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'''ウィルマー・アリソン'''('''Wilmer Allison''', [[1904年]][[12月8日]] - [[1977年]][[4月20日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[テキサス州]][[サンアントニオ]]出身の男子[[テニス]]選手。フルネームは ''Wilmer Lawson Allison'' (ウィルマー・ローソン・アリソン)という。[[1935年]]の[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]男子シングルス優勝者である。シングルスでは[[1930年]][[ウィンブルドン選手権]]と[[1934年]]全米選手権で2度の準優勝もあった。彼はダブルスの名手として、[[ジョン・バン・リン]]([[1905年]] - [[1999年]])と組んで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子ダブルス4勝を挙げ、このペアは男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のダブルスでもアメリカ・チーム歴代1位タイの「14勝2敗」を記録した。右利きの選手で、体格は身長180cm、体重70kgほどであった。
'''ウィルマー・アリソン'''('''Wilmer Allison''', [[1904年]][[12月8日]] - [[1977年]][[4月20日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[テキサス州]][[サンアントニオ]]出身の男子[[テニス]]選手。フルネームは ''Wilmer Lawson Allison'' (ウィルマー・ローソン・アリソン)という。[[1935年]]の[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]男子シングルス優勝者である。シングルスでは[[1930年]][[ウィンブルドン選手権]]と[[1934年]]全米選手権で2度の準優勝もあった。彼はダブルスの名手として、[[ジョン・バン・リン]]([[1905年]] - [[1999年]])と組んで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子ダブルス4勝を挙げ、このペアは男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のダブルスでもアメリカ・チーム歴代1位タイの「14勝2敗」を記録した。右利きの選手で、体格は身長180cm、体重70kgほどであった。


アリソンは[[1927年]]に[[テキサス州立大学サンマルコス校|テキサス州立大学]]の選手として、全米大学対抗テニス大会に優勝し、この年から[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]に出場し始めた。[[1928年]]からデビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、[[1929年]]からデビスカップやグランドスラム大会で[[ジョン・バン・リン]]とダブルスを組み始める。アリソンとバン・リンは、[[1929年ウィンブルドン選手権|1929年]]と[[1930年ウィンブルドン選手権|1930年]]のウィンブルドン男子ダブルスで2連覇を達成した。[[1930年ウィンブルドン選手権|1930年ウィンブルドン]]で、アリソンは男子シングルス・男子ダブルスの2部門で決勝に進出したが、シングルス決勝では同じアメリカの[[ビル・チルデン]]に 3-6, 7-9, 4-6 で敗れて準優勝になった。[[1930年]][[全米オープン (テニス)|全米選手権]]で、アリソンはエディット・クロスと組んだ混合ダブルスで初優勝したが、バン・リンとの男子ダブルスでは準優勝で止まった。アリソンとバン・リンのコンビネーションは、アリソンが左側のコートを受け持ち、ネット・プレーの得意なバン・リンが右側から返球するスタイルだったという。このペアはデ杯米国代表チームでも不可欠な戦力になり、当時の男子テニス界で優れたダブルス・チームの代名詞のような存在になっていった。
アリソンは[[1927年]]に[[テキサス州立大学サンマルコス校|テキサス州立大学]]の選手として、全米大学対抗テニス大会に優勝し、この年から[[1927年全米テニス選手権|全米選手権]]に出場し始めた。[[1928年]]からデビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、[[1929年]]からデビスカップやグランドスラム大会で[[ジョン・バン・リン]]とダブルスを組み始める。アリソンとバン・リンは、[[1929年ウィンブルドン選手権|1929年]]と[[1930年ウィンブルドン選手権|1930年]]のウィンブルドン男子ダブルスで2連覇を達成した。[[1930年ウィンブルドン選手権|1930年ウィンブルドン]]で、アリソンは男子シングルス・男子ダブルスの2部門で決勝に進出したが、シングルス決勝では同じアメリカの[[ビル・チルデン]]に 3-6, 7-9, 4-6 で敗れて準優勝になった。[[1930年全米テニス選手権|1930年全米選手権]]で、アリソンはエディット・クロスと組んだ混合ダブルスで初優勝したが、バン・リンとの男子ダブルスでは準優勝で止まった。アリソンとバン・リンのコンビネーションは、アリソンが左側のコートを受け持ち、ネット・プレーの得意なバン・リンが右側から返球するスタイルだったという。このペアはデ杯米国代表チームでも不可欠な戦力になり、当時の男子テニス界で優れたダブルス・チームの代名詞のような存在になっていった。


[[1933年]]、アリソンはキャリアで唯一の[[1933年全豪テニス選手権|全豪選手権]]に出場した。彼は準々決勝で[[エイドリアン・クイスト]]に 1-6, 3-6, 9-7, 6-2, 6-2 の逆転勝ちを収めた後、準決勝で[[ジャック・クロフォード]]に 3-6, 6-3, 6-3, 0-6, 3-6 で敗れた。[[1934年]]と[[1935年]]の2年連続で、アリソンは[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]の男子シングルス決勝に進出する。[[1934年]]の決勝戦では、[[フレッド・ペリー]]がアリソンのシングルス初優勝を阻んだ。ペリーに第1・第2セットを連取された後、アリソンは第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いついたが、結局 4-6, 3-6, 6-3, 6-1, 6-8 で敗れ、ここでは初優勝を逃した。[[1935年]]の全米選手権で、彼はついに宿願のシングルス初優勝を果たす。準決勝でペリーに 7-5, 6-3, 6-3 のストレート勝ちを収め、前年度の決勝戦の雪辱を果たすと、2年連続の決勝戦では[[シドニー・ウッド]]を 6-2, 6-2, 6-3 で圧倒した。この大会では、ジョン・バン・リンとのダブルスでも4年ぶり2度目の優勝を果たし、単複2冠を獲得する。[[1936年]]の[[1936年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]準々決勝で[[ヘンリー・オースチン]]に敗れた試合と、バン・リンと組んだ全米男子ダブルス決勝で[[ドン・バッジ]]&[[ジーン・マコ]]組に敗れた準優勝を最後に、ウィルマー・アリソンはテニス界から引退した。
[[1933年]]、アリソンはキャリアで唯一の[[1933年全豪テニス選手権|全豪選手権]]に出場した。彼は準々決勝で[[エイドリアン・クイスト]]に 1-6, 3-6, 9-7, 6-2, 6-2 の逆転勝ちを収めた後、準決勝で[[ジャック・クロフォード]]に 3-6, 6-3, 6-3, 0-6, 3-6 で敗れた。[[1934年全米テニス選手権|1934年]]と[[1935年全米テニス選手権|1935年]]の2年連続で、アリソンは[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]の男子シングルス決勝に進出する。[[1934年全米テニス選手権|1934年]]の決勝戦では、[[フレッド・ペリー]]がアリソンのシングルス初優勝を阻んだ。ペリーに第1・第2セットを連取された後、アリソンは第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いついたが、結局 4-6, 3-6, 6-3, 6-1, 6-8 で敗れ、ここでは初優勝を逃した。[[1935年]]の[[1935年全米テニス選手権|全米選手権]]で、彼はついに宿願のシングルス初優勝を果たす。準決勝でペリーに 7-5, 6-3, 6-3 のストレート勝ちを収め、前年度の決勝戦の雪辱を果たすと、2年連続の決勝戦では[[シドニー・ウッド]]を 6-2, 6-2, 6-3 で圧倒した。この大会では、ジョン・バン・リンとのダブルスでも4年ぶり2度目の優勝を果たし、単複2冠を獲得する。[[1936年]]の[[1936年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]準々決勝で[[ヘンリー・オースチン]]に敗れた試合と、バン・リンと組んだ[[1936年全米テニス選手権|全米選手権]]男子ダブルス決勝で[[ドン・バッジ]]&[[ジーン・マコ]]組に敗れた準優勝を最後に、ウィルマー・アリソンはテニス界から引退した。


全米選手権の男子ダブルスで、ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リンは[[1930年]]-[[1932年]]・[[1934年]]-[[1936年]]の6度決勝に進出し、そのうち[[1931年]]と[[1935年]]の2度優勝した。かつて[[フレッド・アレクサンダー]]と[[ハロルド・ハケット]]の組が[[1905年]]から[[1911年]]までの「7年連続」で全米男子ダブルス決勝に進んだことがあり、アリソンとバン・リンは同一ペアとして大会歴代2位記録を残した。アリソンの[[1935年]]全米選手権男子シングルス初優勝に先立ち、2人は久々の[[1935年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルス決勝に進んだが(アリソンは5年ぶり3度目、バン・リンは4年ぶり4度目)当時進境著しかった[[オーストラリア]]ペアの[[ジャック・クロフォード]]&[[エイドリアン・クイスト]]組に 3-6, 7-5, 2-6, 7-5, 5-7 で敗れ、ウィンブルドンでのさらなるチャンスを逃した。この試合について、パートナーのバン・リンは「第5セットで僕たちにマッチ・ポイントがあった。彼らがまぐれ当たりのロブショットを上げて、僕の簡単なボールだったのに…あの場面がまずかった」と、後日にもこの逆転負けを悔やんでいたという。
全米選手権の男子ダブルスで、ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リンは[[1930年全米テニス選手権|1930年]]-[[1932年全米テニス選手権|1932年]]・[[1934年全米テニス選手権|1934年]]-[[1936年全米テニス選手権|1936年]]の6度決勝に進出し、そのうち[[1931年全米テニス選手権|1931年]]と[[1935年全米テニス選手権|1935年]]の2度優勝した。かつて[[フレッド・アレクサンダー]]と[[ハロルド・ハケット]]の組が[[1905年全米テニス選手権|1905年]]から[[1911年全米テニス選手権|1911年]]までの「7年連続」で全米男子ダブルス決勝に進んだことがあり、アリソンとバン・リンは同一ペアとして大会歴代2位記録を残した。アリソンの[[1935年全米テニス選手権|1935年全米選手権]]男子シングルス初優勝に先立ち、2人は久々の[[1935年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルス決勝に進んだが(アリソンは5年ぶり3度目、バン・リンは4年ぶり4度目)当時進境著しかった[[オーストラリア]]ペアの[[ジャック・クロフォード]]&[[エイドリアン・クイスト]]組に 3-6, 7-5, 2-6, 7-5, 5-7 で敗れ、ウィンブルドンでのさらなるチャンスを逃した。<!--この試合について、パートナーのバン・リンは「第5セットで僕たちにマッチ・ポイントがあった。彼らがまぐれ当たりのロブショットを上げて、僕の簡単なボールだったのに…あの場面がまずかった」と、後日にもこの逆転負けを悔やんでいたという。-->


ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リンは、[[1929年]]から[[1936年]]までにデビスカップのダブルスで「14勝2敗」の記録を残した。半世紀後の[[1980年代]]に[[ジョン・マッケンロー]]と[[ピーター・フレミング]]がデ杯米国チームのダブルスで「14勝1敗」を記録し、アリソン&バン・リン組とマッケロー&フレミアメリカの「ベスト・ダブルス・チーム」(ダブルスチームの最多勝利数)として並んでいる。(勝利数は同じ14勝で、敗戦数が1つ少ないマッケンロー&フレミング組を先掲載している。)アメリカ・チーム代表選手としての出場試合数でも、ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リン、[[ビック・セイシャス]]、[[スタン・スミス]]の4名が「24試合」でチーム2位タイに並び、マッケンローが「30試合」出場で単独1位に立った。(デビスカップ用語:各チームの成績表[例:[http://www.daviscup.com/teams/playerwinloss.asp?team=USA アメリカ]]においては“No. of Ties”という欄があるが、“Tie”とは国と国との対戦を指す。例:デビスカップの「アメリカ対日本」戦というとき、これが1つの「タイ」となるが、各タイの中は5試合で構成される。アリソンは“No. of Ties”で24のタイに出場し、チーム歴代2位タイに立っている。)
ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リンは、[[1929年]]から[[1936年]]までにデビスカップのダブルスで「14勝2敗」の記録を残した。半世紀後の[[1980年代]]に[[ジョン・マッケンロー]]と[[ピーター・フレミング]]がデ杯米国チームのダブルスで「14勝1敗」を記録し、アリソン&バン・リン組の記録に並んだ。([[2009年]]3月7日、[[ボブ・ブライアン|ボブ]][[イク・ブライア|マイク]]の「ブライア兄弟」がデビスカップで15勝目を挙げ、14勝タイの2を抜いてアメリカの「ベスト・ダブルス・チーム」(同一ダブルスチームの最多勝利数)になった。)アメリカ・チーム代表選手としての出場試合数でも、ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リン、[[ビック・セイシャス]]、[[スタン・スミス]]の4名が「24試合」でチーム2位タイに並び、マッケンローが「30試合」出場で単独1位に立った。(デビスカップ用語:各チームの成績表[例:[http://www.daviscup.com/teams/playerwinloss.asp?team=USA アメリカ]]においては“No. of Ties”という欄があるが、“Tie”とは国と国との対戦を指す。例:デビスカップの「アメリカ対日本」戦というとき、これが1つの「タイ」となるが、各タイの中は5試合で構成される。アリソンは“No. of Ties”で24のタイに出場し、チーム歴代2位タイに立っている。)


テニス経歴を終えた後、アリソンは[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]で[[アメリカ陸軍]]の空軍大佐を務めた。[[1963年]]、彼はダブルス・パートナーの[[ジョン・バン・リン]]と一緒に[[国際テニス殿堂]]入りを果たす。[[1977年]][[4月20日]]、ウィルマー・ローソン・アリソンは[[テキサス州]][[オースティン]]にて72歳で死去した。
テニス経歴を終えた後、アリソンは[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]で[[アメリカ陸軍]]の空軍大佐を務めた。[[1963年]]、彼はダブルス・パートナーの[[ジョン・バン・リン]]と一緒に[[国際テニス殿堂]]入りを果たす。[[1977年]][[4月20日]]、ウィルマー・ローソン・アリソンは[[テキサス州]][[オースティン]]にて72歳で死去した。
== 4大大会優勝 ==
== 4大大会優勝 ==
* [[ウィンブルドン選手権]] 男子ダブルス:2勝(1929年&1930年)/男子シングルス準優勝1度:1930年
* [[ウィンブルドン選手権]] 男子ダブルス:2勝(1929年&1930年)/男子シングルス準優勝1度:1930年
* [[全米オープン (テニス)|全米選手権]] 男子シングルス:1勝(1935年)/男子ダブルス:2勝(1931年1935年)/混合ダブルス:1勝(1930年)
* [[全米オープン (テニス)|全米選手権]] 男子シングルス:1勝(1935年)/男子ダブルス:2勝(1931年1935年)/混合ダブルス:1勝(1930年)

== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=42 国際テニス殿堂(英語)]
* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=42 国際テニス殿堂(英語)]
* [http://www.daviscup.com/teams/player.asp?player=10003010 デビスカップ成績表] (参考:アメリカ・チームの[http://www.daviscup.com/teams/team.asp?team=USA 歴史])
* [http://www.daviscup.com/teams/player.asp?player=10003010 デビスカップ成績表] (参考:アメリカ・チームの[http://www.daviscup.com/teams/team.asp?team=USA 歴史])

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2009年3月11日 (水) 12:43時点における版

ウィルマー・アリソンWilmer Allison, 1904年12月8日 - 1977年4月20日)は、アメリカテキサス州サンアントニオ出身の男子テニス選手。フルネームは Wilmer Lawson Allison (ウィルマー・ローソン・アリソン)という。1935年全米選手権男子シングルス優勝者である。シングルスでは1930年ウィンブルドン選手権1934年全米選手権で2度の準優勝もあった。彼はダブルスの名手として、ジョン・バン・リン1905年 - 1999年)と組んで4大大会男子ダブルス4勝を挙げ、このペアは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのダブルスでもアメリカ・チーム歴代1位タイの「14勝2敗」を記録した。右利きの選手で、体格は身長180cm、体重70kgほどであった。

アリソンは1927年テキサス州立大学の選手として、全米大学対抗テニス大会に優勝し、この年から全米選手権に出場し始めた。1928年からデビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、1929年からデビスカップやグランドスラム大会でジョン・バン・リンとダブルスを組み始める。アリソンとバン・リンは、1929年1930年のウィンブルドン男子ダブルスで2連覇を達成した。1930年ウィンブルドンで、アリソンは男子シングルス・男子ダブルスの2部門で決勝に進出したが、シングルス決勝では同じアメリカのビル・チルデンに 3-6, 7-9, 4-6 で敗れて準優勝になった。1930年全米選手権で、アリソンはエディット・クロスと組んだ混合ダブルスで初優勝したが、バン・リンとの男子ダブルスでは準優勝で止まった。アリソンとバン・リンのコンビネーションは、アリソンが左側のコートを受け持ち、ネット・プレーの得意なバン・リンが右側から返球するスタイルだったという。このペアはデ杯米国代表チームでも不可欠な戦力になり、当時の男子テニス界で優れたダブルス・チームの代名詞のような存在になっていった。

1933年、アリソンはキャリアで唯一の全豪選手権に出場した。彼は準々決勝でエイドリアン・クイストに 1-6, 3-6, 9-7, 6-2, 6-2 の逆転勝ちを収めた後、準決勝でジャック・クロフォードに 3-6, 6-3, 6-3, 0-6, 3-6 で敗れた。1934年1935年の2年連続で、アリソンは全米選手権の男子シングルス決勝に進出する。1934年の決勝戦では、フレッド・ペリーがアリソンのシングルス初優勝を阻んだ。ペリーに第1・第2セットを連取された後、アリソンは第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いついたが、結局 4-6, 3-6, 6-3, 6-1, 6-8 で敗れ、ここでは初優勝を逃した。1935年全米選手権で、彼はついに宿願のシングルス初優勝を果たす。準決勝でペリーに 7-5, 6-3, 6-3 のストレート勝ちを収め、前年度の決勝戦の雪辱を果たすと、2年連続の決勝戦ではシドニー・ウッドを 6-2, 6-2, 6-3 で圧倒した。この大会では、ジョン・バン・リンとのダブルスでも4年ぶり2度目の優勝を果たし、単複2冠を獲得する。1936年ウィンブルドン選手権準々決勝でヘンリー・オースチンに敗れた試合と、バン・リンと組んだ全米選手権男子ダブルス決勝でドン・バッジジーン・マコ組に敗れた準優勝を最後に、ウィルマー・アリソンはテニス界から引退した。

全米選手権の男子ダブルスで、ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リンは1930年-1932年1934年-1936年の6度決勝に進出し、そのうち1931年1935年の2度優勝した。かつてフレッド・アレクサンダーハロルド・ハケットの組が1905年から1911年までの「7年連続」で全米男子ダブルス決勝に進んだことがあり、アリソンとバン・リンは同一ペアとして大会歴代2位記録を残した。アリソンの1935年全米選手権男子シングルス初優勝に先立ち、2人は久々のウィンブルドン男子ダブルス決勝に進んだが(アリソンは5年ぶり3度目、バン・リンは4年ぶり4度目)当時進境著しかったオーストラリアペアのジャック・クロフォードエイドリアン・クイスト組に 3-6, 7-5, 2-6, 7-5, 5-7 で敗れ、ウィンブルドンでのさらなるチャンスを逃した。

ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リンは、1929年から1936年までにデビスカップのダブルスで「14勝2敗」の記録を残した。半世紀後の1980年代ジョン・マッケンローピーター・フレミングがデ杯米国チームのダブルスで「14勝1敗」を記録し、アリソン&バン・リン組の記録に並んだ。(2009年3月7日、ボブマイクの「ブライアン兄弟」がデビスカップで15勝目を挙げ、14勝タイの2組を抜いてアメリカの「ベスト・ダブルス・チーム」(同一ダブルスチームの最多勝利数)になった。)アメリカ・チーム代表選手としての出場試合数でも、ウィルマー・アリソンとジョン・バン・リン、ビック・セイシャススタン・スミスの4名が「24試合」でチーム2位タイに並び、マッケンローが「30試合」出場で単独1位に立った。(デビスカップ用語:各チームの成績表[例:アメリカ]においては“No. of Ties”という欄があるが、“Tie”とは国と国との対戦を指す。例:デビスカップの「アメリカ対日本」戦というとき、これが1つの「タイ」となるが、各タイの中は5試合で構成される。アリソンは“No. of Ties”で24のタイに出場し、チーム歴代2位タイに立っている。)

テニス経歴を終えた後、アリソンは第2次世界大戦アメリカ陸軍の空軍大佐を務めた。1963年、彼はダブルス・パートナーのジョン・バン・リンと一緒に国際テニス殿堂入りを果たす。1977年4月20日、ウィルマー・ローソン・アリソンはテキサス州オースティンにて72歳で死去した。

4大大会優勝

  • ウィンブルドン選手権 男子ダブルス:2勝(1929年&1930年)/男子シングルス準優勝1度:1930年
  • 全米選手権 男子シングルス:1勝(1935年)/男子ダブルス:2勝(1931年・1935年)/混合ダブルス:1勝(1930年)

外部リンク