo Bordin'''、1959年4月2日 - )は[[イタリア]][[ヴィチェンツァ]]出身の元[[マラソン]]選手である。1986年[[ヨーロッパ陸上選手権|欧州選手権]]で男子マラソンで優勝した。翌1987年に地元で行われた[[世界陸上選手権#大会一覧|ローマ世界選手権]]では高温多湿となったレースでトップ集団からやや遅れて走り、後半の追い上げで[[ダグラス・ワキウリ]]([[ケニア]])、[[アーメド・サラ]]([[ジブチ]])に続き3位に食い込んだ。 |
'''ジェリンド・ボルディン'''('''Gelindo Bordin'''、1959年4月2日 - )は[[イタリア]][[ヴィチェンツァ]]出身の元[[マラソン]]選手である。1986年[[ヨーロッパ陸上選手権|欧州選手権]]で男子マラソンで優勝した。翌1987年に地元で行われた[[世界陸上選手権#大会一覧|ローマ世界選手権]]では高温多湿となったレースでトップ集団からやや遅れて走り、後半の追い上げで[[ダグラス・ワキウリ]]([[ケニア]])、[[アーメド・サラ]]([[ジブチ]])に続き3位に食い込んだ。 |
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1988年の[[ソウルオリンピック]]では、ワキウリ、サラ、ボルディンの世界選手権のメダリスト3人と[[中山竹通]](日本)との優勝争いと見られていた。レースは大方の予想通りこの4人の争いとなり最初に中山が脱落した。残った3人よる過酷な消耗戦の末、ボルディンがワキウリ、サラを振り切り見事金メダルを獲得した。38km過ぎのサラのスパートに、ワキウ |
1988年の[[ソウルオリンピック]]では、ワキウリ、サラ、ボルディンの世界選手権のメダリスト3人と[[中山竹通]](日本)との優勝争いと見られていた。レースは大方の予想通りこの4人の争いとなり最初に中山が脱落した。残った3人よる過酷な消耗戦の末、ボルディンがワキウリ、サラを振り切り見事金メダルを獲得した。38km過ぎのサラのスパートに、ワキウリと共に着いていけずに脱落したと思われたが、粘りの走りで40kmを過ぎてから、ワキウリ、サラを次々と逆転しイタリア人初の五輪マラソン優勝を果たした。このレースは[[日本放送協会|NHK]]が実況中継していたが、レースの解説者[[宗茂]]は、ボルディンが一時脱落したときに「イタリアの選手はここからが強いんです」とコメントしている。 |
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1990年に行われた欧州選手権で史上初のマラソン2連覇を果たした。しかし1991年の[[世界陸上選手権#大会一覧|東京世界選手権]]では期待はずれの8位に終わった。 |
1990年に行われた欧州選手権で史上初のマラソン2連覇を果たした。しかし1991年の[[世界陸上選手権#大会一覧|東京世界選手権]]では期待はずれの8位に終わった。 |
2009年9月21日 (月) 12:07時点における版
獲得メダル | ||
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イタリア | ||
陸上競技 | ||
オリンピック | ||
金 | 1988 ソウル | 男子マラソン |
世界陸上競技選手権大会 | ||
銅 | 1987 ローマ | 男子マラソン |
ヨーロッパ陸上競技選手権大会 | ||
金 | 1986 シュツットガルト | 男子マラソン |
金 | 1990 スプリト | 男子マラソン |
ジェリンド・ボルディン(Gelindo Bordin、1959年4月2日 - )はイタリアヴィチェンツァ出身の元マラソン選手である。1986年欧州選手権で男子マラソンで優勝した。翌1987年に地元で行われたローマ世界選手権では高温多湿となったレースでトップ集団からやや遅れて走り、後半の追い上げでダグラス・ワキウリ(ケニア)、アーメド・サラ(ジブチ)に続き3位に食い込んだ。
1988年のソウルオリンピックでは、ワキウリ、サラ、ボルディンの世界選手権のメダリスト3人と中山竹通(日本)との優勝争いと見られていた。レースは大方の予想通りこの4人の争いとなり最初に中山が脱落した。残った3人よる過酷な消耗戦の末、ボルディンがワキウリ、サラを振り切り見事金メダルを獲得した。38km過ぎのサラのスパートに、ワキウリと共に着いていけずに脱落したと思われたが、粘りの走りで40kmを過ぎてから、ワキウリ、サラを次々と逆転しイタリア人初の五輪マラソン優勝を果たした。このレースはNHKが実況中継していたが、レースの解説者宗茂は、ボルディンが一時脱落したときに「イタリアの選手はここからが強いんです」とコメントしている。
1990年に行われた欧州選手権で史上初のマラソン2連覇を果たした。しかし1991年の東京世界選手権では期待はずれの8位に終わった。
1992年のバルセロナオリンピックにも出場し五輪連覇を目指したが、レース途中で転倒した選手に巻き込まれそうになったためとっさによけようとした際に足に肉離れを起こすアクシデントで途中棄権した。
「五輪の覇者はボストンに勝てない」と言われている手前、彼は現在のところオリンピックとボストンマラソンの両方を制した唯一の男子選手となっており、「また誰かが破るさ」と本人は語っている。
2008年2月3日に開催が予定されていた第30回神奈川マラソンに招待された。大会は大雪のため中止となり参加賞のTシャツへのサイン会が行われた[1]。