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2008年5月31日 (土) 11:49時点における版

臼杵 鑑速うすき あきすみあきはや永正17年(1520年)? - 天正3年5月8日1575年6月16日))は戦国時代の武将。大友氏の家臣。臼杵長景の子で、臼杵鑑続及び戸次親家後室の弟、臼杵鎮続、臼杵鎮順の兄。臼杵統景、女子(吉弘鎮信妻)、女子 (宗像氏貞妻)の父。初名は鑑景。四郎左衛門尉。越中守。

兄同様、外交面で大いに活躍した。大友宗麟豊前筑前筑後肥前をはじめとする守護職の継承や、幕府との交渉、毛利氏や国人たちとの交渉などは、ほとんどこの鑑速が行なっている。また、毛利氏との合戦にも積極的に従軍して武功を挙げた。

弘治年間より兄の後を受けて加判衆を務め、また、立花道雪(鑑速の姉が継母として養育した)や吉弘鑑理とともに大友氏の『三老』にまで列せられた。龍造寺隆信討伐や毛利軍との戦いには三大将のひとりとなる。彼の生きている間は宗麟の義理の弟である田原親賢も勝手な振る舞いはできなかった。耳川の大敗後、立花道雪は筑前国から手紙を送り「臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道である」と嘆いている。また江戸期の豊後の三賢人三浦梅園は「鑑速、吉岡宗歓がいればこんな戦いはなかったであろうに」と言っている。なお系図には「あきすみ」と書かれている。