「宿屋の富」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Mc70334s (会話 | 投稿記録)
新しいページ: ''''宿屋の富(やどやのとみ)'''は古典落語の演目の一つ。もともとは、『高津の富』という上方落語で、[[柳家小...'
 
Mc70334s (会話 | 投稿記録)
87行目: 87行目:


== 富くじ ==
== 富くじ ==
寺社仏閣が修理・改築費用を捻出するため、寺社奉行の許可を得て興行していたのがこの「富くじ」。
<br>単に「富」ともいい、舞台となった『湯島天神』の他にも、「椙森稲荷」・「谷中[[天王寺 (東京都台東区)|天王寺]]」・「[[瀧泉寺|目黒不動]]境内」などで行われていたそうだ


木箱の中央に穴が開いており、そこから錐を突き刺して番号の書かれた札を選び出す事で抽選を行っていた。
<br>妙な小細工を出来ないようにするため、抽選には邪気のない子供を使うことが多かったそうだ。


最高額はあらすじにもあるとおり千両。反対に、最低額は一朱(1/16両)だった。


ちなみに、千両富に当たると世話役に『当たりは千両だが、すぐ受け取ると二割(二百両)差し引かれる<ref>実際は三割程度は引かれ、二月まで待っても、寄付金名目で一割は差し引かれたようだ。</ref>』と説明されることが多い。
舞台となった『湯島天神』の他にも、「[[椙森]]稲荷」・「谷中[[天王寺 (東京都台東区)|天王寺]]」・「[[瀧泉寺|目黒不動]]境内」などで行われていた。

湯島天神、
椙森稲荷、
谷中天王寺、
目黒不動境内
寺社が修理・改築費用を捻出するため興行したのが
江戸時代の富くじで、単に「富」ともいいます。
文政年間(1818~30)の最盛期には
江戸中で毎日どこかで富興行があったといいます


[[天王寺 (東京都台東区)|天王寺]]

千両富はめったになく、五百両富がほとんど
でした。即日受け取ると、実際は二割でなく、
三割程度は引かれ、二月まで待っても、
寄付金名目で一割は差し引かれたようです。





当たりの最低金額は一朱(1/16両)でした。
「突き富」の別名があるのは、木札が入った箱の
中央の穴から錐で突き刺すからで、
ほとんどの場合、邪気のない子供にさせました。

寺社奉行の許可を得て


[[文政]]年間(1818~30)の最盛期には江戸中で毎日どこかで富興行があったとい


== 「富くじ」の出てくる落語 ==
*『[[富久]]』:失業した[[幇間]]が、富くじを買ったことから騒動に巻き込まれる。
*『[[御慶_(落語)|御慶]]』:[[八五郎]]が富くじに当たり、ド派手に年始回りをする。


[[Category:落語の演目|やとやのとみ]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2007年11月21日 (水) 13:01時点における版

宿屋の富(やどやのとみ)古典落語の演目の一つ。もともとは、『高津の富』という上方落語で、3代目柳家小さんが東京に持ち込んだ。そのナンセンスさ故か演者は多く、ざっと挙げるだけでも4代目柳家小さん5代目古今亭志ん生、志ん生の息子である3代目古今亭志ん朝など堂々たる大看板が手がけている。


注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。


あらすじ

神田馬喰町[1]の、とあるはやらない宿屋にやってきた男。

入ってくるなり『家には奉公人が千人』と言ったり『あちこちの大名に五・六百万両ぐらいづつ貸している』と言ったり。『漬物に千両箱を十乗せて沢庵石にしている』と言ったかと思えば、挙句の果てには『泥棒が入ったので「好きなだけやる」と言ったのに、千両箱八十くらいしか持っていかなかった』などと好き放題に吹きまくる。

ここの主人も人のいいもので、男の話をすっかり信用して、

「私どもは宿屋だけではやっていけないので、富の札を売っております。一枚余っているので、どうか買ってくれませんか?」

値は一分で、一番富で千両、二番なら五百両。「千両ぽっち当たっても、邪魔でしょうがない」と言うのを無理に拝み倒し、何とか札を買ってもらう。その上、『万一、当たったら半分もらう』という約束まで取り付けてしまった。

男は一人になると、「なけなしの一分を取られた」とブツブツ。挙句に「のむだけのんで食うだけ食って逃げちゃおう」と開き直る。

翌日、男は散歩に出ると言った宿屋を飛び出した。

やってきたのは湯島天神。たった今、富の抽選が終わったばかりだ。

「俺の札は…【子の千三百六十五番】か。三番富は駄目。二番は《辰の二千三百四十一番》…これも違う。一番は《子の千三百六十五》、少し…ん? 子の、三百六十五番…三百六十五…。アハー! タータッタタッタッタッ!!」

「『立った』? 座ってるじゃないか。

ショックで寒気がした『似非金持ち』。そのまま宿へ帰ると、二階で蒲団かぶってブルブル…。

入れ違えに旅籠の親父がやってきて、

「あのお客様の札は、《子の千三百六十五》、子の、三百六十五番…三百六十五…。アハー! タータッタタッタッタッ!!」

飛ぶように家に帰ると、かみさんの襟首をつかんで「当たった! 当たった! アタッタ!!」
事情を聞いたかみさんも、びっくりして「当たったら貰える…これは…こ…コーッコッコッコッ!」とみたいに騒ぎ出す。

親父、二階へすっとんで行き「当たりました!!」

「五月蝿い奴だなぁ、君は。千両ばかりで騒ぐな。客の座敷に、下駄のままで上がったりして。だから貧乏人は嫌いなんだ。え、宴の支度? 結構です!」

「そんなこと言わずに」

パッと蒲団をめくると、客は草履をはいたままだったりする。

湯島天神の境内

掲載したあらすじは、小さんの型を基盤とした『似非金持ち』のほら話に重点を置いたバージョン。このほかにも、『湯島の境内でのドタバタ』に重点を置き、宿屋を飛び出した男が境内にたどり着く間に以下の件が入るバージョンが存在する。

境内での喧騒

ちょうどその日は富の当日で、境内は大勢の人でごった返していた。

「千両当たったら質屋を始める。自分でやるなら置きに行く手間が省けるから…」

なんて頓珍漢なことをいっている奴がいるかと思うと、「俺には一番は当たらない。その代わり二番が絶対当たる」と怪気炎を上げている奴もいたりする。

「夕べ枕元に神様が立って、『お前に一番と実を当てることが出来ない』と言うんですよ。それを無理やり拝み倒したら、『二番を絶対当てる』と約束してくれたんです」

「へー。で、当てたら如何するの?」

「まず、全部細かにして、紺色の反物で作った、一反(約36cm2)もある特注の財布を作ります」

吉原へ行って馴染みの女郎を口説き落とし、身請けするまでを一人二役の大熱演。

「で、当たらなかったら?」

「うどん食って寝ちゃおうかな…」

大騒ぎをしていると、寺社奉行が出てきていよいよ富の抽選開始。

「一番富は《子の千三百六十五》か。次は…あ、『神様』の人!」

「ハイハイ、私です。私の札は《辰の二千三百四十一番》、最初は《辰》!」

子供のかん高い声で「おん富にばーん、たつのォ…」

「ガハハハハ、これぞ神のお告げ! 次は《二千》!」

二千…」「《三百》!!」「三百…」「《四十》!!」「四十…」

「すごい人だよ、おい…。気合で数を呼び寄せてる…」

「ここですよ、女を身請けするか、うどん食って寝るかの別れ目は。《一番》!!」

しち(七)番…」

「ウーン…」

バタン、キュー! 物凄いことになっている境内に、さっきの『似非金持ち』がやってくる。

富くじ

寺社仏閣が修理・改築費用を捻出するため、寺社奉行の許可を得て興行していたのがこの「富くじ」。
単に「富」ともいい、舞台となった『湯島天神』の他にも、「椙森稲荷」・「谷中天王寺」・「目黒不動境内」などで行われていたそうだ。

木箱の中央に穴が開いており、そこから錐を突き刺して番号の書かれた札を選び出す事で抽選を行っていた。
妙な小細工を出来ないようにするため、抽選には邪気のない子供を使うことが多かったそうだ。

最高額はあらすじにもあるとおり千両。反対に、最低額は一朱(1/16両)だった。

ちなみに、千両富に当たると世話役に『当たりは千両だが、すぐ受け取ると二割(二百両)差し引かれる[2]』と説明されることが多い。

文政年間(1818~30)の最盛期には江戸中で毎日どこかで富興行があったという。

「富くじ」の出てくる落語

  • 富久』:失業した幇間が、富くじを買ったことから騒動に巻き込まれる。
  • 御慶』:八五郎が富くじに当たり、ド派手に年始回りをする。

脚注

  1. ^ 現在の中央区日本橋馬喰町
  2. ^ 実際は三割程度は引かれ、二月まで待っても、寄付金名目で一割は差し引かれたようだ。