「ジャンバティスタ・バジーレ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Clarin (会話 | 投稿記録)
m cat
Point136 (会話 | 投稿記録)
m BOT: sty
7行目: 7行目:
ところが、妹であるアドリアーナが「当代随一の歌姫」としてナポリの支配層の人気を集めるようになると、その縁でバジーレら家族も取り立てられるようになる。妹の後援によって[[1609年]]に処女詩集『マドリアーリとオーデ』(Madriali et ode)を刊行すると、次々に詩を発表していった。
ところが、妹であるアドリアーナが「当代随一の歌姫」としてナポリの支配層の人気を集めるようになると、その縁でバジーレら家族も取り立てられるようになる。妹の後援によって[[1609年]]に処女詩集『マドリアーリとオーデ』(Madriali et ode)を刊行すると、次々に詩を発表していった。
だが、このころバジーレが憂慮していたのは[[イタリア語]]が全国的に統一傾向が進んで、ナポリが古くから使ってきた所謂「[[イタリア語#方言|ナポリ語]]」が衰退の危機に晒されていることであった。そこでバジーレは、ナポリ地方に昔から伝わる[[説話]]を蒐集する事を思い立った。
だが、このころバジーレが憂慮していたのは[[イタリア語]]が全国的に統一傾向が進んで、ナポリが古くから使ってきたいわゆる「[[イタリア語#方言|ナポリ語]]」が衰退の危機に晒されていることであった。そこでバジーレは、ナポリ地方に昔から伝わる[[説話]]を蒐集する事を思い立った。
『物語の中の物語、即ち幼い者達のための楽しみの場』(Lo cunto de li cunti overo Lo trattenemiento de peccerille)と名付けられたこの説話集はバジーレの死後の[[1634年]]に[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]の『[[デカメロン]](十日物語)』に倣って『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』と改称されて刊行された。『ペンタメローネ』は[[ヨーロッパ]]における[[童話集]]のさきがけとなった。
『物語の中の物語、即ち幼い者達のための楽しみの場』(Lo cunto de li cunti overo Lo trattenemiento de peccerille)と名付けられたこの説話集はバジーレの死後の[[1634年]]に[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]の『[[デカメロン]](十日物語)』に倣って『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』と改称されて刊行された。『ペンタメローネ』は[[ヨーロッパ]]における[[童話集]]のさきがけとなった。

2008年6月14日 (土) 21:11時点における版

ジャンバティスタ・バジーレ

ジャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile, 1575年? - 1632年2月23日)は、イタリア詩人軍人である。説話集ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』の作者として知られている。

ナポリの貧しい家庭に生まれる。幼い頃から詩才を現していたが、生活のために傭兵としてイタリア各地を転々とし、クレタ島ベネチア共和国領)の警備隊や祖国であるナポリ王国(実質はスペインの一部)軍に加わっていた。

ところが、妹であるアドリアーナが「当代随一の歌姫」としてナポリの支配層の人気を集めるようになると、その縁でバジーレら家族も取り立てられるようになる。妹の後援によって1609年に処女詩集『マドリアーリとオーデ』(Madriali et ode)を刊行すると、次々に詩を発表していった。

だが、このころバジーレが憂慮していたのはイタリア語が全国的に統一傾向が進んで、ナポリが古くから使ってきたいわゆる「ナポリ語」が衰退の危機に晒されていることであった。そこでバジーレは、ナポリ地方に昔から伝わる説話を蒐集する事を思い立った。

『物語の中の物語、即ち幼い者達のための楽しみの場』(Lo cunto de li cunti overo Lo trattenemiento de peccerille)と名付けられたこの説話集はバジーレの死後の1634年ボッカッチョの『デカメロン(十日物語)』に倣って『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』と改称されて刊行された。『ペンタメローネ』はヨーロッパにおける童話集のさきがけとなった。