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しかし[[1980年]][[5月24日]]、[[1979年]]12月に発生した[[ソ連]]の[[アフガニスタン]]侵攻にかかる問題で、[[アメリカ合衆国]]がモスクワオリンピックへのボイコットを西側諸国を中心に呼びかけたことに対し、[[日本政府]]が同調する動きになったことを受け、[[JOC]]総会の投票で日本の同大会ボイコットが決まり、翌月、不参加が承認された。 |
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モスクワ大会の日本勢のメダル候補といえば、柔道の[[山下泰裕]]やマラソンの[[瀬古利彦]]、さらに女子[[バレーボール]]チームや、ボイコット決定の瞬間、号泣に暮れたことで有名となったレスリングの[[高田裕司 (レスリング選手)|高田裕司]](その後、一時引退)などが挙げられるが、これらの選手及びチームは、次の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]には出場することができた。しかし、もはや競輪選手への道すらない長はこのボイコットをもって現役 |
モスクワ大会の日本勢のメダル候補といえば、柔道の[[山下泰裕]]やマラソンの[[瀬古利彦]]、さらに女子[[バレーボール]]チームや、ボイコット決定の瞬間、号泣に暮れたことで有名となったレスリングの[[高田裕司 (レスリング選手)|高田裕司]](その後、一時引退)などが挙げられるが、これらの選手及びチームは、次の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]には出場することができた。しかし、もはや競輪選手への道すらない長はこのボイコットをもって現役から退かざるを得なくなった(ちなみに4年後のロサンゼルスオリンピックでは[[坂本勉]]がスプリントで銅メダルを獲得。日本自転車競技史上初のオリンピックにおけるメダル獲得となった)。 |
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ちなみにボイコットの知らせを聞いた長は、'''「全身から血が引いてゆくようです。」'''という言葉を残している。 |
ちなみにボイコットの知らせを聞いた長は、'''「全身から血が引いてゆくようです。」'''という言葉を残している。 |
2007年6月24日 (日) 02:45時点における版
長義和(ちょう よしかず。1955年- )は元自転車競技選手。大阪府出身。法政大学卒業後、島野工業(現シマノ)に入社。
経歴
1972年、ミュンヘンオリンピックに出場。
1976年のモントリオールオリンピック・スクラッチ(現スプリント)種目において、オリンピック大会史上、自転車競技で日本人選手として初めて6位入賞を果たす。
1977年、日本競輪学校第41期に合格するも、3年後に開催されるモスクワオリンピックへの夢が断ち切れず、競輪学校入学を辞退。このことは、当時競輪学校の受験資格年齢条件が24歳未満であったことから、モスクワオリンピック後における競輪選手への道は閉ざされたことを意味した。
1979年、長はプレオリンピック大会のスクラッチで3位に入り、俄然、翌年に開催されるモスクワオリンピックのメダル候補に上がる。
しかし1980年5月24日、1979年12月に発生したソ連のアフガニスタン侵攻にかかる問題で、アメリカ合衆国がモスクワオリンピックへのボイコットを西側諸国を中心に呼びかけたことに対し、日本政府が同調する動きになったことを受け、JOC総会の投票で日本の同大会ボイコットが決まり、翌月、不参加が承認された。
モスクワ大会の日本勢のメダル候補といえば、柔道の山下泰裕やマラソンの瀬古利彦、さらに女子バレーボールチームや、ボイコット決定の瞬間、号泣に暮れたことで有名となったレスリングの高田裕司(その後、一時引退)などが挙げられるが、これらの選手及びチームは、次のロサンゼルスオリンピックには出場することができた。しかし、もはや競輪選手への道すらない長はこのボイコットをもって現役から退かざるを得なくなった(ちなみに4年後のロサンゼルスオリンピックでは坂本勉がスプリントで銅メダルを獲得。日本自転車競技史上初のオリンピックにおけるメダル獲得となった)。
ちなみにボイコットの知らせを聞いた長は、「全身から血が引いてゆくようです。」という言葉を残している。
エピソード
モスクワオリンピック開催直前当時、プロのスプリントの王者は中野浩一で、くしくも長と同じく1955年生まれ。
中野の世界自転車選手権10連覇はステートアマチュアと言われた東欧勢が参加できないことによるところが大きいといわれているが、当時の自転車関係者の間では、中野の敵はもっと身近なところにいると言われたのが長であり、仮に長がモントリオールオリンピック後に競輪界入りしていたならば、中野の連覇記録は10も行っていないだろうという声が一部にある。
長は中野と同じく、「ナガサワ」のフレームを使用していた。
長が辞退した競輪学校第41期には、後に中野、滝澤正光と並び競輪界の三強を形成することになる井上茂徳がいた。
年齢制限にひっかかるからといって、日本アマチュア界の第一人者をどうして競輪界は受け入れてやらないのかという声も一部にはあったが、当時の競輪界は半ば聞く耳を持たずの状態で、長の一件があった以降も競輪学校の受験資格条件は変えられることがなかった。ところが、清水宏保が後に長野オリンピック後に競輪界入りを希望しながらも受験さえできなかったことが分かって漸く競輪界は受験資格の一部変更に踏み切り、また93期以降より、競輪学校の受験資格に年齢の上限制限はなくなった。
長は現役引退後、島野工業の一社員として当時の社長であった島野尚三の命を受け、ブレーキ部分にシフトレバーを組み込む(デュアルコントロールレバー)開発に携わるなどして、「世界のシマノ」ブランドの形成の一翼を担った。
長を紹介した書物など
長を紹介した書物。
上記2つはモスクワ五輪にかかる話。
こちらは、シマノの技術力の高さを紹介した内容。
- 山口和幸:「シマノ 世界を制した自転車パーツ(光支社刊)」