「橋北中学校水難事件」の版間の差分

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'''橋北中学校水難事故'''は、[[1955年]](昭和30年)[[7月28日]]に[[三重県]][[津市]]の[[市立橋北中学校]]の女生徒36人が、水泳訓練中に溺死した[[水難事故]]。
'''橋北中学校水難事故'''は、[[1955年]](昭和30年)[[7月28日]]に[[三重県]][[津市]]の[[市立橋北中学校]]の女生徒36人が、水泳訓練中に溺死した[[水難事故]]。
当時の新聞(朝日、毎日)の見出しには、「津水死事件」「集団水死事件」「津の女生徒水難事件」「津の中学生水難事件」、週刊誌では「津海岸集団水死」(週刊朝日)、ネット上では「津海岸水難」(毎日フォトバンク)「三重県津市の橋北中学校の生徒の水難事件」(衆議院会議録情報 第022回国会 法務委員会 第44号)といった名称が見られる。
当時の新聞(朝日、毎日)の見出しには、「津水死事件」「集団水死事件」「津の女生徒水難事件」「津の中学生水難事件」、週刊誌では「津海岸集団水死」(週刊朝日)、また「津海岸女生徒水難事故」(判例時報、446)、ネット上では「津海岸水難」(毎日フォトバンク)「三重県津市の橋北中学校の生徒の水難事件」(衆議院会議録情報 第022回国会 法務委員会 第44号)といった名称が見られる。
==背景 ==
==背景 ==
当時の津市内の[[中学校]]にはプールが無く、[[中学生]]は夏期の体育授業の一環として[[海水浴]]を行っていた。
当時の津市内の[[中学校]]にはプールが無く、[[中学生]]は夏期の体育授業の一環として[[海水浴]]を行っていた。

2007年6月30日 (土) 07:14時点における版

橋北中学校水難事故は、1955年(昭和30年)7月28日三重県津市市立橋北中学校の女生徒36人が、水泳訓練中に溺死した水難事故。 当時の新聞(朝日、毎日)の見出しには、「津水死事件」「集団水死事件」「津の女生徒水難事件」「津の中学生水難事件」、週刊誌では「津海岸集団水死」(週刊朝日)、また「津海岸女生徒水難事故」(判例時報、446)、ネット上では「津海岸水難」(毎日フォトバンク)「三重県津市の橋北中学校の生徒の水難事件」(衆議院会議録情報 第022回国会 法務委員会 第44号)といった名称が見られる。

背景

当時の津市内の中学校にはプールが無く、中学生は夏期の体育授業の一環として海水浴を行っていた。

あらすじ

(以下の内容については伝聞であるため、明確な事実としては水難事故が実際に起こったということのみである)

1955年(昭和30年)7月28日、暑い日差しの中、引率の教師に連れられた中学の女子生徒たちはいつものように準備体操を終え、海に入った。引率の教師はしばらく自由時間とし、タイマーを手に一瞬生徒達から目を離した。教師が再び海に目を向けた時、水面には一人の生徒しか浮かんでおらず、残りの生徒は全て水の下に沈んでしまっていた。36名の女子生徒は次々と遺体となって打ち上げられたという。

ただ一人生き残った生徒が「防空頭巾を被った女の子が隣を泳いでいて、いきなり脚を引っ張られて海に引きずり込まれそうになった」と証言したため、今でも生徒の間で怪談のネタとしても使われる。折しも津市は太平洋戦争中の7月末に大空襲を受け、市街が甚大な被害を受けて焼け出された人々は海岸に集まってしまい、そこへ焼夷弾が命中したため波打ち際は焼死体で埋まっていたとされており(戦時中であり、明確な出典は今後も無いであろう。伝承のみの記述である)、そのことを知った人々が話に尾ひれをつける結果となった。

顛末

(1955年)昭和30年8月は6個の台風が日本を襲っており、台風の接近に伴う土用波が急激に海面の温度を低下させ、脚がつった結果の事故であるとされている。「海に引きずり込まれそうになった」のも、突然脚がつったためにパニックになったためと思われる。一説には、離岸流が発生したということも考えられているそうである。

この事故以降、県内の中学校にプールの設置が急がれることになったとされている。 また三重県津市では海水浴場として阿漕浦御殿場などがあり、潮干狩りやマリンスポーツ、海水浴などたくさん人が訪れるが、この事故の起きた周辺の海岸で遊泳することはまずない。現在も遊泳禁止となっている。

外部リンク

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