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'''府兵制'''(ふへいせい)は、もともとは軍府に属する兵という意味で、[[日本史]]で言えば[[衛士]]や[[防人]]の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという[[兵農一致]]の制度で、[[西魏]]の[[宇文泰]]が534年の[[東魏]]との戦いに敗戦した後、兵力の不足を補うため、各地の名望ある豪族を「郷帥」に任じて、それぞれの地方において「[[郷兵]]」を結集したのが起源である。
'''府兵制'''('''ふへいせい''')は、もともとは軍府に属する兵という意味で、[[日本史]]で言えば[[衛士]]や[[防人]]の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという[[兵農一致]]の制度で、[[西魏]]の[[宇文泰]]が534年の[[東魏]]との戦いに敗戦した後、兵力の不足を補うため、各地の名望ある豪族を「郷帥」に任じて、それぞれの地方において「[[郷兵]]」を結集したのが起源である。


「郷兵」は、漢人農民が多かったが[[五胡十六国時代]]以来、関中に移り住んだ胡族もかなり含まれていた。
「郷兵」は、漢人農民が多かったが[[五胡十六国時代]]以来、関中に移り住んだ胡族もかなり含まれていた。

2004年11月10日 (水) 10:41時点における版

府兵制ふへいせい)は、もともとは軍府に属する兵という意味で、日本史で言えば衛士防人の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという兵農一致の制度で、西魏宇文泰が534年の東魏との戦いに敗戦した後、兵力の不足を補うため、各地の名望ある豪族を「郷帥」に任じて、それぞれの地方において「郷兵」を結集したのが起源である。

「郷兵」は、漢人農民が多かったが五胡十六国時代以来、関中に移り住んだ胡族もかなり含まれていた。 こうした郷兵部隊が、550年頃までに「二十四軍」に編成され、「開府」と呼ばれる司令官がそれぞれ一軍を統率する形に組織された。二人の「開府」は一人の「大将軍」に率いられ、二人の「大将軍」は、一人の「柱国」によって率いられた。「柱国」は西魏の6人の有力者であった。この府兵軍団を率いるのが全体の統括者で丞相(大冢宰)でもある宇文泰であった。軍はいくつかの「団」によって構成され、儀同将軍、大都督、帥都督、都督といった指揮官が置かれた。郷兵部隊は、このような軍団組織に組み込まれ「府兵」と呼ばれた。「府兵」は、調と労役を免除され、戦士として必要な馬や食糧は六軒の家が共同で負担した。胡族の人々にとってはかっての誇りをとりもどす方向になり、漢人の郷兵にとっても貴族制下の身分格差からの解放の意味があった。このように、栄誉ある自弁の戦士として自発的に軍に参加するという民衆の意識に支えられて「府兵制」は成立した。また、このことによって軍隊を抱えることによる国家財政の負担も軽減された。

西魏北周での兵籍は、の時代に兵民籍の区別を廃止して一般民戸とし、がそれを受け継いだ。この時期、成人男子を対象に3人に1人の割合で徴兵し、1年に1~2回、1ヶ月間国都の衛士の勤務 、3年間、防人として辺境の防衛にあたらせた。

府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはけっこうきついものであった。均田農民が納税できなくなってきたこと、唐の領土が、あまりにも大きくなってしまって、中国人の感覚からいうと、とんでもなく遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたこと、そのため、逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなり、府兵制は崩壊した。そのため、唐の玄宗の時代に募兵制へ移行した。