「池田政晴」の版間の差分

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[[池田軌隆]]([[岡山藩]]主・[[池田綱政]]の次男)の長男。母は広田氏。[[正室]]は[[池田政倚]]の娘。子に[[鵜殿政長]](長男、峯之助・徳十郎、[[鳥取藩]]士・[[鵜殿央堯]]養子)、[[池田政員]](次男)、[[池田政弼]](三男)、[[池田長恵]](四男、辰之助・與五郎、[[池田政倫]]養子)、娘(池田長仍室)、娘([[山内豊産]]正室)、娘([[松平忠庸]]正室)、娘([[甲斐庄正堅]]正室)。[[官位]]は[[従五位下]]、[[丹波国|丹波]]守。[[幼名]]は善太郎。
[[池田軌隆]]([[岡山藩]]主・[[池田綱政]]の次男)の長男。母は広田氏。[[正室]]は[[池田政倚]]の娘。子に[[鵜殿政長]](長男、峯之助・徳十郎、[[鳥取藩]]士・[[鵜殿央堯]]養子)、[[池田政員]](次男)、[[池田政弼]](三男)、[[池田長恵]](四男、辰之助・與五郎、[[池田政倫]]養子)、娘(池田長仍室)、娘([[山内豊産]]正室)、娘([[松平忠庸]]正室)、娘([[甲斐庄正堅]]正室)。[[官位]]は[[従五位下]]、[[丹波国|丹波]]守。[[幼名]]は善太郎。


先代藩主・[[池田輝録]]の世子・[[池田輝廉]]が[[早世]]したため、[[宝永]]5年([[1708年]])に輝録の養嗣子として迎えられた。[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])11月に輝録が死去したため、翌年2月19日にその後を継いで藩主となる。寛延元年(1748年)9月11日に45歳で死去。[[法名]]は隆興院殿雲巌宗観大居士。後を次男・政員が継いだ。
先代藩主・[[池田輝録]]の世子・[[池田輝廉]]が[[早世]]したため、[[宝永]]5年([[1708年]])に輝録の養嗣子として迎えられた。[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])11月に輝録が死去したため、翌年2月19日にその後を継いで藩主となる。寛延元年(1748年)9月11日に45歳で死去。[[戒名|法名]]は隆興院殿雲巌宗観大居士。後を次男・政員が継いだ。





2009年1月5日 (月) 05:03時点における版

池田 政晴(いけだ まさはる、宝永元年(1704年) - 寛延元年9月11日1748年10月3日))は、備中生坂藩の第2代藩主

池田軌隆岡山藩主・池田綱政の次男)の長男。母は広田氏。正室池田政倚の娘。子に鵜殿政長(長男、峯之助・徳十郎、鳥取藩士・鵜殿央堯養子)、池田政員(次男)、池田政弼(三男)、池田長恵(四男、辰之助・與五郎、池田政倫養子)、娘(池田長仍室)、娘(山内豊産正室)、娘(松平忠庸正室)、娘(甲斐庄正堅正室)。官位従五位下丹波守。幼名は善太郎。

先代藩主・池田輝録の世子・池田輝廉早世したため、宝永5年(1708年)に輝録の養嗣子として迎えられた。正徳3年(1713年)11月に輝録が死去したため、翌年2月19日にその後を継いで藩主となる。寛延元年(1748年)9月11日に45歳で死去。法名は隆興院殿雲巌宗観大居士。後を次男・政員が継いだ。


先代
池田輝録
池田氏(生坂藩2代)藩主
1714年 - 1748年
次代
池田政員