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その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、[[2001年]]の[[2001年全豪オープンテニス|全豪オープン]]でベスト8に進出している([[ヴィーナス・ウィリアムズ]]に敗退)。
その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、[[2001年]]の[[2001年全豪オープンテニス|全豪オープン]]でベスト8に進出している([[ーナス・ウィリアムズ]]に敗退)。


ダブルスでのクッツァーは、[[1993年]]の[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[イネス・ゴロチャテギ]]([[アルゼンチン]])とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝で[[アランチャ・サンチェス]]&[[ヘレナ・スコバ]]の組に 4-6, 2-6 で敗れた。
ダブルスでのクッツァーは、[[1993年]]の[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[イネス・ゴロチャテギ]]([[アルゼンチン]])とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝で[[アランチャ・サンチェス]]&[[ヘレナ・スコバ]]の組に 4-6, 2-6 で敗れた。
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日本でプレーした回数も多く、毎年2月に[[東京体育館]]で開かれる「[[東レ・パン・パシフィック・テニス]]」でも出場常連選手のひとりだった。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、[[2004年]]6月に32歳で現役を引退した。
日本でプレーした回数も多く、毎年2月に[[東京体育館]]で開かれる「[[東レ・パン・パシフィック・テニス]]」でも出場常連選手のひとりだった。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、[[2004年]]6月に32歳で現役を引退した。
== 主な成績 ==
== 主な成績 ==
* [[全豪オープン]]:ベスト4(1996年1997年)
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* [[全仏オープン]]:ベスト4(1997年)
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* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:ベスト8(1994年1996年1998年) [女子ダブルス準優勝:1993年]
* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:ベスト8(1994年1996年1998年) [女子ダブルス準優勝:1993年]
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.fedcup.com/teams/player.asp?player=20001834 フェドカップ成績表]
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2009年3月28日 (土) 03:50時点における版

アマンダ・クッツァー
Amanda Coetzer
アマンダ・クッツァー、2000年
基本情報
愛称 小さな暗殺者
国籍 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
出身地 同・ホープスタッド
生年月日 (1971-10-22) 1971年10月22日(52歳)
身長 158cm
体重 54kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1988年
引退年 2004年
ツアー通算 18勝
シングルス 9勝
ダブルス 9勝
生涯通算成績 837勝556敗
シングルス 568勝337敗
ダブルス 269勝219敗
生涯獲得賞金 5,594,821 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4(1996・97)
全仏 ベスト4(1997)
全英 4回戦(1994)
全米 ベスト8(1994・96・98)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(2002)
全仏 ベスト4(1993・94)
全英 3回戦(1998・2001)
全米 準優勝(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 3位
ダブルス 15位

アマンダ・クッツァーAmanda Coetzer, 1971年10月22日 - )は、南アフリカ共和国ホープスタッド出身の元女子プロテニス選手。身長158cm、体重54kg。女子プロテニス界では最も小柄な体格だったが、どんな球をも粘り強く拾いまくる強靭なフットワークを最大の持ち味にした。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス9勝、ダブルス9勝を挙げる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。クッツァーは女子プロテニス界の仲間たちからも「最もエースを取りにくい選手」として警戒されていた。

1988年1月にプロ入り。1989年全仏オープン4大大会にデビューする。クッツァーは1992年全米オープンから2004年全豪オープンまで、4大大会に「46大会」連続出場記録を持っている。1993年1月の「メルボルン・オープン」決勝戦で日本の沢松奈生子を破り、WTAツアー初優勝。この年は9月に東京有明コロシアムで開かれた「ニチレイ・レディース」でも優勝している。(この大会は1990年に創設され、1996年までニチレイ・レディースの名称であったが、1997年に「トヨタ・プリンセス・カップ」の名称に変更され、2002年限りで開催中止となったトーナメントである。)

1996年全豪オープンでは、当時15歳の天才少女マルチナ・ヒンギスを準々決勝で破ったが、続く準決勝でアンケ・フーバーに 6-4, 4-6, 2-6 で敗れている。1997年全豪オープン4回戦で、当時の世界ランキング1位だったシュテフィ・グラフを 6-2, 7-5 のストレートで破り、2年連続のベスト4に入る。1997年に、クッツァーはグラフから年間3勝を挙げた。5月中旬の「ドイツ・オープン」準々決勝では 6-0, 6-1 で圧勝し、続く全仏オープン準々決勝でも 6-1, 6-4 のストレート勝ちを収めた。(グラフはこの頃、左膝の故障が深刻になっていた。全仏準々決勝でクッツァーに敗退した後、直ちに手術を受けて全治6ヶ月と診断された。)これらの勝利で、クッツァーには「小さな暗殺者」というニックネームがついた。

その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、2001年全豪オープンでベスト8に進出している(ビーナス・ウィリアムズに敗退)。

ダブルスでのクッツァーは、1993年全米オープンイネス・ゴロチャテギアルゼンチン)とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝でアランチャ・サンチェスヘレナ・スコバの組に 4-6, 2-6 で敗れた。

日本でプレーした回数も多く、毎年2月に東京体育館で開かれる「東レ・パン・パシフィック・テニス」でも出場常連選手のひとりだった。南アフリカでテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、2004年6月に32歳で現役を引退した。

主な成績

外部リンク