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2008年1月21日 (月) 09:02時点における版

橋本 経子(はしもと つねこ、文政9年11月26日1826年12月24日) - 慶応元年8月14日1865年10月3日))は、幕末期の日本の女官

12代将軍・徳川家慶時代の大奥で絶大な権勢を振るった上臈御年寄姉小路唐橋は、経子の伯母である。

経歴

経子は文政9年(1826年)に羽林家橋本実久の娘として誕生(兄は橋本実麗。)。天保10年(1839年)、禁裏後宮に上がり、典侍の位を受ける。時の帝は仁孝天皇であった。

経子は仁孝天皇の寵愛を受け、皇子・胤宮(夭折)、皇女・和宮親子内親王の1男1女をもうける。しかし、和宮が誕生する前に仁孝天皇が崩御。天皇の手がついていた女官は崩御と同時に落飾、という宮中のしきたりによって経子は剃髪し、観行院と号した。これによって後宮を離れた経子は、実家の橋本家の屋敷にて和宮を育てた[1]

嘉永4年7月12日(1851年8月8日)、6歳になった和宮は、異母兄である孝明天皇の勅許により有栖川宮熾仁親王との婚約が成立する。しかし、その2年後の黒船来航によって国論が攘夷と開国に二分するなか、江戸幕府が目論んだ「公武合体政策」の一貫として、和宮と14代将軍・徳川家茂の婚姻政策が持ち上がる。この縁談には観行院はもちろんの事、孝明天皇、熾仁親王、そして和宮本人も大反対であった。しかし、幕府や公武合体派の度重なる要求についに和宮が折れ、熾仁親王との婚約は解消された。

徳川家茂との婚約が調うと、文久元年(1861年)10月20日に江戸に向けて出発した。孝明天皇は和宮に配慮し、江戸城へ生母の観行院、女官の庭田嗣子(仁孝天皇の典侍)を同行させて精神的な不安を軽減させたほか、典薬寮の医師も数人付随させ(うち一人は降嫁後も江戸に常駐)、万が一関東の地で病を得ても都と同じ治療が受けられるようにした。

江戸に向う和宮の未曾有の大行列は中山道を通り江戸城へ向う。文久2年2月11日1862年3月12日)に江戸城大奥に到着した観行院と和宮は14代将軍・家茂の義母・天璋院、家茂の実母・実成院、13代将軍・家定の生母・本寿院と対面する。そこで和宮は「いち早く京風から江戸風の生活に慣れるように」と天璋院、実成院、本寿院らに言われ、御所風の生活を保障すると言われていた和宮と観行院、女官の土御門藤子、庭田嗣子らは動揺する。京で幕府が朝廷に約束したことは、全く大奥に伝達されていなかったのである[2]

観行院らは天璋院の意向を無視し、和宮の御所風の生活を重視して江戸風の生活に慣れようとはしなかった。そのため大奥女中や天璋院とのいざこざも少なくはなかった。京風と江戸風で対立する大奥女中を見かねた御年寄瀧山は観行院ら京都側の女中に「天璋院様の意向は幕府の意向であるため従うように」と京風から江戸風に生活を改めるように指示し[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、天璋院や瀧山が率いる大奥女中との対立が深まった。観行院は和宮以上に大奥での生活で天璋院を中心とする江戸方の女中と対立した[3]。一方で、和宮の生母にして先帝の典侍である観行院は、大奥において上臈上座の位を授けられる。

下向後も異郷の地で和宮をかばい続けた観行院であったが、元治元年(1864年)秋ごろより体調を崩す。江戸に常駐していた典薬寮医師や幕府の奥医師たちが発行した容態書[4]には、「御気血御不順」「御心痛」「御小水不利」「水気」「御手足麻痺」など、脚気と思われる症状が記されている。年末に一旦持ち直すが、年が明けて慶応元年に入ると再び病状が悪化。夏の暑さに体力を奪われて衰弱し、秋も深まった8月14日(旧暦)、江戸城にて死去。享年40。遺体は将軍側室と同様の待遇を受け、増上寺の徳川家墓所に埋葬された。観行院は和宮を育てた功績により、朝廷から従五位の追贈を受けた。

脚注

  1. ^ 『思いの儘の記』(『日本随筆大成』巻七所収 勢多章甫著)によると、皇子皇女が母の実家で養育されたのは初めてのことだったとされる。最も平安時代には母の実家で出産、養育されるのが普通であった。
  2. ^ 参考文献『徳川将軍家の結婚』中央公論社(中公新書)山本博文著 ISBN 4166604805
  3. ^ 例えば、観行院は節句の日にひな壇のない雛飾りを用いた。武家ではひな壇のある雛人形を用いていた。
  4. ^ 国立公文書館蔵・江戸城多聞櫓文書第39482