「物部小前」の版間の差分

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'''物部 小前'''(もののべ の おまえ、生没年不詳)は[[安康天皇]]朝頃の古代豪族[[物部氏]]の人物である。『[[新撰姓氏録]]』によれば[[饒速日命]]12世の孫とされる。また、『[[旧事紀]]』天孫本紀では「物部小前宿祢連公」に作り、[[物部麦入]](むきり)の子で、[[物部大前|大前]](おおまえ)の弟とし、「元為大連、次為大宿祢、奉斎神宮」と記すが、[[大連]]となった記録は他に見えない。『[[古事記]]』[[允恭天皇]]段で、穴穂御子(安康天皇)が[[木梨軽皇子|軽太子]]を捕らえる場面では、「大前小前宿祢大臣」と大前と1人の人物の如く登場し、初め太子を匿うものの、後に穴穂御子に降る様子が記されている。また『[[日本紀]]』安康天皇即位前紀でも同様の事件を記すが、そこでは大前のみが登場し、歌謡([[宮人振]])において「大前 小前宿祢が云々」と歌われている(もっともこの歌謡は『古事記』允恭天皇段のものと同じなので、『古事記』の伝承から採られたものとされている(岩波古典文学大系『日本書 上』、昭和42))。
'''物部 小前'''(もののべ の おまえ、生没年不詳)は[[安康天皇]]朝頃の古代豪族[[物部氏]]の人物である。『[[新撰姓氏録]]』によれば[[饒速日命]]12世の孫とされる。また、『[[旧事紀]]』天孫本紀では「物部小前宿祢連公」に作り、[[物部麦入]](むきり)の子で、[[物部大前|大前]](おおまえ)の弟とし、「元為大連、次為大宿祢、奉斎神宮」と記すが、[[大連]]となった記録は他に見えない。『[[古事記]]』[[允恭天皇]]段で、穴穂御子(安康天皇)が[[木梨軽皇子|軽太子]]を捕らえる場面では、「大前小前宿祢大臣」と大前と1人の人物の如く登場し、初め太子を匿うものの、後に穴穂御子に降る様子が記されている。また『[[日本紀]]』安康天皇即位前紀でも同様の事件を記すが、そこでは大前のみが登場し、歌謡([[宮人振]])において「大前 小前宿祢が云々」と歌われている(もっともこの歌謡は『古事記』允恭天皇段のものと同じなので、『古事記』の伝承から採られたものとされている(岩波古典文学大系『日本書 上』、昭和42))。


『[[新撰姓氏録]]』によれば、高橋連([[山城国]][[神別]])、鳥見連([[河内国]]神別)2氏の祖先とされているが、その他『天孫本紀』には田部連の祖とも記されている。
『[[新撰姓氏録]]』によれば、高橋連([[山城国]][[神別]])、鳥見連([[河内国]]神別)2氏の祖先とされているが、その他『天孫本紀』には田部連の祖とも記されている。

2009年6月26日 (金) 14:46時点における版

物部 小前(もののべ の おまえ、生没年不詳)は安康天皇朝頃の古代豪族物部氏の人物である。『新撰姓氏録』によれば饒速日命12世の孫とされる。また、『旧事紀』天孫本紀では「物部小前宿祢連公」に作り、物部麦入(むきり)の子で、大前(おおまえ)の弟とし、「元為大連、次為大宿祢、奉斎神宮」と記すが、大連となった記録は他に見えない。『古事記允恭天皇段で、穴穂御子(安康天皇)が軽太子を捕らえる場面では、「大前小前宿祢大臣」と大前と1人の人物の如く登場し、初め太子を匿うものの、後に穴穂御子に降る様子が記されている。また『日本紀』安康天皇即位前紀でも同様の事件を記すが、そこでは大前のみが登場し、歌謡(宮人振)において「大前 小前宿祢が云々」と歌われている(もっともこの歌謡は『古事記』允恭天皇段のものと同じなので、『古事記』の伝承から採られたものとされている(岩波古典文学大系『日本書紀 上』、昭和42))。

新撰姓氏録』によれば、高橋連(山城国神別)、鳥見連(河内国神別)2氏の祖先とされているが、その他『天孫本紀』には田部連の祖とも記されている。

なお、物部大前小前宿祢がいつしか大前と小前の兄弟と扱われる様になったもので、その存在を疑う説もある。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。