「耶律雅里」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''耶律 雅里'''(やりつ がり、[[1193年]] - [[1123年]])は、[[遼]]の[[皇族]]。[[天祚帝]]の次男で、生母は蕭元妃(蕭貴哥)。[[北遼]]の2代[[皇帝]]でもある。漢名は不詳。[[字]]は'''撒鸞'''(さんらん)。
'''耶律 雅里'''(やりつ がり、[[1195年]] - [[1125年]])は、[[遼]]の[[皇族]]。[[天祚帝]]の次男で、生母は蕭元妃(蕭貴哥)。[[北遼]]の2代[[皇帝]]でもある。漢名は不詳。[[字]]は'''撒鸞'''(さんらん)。


幼いころから父に溺愛され、梁王に冊封される。大臣の[[蕭奉先]]は梁王の生母の蕭元妃の兄か叔父にあたるため、その傅役となった。[[皇太子]]候補である異母兄の晋王・[[耶律傲盧斡]]がいたが、彼は素質に優れおり、[[余ケン|余覩]]という側近がいた。蕭奉先はその余覩の政敵であり、梁王を[[太子]]にする構想を持っていた。
幼いころから父に溺愛され、梁王に冊封される。大臣の[[蕭奉先]]は梁王の生母の蕭元妃の兄か叔父にあたるため、その傅役となった。[[皇太子]]候補である異母兄の晋王・[[耶律傲盧斡]]がいたが、彼は素質に優れおり、[[余ケン|余覩]]という側近がいた。蕭奉先はその余覩の政敵であり、梁王を[[太子]]にする構想を持っていた。
9行目: 9行目:
しかし、翌1123年2月に金の太祖は都の[[燕京]]を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春にいる天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立した理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を処刑した。
しかし、翌1123年2月に金の太祖は都の[[燕京]]を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春にいる天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立した理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を処刑した。


年に、再び金と[[北宋]]連合軍に大敗した天祚帝は[[雲州|雲中]]([[山西省]][[大同市]])にある陰山に逃れた。間もなく、天祚帝は金軍に包囲されしまい、ついに金に降った。こうして遼は滅亡した。
1125に、再び金と[[北宋]]連合軍に大敗した天祚帝は[[雲州|雲中]]([[山西省]][[大同市]])にある陰山に逃れた。間もなく、天祚帝は金軍に包囲されしまい、ついに金に降った。こうして遼は滅亡した。


同年5月、遼の遺臣たちは、再び「北遼」を建てて、天祚帝の太子の梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、同時に天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を支える遺臣たちも擁立に動き出し、こうして北遼は内紛に発展した。同年10月に梁王は英宗(耶律朮烈)派の遺臣たちに殺害された。享年31。
同年5月、遼の遺臣たちは、再び「北遼」を建てて、天祚帝の太子の梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、同時に天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を支える遺臣たちも擁立に動き出し、こうして北遼は内紛に発展した。同年10月に梁王は英宗(耶律朮烈)派の遺臣たちに殺害された。享年31。
15行目: 15行目:
{{DEFAULTSORT:やりつ かり}}
{{DEFAULTSORT:やりつ かり}}
[[Category:耶律氏|かり]]
[[Category:耶律氏|かり]]
[[Category:1093年生]]
[[Category:1095年生]]
[[Category:1123年没]]
[[Category:1125年没]]

2008年6月6日 (金) 09:24時点における版

耶律 雅里(やりつ がり、1195年 - 1125年)は、皇族天祚帝の次男で、生母は蕭元妃(蕭貴哥)。北遼の2代皇帝でもある。漢名は不詳。撒鸞(さんらん)。

幼いころから父に溺愛され、梁王に冊封される。大臣の蕭奉先は梁王の生母の蕭元妃の兄か叔父にあたるため、その傅役となった。皇太子候補である異母兄の晋王・耶律傲盧斡がいたが、彼は素質に優れおり、余覩という側近がいた。蕭奉先はその余覩の政敵であり、梁王を太子にする構想を持っていた。

1121年、蕭奉先は天祚帝に拝謁し、「余覩は晋王・傲盧斡を擁立する陰謀の疑いあり」と讒言した。天祚帝自身も梁王を可愛がっていたこともあり、蕭奉先の冤罪の言葉をすっかり信じてしまった。そのために、余覩は謀反人として処刑され、晋王は廃嫡され、生母の蕭文妃とともに賜死を命じられてしまった。こうして、蕭奉先の思惑通りに梁王が太子となった。

翌1122年2月に父帝が、入來山で太祖と戦って大敗し、長春に逃れた。すると翌3月、皇族の耶律大石李処温らとともに、雅里の従大叔父の耶律淳を擁立し、「北遼」を建国してしまった(天錫帝)。しかし、天錫帝は6月に61歳で病没し、その未亡人の蕭徳妃普賢女が摂政となった。

しかし、翌1123年2月に金の太祖は都の燕京を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春にいる天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立した理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を処刑した。

1125年春に、再び金と北宋連合軍に大敗した天祚帝は雲中山西省大同市)にある陰山に逃れた。間もなく、天祚帝は金軍に包囲されしまい、ついに金に降った。こうして遼は滅亡した。

同年5月、遼の遺臣たちは、再び「北遼」を建てて、天祚帝の太子の梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、同時に天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を支える遺臣たちも擁立に動き出し、こうして北遼は内紛に発展した。同年10月に梁王は英宗(耶律朮烈)派の遺臣たちに殺害された。享年31。