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[[821年]]([[弘仁]]12年)に[[空海]]が[[龍泉寺(富田林市)]]に[[参籠]]したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で[[不動明王]]・[[矜羯羅童子]](こんがらどうじ)・[[制多迦童子]](せいたかどうじ)を刻んで[[伽藍]]を造営されたことを起源とする。造営当初は堂塔が整い、今より、約1km離れた獄山(たけやま)の中腹に伽藍・堂塔があった。


[[南北朝時代]]になると[[楠木正成]]が[[獄山]]に[[築城]]し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。[[1360年]]([[正平]]15年)に[[足利義詮]]が獄山・[[金胎寺]](こんたいじ)を攻めの[[兵火]]で焼失した。このときに不動明王・矜羯羅童子・勢多迦童子は[[滝]]の下に移されて焼失を免れた。その後、盲目の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の[[霊験]]を人々に説いて、2[[間]]4面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は[[晴眼]](眼が見えること)になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、[[弘法大師]]の[[化身]]であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。
[[南北朝時代]]になると[[楠木正成]]が[[獄山]]に[[築城]]し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。[[1360年]]([[正平]]15年)に[[足利義詮]]が獄山・[[金胎寺]](こんたいじ)を攻め、そのときの[[兵火]]で焼失した。このときに不動明王・矜羯羅童子・勢多迦童子は[[滝]]の下に移されて焼失を免れた。その後、[[盲目]]の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の[[霊験]]を人々に説いて、2[[間]]4面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は[[晴眼]](眼が見えること)になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、[[弘法大師]]の[[化身]]であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。


[[1462年]]([[寛正]]3年)に[[畠山政長]]と[[畠山義就]]との間で獄山において[[合戦]]があり、そのときの兵火で焼失。[[慶長]]年間(1596年~1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っている。
[[1462年]]([[寛正]]3年)に[[畠山政長]]と[[畠山義就]]との間で獄山において[[合戦]]があり、そのときの兵火で再び焼失。[[慶長]]年間(1596年~1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っている。


== 札所 ==
== 札所 ==

2007年9月19日 (水) 00:18時点における版

瀧谷不動明王寺

初不動大法会でごったがえす境内
(2007年1月28日)

所在地 大阪府富田林市彼方1762
位置 北緯34度28分35.58秒 東経135度35分42.83秒 / 北緯34.4765500度 東経135.5952306度 / 34.4765500; 135.5952306
山号 瀧谷山
宗派 真言宗智山派
本尊 不動明王(重要文化財)
創建年 弘仁12年(821年
開基 空海
正式名 瀧谷山 明王寺
別称 滝谷不動滝谷不動尊
札所等 日本三不動
近畿三十六不動尊霊場32番
文化財 不動明王及び二童子立像(重要文化財)
金剛宝珠鈴(府文化財)
法人番号 6120105004770 ウィキデータを編集
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瀧谷不動明王寺(たきだにふどうみょうおうじ)は大阪府富田林市にある真言宗智山派の仏教寺院で、日本三不動のひとつ。山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺。

一般的に山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動滝谷不動尊と言う。また、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。毎月28日の縁日には不動尊周辺の道路歩行者天国になる。

歴史

821年弘仁12年)に空海龍泉寺(富田林市)参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)を刻んで伽藍を造営されたことを起源とする。造営当初は堂塔が整い、今より、約1km離れた獄山(たけやま)の中腹に伽藍・堂塔があった。

南北朝時代になると楠木正成獄山築城し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。1360年正平15年)に足利義詮が獄山・金胎寺(こんたいじ)を攻め、そのときの兵火で焼失した。このときに不動明王・矜羯羅童子・勢多迦童子はの下に移されて焼失を免れた。その後、盲目の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の霊験を人々に説いて、24面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は晴眼(眼が見えること)になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、弘法大師化身であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。

1462年寛正3年)に畠山政長畠山義就との間で獄山において合戦があり、そのときの兵火で再び焼失。慶長年間(1596年~1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っている。

札所

近畿三十六不動尊霊場第32番霊場

文化財

重要文化財
  • 木造不動明王二童子像

年間行事

  • 1月:修正会、 初不動大法会
  • 2月:節分会厄除け祈願大祭
  • 3月:釈尊降誕会花まつり
  • 5月:柴灯大護摩供春季大祭
  • 7月:観世音夏祭り
  • 8月:盂蘭盆施餓鬼会、 地蔵盆
  • 9月:秋季大祭
  • 12月:納め不動

所在地

〒584-0058 大阪府富田林市彼方1762

交通アクセス

公共交通
(縁日には近鉄長野線 富田林駅から金剛バス富田林循環線「滝谷不動前行き」が運行される)
(縁日には車両通行止めとなる)
(こちら側に駐車場、富田林駅方面へのバス停がある)

外部リンク

瀧谷不動明王寺

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