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== 概説 == |
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2008年4月5日 (土) 08:32時点における版
當田流(とうだりゅう)は富田流が弘前藩に伝わったもの。 一刀流(梶派一刀流・小野派一刀流・中西派一刀流)、卜伝流と並んで、弘前藩三大剣術流派の一つである。
概説
當田流は江戸の剣客、富田甚五郎吉正(當田半兵衛吉正)が弘前に伝えた富田流を改称した流儀である(富に八の字を加えて當田とした)。 富田甚五郎吉正は由井正雪の友人であったと言われている。由井正雪の乱の後、母親の勧めで後難を避ける為に弘前に来たという。後に剣術の腕が知られるようになり、弘前藩士の子弟に武術を教授するようになった。以降彼は當田半兵衛吉正と改名、富田流を當田流 とし、浅利伊兵衛に伝えた。
当流は代々弘前に伝わり、弘前藩にて回国修行で伝説的なエピソードを残した浅利伊兵衛均禄、浅利伊兵衛の弟子で、武芸数十流派の免許を得た一戸三之助宗明などの達人を生んだ。昭和期に浅利家最後の継承者寺山龍夫(旧名 浅利龍夫)を最後に浅利家での伝承は絶えたが、この流儀の剣術と小太刀は弘前に現存し、棒術もわずかに習得者が残っており、當田流の剣術は弘前における武道大会や剣道大会等で演武されている。
また當田流の伝書類はその多くが現存している。また、一部が弘前から散逸した事により、古武道関連書籍に当流の伝書が富田流(戸田流)の伝書として紹介されている事がある。
流儀の内容
剣術(中太刀)、小太刀、棒術を含む流派で、流儀の内容は富田流のままであると伝わっている。
実際に、
- 開祖の絵伝書による構えと現在伝わっている構えは同じである。
- 形稽古では(当流では形稽古の事を死合の作法という)源流の中条流や富田流と同じく、打太刀は三尺を超える大太刀を用い、仕太刀がそれより短い中太刀や小太刀を使う。
- 竹刀、防具着用による試合稽古を行わない。
等々、剣術の古態を守っている。
歴代系譜
- 鵜戸大権現ヨリ 當田二十五代 當田清源
- 當田内記
- 當田権右衛門尉
- 當田権太夫吉政
- 當田半兵衛吉正(弘前藩第4代藩主津軽信政の刀鎗師範。以降、弘前藩で伝承)
- 浅利伊兵衛均禄
- 一戸三之助宗明
- 浅利万之助均実
- 浅利清蔵均緒
- 浅利万之助均豊
- 浅利万之助(清蔵)均政
- 浅利八郎均虎
- 浅利大重
- 浅利龍夫(寺山龍夫)
- 竹内大
参考文献
- 「全日本剣道連盟所蔵(写)剣術関係古文書解説」 財団法人 全日本剣道連盟、105-117項、【五】當田流。
- 「季刊秘伝古流武術 第4号 1990年」 株式会社BABジャパン、106-111項、『弘前で東北の人情に触れる 島津兼治』。
- 「季刊秘伝古流武術 第5号 1991年」 株式会社BABジャパン、80-89項、『浅利伊兵衛均禄と浅利家の當田流資料 島津兼治』。