「天下の台所」の版間の差分
編集の要約なし
60.56.89.7 (会話) 編集の要約なし |
60.56.89.7 (会話) 編集の要約なし |
||
'''天下の台所'''(てんかのだいどころ)とは、[[江戸時代]]に
[[公文書]]では、[[天保]]13年([[1843年]])に[[天保の改革]]による[[株仲間]]廃止論に異論を唱えた[[大坂町奉行]][[阿部正蔵]]の意見書(「諸色取締方之儀ニ付奉伺候書付」)の中に「大坂表之義は諸国取引第一之場所」「世俗諸国之台所と相唱」という文面が見られ、当時既に「天下の台所」として広く知られていたことが裏付けられる。ただ、大阪市史料調査会主任調査員の野高宏之によれば、江戸時代の文献に大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」と評する記述は存在するが、「天下之台所」と直接記述した文献は存在せず、[[幸田成友]]が『[[大阪市史]] 第二』等の叙述中で用いた用語が、一般に広まっていく過程で、江戸時代から存在した言葉と誤解された事が分かっている。
|