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[[画像:KisoDani.jpg|Right|thumb|320px|木曾谷(2006年11月撮影)]]
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'''木曾谷'''(きそだに)とは、[[木曽川]]上流[[渓谷]]を中心とする地域の総称である。木曽川の浸食により形成された[[V字谷]]状地形が延長約60kmにわたっており、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には[[木曽山脈]](中央アルプス)が、西北方面には[[御嶽山]]がある。現在の[[長野県]]南西部にあたる。木曽谷とも表記する。(参照→[[木曽]])
'''木曾谷'''(きそだに)とは、[[長野県]]から[[岐阜県]]にかけて続く[[木曽川]]上流[[渓谷]]を中心とする地域。木曽川の浸食により形成された深い[[V字谷]]状地形が延長約60kmにわたっており、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には[[木曽山脈]](中央アルプス)が、西北方面には[[御嶽山]]がある。現在の[[長野県]]南西部にあたる。木曽谷とも表記する。(参照→[[木曽]])


== 地域範囲 ==
== 地域範囲 ==
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史料上の記事は、まず『[[続日本紀]]』に見え、[[702年]]([[大宝 (日本)|大宝]]2年)に岐蘇山道(きそのやまみち)が、[[713年]]([[和銅]]6年)に吉蘇路(きそのみち)が開通したとある。木曾の表記は[[平安時代]]末期ごろに現れ、[[源義仲]](木曾義仲)の活躍などによって広く定着したとされる。
史料上の記事は、まず『[[続日本紀]]』に見え、[[702年]]([[大宝 (日本)|大宝]]2年)に岐蘇山道(きそのやまみち)が、[[713年]]([[和銅]]6年)に吉蘇路(きそのみち)が開通したとある。木曾の表記は[[平安時代]]末期ごろに現れ、[[源義仲]](木曾義仲)の活躍などによって広く定着したとされる。


はじめ[[美濃国]][[恵那郡]]に属していたが、[[信濃国]]と所属がしばしば争われた。[[9世紀]]後半の[[貞観 (日本)|貞観]]年間には勅命による検分が行われ、県坂上岑([[鳥居峠]])を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。
はじめ[[美濃国]][[恵那郡]]に属していたが、[[信濃国]]と所属がしばしば争われた。[[9世紀]]後半の[[貞観 (日本)|貞観]]年間には[[天皇]]による[[勅命]]による検分が行われ、県坂上岑([[鳥居峠]])を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、[[平安時代|平安]]末期になると、[[源義仲]]が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。


古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘([[宗像氏|宗像少輔領]])と小木曽荘([[八条院領]])の2つの[[荘園]]が史料上に現れ、中世中期([[14世紀]])頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。14世紀までに常陸の真壁氏が[[地頭]]として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、建武争乱の勲功で[[足利尊氏]]から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞として与えられた上野国沼田氏が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は源義仲の末裔を称し、[[木曾氏]]と名乗った。
古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘([[宗像氏|宗像少輔領]])と小木曽荘([[八条院領]])の2つの[[荘園]]が[[史料]]上に現れ、中世中期([[14世紀]])頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。[[14世紀]]までに[[常陸]][[真壁氏]]が[[地頭]]として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、建武争乱の勲功で[[足利尊氏]]から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞として与えられた[[上野国]][[沼田氏]]が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は源義仲の末裔を称し、[[木曾氏]]と名乗った。


15世紀末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れるが、16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた[[武田信玄]]は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。
[[15世紀]]末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れるが、16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた[[武田信玄]]は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。


[[江戸時代]]初頭になると、全国各地の建設ラッシュに応えるため木材生産地として開発され、本来の信州である奈川、奈良井、贄川の3ヶ村とともに[[尾張藩]]に組み入れられた。その後、[[ヒノキ]]を中心とする林業が隆盛した。(詳細→[[#林業]]節)
[[江戸時代]]初頭になると、全国各地の建設ラッシュに応えるため木材生産地として開発され、本来の信州である奈川、奈良井、贄川の3ヶ村とともに[[尾張藩]]に組み入れられた。その後、[[ヒノキ]]を中心とする[[林業]]が隆盛した。(詳細→[[#林業]]節)


明治以降も林業が産業の中心を占め続け、交通の相対的な不便さもあって近代産業の発展は見られなかった。その反面、近代以前の景観がよく保存されており、貴重な観光資源を形成している。
明治以降も林業が産業の中心を占め続け、交通の相対的な不便さもあって[[近代産業]]の発展は見られなかった。その反面、近代以前の景観がよく保存されており、貴重な[[観光]]資源を形成している。


== 林業 ==
== 林業 ==
大部分を急峻な山地が占めるため耕作地は少なく、木曽川沿いの狭小な平地に見られる程度である。年間降水量3000mmという豊富な雨量と、[[濃飛流紋岩類]]の風化による保水力の高い土壌によって、[[針葉樹]]が生育しやすい条件がそろっており、近世初期以降、[[ヒノキ]]を中心とする[[林業]]がおこり、当地の主要産業として栄えた。
大部分を急峻な山地が占めるため耕作地は少なく、木曽川沿いの狭小な平地に見られる程度である。年間降水量3000mmという豊富な雨量と、[[濃飛流紋岩類]]の風化による保水力の高い土壌によって、[[針葉樹]]が生育しやすい条件がそろっており、近世初期以降、[[ヒノキ]]を中心とする[[林業]]がおこり、当地の主要産業として栄えた。


近世初頭には、江戸幕府の政策に従って畿内や北陸などの林業先進地から多くの杣工が動員され、林業開発が急速に展開した。また木曽川の開削事業が進められ、大量の材木の運送が可能となった。木曾谷は[[尾張藩]]領とされ、尾張藩は林業により多大な収入を得た。近世前期は林材の伐採が著しく、尾張藩は森林保護・伐採抑制政策を進め、その結果、広大なヒノキ林が形成されることとなった。
近世初頭には、江戸幕府の政策に従って[[畿内]][[北陸]]などの林業先進地から多くの[[杣工]]が動員され、林業開発が急速に展開した。また木曽川の開削事業が進められ、大量の材木の運送が可能となった。木曾谷は[[尾張藩]]領とされ、尾張藩は林業により多大な収入を得た。近世前期は林材の伐採が著しく、尾張藩は森林保護・伐採抑制政策を進め、その結果、広大なヒノキ林が形成されることとなった。


明治以降、尾張藩有林は国有の官林へ編入され(木曾官林)、[[1889年]]([[明治]]22)年には御料林として皇室財産となった。第二次大戦後の[[1947年]]([[昭和]]22)に[[国有林]]に指定され、[[林野庁]]の所管となった。その後は、1959年(昭和34)の[[伊勢湾台風]]による被害木の大量伐採などがあったものの、木材の収穫量は長期的な減少傾向にある。
明治以降、尾張藩有林は国有の官林へ編入され(木曾官林)、[[1889年]]([[明治]]22)年には御料林として皇室財産となった。第二次大戦後の[[1947年]]([[昭和]]22)に[[国有林]]に指定され、[[林野庁]]の所管となった。その後は、1959年(昭和34)の[[伊勢湾台風]]による被害木の大量伐採などがあったものの、木材の収穫量は長期的な減少傾向にある。

2009年7月29日 (水) 14:19時点における版

木曾谷(2006年11月撮影)

木曾谷(きそだに)とは、長野県から岐阜県にかけて続く木曽川上流渓谷を中心とする地域。木曽川の浸食により形成された深いV字谷状地形が延長約60kmにわたっており、その主線はおおむね北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山がある。現在の長野県南西部にあたる。木曽谷とも表記する。(参照→木曽

地域範囲

おおむね、木曽郡塩尻市楢川地区、松本市奈川地区、岐阜県中津川市神坂馬籠山口地区に該当する。

人文史

史料上の記事は、まず『続日本紀』に見え、702年大宝2年)に岐蘇山道(きそのやまみち)が、713年和銅6年)に吉蘇路(きそのみち)が開通したとある。木曾の表記は平安時代末期ごろに現れ、源義仲(木曾義仲)の活躍などによって広く定着したとされる。

はじめ美濃国恵那郡に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の貞観年間には天皇による勅命による検分が行われ、県坂上岑(鳥居峠)を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。

古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘(宗像少輔領)と小木曽荘(八条院領)の2つの荘園史料上に現れ、中世中期(14世紀)頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。14世紀までに常陸真壁氏地頭として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、建武争乱の勲功で足利尊氏から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞として与えられた上野国沼田氏が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は源義仲の末裔を称し、木曾氏と名乗った。

15世紀末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れるが、16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた武田信玄は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。

江戸時代初頭になると、全国各地の建設ラッシュに応えるため木材生産地として開発され、本来の信州である奈川、奈良井、贄川の3ヶ村とともに尾張藩に組み入れられた。その後、ヒノキを中心とする林業が隆盛した。(詳細→#林業節)

明治以降も林業が産業の中心を占め続け、交通の相対的な不便さもあって近代産業の発展は見られなかった。その反面、近代以前の景観がよく保存されており、貴重な観光資源を形成している。

林業

大部分を急峻な山地が占めるため耕作地は少なく、木曽川沿いの狭小な平地に見られる程度である。年間降水量3000mmという豊富な雨量と、濃飛流紋岩類の風化による保水力の高い土壌によって、針葉樹が生育しやすい条件がそろっており、近世初期以降、ヒノキを中心とする林業がおこり、当地の主要産業として栄えた。

近世初頭には、江戸幕府の政策に従って畿内北陸などの林業先進地から多くの杣工が動員され、林業開発が急速に展開した。また木曽川の開削事業が進められ、大量の材木の運送が可能となった。木曾谷は尾張藩領とされ、尾張藩は林業により多大な収入を得た。近世前期は林材の伐採が著しく、尾張藩は森林保護・伐採抑制政策を進め、その結果、広大なヒノキ林が形成されることとなった。

明治以降、尾張藩有林は国有の官林へ編入され(木曾官林)、1889年明治22)年には御料林として皇室財産となった。第二次大戦後の1947年昭和22)に国有林に指定され、林野庁の所管となった。その後は、1959年(昭和34)の伊勢湾台風による被害木の大量伐採などがあったものの、木材の収穫量は長期的な減少傾向にある。

交通

美濃国から信濃国を結ぶ位置にあるが、平地に乏しく急峻な地形が続くため、交通の難所として知られてきた。『続日本紀』には702年(大宝2年)に岐蘇山道の建設、713年(和銅6年)に吉蘇路の開通に関する記事があるが、古代官道東山道は、木曾谷を通らず、美濃から神坂峠を越えて伊那谷へ抜けるルートを通った。

近世には中山道が木曾谷ルートに設定され、11の宿場(木曾11宿)が置かれ、明治以降は中央西線国道19号が開通した。

関連項目

参考文献

「木曾谷」項 『世界大百科事典 7』 平凡社、2005