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洋書参考文献。ティンゲイ先生の著書を使った記事のひとつ
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'''キャシー・リナルディ'''('''Kathy Rinaldi''', [[1967年]][[3月24日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]スチュアート出身の元女子プロ[[テニス]]選手。[[1980年代]]にアメリカを代表する女子選手のひとりとして活動し、早熟選手として高い人気を持っていた。キャリアの後半には、[[ジル・ヘザリントン]]([[カナダ]])とのダブルスで多くの好成績を出した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス13位。身長168cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。


リナルディは[[1981年]]、14歳の時に[[1981年全仏オープンテニス|全仏オープン]]でいきなりベスト8に進出し、女子テニス界に鮮烈なデビューを飾った。準々決勝で[[ハナ・マンドリコワ]]に敗れた時、リナルディは「14歳63日」であった。続く[[1981年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも「14歳92日」で初戦を突破し、ここでも当時の史上最年少記録を樹立した。どちらの記録も、9年後の[[1990年]]に[[ジェニファー・カプリアティ]]によって破られるまで、テニス界のギネスブックに掲載されていた。その後、リナルディは14歳132日でプロテニス選手になる。同年の秋に、[[日本]]の[[京都]]で開かれた「ボーデン・クラシック」でプロ初優勝を果たす。[[1980年代]]初頭は、女子テニス選手の低年齢化が加速した時代であった。[[1979年全米オープンテニス|1979年全米オープン]]で「16歳9ヶ月」の史上最年少優勝記録を樹立した[[トレーシー・オースチン]]の後に続き、リナルディや[[アンドレア・イエガー]]などが早い成功を収め、当時のテニス・ジャーナリズムを賑わせるようになった。
リナルディは[[1981年]]、14歳の時に[[1981年全仏オープンテニス|全仏オープン]]でいきなりベスト8に進出し、女子テニス界に鮮烈なデビューを飾った。準々決勝で[[ハナ・マンドリコワ]]に敗れた時、リナルディは「14歳63日」であった。続く[[1981年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも「14歳92日」で初戦を突破し、ここでも当時の史上最年少記録を樹立した。どちらの記録も、9年後の[[1990年]]に[[ジェニファー・カプリアティ]]によって破られるまで、テニス界のギネスブックに掲載されていた。その後、リナルディは14歳132日でプロテニス選手になる。同年の秋に、[[日本]]の[[京都]]で開かれた「ボーデン・クラシック」でプロ初優勝を果たす。[[1980年代]]初頭は、女子テニス選手の低年齢化が加速した時代であった。[[1979年全米オープンテニス|1979年全米オープン]]で「16歳9ヶ月」の史上最年少優勝記録を樹立した[[トレーシー・オースチン]]の後に続き、リナルディや[[アンドレア・イエガー]]などが早い成功を収め、当時のテニス・ジャーナリズムを賑わせるようになった。
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キャシー・リナルディは[[1990年]]夏から、[[カナダ]]の[[ジル・ヘザリントン]]とのダブルスに活路を見いだした。[[1991年]]、リナルディとヘザリントンは[[1991年全豪オープンテニス|全豪オープン]]女子ダブルスでベスト4に入り、女子ツアーでダブルス年間2勝を挙げた。ヘザリントンとは[[1993年]]までパートナーを組み続けたが、10大会で準優勝がある。[[1993年]]12月11日、リナルディは高校時代からの恋人だったブラッド・スタンケル(Brad Stunkel)と結婚し、その後は2つの姓を併用して「キャシー・リナルディ・スタンケル」(''Kathy Rinaldi Stunkel'')と名乗った。息子が生まれた後、リナルディ・スタンケルは母親の選手としても活躍した。[[1997年全米オープンテニス|1997年全米オープン]]の女子ダブルス1回戦では、ヘザリントンとのペアで、[[ビーナス・ウィリアムズ|ビーナス]]と[[セリーナ・ウィリアムズ|セリーナ]]のウィリアムズ姉妹組を破ったこともある。早熟天才少女から母親の選手へ、息の長いキャリアを送ったキャシー・リナルディ・スタンケルは、[[1998年]]4月に31歳で現役を引退した。
キャシー・リナルディは[[1990年]]夏から、[[カナダ]]の[[ジル・ヘザリントン]]とのダブルスに活路を見いだした。[[1991年]]、リナルディとヘザリントンは[[1991年全豪オープンテニス|全豪オープン]]女子ダブルスでベスト4に入り、女子ツアーでダブルス年間2勝を挙げた。ヘザリントンとは[[1993年]]までパートナーを組み続けたが、10大会で準優勝がある。[[1993年]]12月11日、リナルディは高校時代からの恋人だったブラッド・スタンケル(Brad Stunkel)と結婚し、その後は2つの姓を併用して「キャシー・リナルディ・スタンケル」(''Kathy Rinaldi Stunkel'')と名乗った。息子が生まれた後、リナルディ・スタンケルは母親の選手としても活躍した。[[1997年全米オープンテニス|1997年全米オープン]]の女子ダブルス1回戦では、ヘザリントンとのペアで、[[ビーナス・ウィリアムズ|ビーナス]]と[[セリーナ・ウィリアムズ|セリーナ]]のウィリアムズ姉妹組を破ったこともある。早熟天才少女から母親の選手へ、息の長いキャリアを送ったキャシー・リナルディ・スタンケルは、[[1998年]]4月に31歳で現役を引退した。
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{WTA|id=180037|name=キャシー・リナルディ}}
* {{WTA|id=6736|name=キャシー・リナルディ}}
* [http://www.itftennis.com/womens/players/player.asp?player=20000294 ITFプロフィール]
* [http://www.itftennis.com/womens/players/player.asp?player=20000294 ITFプロフィール]
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[ランス・ティンゲイ|Lance Tingay]], ''The Guinness Book of Tennis: Facts and Feats'' (テニスのギネスブック:事実と偉業集) Guinness Superlatives Ltd., London (1983) ISBN 0-85112-268-X 本書からは242ページを参照した。
* [[ランス・ティンゲイ|Lance Tingay]], ''The Guinness Book of Tennis: Facts and Feats'' (テニスのギネスブック) Guinness Superlatives Ltd., London (1983) ISBN 0-85112-268-X 本書からは242ページを参照した。
* ''ITF World of Tennis 1989'' (ワールド・オブ・テニス 1989) Willow Books Collins, London (1989) ISBN 0-00-218311-0 [[国際テニス連盟]]が毎年発刊するテニス年鑑。
* ''ITF World of Tennis 1989'' (ワールド・オブ・テニス 1989) Willow Books Collins, London (1989) ISBN 0-00-218311-0 [[国際テニス連盟]]が毎年発刊するテニス年鑑。



2009年6月9日 (火) 15:10時点における版

キャシー・リナルディ
Kathy Rinaldi
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・フロリダ州スチュアート
生年月日 (1967-03-24) 1967年3月24日(57歳)
身長 168cm
体重 55kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1981年
引退年 1998年
ツアー通算 5勝
シングルス 3勝
ダブルス 2勝
シングルス 277勝217敗
ダブルス 196勝175敗
生涯獲得賞金 1,417,423 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 4回戦(1984)
全仏 ベスト8(1981・86)
全英 ベスト4(1985)
全米 4回戦(1982)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1991・93)
全仏 ベスト4(1987)
全英 ベスト8(1993)
全米 ベスト4(1985)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 7位
ダブルス 13位

キャシー・リナルディKathy Rinaldi, 1967年3月24日 - )は、アメリカフロリダ州スチュアート出身の元女子プロテニス選手。1980年代にアメリカを代表する女子選手のひとりとして活動し、早熟選手として高い人気を持っていた。キャリアの後半には、ジル・ヘザリントンカナダ)とのダブルスで多くの好成績を出した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス13位。身長168cm、体重55kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。

リナルディは1981年、14歳の時に全仏オープンでいきなりベスト8に進出し、女子テニス界に鮮烈なデビューを飾った。準々決勝でハナ・マンドリコワに敗れた時、リナルディは「14歳63日」であった。続くウィンブルドンでも「14歳92日」で初戦を突破し、ここでも当時の史上最年少記録を樹立した。どちらの記録も、9年後の1990年ジェニファー・カプリアティによって破られるまで、テニス界のギネスブックに掲載されていた。その後、リナルディは14歳132日でプロテニス選手になる。同年の秋に、日本京都で開かれた「ボーデン・クラシック」でプロ初優勝を果たす。1980年代初頭は、女子テニス選手の低年齢化が加速した時代であった。1979年全米オープンで「16歳9ヶ月」の史上最年少優勝記録を樹立したトレーシー・オースチンの後に続き、リナルディやアンドレア・イエガーなどが早い成功を収め、当時のテニス・ジャーナリズムを賑わせるようになった。

1982年、リナルディは2つの大会で準優勝し、全米オープンアンドレア・イエガーとの4回戦に進出する。彼女のテニス経歴のハイライトは、1985年ウィンブルドンで訪れた。18歳になったリナルディは、この大会で4大大会シングルス自己最高成績となるベスト4進出を決めた。初進出の準決勝では、第1シードのクリス・エバートが 6-2, 6-0 でリナルディを突き放した。同年8月、リナルディはアメリカ・ニュージャージー州の「ユナイテッド・ジャージー」大会の決勝戦でシュテフィ・グラフを 6-4, 3-6, 6-4 で破り、ツアー2勝目を挙げた。その後、全米オープンではジーナ・ガリソンと女子ダブルスのペアを組み、クラウディア・コーデ・キルシュヘレナ・スコバ組との準決勝まで進出する。1986年全仏オープンで5年ぶり2度目のベスト8進出があった。

しかし、早熟選手としてのリナルディの全盛時代はあまり長く続かなかった。1986年11月の「バージニア・スリムズ・オブ・アーカンソー」大会の優勝を最後に、彼女はWTAツアーのシングルス優勝から遠ざかる。1987年全仏オープンで右手親指を骨折した彼女は、3回戦でナタリー・トージアフランス)に敗れた試合の後、11ヶ月の戦線離脱を経験した。このブランクの間に、女子テニス界は世代交代期を迎える。長年女子の頂点に君臨したクリス・エバートマルチナ・ナブラチロワの2強豪の時代が終わり、シュテフィ・グラフ1987年8月から世界ランキング1位の座についた。ようやく1988年5月からツアーに復帰したリナルディだが、早熟な天才少女だった頃の面影は失われ、その後の4大大会シングルスでは1・2回戦止まりに後退した。

キャシー・リナルディは1990年夏から、カナダジル・ヘザリントンとのダブルスに活路を見いだした。1991年、リナルディとヘザリントンは全豪オープン女子ダブルスでベスト4に入り、女子ツアーでダブルス年間2勝を挙げた。ヘザリントンとは1993年までパートナーを組み続けたが、10大会で準優勝がある。1993年12月11日、リナルディは高校時代からの恋人だったブラッド・スタンケル(Brad Stunkel)と結婚し、その後は2つの姓を併用して「キャシー・リナルディ・スタンケル」(Kathy Rinaldi Stunkel)と名乗った。息子が生まれた後、リナルディ・スタンケルは母親の選手としても活躍した。1997年全米オープンの女子ダブルス1回戦では、ヘザリントンとのペアで、ビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹組を破ったこともある。早熟天才少女から母親の選手へ、息の長いキャリアを送ったキャシー・リナルディ・スタンケルは、1998年4月に31歳で現役を引退した。

外部リンク

参考文献

  • Lance Tingay, “The Guinness Book of Tennis: Facts and Feats” (テニスのギネスブック) Guinness Superlatives Ltd., London (1983) ISBN 0-85112-268-X 本書からは242ページを参照した。
  • ITF World of Tennis 1989 (ワールド・オブ・テニス 1989) Willow Books Collins, London (1989) ISBN 0-00-218311-0 国際テニス連盟が毎年発刊するテニス年鑑。