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「安徽派」の版間の差分

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当初は「グループの違い」程度のものだったが、[[1917年]]9月に孫文が広東軍政府を組織して中華民国からの独立を宣言すると、その対応で国論が二分する。段祺瑞は武力征伐を主張し、[[中華民国大総統|大総統代行]]だった[[直隷派]]の[[馮国璋]]はあくまで平和的解決を主張した。結局段祺瑞は、袁世凱死後の東北地方を纏め上げた[[張作霖]]率いる[[奉天派]](奉系)と連合して南征を強行、さらに[[1918年]]の新国会(安福国会)での多数派工作にも成功して、馮国璋を大総統の地位から引きずり下ろした。これが原因で安徽派と直隷派の間にわだかまりが残った。
 
政権を掌握した安徽派は日本からの借款を通じて国力の増進に努めたが、[[五四運動]]などの反日感情の高まりと共に国内の支持率は低下していった。これを好機と見たのは直隷派である。[[1920年]]7月、直隷派はイギリス・アメリカの支援を受けて、仇敵である奉天派と連合して兵を起こす。これが[[安直戦争]](直皖戦争)である。安徽派は段祺瑞の副将格である[[徐樹錚]]を派遣するがこれに大敗し、1920年7月19日に段祺瑞は国務総理を辞任する。
 
安直戦争の敗戦で段祺瑞、徐樹錚、盧永祥、段芝貴ら安徽派の主要メンバーは皆失脚し、事実上この時に安徽派は崩壊する。後にこの時の直隷派政権が崩壊すると、[[1924年]]11月23日から[[1926年]]4月20日まで一時的に段祺瑞が大総統相当職である臨時執政に就任しているが、あくまで軍閥のバランス上にあっての就任であり、すでに単独で政権を担えるだけの力は持っていなかった。
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