「モーゼス・フリート・ウォーカー」の版間の差分

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トレドの主力投手だった[[トニー・マレーン]]はウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場<ref>他に外野手として1試合に出場している。</ref>するが、シーズン中に鎖骨を折る怪我をしてしまい、それ以降残りの試合に出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の[[捕逸]](パスボール)を記録している。
 
所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌1885年以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。1887年にインターナショナルリーグで[[ジョージ・ストーヴィー]]と組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナー球団を転々としながら野球選手として活動していた。最後に所属していた[[シラキュース・スターズ (1890年)|シラキュース・スターズ]]は1890年にメジャーリーグに加盟するが、それはウォーカーがチームを離れた後だった。
 
===引退後===
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