「第一次ミトリダテス戦争」の版間の差分

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2008年3月26日 (水) 10:30時点における版

第一次ミトリダテス戦争は、紀元前88年から前84年に、ポントゥスローマの間で起きた戦争で、三度にわたるミトリダテス戦争のうち最初にして最大のものである。この戦争で小アジア全域を制圧したポントゥス軍は、ギリシャでローマ軍と戦って敗れた。ローマの優位を認めつつ、現状復帰の条件で講和が結ばれた。和約の翌年には第二次ミトリダテス戦争が起きた。

開戦まで

ポントゥスは、シリア戦争までシリアに服属する独立国であったが、シリアが後退すると、ローマの属国として扱われるようになった。ポントゥス王ミトリダテス5世は、カッパドキアを攻めて併合した。その子ミトリダテス6世が王位を継承してから、ローマは前92年にカッパドキアを亡命者アリオバルサネスに返還するように命じた。ミトリダテスは返還を受諾した。

しかし、ミトリダテスは、隣国ビテュニアの王の兄弟ソクラテスに一軍を与え、ビテュニアに送り込んだ。ソクラテスはニコメデス王を追ってビテュニアを支配した。他方、カッパドキアでもミトリダテスの援助を受けた反乱が起こり、ローマが送り込んだ王を追ってアリアラテスを王に立てた。

ローマはマニウス・アキリウスを長とする使節団を送り込み、追放された二人の王を復位させようとした。マニウスは、属州アシアの総督ルキウス・カッシウスが持つローマ軍と、臨時に徴収した諸民族の兵力によって目的を達した。ミトリダテスはこれを静観した。しかしマニウスとカッシウスは戦争を望み、復帰した王にポントゥス攻撃を勧めた。ビテュニアのニコメデスはこの勧めに応じてポントゥスに侵攻し、略奪した。ミトリダテスはなおも反撃を控え、マニウスに抗議の使者を送ったが、無視された。ミトリダテスは子のアリアラテスをカッパドキアに送り込んで占領した。当時のローマの法では、宣戦は元老院の権限であったが、マニウスらは自己の判断でミトリダテスに対する戦争を始めた。

小アジア戦役

前88年に始まった戦争で、ローマは少数のローマ軍のほかに現地で徴収した兵力で大軍を組織した。軍を三つに分けて各々をルキウス・カッシウス、マニウス・アキリウス、キントゥス・オッピウスが率い、ニコメデスのビテュニア軍も加えて四方面に分かれてポントゥスとカッパドキアに向かった。

ミトリダテスは分進するローマ軍を各個撃破した。まずアムニアス川の戦いでニコメデスを迎撃し、国境を越えて逃げる敵を追って、マニウスが守るプロトパキウム要塞を7時間で攻略した。さらにカッシウスの軍も破った。ローマの敗将たちと、ビュザンティオンにあった艦隊は離散し、ミトリダテスはビテュニア全域を支配した。ミトリダテスは捕虜に帰国の費用を与えて帰らせ、孤立して降伏したオッピウスを丁重に遇したが、マニウスだけは処刑した。

ミトリダテスはさらに進み、属州アシアなど、エーゲ海沿いの小アジア全域を手中にした。支配の確立後、ミトリダテスは新しい支配地域の全土で一斉にローマ人とイタリア人を皆殺しにする命令を出した。イタリア生まれの者は、男女の別なく子供も含めて殺された。この命令により殺された人数は8万人とも10万人以上とも言われる。

ミトリダテスは艦隊を率いて、ローマ側につくロードスの攻略に向かった。しかし、陸兵を輸送する船団が嵐に見舞われ、ロードス海軍の巧みな抗戦にもあって、攻略は失敗した。

ギリシャ戦役

前87年に、ミトリダテスはアルケラオスに一軍を与えてギリシャに送った。これに呼応して、アテナイ、ラケダイモン(スパルタ)、さらにボイオティアの大半がミトリダテスの味方についた。さらにメトロファネスに率いられたポントゥス軍の別働隊が、エウボイアを攻略した。マケドニアはローマ側につき、ブルッティウス指揮下の軍を南下させた。ブルッティウスはメトロファネスの脅威を退け、ボイオティアのカイロネイアでアルケラオス軍と対陣した。ブルッティウスは兵力の劣勢を悟って退いた。

ここでローマ軍がギリシャに上陸した。ローマ軍を率いたのは、アシア総督に任命されたルキウス・コルネリウス・スッラであった。スッラは五個軍団と若干の大隊をもってギリシャに渡った。スッラの出現でテバイなどボイオティアの大半はローマに寝返った。アルケラオスはアテナイの外港ピラエウスに立て篭った。ピラエウスの戦いでは、双方の技術と武勇を駆使した激しい攻防が展開された。ローマ軍がピラエウスの城壁を突破すると、アルケラオスは内城に引き下がり、次いで海から撤退した。

これより前、スッラとの対戦中に、ミトリダテスの子アルカティアスがマケドニアに侵攻して全土を制圧していた。アルカティアスはそこから南下する途中で病死した。アルケラオスはボイオティアに回りこんでこの軍をあわせ、ローマ軍を上回る兵力を得た。しかし前86年に、スッラは山間のカイロネイアの戦いで身動きのとれない大軍を撃滅した。アルケラオスは敗兵をまとめていったんエウボイアのカルキスに退いた。すぐにギリシャ本土に再上陸したが、前85年オルコメノスの戦いで再び敗れてカルキスに戻った。

講和

敗北を聞いたミトリダテスは、恐怖政治によって沿岸のギリシャ人諸都市を引き締めようとしたが、かえって諸都市の反乱を招いた。

ローマでは、マリウスが権力を握ってスッラを公敵と認定した。二個軍団を中心にした軍が新しい執政官フラックスの下に編成され、遠征に乗り出した。この軍はスッラとは戦わず、テッサリアに入ってそこに残存するミトリダテス軍を駆逐した。このときフラックスと助言者のフィンブリアの間で争いが起こり、フィンブリアがフラックスを殺して軍の指揮権を奪った。フィンブリアは小アジアに渡り、属州アジアの奪回にとりかかった。

ミトリダテスは遠隔にあるスッラとの和平交渉をはじめた。小アジアに上陸したスッラと会談して前84年にダルダネスの和約を取り決めた。その内容は、ミトリダテスが占領地を返還し、賠償金をローマに払い、艦隊を引き渡すというものであった。その後、スッラはフィンブリアと対陣し、軍勢の引渡しを求めた。フィンブリアは抗戦しようとしたが、脱走兵が相次いだため、降伏して自殺した。

参考文献

  • Appian Roman History volume II (with an English Translation by Horace White), Harvard University Press, Cambridge and London, 1912. (アッピアノス「ローマ史」)