「アマンダ・クッツァー」の版間の差分
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|選手名(日本語)=アマンダ・クッツァー |
|選手名(日本語)=アマンダ・クッツァー |
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|写真=Amanda Coetzer 2000.JPG |
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|写真のコメント=アマンダ・クッツァー、2000年 |
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|選手名(英語)=Amanda Coetzer |
|選手名(英語)=Amanda Coetzer |
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|フルネーム(英語名)= |
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|全米オープン=ベスト8(1994・96・98) |
|全米オープン=ベスト8(1994・96・98) |
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|優勝回数= |
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|全豪オープンダブルス=ベスト8(2002) |
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|全仏オープンダブルス=ベスト4(1993・94) |
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|ウィンブルドンダブルス=3回戦(1998・2001) |
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|全米オープンダブルス=準優勝(1993) |
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|ダブルス優勝回数= |
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|シングルス最高=3位 |
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|ダブルス最高=15位 |
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[[1996年]]の[[1996年全豪オープンテニス|全豪オープン]]では、当時15歳の天才少女[[マルチナ・ヒンギス]]を準々決勝で破ったが、続く準決勝で[[アンケ・フーバー]]に 6-4, 4-6, 2-6 で敗れている。[[1997年]]の[[1997年全豪オープンテニス|全豪オープン]]4回戦で、当時の世界ランキング1位だった[[シュテフィ・グラフ]]を 6-2, 7-5 のストレートで破り、2年連続のベスト4に入る。[[1997年]]に、クッツァーはグラフから年間3勝を挙げた。5月中旬の「[[カタール・テレコム・ドイツ・オープン|ドイツ・オープン]]」準々決勝では 6-0, 6-1 で圧勝し、続く[[1997年全仏オープンテニス|全仏オープン]]準々決勝でも 6-1, 6-4 のストレート勝ちを収めた。(グラフはこの頃、左膝の故障が深刻になっていた。全仏準々決勝でクッツァーに敗退した後、直ちに手術を受けて全治6ヶ月と診断された。)これらの勝利で、クッツァーには「小さな暗殺者」というニックネームがついた。 |
[[1996年]]の[[1996年全豪オープンテニス|全豪オープン]]では、当時15歳の天才少女[[マルチナ・ヒンギス]]を準々決勝で破ったが、続く準決勝で[[アンケ・フーバー]]に 6-4, 4-6, 2-6 で敗れている。[[1997年]]の[[1997年全豪オープンテニス|全豪オープン]]4回戦で、当時の世界ランキング1位だった[[シュテフィ・グラフ]]を 6-2, 7-5 のストレートで破り、2年連続のベスト4に入る。[[1997年]]に、クッツァーはグラフから年間3勝を挙げた。5月中旬の「[[カタール・テレコム・ドイツ・オープン|ドイツ・オープン]]」準々決勝では 6-0, 6-1 で圧勝し、続く[[1997年全仏オープンテニス|全仏オープン]]準々決勝でも 6-1, 6-4 のストレート勝ちを収めた。(グラフはこの頃、左膝の故障が深刻になっていた。全仏準々決勝でクッツァーに敗退した後、直ちに手術を受けて全治6ヶ月と診断された。)これらの勝利で、クッツァーには「小さな暗殺者」というニックネームがついた。 |
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その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、[[2001年]]の[[2001年全豪オープンテニス|全豪オープン]]でベスト8に進出している([[ |
その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、[[2001年]]の[[2001年全豪オープンテニス|全豪オープン]]でベスト8に進出している([[ビーナス・ウィリアムズ]]に敗退)。 |
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ダブルスでのクッツァーは、[[1993年]]の[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[イネス・ゴロチャテギ]]([[アルゼンチン]])とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝で[[アランチャ・サンチェス]]&[[ヘレナ・スコバ]]の組に 4-6, 2-6 で敗れた。 |
ダブルスでのクッツァーは、[[1993年]]の[[1993年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[イネス・ゴロチャテギ]]([[アルゼンチン]])とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝で[[アランチャ・サンチェス]]&[[ヘレナ・スコバ]]の組に 4-6, 2-6 で敗れた。 |
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日本でプレーした回数も多く、毎年2月に[[東京体育館]]で開かれる「[[東レ・パン・パシフィック・テニス]]」でも出場常連選手のひとりだった。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、[[2004年]]6月に32歳で現役を引退した。 |
日本でプレーした回数も多く、毎年2月に[[東京体育館]]で開かれる「[[東レ・パン・パシフィック・テニス]]」でも出場常連選手のひとりだった。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]でテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、[[2004年]]6月に32歳で現役を引退した。 |
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== 主な成績 == |
== 主な成績 == |
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* [[全豪オープン]]:ベスト4(1996年 |
* [[全豪オープン]]:ベスト4(1996年・1997年) |
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* [[全仏オープン]]:ベスト4(1997年) |
* [[全仏オープン]]:ベスト4(1997年) |
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* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:ベスト8(1994年 |
* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:ベスト8(1994年・1996年・1998年) [女子ダブルス準優勝:1993年] |
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== 関連項目 == |
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* [[テニス]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{WTA|id=30037|name=アマンダ・クッツァー}} |
* {{WTA|id=30037|name=アマンダ・クッツァー}} |
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* [http://www.fedcup.com/teams/player.asp?player=20001834 フェドカップ成績表] |
* [http://www.fedcup.com/teams/player.asp?player=20001834 フェドカップ成績表] |
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{{DEFAULTSORT:くつつあ あまんた}} |
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[[Category:南アフリカ共和国のテニス選手]] |
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[[Category:南アフリカ共和国のオリンピック選手]] |
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[[Category:1971年生]] |
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[[en:Amanda Coetzer]] |
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2009年3月28日 (土) 03:50時点における版
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アマンダ・クッツァー、2000年 | ||||
基本情報 | ||||
愛称 | 小さな暗殺者 | |||
国籍 | 南アフリカ共和国 | |||
出身地 | 同・ホープスタッド | |||
生年月日 | 1971年10月22日(52歳) | |||
身長 | 158cm | |||
体重 | 54kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 両手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1988年 | |||
引退年 | 2004年 | |||
ツアー通算 | 18勝 | |||
シングルス | 9勝 | |||
ダブルス | 9勝 | |||
生涯通算成績 | 837勝556敗 | |||
シングルス | 568勝337敗 | |||
ダブルス | 269勝219敗 | |||
生涯獲得賞金 | 5,594,821 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト4(1996・97) | |||
全仏 | ベスト4(1997) | |||
全英 | 4回戦(1994) | |||
全米 | ベスト8(1994・96・98) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト8(2002) | |||
全仏 | ベスト4(1993・94) | |||
全英 | 3回戦(1998・2001) | |||
全米 | 準優勝(1993) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 3位 | |||
ダブルス | 15位 | |||
アマンダ・クッツァー(Amanda Coetzer, 1971年10月22日 - )は、南アフリカ共和国・ホープスタッド出身の元女子プロテニス選手。身長158cm、体重54kg。女子プロテニス界では最も小柄な体格だったが、どんな球をも粘り強く拾いまくる強靭なフットワークを最大の持ち味にした。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス9勝、ダブルス9勝を挙げる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。クッツァーは女子プロテニス界の仲間たちからも「最もエースを取りにくい選手」として警戒されていた。
1988年1月にプロ入り。1989年の全仏オープンで4大大会にデビューする。クッツァーは1992年全米オープンから2004年全豪オープンまで、4大大会に「46大会」連続出場記録を持っている。1993年1月の「メルボルン・オープン」決勝戦で日本の沢松奈生子を破り、WTAツアー初優勝。この年は9月に東京・有明コロシアムで開かれた「ニチレイ・レディース」でも優勝している。(この大会は1990年に創設され、1996年までニチレイ・レディースの名称であったが、1997年に「トヨタ・プリンセス・カップ」の名称に変更され、2002年限りで開催中止となったトーナメントである。)
1996年の全豪オープンでは、当時15歳の天才少女マルチナ・ヒンギスを準々決勝で破ったが、続く準決勝でアンケ・フーバーに 6-4, 4-6, 2-6 で敗れている。1997年の全豪オープン4回戦で、当時の世界ランキング1位だったシュテフィ・グラフを 6-2, 7-5 のストレートで破り、2年連続のベスト4に入る。1997年に、クッツァーはグラフから年間3勝を挙げた。5月中旬の「ドイツ・オープン」準々決勝では 6-0, 6-1 で圧勝し、続く全仏オープン準々決勝でも 6-1, 6-4 のストレート勝ちを収めた。(グラフはこの頃、左膝の故障が深刻になっていた。全仏準々決勝でクッツァーに敗退した後、直ちに手術を受けて全治6ヶ月と診断された。)これらの勝利で、クッツァーには「小さな暗殺者」というニックネームがついた。
その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、2001年の全豪オープンでベスト8に進出している(ビーナス・ウィリアムズに敗退)。
ダブルスでのクッツァーは、1993年の全米オープンでイネス・ゴロチャテギ(アルゼンチン)とペアを組んだ準優勝がある。クッツァーとゴロチャテギは、決勝でアランチャ・サンチェス&ヘレナ・スコバの組に 4-6, 2-6 で敗れた。
日本でプレーした回数も多く、毎年2月に東京体育館で開かれる「東レ・パン・パシフィック・テニス」でも出場常連選手のひとりだった。南アフリカでテニスの一時代を築いたアマンダ・クッツァーは、2004年6月に32歳で現役を引退した。
主な成績
外部リンク
- アマンダ・クッツァー - WTAツアーのプロフィール (英語)
- フェドカップ成績表