「伊集院忠朗」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
7行目: 7行目:
この忠朗の時代に、[[伊集院氏]]は島津氏における地位を確固たるものとしたのであった。
この忠朗の時代に、[[伊集院氏]]は島津氏における地位を確固たるものとしたのであった。


{{people-stub|いしゆういん たたあき}}
{{DEFAULTSORT:いしゆういん たたあき}}
[[category:戦国武将]]

[[category:戦国武将|いしゆういん たたあき]]
[[Category:伊集院氏|たたあき]]
[[Category:伊集院氏|たたあき]]
{{people-stub}}
{{Japanese-history-stub}}


[[en:Ijuin Tadaaki]]
[[en:Ijuin Tadaaki]]

2008年12月5日 (金) 19:22時点における版

伊集院 忠朗(いじゅういん ただあき、生没年未詳)は島津氏の家臣。子は伊集院忠倉、孫は伊集院忠棟、曾孫は伊集院忠真

島津忠良島津貴久に仕えて、島津氏の本家と分家の対立による領国分裂の統一から、伊東氏肝付氏との戦いで活躍した。1554年、忠朗は岩剣城を攻めたが、このとき、忠朗の進言で島津軍は初めて鉄砲を実戦に投入して本格的に使ったという。それらの功績から、1556年まで家老として島津氏の政務を取り仕切ることとなった。

1561年には、肝付兼続との宴席で兼続を巧みに挑発し、いずれはその領土を呑み込もうと考えていた肝付氏との戦端を開いたというエピソードもある。

この忠朗の時代に、伊集院氏は島津氏における地位を確固たるものとしたのであった。