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* その後、乳牛の改良に[[血統]]の及ぼす影響の大なることを痛感し、[[アメリカ合衆国|米国]]のそれをつぶさに調査し、私財をもって数次にわたり米国より基礎種牛を購入し、その改良繁殖につとめた<ref>『町村金五伝』 452頁</ref>。 |
* その後、乳牛の改良に[[血統]]の及ぼす影響の大なることを痛感し、[[アメリカ合衆国|米国]]のそれをつぶさに調査し、私財をもって数次にわたり米国より基礎種牛を購入し、その改良繁殖につとめた<ref>『町村金五伝』 452頁</ref>。 |
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* [[1950年]](昭和25年)吉田内閣農政懇談会に学識経験者委員として参加 |
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* [[1952年]](昭和27年)政府の嘱託として欧米各国の泥炭地改良事業及び土地利用状況視察のため出張 |
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* [[1962年]](昭和37年)日本酪農の確立、ホルスタイン種の導入普及など農業界への功績により藍綬褒章を賜る |
* [[1962年]](昭和37年)日本酪農の確立、ホルスタイン種の導入普及など農業界への功績により藍綬褒章を賜る |
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* [[1963年]](昭和38年)第二回全国農業祭畜産部門天皇杯受賞 |
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* [[1967年]](昭和42年)志津夫人逝去 |
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* [[1968年]](昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察 |
* [[1968年]](昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察 |
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* [[1969年]](昭和44年)逝去 享年87歳 |
* [[1969年]](昭和44年)逝去 享年87歳。<ref>『町村敬貴伝』300-302頁</ref>。 |
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== エピソード == |
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* ラスト牧場 |
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* 敬貴が渡米したのは明治39年4月。横浜港から家族に見送られて旅立った。それから十年間、敬貴はその立志を達成すべく帰国しなかった。 |
* 敬貴が渡米したのは明治39年4月。横浜港から家族に見送られて旅立った。それから十年間、敬貴はその立志を達成すべく帰国しなかった。 |
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渡米から1年間はシアトル周辺で農家の手伝い、製薬工場のタンク掃除、赤帽などの数々のアルバイトをした。 |
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*敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、[[宇都宮仙太郎]]がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウイスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。 |
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*敬貴の日記によると、 |
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* 4月27日 本日宇都宮氏、吉田氏に面会す。 |
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* 5月4日 本日午後9時半の汽車に投じて出発す。 |
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* 5月7日 午後5時St.Poulに着、8時35分C,Mor,St,P.R.Yの汽車に投ず。 |
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* 5月8日 本朝6時半、ミルウォーキーに着す。而して近きホテルに投ず、中々疲れたり。 |
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* 5月9日 本朝ホテルボーイに聞き、12時15分の汽車にてWest Allisに行く。先ず葉書を案内として、初め着せるはRustのBrother Houseにて、之より昼食を喫し、ボギーにて一マイルばかり、目的の家に着す。此の日は、色々と労働着などを用意す。 |
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== 家族・親族 == |
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*長男 善啓 |
*長男 善啓 |
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*次男 [[町村泰男|泰男]](実業家) |
*次男 [[町村泰男|泰男]](実業家) |
2008年4月25日 (金) 06:48時点における版
町村 敬貴(まちむら ひろたか、1882年12月 - 1969年8月12日)は、日本の政治家、実業家。元貴族院議員、元参議院議員。正四位勲二等。
町村金弥は父。政治家町村信孝は甥。町村金五(元北海道知事)は実弟。
経歴
- 1882年(明治15年)12月20日、北海道札幌郡豊平町真駒内に町村金弥・そとの長男として生まれる。父・金弥は前年の明治14年に札幌農学校(ニ期生)を卒業後真駒内牧牛場の主任として経営に当たっていた。[1]。
- 1903年(明治36年)札幌農学校(現在の北海道大学)農芸伝習科に入学
- 1906年(明治39年)札幌農学校を卒業後単身渡米、ウィスコンシン州ウエストアリスのラスト牧場にて牧夫として酪農を実習
- 1910年(明治43年)4月 ウィスコンシン州立農科大学入学
- 1912年(明治45年)一旦帰国、渡辺志津と結婚、再度渡米
- 1913年(大正2年)3月 ウィスコンシン州立農科大学を卒業。
- 1916年(大正5年)帰国
- 1917年(大正6年)北海道石狩町樽川にて町村農場を創業
- 1928年(昭和3年)に北海道江別町対雁に移転。
- 1945年(昭和20年)貴族院議員に勅撰される
- 1947年(昭和22年)参議院議員に当選。緑風会に所属し、1期務める
- 1950年(昭和25年)吉田内閣農政懇談会に学識経験者委員として参加
- 1952年(昭和27年)政府の嘱託として欧米各国の泥炭地改良事業及び土地利用状況視察のため出張
- 1962年(昭和37年)日本酪農の確立、ホルスタイン種の導入普及など農業界への功績により藍綬褒章を賜る
- 1963年(昭和38年)第二回全国農業祭畜産部門天皇杯受賞
- 1964年(昭和39年)江別市名誉市民
- 1967年(昭和42年)志津夫人逝去
- 1968年(昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察
- 1969年(昭和44年)逝去 享年87歳。[4]。
エピソード
エピソード1
- スポーツ万能
- 敬貴は少年時代から健康に恵まれ、背も高く、スポーツ万能であった。札幌農学校で敬貴が作ったハンマー投げの記録は、北大で25年間破られなかったという。その頃のハンマーは、現在の針金の付いた鉄球と違い、本当のハンマーのように、鉄球に60センチくらいの木の柄がついたもので、それを大きく振って投げた。敬貴が競技会で投げた時、大きく振り回した鉄球が地面に触れて、土煙を上げたので、もう一度やり直したら、というものもいたが、審判部長の松村松年博士がこれだけ投げたのだから、よいだろうといって、一回投げただけで止めたという。それまでの農学校の記録は18メートルであったが、敬貴は19メートルと一挙に1メートルも記録を伸ばした。[5]。
エピソード2
- ラスト牧場
- 敬貴が渡米したのは明治39年4月。横浜港から家族に見送られて旅立った。それから十年間、敬貴はその立志を達成すべく帰国しなかった。
渡米から1年間はシアトル周辺で農家の手伝い、製薬工場のタンク掃除、赤帽などの数々のアルバイトをした。
- 敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、宇都宮仙太郎がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウイスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。
- 敬貴の日記によると、
- 4月27日 本日宇都宮氏、吉田氏に面会す。
- 4月30日 佐治君の家を引き上げ、シアトルに行き、色々とEast行きの用意をなす。
- 5月4日 本日午後9時半の汽車に投じて出発す。
- 5月7日 午後5時St.Poulに着、8時35分C,Mor,St,P.R.Yの汽車に投ず。
- 5月8日 本朝6時半、ミルウォーキーに着す。而して近きホテルに投ず、中々疲れたり。
- 5月9日 本朝ホテルボーイに聞き、12時15分の汽車にてWest Allisに行く。先ず葉書を案内として、初め着せるはRustのBrother Houseにて、之より昼食を喫し、ボギーにて一マイルばかり、目的の家に着す。此の日は、色々と労働着などを用意す。
家族・親族
- 妻*志津(福井県 渡辺仙太郎長女、酢醸造業山本怡仙の玄孫)
- 長男 善啓
- 次男 泰男(実業家)
- 三男 鉄雄(実業家)
- 四男 俊郎(医師)
- 長女 婦美子(官僚岩倉規夫に嫁する)
- 次女 光子(東京 官僚、政治家原文兵衛に嫁する)
- 孫 町村敬志(学者・一橋大学大学院社会学研究科教授)、町村泰貴(学者・北海道大学大学院法学研究科教授)、町村貴郎(医師)、町村英郎(医師)、美穂(東京 官僚、政治家中川雅治に嫁する)など
系譜
- 町村氏 町村家は江戸時代、代々越前藩の支藩・府中領主本多家に仕えた武士の家系だった[6]。父町村金弥は町村家9代目当主・町村織之丞の長男として生まれた。金弥は札幌農学校に学び、北海道開拓事業にその生涯を捧げ、「北海道酪農の父」といわれた人物。
┏町村善啓 ┃ ┣町村泰男━━町村泰貴 ┃ ┣町村鉄雄 ┃ ┃ ┏町村貴郎 ┣町村俊郎━┫ ┃ ┗町村英郎 ┣婦美子 ┃ ┃ ┃岩倉規夫 ┃ ┏町村敬貴━╋光子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━美穂 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃原文兵衛 中川雅治 町村織之丞━町村金弥━┫ ┃ ┃ ┗寿美子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━┳町村敬志 ┃ ┃ ┣町村謙 ┃ 町村末吉 ┗町村均 ┗町村金五 ┃ 亀山孝夫 ┃ ┃ ┃ ┏康子 ┃ ┃ ┃ ┣町村忠良 ┃ ┃ ┃ ┣町村信孝 ┃ ┃ ┃ ┣君代 ┣━━━┫ ┃ ┃ ┃山本悟 ┃ ┃ ┃ ┣ひろ子 ┏てる子 ┃ ┃ ┣━━━┫ ┃ ┃秋山進 ┗まり子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小早川光郎 ┃ ┗富士江 ┏二葉 ┃ ┃ 遠山景敏 桑田熊蔵━┫ ┃ ┗千枝子 ┃ ┣━━━━河合良一 ┃ 河合良成
参考文献
- 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 447、451-452頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁
関連項目
脚注
- ^ 『町村敬貴伝』35頁
- ^ 『町村金五伝』 452頁
- ^ 『町村金五伝』 447頁
- ^ 『町村敬貴伝』300-302頁
- ^ 『町村敬貴伝』66頁
- ^ 『町村金五伝』 424-438頁 - 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に町村次郎兵衛の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習をつとめていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた