「ココ・シャネル」の版間の差分

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{{翻訳直後|1=[https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Coco_Chanel&oldid=933011959 13:42, 29 December 2019‎]|date=2020年1月}}
{{出典の明記|date=2010年9月}}
{{Infobox 芸術家
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<!--[[File:Chanel logo-no words.svg|thumb|150px|「C」2文字を組み合わせたロゴ(CC logo)]]-->
'''ココ・シャネル'''({{lang-fr|Coco Chanel}}、[[1883年]][[8月19日]] - [[1971年]][[1月10日]]<ref>『[http://www.fashion-headline.com/article/2013/08/19/2964.html 8月19日はココ・シャネルの誕生日です]』 2013年8月19日 [[FASHION HEADLINE]]</ref>)は、[[20世紀]]に活動した[[フランス]]の[[ファッションデザイナー]]。本名はガブリエル・シャネル(Gabrielle Cha'''s'''nel <ref name="AD49" />)。20世紀を代表するファッションデザイナーのひとりで、ファッションブランド「[[シャネル]]」の創業者<ref>『[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%82%B3+%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB-1623496 ココ シャネルとは]』 1995年 [[日外アソシエーツ]]『20世紀西洋人名事典』 [[コトバンク]]</ref>。[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]期間中、ドイツ軍に協力する[[スパイ]]行為をしていたことで糾弾されもした。
'''ガブリエル・ボヌール・「ココ」・シャネル'''(''Gabrielle Bonheur "Coco" Chanel''、[[1883年]][[8月19日]]<ref>{{cite web |title=1883 Birth of Gabrielle Chanel |url=http://inside.chanel.com/en/timeline/1883_birth-of-gabrielle-chanel |website=Chanel |accessdate=8 November 2018}}</ref> - [[1971年]][[1月10日]])は[[フランスのファッション|フランスのファッション・デザイナー]]、企業家であり、[[シャネル]]ブランドの創設者。[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]の戦間期における彼女のデザインを通じて、「[[コルセット]]・シルエット(corseted silhouette)」の束縛から女性が解放され、スポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされている。多作なファッション・クリエイターであり、[[オートクチュール|高級婦人服]]の枠組みを超えて影響力を広げ、ジュエリー、ハンドバッグ、そして香水において独自の美学を完成させた。代表的な香水、[[シャネルNo.5]]は彼女を象徴する製品となった。シャネルは『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌の{{仮リンク|20世紀の最も重要な100人|en|Time 100: The Most Important People of the Century}}にファッション・デザイナーとして唯一リストされている<ref name=Horton-2007>{{cite book|first=Ros|last=Horton|first2= Sally|last2=Simmons|title=Women Who Changed the World| page=103|year=2007|isbn=978-1847240262|publisher=Quercus|accessdate=8 March 2011 | url= https://books.google.com/?id=7LYLOj2APSsC&pg=PA103&dq=Coco+Chanel+only+couturier+Time+100+influential}}</ref>。また、彼女自身がデザインした有名な「C」を2文字組み合わせたモノグラムは1920年代から使用されている<ref name="Chaney-P-2011"/>{{RP|211}}。


シャネルは政治的には保守的な信条を持ち、[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]の最中にはドイツに協力的な行動を取っていたことでも知られている。ドイツ当局との密接な関係、そしてドイツの外交官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage){{仮リンク|フライヘア|label=男爵|en|Freiherr}}(Freiherr)との緊密な関係を通じて、有利な立ち位置を維持した<ref name=Kloth-2008>{{Cite news|title= Modelegende Chanel: Wie Coco fast den Krieg beendet hätte|trans-title=Fashion legend Chanel: How Coco almost ended the war|url=http://www.spiegel.de/einestages/modelegende-chanel-a-947864.html|first=Hans Michael|last=Kloth|first2=Corina|last2=Kolbe |work=Spiegel Online|location=Hamburg|date=2008-08-26 |language=German}}</ref><ref name=Doerries-2009>{{Cite book|title=Hitler's Intelligence Chief: Walter Schellenberg|url=https://books.google.co.uk/books?id=n58KBgb8mz4C| first=Reinhard|last=Doerries| publisher=Enigma Books|location=New York|year=2009|pages=165–66|isbn=978-1936274130}}</ref> 。戦後、シャネルはフォン・ディンクラーゲとの関係を尋問されたが、[[イギリス]]首相[[ウィンストン・チャーチル]]の仲介によって{{仮リンク|枢軸国に対する協力者|en|Collaboration with the Axis Powers}}として訴追されることを免れた。そして、戦後数年間をスイスで過ごした後、パリに戻り自分の店を再開した。戦後もファッション・デザイナーとして第一線で活動したが、1971年1月に死去した。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
フランス西部<!--[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ]]地方-->[[ソミュール]]の救済病院で生まれる。シャネルが12歳の誕生日を迎える前に母のジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、[[孤児院]]や[[修道院]]で育った。田舎町[[ムーラン]]でお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる。


== 幼少期 ==
「'''ココ'''」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志して[[キャバレー]]で歌っていた「{{lang|fr|Ko Ko Ri Ko}}(コケコッコウ)」と、「{{lang|fr|Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero}}([[トロカデロ]]でココを見たのはだれ)」という歌の題名にちなんでつけられたもの。
ガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年、[[洗濯|洗濯婦]]ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル(Eugénie Jeanne Devolle、以下、ジャンヌ)の子として、[[フランス]]の[[メーヌ=エ=ロワール県]][[ソーミュール]]の、修道女会([[:fr:Sœurs de la Providence|Sœurs de la Providence]])が運営する慈善病院([[救貧院]])で生まれた<ref name="Chaney-FT-2011">{{cite book|last=Chaney|first=Lisa|title=Chanel: An Intimate Life|year=2011|publisher=Fig Tree|location=London|isbn=978-1905490363}}</ref>{{RP|14}}<ref name="Picardie-20100905">{{cite news|last1=Picardie|first1=Justine|title=The Secret Life of Coco Chanel|url=http://fashion.telegraph.co.uk/news-features/TMG7975778/The-secret-life-of-Coco-Chanel.html|accessdate=29 July 2014|work=The Telegraph|date=5 September 2010}}</ref>。ガブリエルはジャンヌとアルベール・シャネル(Albert Chanel)の第二子であり、姉のジュリアが1年ほど前に生まれている<ref name="Picardie-20100905"/>。アルベール・シャネルは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で<ref name=EC-R-1981>{{cite book|last=Charles-Roux|first=Edmonde |title=Chanel and Her World |publisher=Weidenfeld and Nicolson|location=London|year=1981|isbn=978-0-297-78024-3}}</ref>{{RP|27}}、定住所を持たず市場のある町から町へ移動する生活を送っていた。一家は荒れ果てた宿泊施設で暮らしていた。アルベールがジャンヌ・ドゥヴォルと結婚したのは1884年のことである<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|16}}。これはジャンヌの家族に説得されてのことであった。一家は「協力して、事実上」、すでにアルベールに結婚のための「費用を支払っていた」のである<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|16}}。


ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|16}}<ref name="Charles-Roux-2009_和訳上">{{Cite book |和書 |author={{仮リンク|エドモンド・シャルル=ルー|en|Edmonde Charles-Roux}} |translator=[[加藤かおり]] |translator2=[[山田美明]] |title=ココ・アヴァン・シャネル 上 |publisher=[[早川書房]] |date=2009-9 |isbn=978-4-15-050350-5 |ref=シャルル=ルー 2009}}</ref>{{RP|41}}。両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家は[[ブリーヴ=ラ=ガイヤルド]]の一部屋だけの住居にすし詰めで暮らしていた<ref name="Picardie-20100905"/>。
=== シャネル起業 ===
[[ファイル:Chanel hat from Les Modes 1912.jpg|thumb|right|200px|「シャネル・モード」の帽子(1912年5月)。モデルは仏[[舞台女優]]のガブリエル・ドルジア ([[:fr:Gabrielle Dorziat|fr]])]]
[[ファイル:CHANEL No5 parfum.jpg|thumb|right|200px|「No.5」]]
その後、歌手を目指し[[ヴィシー]]でオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサン([[:en:Étienne Balsan|en]])に伴われて[[パリ]]郊外へ移り、友人達の社交場となったバルサンの牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた[[帽子]]のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、[[1909年]]、[[17区 (パリ)|パリ17区]]マルゼルブ大通り([[:fr:Boulevard Malesherbes|fr]])160番地で、帽子のアトリエを開業する。


ガブリエルが12歳の時<ref name="Chaney-P-2011">{{cite book |last=Chaney |first=Lisa |date=2011-10-6 |title=Chanel: An Intimate Life |url=https://books.google.com/?id=oG280bBfpNYC&pg=PT30&lpg=PT30&dq=%22jeanne+chanel%22+died+1895#v=onepage&q=February%201895&f=false |publisher=Penguin|location=London |isbn= 978-0141972992 |accessdate=2015-5}}</ref><ref>{{cite news|url= https://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8034462/Coco-Chanel-The-Legend-and-the-Life-by-Justine-Picardie-review.html |title=Coco Chanel: The Legend and the Life by Justine Picardie: review|last1=Wilson |first1=Frances|date=2010-10-1 |work= The Telegraph|accessdate=2015-5}}</ref> 、母ジャンヌが死去した。ガブリエルことココ・シャネルは母が32歳で[[結核]]により死亡したと後に主張しているが<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|18}}、これは必ずしも死因の正確な診断とは言えず、むしろ貧困、妊娠、そして肺炎が原因であった可能性が高い<ref>http://fashion.telegraph.co.uk/news-features/TMG7975778/The-secret-life-of-Coco-Chanel.html</ref>。父アルベールは息子2人を農場労働者として送り出し、娘3人は{{仮リンク|オーバジーヌ|en|Aubazine}}の聖母マリア聖心会([[:fr:Filles du Saint-Cœur de Marie (La Flèche)|religieuses du Saint Cœur de Marie]])が運営する孤児院に預けた。聖母マリア聖心会は「捨てられて孤児になった少女たちのために家庭を与えるなど、貧しく排除された人々を保護するために設立された」修道会であった<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|27}}。孤児院での生活は、厳格な規律が課せられる厳しく質素なものであったが、ここで裁縫を学んだことは、彼女の後の仕事につながる経験であった可能性がある。しかし、シャネルは孤児院送りとなった時の惨めな気持ちを後年「何もかも奪われてしまった。自分は死んでしまったんだ」と回顧している<ref name="Vaughan-2012_和訳">{{Cite book |和書 |author={{仮リンク|ハル・ヴォーン|en|Hal Vaughan}} |translator=[[赤根洋子]] |title=誰も知らなかったココ・シャネル |publisher=[[文藝春秋]] |date=2012-8 |isbn=978-4-16-375510-6 |ref=ヴォーン 2012}}</ref>{{RP|21}}。そしてここでの暮らしについて決して語ることがなかった<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|21}}<ref name="Charles-Roux-2009_和訳上"/>{{RP|59}}。18歳になるとオーバジーヌの孤児院を出なければならなかったため、彼女は次に[[ムーラン (アリエ県)|ムーラン]]の町のカトリック女子寄宿舎に預けられた<ref name="Vaughan-2011">{{cite book |title=Sleeping with the Enemy: Coco Chanel's Secret War|last=Vaughan |first=Hal|year=2011|publisher=Knopf|location=New York|isbn=978-0307592637}}</ref>{{RP|5}}。
[[1910年]]に、[[1区 (パリ)|パリ1区]]カンボン通り([[:fr:Rue Cambon|fr]])21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家[[アーサー・カペル]]との交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。


シャネルが晩年に語った子ども時代の話には多少矛盾があり、しばしば魅力的な話を付け加えているが、このような話は概ね事実ではない<ref name="Picardie-20100905"/>。たとえば、彼女は母親が死去した時、父が運命を切り開くべくアメリカに向かい、自分は二人のおばに預けられたと語っているし、実際の生年より10年も後に生まれたとか、母親が亡くなったのは彼女が12歳のときではなく、これよりずっと幼かったなどの主張をしている<ref name="LTV biog">{{cite web|last1=Biog|title=Coco Chanel|url=http://www.lifetimetv.co.uk/biography/biography-coco-chanel|website=lifetimetv.co.uk|publisher=Lifetime TV|accessdate=29 July 2014}}</ref>{{信頼性要検証|date=2020-01}}。また、ミドルネームであるボヌール(「幸福」の意)は洗礼式の際に彼女を洗礼盤の上に運んだ修道女が将来の幸福を祈って名付けたものだとも語っているが、洗礼証書にはガブリエルの名前しかなく、これも創作であると見られる<ref name="Charles-Roux-2009_和訳上"/>{{RP|43}}。
[[1913年]]に、[[ドーヴィル]]に二号店を開店。翌年に[[第一次世界大戦]]が開戦。[[1915年]]、[[ビアリッツ]]に「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年[[ファッションショー|コレクション]]を発表し大成功を収める。[[ジャージー (衣類)|ジャージー]]素材を取り入れたドレスが話題となった。[[1918年]]に、第一次世界大戦が終戦。


=== シャネル興隆 ===
== 初期経歴 ==
=== 舞台を目指して ===
[[ファイル:Gabrielle Chanel en marinière.jpg|thumb|right|200px|ボーダーシャツ(船乗りあるいは船員シャツ)を着たガブリエル・シャネル。[[戦間期]]の1928年 (Gabrielle Chanel dans l'entre deux guerres pose en marinière. Date1928)]]
{{仮リンク|オーバジーヌ|en|Aubazine}}で6年間裁縫を学んだ後、シャネルはある[[仕立て屋]]で職を見つけた<ref>{{Cite web|url=https://www.magzter.com/articles/10125/145283/582d6d2be20e7|title='A Girl Should Be Two Things: Classy And Fabulous': Coco Chanel|website=www.magzter.com|access-date=2019-01-03}}</ref>。そして副業として騎兵将校の溜まり場となっていた[[キャバレー]]で歌を歌ってもいた。シャネルはムーランのパビリオンの[[カフェ・コンセール]](当時人気の娯楽の場)「ラ・ロトンド(La Rotonde)」で舞台デビューとなる歌を歌った。彼女の仕事は''poseuse''(スターたちが舞台で入れ替わる幕間に観客を楽しませて場を繋ぐパフォーマー)であり、その収入源はプレートを渡された時のチップを貯めることであった。彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃である。彼女は夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(''Qui qu'a vu Coco ?'')」であった。彼女はココというニックネームを父親から与えられたものだと言うのを好んだが<ref>{{Citation|publisher=Bloomsbury Education|isbn=978-1350051201|doi=10.5040/9781350051201.ch-004|title = Fashion Media|year = 2013|chapter = Coco Chanel and Socialist Fashion Magazines}}</ref>、「ココ(Coco)」は彼女のレパートリーの曲「ココリコ(''Ko Ko Ri Ko'')」及び「''Qui qu'a vu Coco ?''」、または[[愛人|囲い者]]を暗喩するフランス語の単語「''cocotte''」から来ていると考えられている<ref>{{cite book |last1=Charles-Roux |first1=Edmonde |title=Chanel and Her World |date=1981 |publisher=Hachette-Vendome |pages=37–38}}</ref>。エンターテイナーとしてのシャネルはキャバレー通いの若い軍人たちを魅了し誘惑した<ref name="Vaughan-2011" />。
[[1921年]]、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師[[エルネスト・ボー]]によって生み出された、シャネル初の香水'''「[[シャネルNo.5|No.5]]」'''、'''「[[シャネルNo.22|No.22]]」<ref> Burr, Chandler. “For old-line Chanel, audacious new edge - A 10-fragrance set rocks the boat of the upscale perfumer's exclusive tradition,” The Orlando Sentinel, March 23, 2007 [http://www.colognehq.com/ Clara D. Lepore] </ref>'''を発表した。


1906年、シャネルは温泉リゾート地[[ヴィシー]]で働くようになった。ヴィシーは林立するコンサートホール、劇場、カフェを誇っており、彼女はそこで芸能人として成功することを夢見た。シャネルは若さと肉体的な魅力によってオーディションの審査員たちに強い印象を与えたものの、その歌声に対する評価は低く、舞台の仕事を得ることはできなかった<ref name="EC-R-1981" />{{RP|49}}。何としても職を見つけなければならなかったシャネルはグランド・グリーユ(''Grande Grille'')で''donneuse d'eau''として勤務した。この仕事は、治癒効能があるとして有名なヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分けるというものであった<ref name="EC-R-1981" />{{RP|45}}。ヴィシーの公楽シーズンが終わると、シャネルはムーランに帰り古巣の「ラ・ロトンド」に戻った。この時には彼女は自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識していた<ref name="EC-R-1981" />{{RP|52}}。
このころ劇作家の[[ジャン・コクトー]]、画家の[[パブロ・ピカソ]]、作曲家の[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]などが集うサロンを主催する[[ミシア・セール]]と出会い、ストラヴィンスキーやジャン・コクトー、ロシアの[[ドミトリー・パヴロヴィチ]]大公などサロンの様々な人物と交際する。この頃、同い年である画家・[[マリー・ローランサン]]に肖像画を描いてもらったが、シャネルはそれを気に入らなかったためにローランサンに返した。この肖像画は現在、パリの[[オランジュリー美術館]]に展示されている。


==== バルサンとカペル ====
[[1924年]]に、シャネルはピエールとポールの[[ヴェルテメール兄弟]]と契約を結び、[[社団法人]] 「パルファム・シャネル」を設立した。ヴェルテメール兄弟は、1917年より[[ブルジョワ パリ|ブルジョワ社]]取締役を務めていた。ヴェルテメール兄弟は、シャネルN°5<ref> Floral-aldehydic feminine fine fragrance [https://cologneformenhq.wordpress.com/ Phuong Nguyen] </ref>の生産、マーケティング、流通の資金調達をすべて引き受けることに同意した。彼らは会社の株の70パーセントを保持し、パリの[[百貨店]][[ギャラリー・ラファイエット]]の創始者[[テオフィル・バデ]]([[:fr:Théophile Bader|fr]])が20パーセントを獲得した。シャネルは自分の名の使用を 「パルファム・シャネル」に許可し、株の10パーセントを手元に残した上で、彼女自身はすべての経営から手を引くことになった<ref>Mazzeo, Tilar J., "The Secret of Chanel No. 5," HarperCollins, 2010, p. 95</ref>が、これにより後の一時引退時にも生活に苦労しないだけの収入を保証された。
[[File:Sem Chanel Capel.jpg|thumb|upright|[[ジョルジュ・グルサ|セム]]が描いた、シャネルとアーサー・カペル「ボーイ」を描いた風刺画。(1913年)]]


ムーランで、シャネルは若きフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子である{{仮リンク|エティエンヌ・バルサン|en|Étienne Balsan}}と出会った。23歳の時、シャネルは[[娼婦]][[エミリエンヌ・ダランソン]]に取って代わる形でバルサンの新しいお気に入りの愛人となった<ref name="EC-R-1981" />{{RP|10}}。その後3年間、バルサンと共にコンピエーニュ近郊ロワイヤリュー(Royallieu)の彼のシャトーで暮らした。この地域は樹木が並ぶ乗馬道と狩猟場で知られていた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|5–6}}。そこでの生活は自堕落なものであった。バルサンの富によってシャネルは言外にあらゆる退廃を伴うパーティーでの歓楽、美食に溺れることが可能となった。バルサンはシャネルに卑小な「豊かな生活」―ダイヤモンド、ドレス、そして真珠―を浴びせかけた。伝記作家{{仮リンク|ジャスティン・ピカルディ|en|Justine Picardie}}は2010年の彼女の著作『ココ・シャネル その伝説と人生(''Coco Chanel: The Legend and the Life'')』において、シャネルの自殺した姉ジュリア・ベルテのただ1人の子供でファッションデザイナーの甥、アンドレ・パラス(André Palasse)は、恐らく実際にはシャネルとバルサンの間の子供だったと主張している<ref name=Picardie-2010>{{cite book |last=Picardie |first=Justine |title=Coco Chanel: The Legend and the Life | publisher=HarperCollins | year=2010 | isbn=978-0061963858}}</ref>。
また同年に、[[イギリス]]一の大富豪、第2代[[ウェストミンスター公爵]]ヒュー・グローヴナーと出会い、以降6年間に及び交際する。この間にグローヴナーから多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられた。


1908年、シャネルはバルサンの友人の一人、[[アーサー・カペル|ボーイ・カペル]]と関係を持ち始めた<ref name=Hirst/>。シャネルは晩年に当時を「二人の紳士が私の熱く小さな体を巡って競り合っていた」と回想している<ref name="Wallach-1998">{{cite book |last1=Wallach|first1=Janet|title=Chanel: Her Style and Her Life |date=1998|publisher=N. Talese|isbn=978-0385488723|url=https://books.google.com/?id=F54sAAAAYAAJ&q=Courtesy+Special+Collections |accessdate=6 November 2018}}</ref>{{RP|19}}。カペルは富裕なイギリスの上流階級で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|7}}。また、彼女の最初の店舗の出店費用も提供した。カペルの服装のスタイルがシャネルのデザインセンスに影響を与えたと言われている。[[シャネルNo.5]]の容器デザインの原型となったデザインには2つの説があるが、その両方がシャネルとカペルの関係に関わるものである。一つはシャネルはカペルが革製の旅行鞄に忍ばせていた{{仮リンク|シャルベ・プレイス・ヴァンドーム|label=シャルベ|en|Charvet Place Vendôme}}のトイレタリー・ボトルの斜めの線を長方形に入れたものを採用したというものであり<ref>{{cite book |last1=Bollon |first1=Patrice |title=Esprit d'époque: essai sur l'âme contemporaine et le conformisme naturel de nos sociétés |date=2002 |publisher=Le Seuil |isbn=978-2020133678 |page=57 |language=French |quote=L'adaptation d'un flacon d'eau de toilette pour hommes datant de l'avant-guerre du chemisier Charvet}}</ref>、もう一つはカペルが使用していたウイスキー・デカンタのデザインを採用したというものである。彼女はこのデカンタのデザインをひどく気に入ったので、「雅やかで、高価で、繊細なガラス」でこれを再現しようと考えた<ref name=Mazzeo-2010>{{cite book|first=Tilar J|last=Mazzeo|title=The Secret of Chanel No. 5|publisher=HarperCollins|year=2010|isbn=978-0061791017}}</ref>{{RP|103}}。シャネルとカペルは共に[[ドーヴィル]]のようなファッショナブルなリゾート地で時を過ごした。しかし、シャネルは彼と身を落ち着けることを望んでいたものの、カペルが彼女に対して誠実であったことはなかった<ref name=Hirst>{{cite web|url=http://www.ba-education.demon.co.uk/for/fashion/chanel.html |title=Chanel 1883–1971 |publisher=BA Education |date=22 February 2001 |accessdate=10 April 2014 |last=Hirst|first=Gwendoline |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080602223613/http://www.ba-education.demon.co.uk/for/fashion/chanel.html |archivedate=2 June 2008}}</ref>。彼女たちの情事は9年間続いた。カペルがイギリスの貴族であるダイアナ・ウィンダム夫人(Lady Diana Wyndham)と1918年に結婚した後でさえ、カペルはシャネルとの関係を完全に絶つことはなかった。カペルは1919年12月21日、交通事故で死亡した<ref name="Times">''The Times'', 24 December 1919, p. 10: "Captain Arthur Capel, who was killed in an automobile crash on Monday, is being buried today".</ref><ref>{{cite book |title= The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, Extant, Extinct or Dormant|last=Cokayne|first= George Edward|year=1982 |publisher= A. Sutton|location=Gloucester |isbn=978-0-904387-82-7| volume= X|page= 773 note (c)}}</ref>。事故現場の道路脇に設置されたカペルの事故の記念碑はシャネルが依頼したものであると言われている<ref>{{cite web |url=http://www.varmatin.com/ta/puget-sur-argens/192577/puget-sur-argens-coco-chanel-le-drame-de-sa-vie-au-bord-d-une-route-varoise |date=3 June 2009 |title=Puget-sur-Argens Coco Chanel: le drame de sa vie au bord d'une route varoise |publisher=varmatin.com |language=French |accessdate=8 March 2011 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090816170751/http://www.varmatin.com/ta/puget-sur-argens/192577/puget-sur-argens-coco-chanel-le-drame-de-sa-vie-au-bord-d-une-route-varoise |archivedate=16 August 2009 |df=dmy-all }}</ref>。事故の25年後、当時スイスに在住していたシャネルは友人の[[ポール・モラン]]に「彼の死は私にとって大きな打撃でした。カペルを失って、私は全てを失いました。その後の人生に幸せはなかったと、私はそう言わなければなりません。」と語っている<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|9}}。
ウェストミンスター公爵と別れた後交際していた[[ポール・イリブ]]は[[1935年]]に急死した。1930年代初頭に100万ドルの契約金でハリウッドに招かれて、シャネルの大ファンであった [[グロリア・スワンソン]]の映画の衣装制作に携わったが、スクリーン上では地味で見映えの悪いシャネルの衣装は不評で、また彼女自身も他人に命令されることが大嫌いなワンマン体質であった為、僅か二作を手掛けただけでフランスに帰国した。一方、シャネルが一方的にライバル視した[[エルザ・スキャパレリ]]は1930年代にはハリウッドでもフランスでもシャネル以上に成功し持て囃された。そして嫉妬で怒り狂ったシャネルがパーティー中にエルザのドレスに蝋燭の火を付けたという、今では嘘か信か不明の流言が飛び交うほど、二人の仲は険悪な状態になっていた。


[[File:Chanel hat from Les Modes 1912.jpg|thumb|upright|left|シャネルの帽子を被ったガブリエル・ドルジア(Gabrielle Dorziat)、『レ・モード』誌、1912年5月。]]
===労働問題と引退===
[[1939年]]、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側が[[ストライキ]]を敢行。苦労してその地位を築いたシャネルには労働環境を重視する彼らの考えを受け入れられずに対立し、シャネルは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。


バルサンと暮らし始めると共にシャネルは帽子のデザインを始めていた。当初これは暇つぶしであったが、企業規模へと発展していく。彼女は1910年に{{仮リンク|ミリナー|label=婦人用帽子職人|en|milliner}}のライセンスを取得し、カンボン通り21番地に''Chanel Modes''と名付けたブティックを開業した<ref name="Alice">{{cite book|last=Mackrell |first=Alice |title=Art and Fashion |publisher=Sterling Publishing |year=2005 |url=https://books.google.com/books?id=pEpPMIWdhh8C&pg=PA133&dq=%22Coco+Chanel%22+%22career%22 |page=133 |isbn= 978-0-7134-8873-9 |accessdate=8 March 2011}}</ref>。この場所は既に被服業界の拠点が確立されていたため、シャネルはこの店では彼女が作った帽子のみを販売した。シャネルの製帽業者としてのキャリアは舞台女優{{仮リンク|ガブリエル・ドルジア|en|Gabrielle Dorziat}}が1912年に演出家{{仮リンク|フェルナン・ノジエール|fr|Fernand Nozière}}の作品『ベラミ(''Bel Ami'')』([[ギ・ド・モーパッサン]]の小説『[[ベラミ]]』の戯曲化)でシャネルの帽子をかぶったことを通じて花開いた。その後、ドルジアは『レ・モード(''Les Modes'')』誌に掲載された写真において再びシャネルの帽子のモデルとなった<ref name="Alice"/>。
以後、同年9月に勃発し[[1945年]]8月に終結した[[第二次世界大戦]]中と戦後の[[スイス]]への[[亡命]]期(いずれも後述)の15年間、シャネルはフランスのファッション界で沈黙を守る。フランスでデザイナーとしては生計が立てられなくなったが、香水部門は比較的好調であったので、その売上金で隠居生活中も比較的余裕のある生活が送ることが出来た。


=== 対独協力愛人生活 ===
==== ドーヴィルビアリッツ ====
1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供で[[ドーヴィル]]にブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出した。シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていた{{仮リンク|ジャージー (生地)|label=ジャージー|en|Jersey (fabric)}}や[[トリコット]]のような安手の生地で作られていた<ref name= Alice/>。ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあった。ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(''marinière'')を販売した。シャネルは姉妹のアントワネット(Antoinette)と同い年の父方の叔母アドリエンヌ(Adrienne)という2人の家族から献身的な支援を受けた<ref name="EC-R-1981" />{{RP|42}}。アドリエンヌとアントワネットはシャネルの作品のモデルをするために採用された。2人は毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝した<ref name="EC-R-1981" />{{RP|107–08}}。
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-178-04A, Walter Schellenberg.jpg|thumb|right|200px|愛人のヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将]]
[[第二次世界大戦]]中の[[1940年]]、フランスが[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ドイツ軍に占領され]]、親独の[[ヴィシー政権]]下となった際、[[レジスタンス運動|レジスタンス]]として[[ドイツ軍]]による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、捕えられた末に拷問され処刑された人間が多数いた上に、農作物や日用品から[[石油]]までがドイツに略奪されたため、多くのフランス国民が窮乏生活を余儀なくされた。


シャネルはドーヴィルでの成功を再現することを決意し、1915年に[[ビアリッツ]]に本格的な店舗を出した。スペインの富裕層の顧客に近い[[コスタ・バスカ]]のビアリッツは金持ちグループや第一次世界大戦で自国から亡命してきた人々の遊び場であった<ref name=glassmagazine>{{cite journal|first=Adelia |last=Sabatini|year=2010|title=The House that Dreams Built|url=http://www.theglassmagazine.com | journal=Glass Magazine|issue=2|pages=66–71|issn=2041-6318}}</ref>。ビアリッツの店舗はフロントがなくカジノの正面の別荘内にあった。1年間の営業のあと、この地でのビジネスが極めて有利なものであることが証明され、1916年にはシャネルはカペルが提供した原資を返済することができるようになった<ref name="EC-R-1981" />{{RP|124–25}}。ビアリッツでシャネルは追放されたロシア貴族の[[ドミトリー・パヴロヴィチ]]大公と出会った。シャネルと大公はロマンティックなひと時を過ごし、その後何年もの間密接な関係を維持した<ref name="EC-R-1981" />{{RP|166}}。1919年、シャネルは「クチュリエール」として登録し、パリのカンボン通り31番地に自身のメゾン・ド・クチュール(''maison de couture'')を開業した<ref name="Alice"/>。
一方で、シャネルはドイツの[[国家保安本部]][[SD (ナチス)|SD]]局長[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]と懇意になった<ref>『ナチスの女たち 第三帝国への飛翔』99ページ。</ref>上に、[[ゲシュタポ]]の高官のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージ[[男爵]]の[[愛人]]になることで、自堕落かつ様々な恩恵を受けつつ不自由無く暮らすことが出来た。


== クチュリエールとして ==
ドイツ軍は占領下においたフランスにおける[[ユダヤ人]]所有の資産や企業を押収したが([[アーリア化]])、シャネルにとってはユダヤ人であるヴェルテメール兄弟に売り渡した「パルファム・シャネル」と、その主力商品である「N°5」が生み出す全ての金融資産をタダで取り戻す機会と考えた。
[[File:Sem Chanel 1919.jpg|thumb|upright|自身の帽子店にいるシャネル(右、1919年)。セムによる風刺画。]]
1918年、シャネルはパリで最もファッショナブルな地区の1つにあるカンボン通り31番地の建物を購入した。1921年、彼女は初期のファッション[[ブティック]]と言える店舗をオープンさせた。この店は衣類、帽子、アクセサリーを主に取り扱い、後にジュエリーや香水にも分野を拡大した。1927年までに、シャネルはカンボン通りに5つの不動産(properties)を保有し、建物には23から31までの番号が付けられていた<ref>[http://legrandmag.com/ "Chanel 31 rue Cambon. The History Behind The Facade"], ''Le Grand Mag'', retrieved 10 October 2012{{failed verification|date=November 2018}}</ref>。


1920年の春(恐らくは5月)、シャネルは[[バレエ・リュス]]の団長[[セルゲイ・ディアギレフ]]によってロシアの作曲家[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]に引き合わされた<ref name="Walsh-1999">{{cite book|last1=Walsh|first1=Stephen|title=Stravinsky: A Creative Spring |date=1999|publisher=Alfred A. Knopf|location=New York|isbn=978-0679414841}}{{RP|318}}</ref>。夏の間に、シャネルは戦後、ストラヴィンスキーの一家が[[ソヴィエト連邦]]から逃れ住処を探していることを知った。彼女はストラヴィンスキー一家をパリの郊外の[[ギャルシュ]]にある自分の新居ベルレスピロ(Bel Respiro)に招待し、彼らが適当な住居を見つけることができるまでの間住まわせた<ref name="Walsh-1999"/>{{RP|318}}。彼らは1920年9月の第2週にベルレスピロに到着し<ref name="Walsh-1999"/>{{RP|318}}、1921年の5月まで滞在した<ref name="Walsh-1999"/>{{RP|329}}。シャネルはまた、バレエ・リュスの新たなストラヴィンスキーの新作(1920年)、『[[春の祭典]](''Le Sacre du Printemps'')』の金銭的損失をディアギレフへの匿名の贈与で補填した。その金額は300,000フランと言われている<ref name="Walsh-1999"/>{{RP|319}}。クチュール・コレクションの発表に加えて、シャネルはバレエ・リュスのためのダンス衣装のデザインに没頭した。1923年から1937年にかけて、彼女はディアギレフとダンサーの[[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]が振付た作品群、特に『[[青列車 (バレエ)|青列車]](''Le Train bleu'')』、ダンス・オペラの『オルフェ(''Orphée'')』と『オイディプス王(''Œdipe roi'')』に協力した<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|31–32}}。
[[1941年]][[5月5日]]に、シャネルは「ユダヤ人の金融資産に対する処置」、つまりヴェルテメール兄弟が持つ「パルファム・シャネル」の資産の没収と、自分への移転を願う手紙をドイツ軍の行政官に向けて書いた。この「[[アーリア人]]」からの依頼を受けてヴェルテメールの「パルファム・シャネル」に対する所有権は法的に「棄却」され<ref>Mazzeo, Tilar J. (2010). The Secret of Chanel No. 5. HarperCollins. p. 150. ISBN 978-0-06-179101-7.</ref>、シャネルに所有権が「合法的に」移ることを画策した。シャネルは、行政官の決定にシェレンベルクとフォン・ディンクラージとの「関係」が後押しするものと期待したが、ドイツ軍による資産押収を予想していたヴェルテメール兄弟は、直前に資産を非ユダヤ人のフェリックス・アミオに移譲していたため、このようなシャネルの謀略は不成功に終わった。


1922年、[[ギャラリー・ラファイエット]]の創業者{{仮リンク|テオフィル・バデ|en|Théophile Bader}}は[[パリロンシャン競馬場]]でのレースで、シャネルを実業家の{{仮リンク|ピエール・ヴェルテメール|en|Pierre Wertheimer}}に紹介した。ヴェルテメールは自身の経営する百貨店で[[シャネルNo.5]]の販売を行うことに興味を持った<ref name="Thomas, Dana 2002">Thomas, Dana. "The Power Behind The Cologne". ''The New York Times'': 24 February 2002. Retrieved 18 July 2012</ref>。1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドの{{仮リンク|ブルジョワ (ブランド)|label=ブルジョワ|en|Bourjois}}の経営陣であった。彼らは企業法人パルファム・シャネル(''Parfums Chanel'')を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがテオフィル・バデの取り分であった。株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|95}}。後に、この契約に不満だったシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けた<ref name="Thomas, Dana 2002"/><ref name="Mazzeo-2010" />。彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(''the bandit who screwed me'')」と発言している<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|153}}。
なおシャネルは、当時のドイツの[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)と同様の[[反ユダヤ主義]]者であるだけでなく、ドイツの諜報活動機関である[[アプヴェーア]]のコードネームを与えられた[[工作員]]でもあった<ref>『誰も知らなかったココ・シャネル』(原題の日本語訳『敵と寝る―ココ・シャネルの秘密戦争』 著者:ハル・ボーン [[2011年]]</ref>。


シャネルが長く交友をつづけた人物の1人に[[ミシア・セール]]がいた。彼女はパリの[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]・[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]で、スペインの画家{{仮リンク|ホセ・マリア・セール|en|Josep Maria Sert}}の妻であった。シャネルとセールは似た者同士で惹かれ合ったと言われる。当時のミシアの目にシャネルがどのように映っていたのかについて、伝記作家らは「シャネルの天才、気前の良さ、破壊的なウィットを伴う激情、痛烈な毒舌、熱狂的な破壊性は誰をも惹きつけると同時に愕然とさせた」と評している<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|13}}。シャネルとミシアは2人とも修道院で学んでいた経験があり、共通の興味と信頼を保ち続けた。彼女たちはまた、薬物の使用も共有していた。1935年までにシャネルは薬物を利用する習慣を持つようになっており、人生の終わりに至るまで日常的に[[モルヒネ]]を注射していた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|80–81}}。{{仮リンク|チャンドラー・バール|en|Chandler Burr}}の『匂いの帝王(''The Emperor of Scent'')』によれば、{{仮リンク|ルカ・トゥリン|en|Luca Turin}}は著作の中で、シャネルは「パリで最も素晴らしい[[コカイン]]パーティーを催したのでココと呼ばれた」という根拠のない噂を広めた<ref>{{cite book | last=Burr | first=Chandler | title=The Emperor of Scent: A true story of perfume and obsession | publisher=Random House Inc. | year=2002 | isbn=978-0375759819 | page=[https://archive.org/details/emperorofscent00chan/page/43 43] | url-access=registration | url=https://archive.org/details/emperorofscent00chan/page/43 }}</ref>。
これらのことから、[[1944年]]の[[シャルル・ド・ゴール]]率いる[[自由フランス]]軍と[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍によるフランス解放後に即座に[[逮捕]]され、「[[コラボラトゥール|対独協力者]]」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた。


作家の[[シドニー=ガブリエル・コレット|コレット]]はシャネルと同じ社会的なサークルに加っており、随筆集『牢獄と天国(''Prisons et Paradis'')』(1932年)の中でアトリエで働いているシャネルについて次のような奇態な説明を残している。「全ての人間の顔がある動物に似るとするならば、マドモアゼル・シャネルの顔は小さな黒い雄牛である。彼女のカーリーな黒髪は仔牛のそれであり、彼女の額から眉の上を通って落ち、彼女の頭の上をあらゆる動きで踊っている<ref name="EC-R-1981" />{{RP|248}}。」
===亡命===
しかし、戦前から交流のあったイギリス首相の[[ウィンストン・チャーチル]]の計らいにより釈放され、その後新たな愛人となったシェレンベルクとともに戦後の数年間を、第二次世界大戦において[[中立国]]であった[[スイス]]の[[ローザンヌ]]へ脱出し[[亡命]]生活を送った<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20121211_159163.html ナチスのスパイだったココ・シャネルの秘密の顔を暴いた評伝]</ref>。


=== 英国貴族との関係 ===
この<!--血に塗られた→何を指すのか?-->亡命生活を支えたのが、シェレンベルクの協力のもとにヴェルテメール兄弟から略奪しようとした「パルファム・シャネル」から入る収入であった。ヴェルテメール兄弟との[[訴訟]]を含む激しいやり取りを行った結果、[[1947年]]5月に、シャネルは戦時中に受け取ることができなかった「N°5」の利益配分をヴェルテメール兄弟から受け取った上に、将来における「N°5」の売り上げの2パーセントを受け取ることになった。
[[File:Winston Churchill and Coco Chanel.jpg|thumb|upright|シャネルと[[ウィンストン・チャーチル]](1921年)]]
1923年、[[アドルファス・ケンブリッジ (初代ケンブリッジ侯爵)|ケンブリッジ侯爵]]の隠し子と言われている{{仮リンク|ヴェラ・ベイト・ロンバーディ|en|Vera Bate Lombardi}}(サラ・ガートルード・アールライトとして生まれた<ref name="peerage">{{cite web|url=http://thepeerage.com/p15929.htm#i159285 |title= Sarah Gertrude Arkwright – Bate & Lombardi|publisher=thePeerage.com |date=21 September 2011 |accessdate=20 January 2019|page=Person Page 159295929}}</ref> )は、シャネルに最上級の英国貴族社交界に加わることを認めた。これは政治家[[ウィンストン・チャーチル]]やウェストミンスター公のような貴族、[[エドワード8世]]のような王族ら重要人物を中心に運営されているエリートのグループである。1923年にモンテ・カルロにおいて、当時40歳のシャネルはロンバーディによって大富豪である{{仮リンク|ヒュー・グローヴナー (第2代ウェストミンスター公爵)|label=ウェストミンスター公ヒュー・リチャード・アーサー・グローヴナー|en|Hugh Grosvenor, 2nd Duke of Westminster}}に紹介された。彼は親しい人々から「ベンドア(''Bendor'')」と呼ばれていた。ウェストミンスター公はシャネルに豪華な宝石、高価な美術品、ロンドンの有名な[[メイフェア]]地区にある邸宅を気前よく与えた。彼とシャネルの関係は10年続いた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|36–37}}。


公爵に紹介されたのと同じように、再びロンバーディを通じて、ロンバーディの従兄弟であった王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード8世に紹介された。エドワード8世はシャネルに惚れ込み、シャネルとウェストミンスター公の関係を知りつつ彼女を追いかけた。エドワード8世がシャネルのアパルトマンを訪れ、自分を彼に親しい人々と同じように「デーヴィッド(''David'')」と呼ぶように求めたというゴシップがあった。数年後、『''[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]''』誌の編集者[[ダイアナ・ヴリーランド]]は「情熱的でひたむきで、猛烈に独立心旺盛な、その存在そのものが偉業であるシャネル」はエドワード8世と「すばらしいロマンティックなひとときをともにしたことがあった」と書いた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|38}}<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|71}}。
=== ファッション界への復帰 ===
[[File:Hotel Ritz Paris.jpg|thumb|right|200px|ホテル・リッツ]]
[[1954年]]に、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったシャネルは、[[ヴァンドーム広場]]を望む[[オテル・リッツ・パリ|ホテル・リッツ]]に住まいを構え、ファッション界へ復帰を果たした。この復帰を実現させる資金を支えたのは、かつての亡命生活と同じく「パルファム・シャネル」から入る収入であった。


1927年、ウェストミンスター公は[[アルプ=マリティーム県]]([[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]])にある[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン]]に購入した土地をシャネルに贈り、シャネルはそこに別荘(villa)を建設した。これは建築家のロベール・ストレイツ(Robert Streitz)によって建てられ、彼女はこれを{{仮リンク|ラ・パウザ (フランス)|en|La Pausa|label=ラ・パウザ}}(''La Pausa''、休息所)と呼んだ<ref>{{cite web|last=Watson |first=Nanette |url=http://houseswithhistory.wordpress.com/2012/05/04/coco-chanels-villa-la-pausa/ |title=Coco Chanel's Villa La Pausa |website=Houses with History|date=2012-05-04 |accessdate=2018-11-08}}</ref>。ストレイツは階段とパティオのコンセプトにシャネルが若き日を過ごした{{仮リンク|オーバジーヌ|en|Aubazine}}修道院から影響を受けたデザイン要素が取り入れた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|48–49}}<ref name="Bretell 1995">{{cite book|last=Bretell|first=Richard R.|title=The Wendy and Emery Reves Collection|year=1995|publisher=Dallas Museum of Art|location=Dallas}}</ref>。ウェストミンスター公とシャネルの関係はゴシップ誌に結婚を噂されるほどのものになり、ウェストミンスター公自身もシャネルに仕事を辞めてパートナーになることを求めていた<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|85}}。しかし、シャネルが結婚することはなかった。なぜウェストミンスター公と結婚しなかったのか、と問われた時、シャネルは「ウェストミンスター公は何人もいました。シャネルは1人しかいません。」と答えたと言われる<ref>{{cite web |url=http://www.inoutstar.com/news/Coco-Chanel-510.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20081002103147/http://www.inoutstar.com/news/Coco-Chanel-510.html |url-status=dead |archive-date=2 October 2008 |title=Coco Chanel Biography |publisher=Inoutstar.com |date= |accessdate=8 March 2011 }}</ref>。
しかし、「売国奴」と蔑まれたシャネルの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は、「古臭い」としてフランスやドイツ、イギリスをはじめとする[[ヨーロッパ]]ではバッシングを受けるなど散々だったが、シャネルや[[ナチス]]を含むドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まっていた[[アメリカ合衆国]]では受け入れられた。


=== 映画用のデザイン ===
翌年'''シャネル・スーツ'''(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)の発表。アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。また、[[マリリン・モンロー]]などに愛用された香水がブームとなり、大きな売り上げを稼いだ。
[[File:dmitri pavlovich 1920s.jpg|thumb|left|亡命中のドミトリー・パヴロヴィチ大公。1920年代。]]


1931年、[[モンテ・カルロ]]にいる間にシャネルは共通の友人であった[[ドミトリー・パヴロヴィチ]]大公を通じて[[サミュエル・ゴールドウィン]]と知り合った。ドミトリー・パヴロヴィチ大公は最後のロシア皇帝(ツァーリ)[[ニコライ2世]]の従兄弟である。ゴールドウィンはシャネルに興味深い提案を行った。それは総計100万ドル(今日のおよそ7500万ドルに相当)の報酬で[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]のスターたちのための衣装デザインを依頼し、そのためにシャネルをハリウッドに2年間招聘するというものであった。シャネルはこの依頼に同意した。この彼女のハリウッドへの初渡航には友人であるミシア・セールが同行した。
=== 死去 ===
晩年のシャネルは、孤独による不安や恐怖などの症状と不眠症に悩まされ、1日1本の[[モルヒネ]]注射が欠かせなくなっていた。シャネルは[[1971年]]、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で没した。


1932年に、ニューヨークからカリフォルニアへ向かう途上、彼女のために豪華に飾り付けられた列車の車両内で、シャネルは『''Colliers''』紙にインタビューを受けた。彼女は「映画が私に何を提供しなければならないのか、そして私が映画に何を提供しなければならないのかを見定める」ためにハリウッド行きに同意したと語った<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|127}}。
シャネルの亡骸は、第二次世界大戦中のドイツ占領軍への協力及びスパイ行為を含むフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたスイス[[ローザンヌ]]の墓地 ボア=ドゥ=ヴォー墓地 ([[:fr:Cimetière du Bois-de-Vaux|Cimetière du Bois-de-Vaux]]、セクション9・No.130)に埋葬された<ref>[http://www.lausanne.ch/thematiques/nature-parcs-et-domaines/espaces-verts/cimetieres/personnages-celebres.html Cimetières lausannois: personnages célèbres (フランス語)] Ville de Laussane</ref>。シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。


シャネルは[[マーヴィン・ルロイ]]監督の映画『{{仮リンク|今宵ひととき|en|Tonight or Never|label=}}』(1931年)で[[グロリア・スワンソン]]が身に着けた衣装と、[[ローウェル・シャーマン]]監督の映画『{{仮リンク|黄金に踊る|en|The Greeks Had a Word for Them|label=}}』(1932年)で[[アイナ・クレア]]が身に着けた衣装をデザインした。[[グレタ・ガルボ]]と[[マレーネ・ディートリヒ]]の二人が個人的な顧客となった<ref name="vogue1">{{cite web |url=http://www.vogue.com/voguepedia/Chanel |title=retrieved August 3, 2012 |publisher=Vogue.com |date= |accessdate=2013-12-04 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131030104112/http://www.vogue.com/voguepedia/Chanel |archivedate=30 October 2013 |df=dmy-all }}</ref>。
== デザインに対する姿勢 ==
シャネルは、[[コルセット]]が多用されていた1910年代-1920年代の女性服に対して抱いていた「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか」という積年の疑問への回答として、愛人であったウェストミンスター公爵の故郷であるイギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、スポーティでシンプルな、あるいは[[アール・デコ]]風なデザインの「'''シャネル・スーツ'''」を生み出した。


彼女はアメリカ映画での経験を通じてハリウッド映画産業に嫌気がさし、ハリウッドの映画世界の文化を嫌うようになった。彼女はハリウッドの映画文化を「幼稚(infantile)」だと評した<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|68}} シャネルの評決は「ハリウッドは悪趣味の首都...要するに下品。」であった。<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|62}}。<!--"Hollywood is the capital of bad taste ... and it is vulgar." に相当するものがVaughanの著書にありますか?「幼稚」も「下品」もCharles-Rouxからで、「悪趣味の極致」のような表現はSunday Express? --><!--これはそのまま該当する記述がVaughanにあります。日本語版ではp. 107 で、第4章の始めの方です。出典はガブリエル・パラス・ラブリュニーに電話にて確認、Charles-Rouxも参照、となっています。「幼稚」を直接書いているのはCharles-Rouxですが、「スーパー・セックスだのスーパー・プロダクションだの、なんでもかんでもスーパーなんだから」というVaughanによるシャネルの発言の引用をこう要約しても間違いではないと思います。-->結局、彼女の美的なデザインは映画にはあまりふさわしくなかった。『[[ザ・ニューヨーカー]](''The New Yorker'')』誌によれば、シャネルは不機嫌な様子でハリウッドを去ったという。同誌は「シャネルは一人のレディを一人のレディのように見せた」のに対して、「ハリウッドは一人のレディを二人のレディのように見せたがっているのだから」として、シャネルのデザインは映画界の大物たちにとっては派手さが足りなかったのだろうと推測している<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|117}}<ref>{{cite book|last=Madsen|first=Axel|title=Chanel: A Woman of Her Own|year=1991|page=194}}</ref>。シャネルはいくつかのフランス映画の衣装デザインは続けた。その中には[[ジャン・ルノワール]]監督の1939年の映画『{{仮リンク|ゲームの規則|fr|La Règle du jeu|label=}}』があり、彼女は「ラ・メゾン・シャネル(''La Maison Chanel'')」としてクレジットされている。彼女は左翼のルノワールを[[ルキノ・ヴィスコンティ]]に紹介した。彼女はヴィスコンティというシャイなイタリア人が映画業界で働きたがっていることに気付いていた。ルノワールはヴィスコンティに好感を持ち、次の映画プロジェクトに彼を連れて行った<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|306}}。
女性の自立を目指し、モデルに当時の女性としては斬新だった、ポケットに手を入れる仕草をして歩かせていた(『[[クイズダービー]]』第686回(1989年4月22日放送分)の3問目より)。それにより女性服にポケットを作った。


=== 重要な情事:ルヴェルディとイリーブ ===
なおシャネルはかなり痩せた体型だった。そのため、モデルとしてシャネルの服を着たシャネルがきっかけで、現在に至るまで「'''ファッションモデルは痩せている方が美しい'''」という固定観念が生まれたとされる。
シャネルは当時最も影響力のある複数の男性の愛人であったが、結婚することはなかった。彼女は詩人[[ピエール・ルヴェルディ]]、およびイラストレーター・デザイナーの{{仮リンク|ポール・イリーブ|en|Paul Iribe}}と重要な関係を持っていた。彼女とルヴェルディの恋愛関係は1926年にルヴェルディが[[カトリック教会|カトリック]]に帰依し、北西部[[サルト県]]の[[ソレム (サルト県)|ソレム]]に隠棲したときに終わったが、定期刊行物に掲載された、シャネルのものとされる伝説的な名言はルヴェルディの助言の下で、共同で作られたものとされている。


<blockquote>シャネルの書簡を検討すると、彼女が書いた手紙の不器用さと、シャネルのものとされる名言の作者の才能の間に完全な矛盾があることが明らかになる...ルヴェルディは彼女が自分の「職業(メティエ<ref>{{Cite web|title=メティエ|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8-141506|website=コトバンク|accessdate=2020-01-05|language=ja|publisher=}}</ref>)」について書いたわずか数篇のアフォリズムを修正し、さらにこの「シャネリズム(''Chanelisms'')」(シャネル名言集)に、人生や美的感覚、または魅力や愛などについて、より一般的な考察を加えたのである<ref name="EC-R-1981" />{{RP|328}}。</blockquote>
== 伝記・評伝 ==

[[ファイル:Hugh Grosvenor, Duke of Westminster und Coco Chanel.jpg|thumb|right|200px|ココ・シャネル(右は[[ウェストミンスター公爵]])
彼女とイリーブとの関係は深く、1935年にイリーブが急死するまで続いた。イリーブとシャネルは同じ反動的政治思想を共有しており、シャネルはイリーブが出していた[[国粋主義]]・反共和主義の[[風刺]]週刊新聞の『{{仮リンク|ル・テモワン|fr|Le Témoin (journal)|label=}}(証人)』<ref>{{Cite web|title=Vente aux enchères (Presse). TEMOIN (Le). Journal hebdomadaire politique…|url=https://www.gazette-drouot.com/lots/5995562|website=www.gazette-drouot.com|accessdate=2020-01-05}}</ref><ref>{{Cite web|title=[Collection Jaquet]. Dessinateurs et humoristes. Paul Iribe : [défets d'illustrations de périodiques]|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b530993259|website=Gallica|date=1910-1930|accessdate=2020-01-05|language=FR|first=Paul (1883-1935) Illustrateur|last=Iribe}}</ref>に資金提供を行っていた。『ル・テモワン』紙は、[[ゼノフォビア]]を煽り、[[反ユダヤ主義]]を唱える新聞であった。<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|78-79}}<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|300}}。同紙終刊の1年後の1936年には、シャネルは急進左翼誌の『{{仮リンク|Futur (雑誌)|label=Futur|en|Futur (magazine)}}』への資金提供を行い、極右から極左に急旋回した<ref name="Chaney-FT-2011"/>{{RP|313}}。
]]

=== スキャパレッリとの競争 ===
シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する営利企業になっており大きな利益をあげていた<ref name="vogue1"/>。しかし1930年代の間に、オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになった。1920年代のフラッパーのボーイッシュな装いと短いスカートは瞬く間に姿を消した。ハリウッドの映画スター用のシャネルのデザインは成功せず、期待されたようには彼女の名声を高めなかった。より重要だったのは、シャネルという星が[[エルザ・スキャパレッリ]]という最大のライバルによって覆い隠されてしまったことであった。[[シュールレアリスム]]への遊び心ある援用で満ちていたスキャパレッリの革新的デザインはファッション界において圧倒的称賛を集め、熱狂を生み出した。シャネルはアバンギャルド(前衛的)な立ち位置を失っていると感じとり、[[ジャン・コクトー]]台本のオペラ『[[エディプス王_(ストラヴィンスキー)|エディプス王]]』で彼とコラボレーションした。そこで彼女がデザインした衣装は嘲られ、「包帯でぐるぐる巻きにされた俳優たちは救急搬送されるミイラか、何かの事故の犠牲者のようであった。」と、酷くこき下ろされた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|96}} 。彼女はまた[[バレエ・リュス・ド・モンテカルロ]]の作品、『バッカス祭(''Bacchanale'')』の衣装にも関与した。衣装デザインは[[サルバドール・ダリ]]によって行われた。しかしながら、1939年9月3日にイギリスが対独宣戦布告を行ったことで、バレエ・リュスはロンドンへ去ることを余儀なくされた。彼らがヨーロッパに残した衣装は、ダリの最初のデザインに従ってカリンスカ(Karinska)によって作り直された<ref>{{Cite web|url=https://australianballet.com.au/behind-ballet/dali-does-dance|last=Anderson|first=Margot|title=Dali Does Dance|date=2009-07-14|website=The Australian Ballet|accessdate=2018-11-08}}</ref>。

== 第二次世界大戦 ==
シャネルは第二次世界大戦中、フランスを占領したドイツ軍に協力的な姿勢を取っており、このことは彼女の評価に影響を与えるものとしてしばしば議論となっている。戦時中のシャネルの行動は既に20世紀中に知られていたが<ref name="Charles-Roux-2009_和訳下">{{Cite book |和書 |author={{仮リンク|エドモンド・シャルル=ルー|en|Edmonde Charles-Roux}} |translator=[[加藤かおり]] |translator2=[[山田美明]] |title=ココ・アヴァン・シャネル 下 |publisher=[[早川書房]] |date=2009-8 |isbn=978-4-15-050351-2 |ref=シャルル=ルー 2009}}</ref>、2011年に伝記作家ハル・ヴォーンが新たに機密解除された資料に基づいてシャネルの対独協力行為を具体的に明らかにした『Sleeping with the Enemy, Coco Chanel and the Secret War』を出版したことでこの件は再び大きな注目を浴びた<ref name="autoRefA" /><ref name="NewYorkTimes書評">{{Cite web|url=https://www.nytimes.com/2011/09/04/books/review/sleeping-with-the-enemy-coco-chanels-secret-war-by-hal-vaughan-book-review.html|last=Warner|first=Judith|title=Was Coco Chanel a Nazi Agent?|date=2011-09-02|website=New York Times|accessdate=2020-01-28}}</ref><ref name="Vaughan-2011" />。

1939年に[[第二次世界大戦]]が始まった後、シャネルはカンボン通り31番地の店を閉め、アパルトマンは店舗の上に残しておいた。彼女は今はファッションの時代ではないと語った<ref name=glassmagazine/>。この結果、4,000人の女性が雇用を失った<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|101}}。彼女の伝記を書いたヴォーンは、1936年のフランスの[[マティニョン協定 (1936年)|大規模なゼネスト]]の中で、賃上げと労働時間の短縮を求めてストライキを行った労働者たちへの報復の機会としてシャネルが戦争の勃発を利用したと示唆している。店舗閉鎖の最中、シャネルは自身の政治的見解について決定的な声明を出した。シャネルは[[レオン・ブルム]]等、ユダヤ人の政治家たちはヨーロッパを脅かす[[ボルシェヴィキ]]であると信じていた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|101}}。こうしたシャネルの見解は彼女が修道院にいた頃に受けた教育(当時は[[イエス・キリスト]]を十字架にかけたユダヤ人をイエスの殺害者として教えることが珍しいことではなかった)に端を発し<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|21}}、長年の間の愛人たち(それは同時に彼女の立身出世を助けた支援者たちでもあった)との関係の中で研ぎ澄まされたものであった<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|165}}。

ドイツによるフランス占領中、シャネルは[[ホテル・リッツ]]に住んだ。このホテルはドイツ軍の上級軍人たちから好ましい居住地として注目されていた。パリ駐在のドイツ外交官でかつての[[プロイセン軍]]将校かつ法務長官(Attorney General)であった{{仮リンク|ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ|de|Hans Günther von Dincklage}}男爵({{仮リンク|フライヘア|en|Freiherr}})とシャネルのロマンティックな情事によってリッツでの彼女の立ち位置は有利なものとなった<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|Chapter 11}}。彼は1920年代から軍の情報機関の諜報員であった<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|57}}。

シャネルがウェストミンスター公と関係を持っていた1930年代、彼女のスタイルは彼女の個人的な感情を反映し始めた。彼女が小さな黒いドレスを再作成することができなかったのはそのような現実の兆候であった。彼女は「少ないほど豊かである(''less is more'')」という美学を追求し始めた.<ref name="autoRefA">{{Citation|last=Font|first=Lourdes|chapter=Chanel, Coco|date=2009-07-02|publisher=Oxford University Press|doi=10.1093/gao/9781884446054.article.t2081197|title=Oxford Art Online}}</ref>。

=== パルファム・シャネル経営権を巡る戦い ===
[[File:CHANEL No5 parfum.jpg|thumb|left|upright|シャネル・ブランドの香水[[シャネルNo.5]]]]
第二次世界大戦、とりわけナチスによるユダヤ人が所有する不動産と企業の没収によって、シャネルにパルファム・シャネルと、その最も収益性の高い製品、シャネルNo.5が生み出す金銭的利益全てを手に入れる機会が訪れた。その経営者ヴェルテメール兄弟はユダヤ人であった。シャネルは自身の「[[アーリア人]]」としての立場を使ってパルファム・シャネルの単独所有権を合法化するべくドイツ当局に申請を出した。

:1941年5月5日、彼女はユダヤ人の金融資産の処分に関する採決を担当している政府行政官に手紙を書いた。彼女のパルファム・シャネルに対する所有権の根拠は、パルファム・シャネルは「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であった彼らはすでにこれを法的に「放棄している」というものであった<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|150}}<ref name="Thomas, Dana 2012">Thomas, Dana. "The Power Behind The Cologne". ''The New York Times'': 24 February 2012. Retrieved 18 July 2012</ref>。

彼女はさらに、「私には争う余地のない優先権があります...この事業を創設して以来、私が創り出したものから受け取った利益は...適正なものではありません。...(そして)貴方様には、過去17年にわたって私が被ってきた損害を多少なりとも回復するために、お力をお貸し頂けるものと思います<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|152–53}}」と書いている。

シャネルは、ナチスがいずれユダヤ人に対して下す命令をヴェルテメール兄弟が予期し、1940年5月にパルファム・シャネルの経営権をフランス人カトリック教徒の実業家・事業家{{仮リンク|フェリクス・アミオ|en|Félix Amiot}}に法的に譲渡していたことを知らなかった。戦後、アミオはパルファム・シャネルをヴェルテメール兄弟の手に返した<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|150}}<ref name="Thomas, Dana 2012"/>。

第二次世界大戦終結直後、業界はパルファム・シャネルの経営権を巡る法的闘争を興味と若干の懸念を持って見守っていた。本係争における利害関係者たちは戦時中のシャネルとナチスの関係がもしも公に知れ渡れば、シャネルブランドの名声と地位に深刻な影響を及ぼすと認識していた。『[[フォーブス]]』誌はヴェルテメール兄弟が抱えていたジレンマを「(ピエール・ヴェルテメールは)法的闘争がシャネルの戦時中の活動を照らし出し、(どれほどまでに)彼女のイメージを破壊してしまうだろうか―それによって彼のビジネスも破壊されてしまうだろうか(を心配していた)」と要約している<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|175}}。

シャネルはヴェルテメールに対する訴訟のためにヴィシー・フランス政権の首相{{仮リンク|ピエール・ラヴェル|en|Oierre Lavel}}の義理の息子、{{仮リンク|ルネ・ド・シャンボン|en|René de Chambrun}}を弁護士として雇った<ref name="sweetsmelllincoln">{{cite news|title=Sweet Smell of Perfume|url=https://www.newspapers.com/image/63240225/?terms=%22Rene%2Bde%2BChambrun%22|accessdate=August 1, 2016|work=The Lincoln Star|location=Lincoln, Nebraska|date=February 28, 1971|page=72|via=Newspapers.com|url-access=registration }}</ref>。結局、ヴェルテメールとシャネルは1924年の元々の契約について再交渉し、互いに和解した。1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(21世紀の通貨換算でおよそ9億ドルに相当する)を受け取った。また、将来の全世界におけるシャネルNo.5の売り上げの2パーセントについて権利を得た。彼女が得た経済的利益は莫大なものであった。彼女は1年あたり2500万ドルの収入を得ていたと予想されており、当時世界で最も富裕な女性となっていた。付け加えて、ピエール・ヴェルテメールはシャネル自身が提案した特殊な条項に同意した。即ちヴェルテメールは、シャネルのその後の一生涯にわたり、彼女の生活費を―些末なものから大型出費に至るまで―全て負担することに合意した<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|175–77}}<ref>{{cite news|first=Kate |last=Muir |url=http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/film/article6027932.ece |title=Chanel and the Nazis: what Coco Avant Chanel and other films don't tell you |newspaper=The Times |date=4 April 2009 |accessdate=8 March 2011 |location=London}}</ref>。

== ナチスの諜報活動との関わり ==
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-178-04A, Walter Schellenberg.jpg|thumb|left|185px|ワルター・シェレンベルグ(Walter Schellenberg)将軍。親衛隊情報機関「''Sicherheitsdienst''」の長。]]

伝記作家{{仮リンク|ハル・ヴォーン|en|Hal Vaughan}}が発見した機密解除文書によって[[パリ警視庁]]がシャネルに関する文書を保有していることが明らかになった。シャネルはこの文書に(ウェストミンスターを表わす)偽名「WESMINSTER」(原文ママ)、「諜報員番号(Indicatif d'agent)F-7124」と記されていた。<ref>{{cite news|last=Warner|first=Judith|title=Was Coco Chanel a Nazi Agent? |url=https://www.nytimes.com/2011/09/04/books/review/sleeping-with-the-enemy-coco-chanels-secret-war-by-hal-vaughan-book-review.html|work=The New York Times|date=2011-09-02|accessdate=2018-11-08}}</ref><ref name="Vaughan-2011" />{{RP|140}}。ヴォーンにとってこれはシャネルとドイツ情報機関の関係を示す情報であった。[[ナチ・ハンター]]として知られる歴史学者の[[セルジュ・クラルスフェルト]]は「彼女に諜報員番号が付けられたからといって、必ずしも個人的に関与していたということにはならない。密告者のなかには、知らないうちに番号を付けられた者もいた」と述べている<ref>{{cite web|url=http://www.arretsurimages.net/contenu.php?id=4247 |title=Chanel antisémite, tabou médiatique en France? |publisher=[[:en:Arrêt sur images|Arrêt sur images]] |date= |accessdate=23 May 2012}}</ref>。

ヴォーンは、シャネルが早くも1941年にはドイツに協力し[[ベルリン]]の[[国家保安本部]](''Reichssicherheitshauptamt'')で[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の情報部[[SD (ナチス)|SD]](''[[:en:Sicherheitsdienst|Sicherheitsdienst]]'')とドイツ軍[[諜報機関]][[アプヴェーア]](''[[:en:Abwehr|Abwehr]]'')の長である{{仮リンク|ワルター・シェレンベルグ|en|Walter Schellenberg}}将軍のために動いていたことを確認した<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|xix}}。第二次世界大戦が終わった時、シェレンベルクは[[ニュルンベルク軍事裁判]]にかけられ、戦争犯罪のために禁固6年の判決を受けた。彼は不治の肝臓疾患のために1951年に釈放されイタリアで療養した。シャネルはシェレンベルクの医療費と生活費を負担し、その妻と家族を資金的に支えた。そして彼が1952年に死去した時、その葬儀費用もシャネルが支払った<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|205–07}}。

シャネルのスパイ行為の疑いはドイツ軍の戦車がパリに入りナチスの占領が始まった時に始まった。シャネルは直ちにドイツ占領軍の本部として使用された豪華なホテル・リッツ(Hotel Ritz)に安全を求め、そこでドイツ大使館で働いていたゲシュタポに近いハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵と恋に落ちた。ナチスによるフランス占領が始まった時、シャネルは彼女の店を閉めることを決定し、その決意は愛国的な動機からきたものであると主張した。しかしながら、彼女がドイツ軍が拠点としていたホテル・リッツに移動した時、その動機がどのようなものであるか多くの人々がはっきりと悟った。多くのフランス女性がドイツ軍人たちとの「水平的協力(horizontal collaboration)」のために罰せられる一方、シャネルがそのような事態に直面することはなかった。1944年にフランスが解放された時、シャネルは自身の店のウィンドウに全てのGIにシャネルNo.5を無料で提供すると書いたメモを残した。この最中、彼女はナチスの諜報活動に協力したことで犯罪者として告訴されるのを避けるためスイスに亡命した<ref name="autoRefA" />。

=== モデルフート作戦 ===
2014年末、フランス諜報機関が機密文書の機密を解除し公開したことで、第二次世界大戦中のドイツの諜報活動においてココ・シャネルが果たした役割が明らかとなった。1943年にマドリードを訪れ、連合国優位に傾く戦況の中、シャネルが関与した中で最も有名な任務の1つはモデルフート作戦(''Modellhut''、'Operation Model Hat')である。彼女の任務はドイツの外交情報機関からウィンストン・チャーチルへのメッセンジャーであり、シャネルの友人であった当時のスペイン駐在イギリス大使を通じて和平を仲介することであった<ref name="autoRefA" /><ref name="Vaughan-2012_和訳"/>{{RP|256}}。

1943年、シャネルはベルリンの「獅子の巣」にある[[国家保安本部]](''Reichssicherheitshauptamt'')へ、彼女の連絡係と「旧友」であるパリ駐在ドイツ大使館の報道官(press attaché)ハンス・ギュンター・フォンディンクラーゲとともに向かった。元[[プロイセン軍]]将校であり、法務長官(Attorney General)でもあった彼は、友人や同僚の間では「[[スズメ|Sparrow]](スズメ)」というニックネームでも呼ばれていた<ref name=Kloth-2008/><ref name=Doerries-2009/>。ディンクラーゲはまた、ドイツの''Sicherheitsdienst''(Security Service)の共同設立者でもあった。彼の上司がワルター・シェレンベルグとベルリンのアレクサンデル・ワーグ(Alexander Waag)であった<ref name=Kloth-2008/><ref name=Doerries-2009/>。シャネルとディンクラーゲは国家保安本部でワルター・シェレンベルグに報告を行い、その場でシャネルがディンクラーゲに提案した馬鹿げた計画も報告されることになっていた。その計画は、彼女、ココ・シャネルがイギリス首相ウィンストン・チャーチルと面会し、ドイツと交渉を行うように説得したいというものであった<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|xix}}<ref name=Kloth-2008/><ref name=Doerries-2009/>。1943年末、または1944年初頭、シャネルとシェレンベルクは親衛隊による交渉を行い、イギリスに分離講和を考慮させる計画を立てた。シェレンベルクは型破りな手法を用いるという欠点があった<ref name=Kloth-2008/>。戦争終結時にイギリスの諜報機関によって尋問された時でも、シェレンベルクはシャネルが「政治的交渉をチャーチルと行うのに十分なほど彼の知己を得ている」という見解を維持していた.<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|169}}。この作戦は「''Operation Modellhut''」というコード名を付けられていた。彼らはまた{{仮リンク|ベラ・ベイト・ロンバーディ|en|Vera Bate Lombardi}}も採用した。ナチスのエージェントで1944年にイギリスの諜報機関へと走ったヨセフ・フォン・レーデブーア=ヴィヒェルン伯爵(Count Joseph von Ledebur-Wicheln)は1943年初頭にディンクラーゲと会談を持ったこと供述している。それによれば、ディンクラーゲは特使の中にロンバーディを参加させることを彼に伝えた。ディンクラーゲは彼女を参加させる口実として、「[[アプヴェーア]](''[[:en:Abwehr|Abwehr]]'')」は「(シャネルに協力させる)その前に、ある若いイタリア人女性(引用注:ロンバーディ)をフランスに連れてくる必要がある。レズビアン的な傾向のあるシャネルは、その女を愛している。」という虚偽の話をしたと言う<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|163–64}}<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|262}}。

シェレンベルグとシャネルの策動を知らなかったロンバーディはスペインへの旅行はマドリードにシャネルのクチュールを設立する可能性を探るためのビジネスとしての旅行であると信じ込まされていた。ロンバーディの役目はシャネルが書いた手紙をマドリードのイギリス大使館経由でウィンストン・チャーチルへと届けることであった<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|169–71}}<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|270}}。また、シェレンベルグは親衛隊連絡将校(liaison officer)である{{仮リンク|ワルター・クッチュマン|en|Walter Kutschmann}}大尉(Captain)に「マドリード<!--引用元ではマドリッド-->でマドモアゼル・シャネルに大金を手渡すよう」指示を出した<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|174}}。結局このミッションは失敗した。イギリス情報機関([[秘密情報部|M16]])の尋問調書によれば、マドリードに到着した後、ロンバーディがイギリス大使館にシャネルを含む自分の同行者全員がナチスのスパイだと伝えたことで計画が破綻したことが明らかになっている<ref name="Vaughan-2012_和訳" />{{RP|275}}<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|174–75}}。

=== 告発に対する備え ===
1944年9月、シャネルはフランスの[[エピュラシオン|粛清]]委員会に尋問された<ref name=":0" />。この委員会はシャネルのドイツ諜報活動への協力について文書化された証拠を保持しておらず、彼女を釈放せざるを得なかった。シャネルのgrand-niece(兄弟の孫)であるガブリエラ・パレス・ラブリュニー(Gabrielle Palasse Labrunie)によれば、シャネルは自宅に戻った時、「チャーチルが私を解放した」と言ったという<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|186–87}}。

シャネルに対するチャーチルの介入の度合いは、戦後にゴシップと疑惑の種となった。もしシャネルが自身の活動について裁判で証言することを強制された場合、イギリスのトップクラスの官僚や社会的エリート、そして王室の親ナチ的態度と活動が暴露されるだろうと人々が心配したのだと、幾人かの歴史家が主張している。ヴォーンはチャーチルが[[フランス共和国臨時政府]]のイギリス大使{{仮リンク|ダフ・カッパー|en|Duff Cooper}}にシャネルを保護するように命じたと主張する人も存在すると書いている<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|187}}。

1949年、パリに来て捜査官たちの前に立つように要求されたシャネルは、ゲシュタポの諜報員ルイ・ド・ヴォーフルラン男爵(Baron Louis de Vaufreland)の戦争犯罪裁判で彼女の活動について示された証言に立ち向かうため、亡命先のスイスを離れた。シャネルは全ての告発を否定した。彼女は裁判長(presiding judge)ルクレール(Leclercq)に証明書として「ダフ・カッパー氏からの声明を手配することが可能です」と申し出た<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|199}}。

シャネルの友人かつ伝記作家であるマルセル・ヘンドリック(Marcel Haedrich)は戦時中におけるシャネルとナチスの交流について「マドモアゼル・シャネルが占領中の黒い年月の彼女自身について明らかにした僅かな情報は歯の浮くようなものだ。真剣に受け止めようもない」と述べている<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|175}}。

チャーチルとシャネルの友人関係は1920年代にシャネルとウェストミンスター公の恋が燃え上がりスキャンダルが始まった頃に構築された。終戦時のチャーチルの介入によってスパイ活動への協力というシャネルの罪に懲罰が与えられることはなくなり、彼女の資産は救われた<ref name="autoRefA" />。

=== 論争 ===
2011年8月にヴォーンの本が出版された時、彼が機密指定解除された軍事情報文書の内容を暴露したことで、シャネルの活動についてかなりの論争が引き起こされた。[[シャネル|シャネル社]]は声明を発表し、その一部は複数のメディアで公表された。法人としてのシャネルは会社役員がこの本についてメディアによる抜粋しか読んでいないことを認めつつ「この(スパイ活動についての)主張に反駁した」<ref name="usatoday.com">{{cite news | url=https://usatoday30.usatoday.com/life/books/news/2011-08-17-coco-chanel-nazi-spy-book_n.htm | title=Was Coco Chanel a Nazi spy? | work=USA Today |agency=AP| date=17 August 2011 | accessdate=15 June 2012}}</ref>。

シャネルグループは「確かに言えることは、彼女が戦時中にドイツの貴族と関係を持っていたことである。たとえディンクラーゲ男爵の母方がイギリス人であったとしても、また彼女(シャネル)が戦前から彼を知っていたとしても、ドイツ人と恋愛関係を持つのに相応しい時代ではなかった」と述べる一方<ref>{{cite news | url=https://www.reuters.com/article/us-books-cocochanel-idUSTRE77F6ZS20110816 | title=Biography claims Coco Chanel was a Nazi spy | publisher=Reuters | date=17 August 2011 | accessdate=2018-11-08}}</ref>、「実際に何が起こったのか。彼女がどのような役割を演じようとしていたのか。この点については見解が分かれており、謎の部分が残っている」ことを強調している<ref>{{Cite web|title=Coco Chanel, espionne nazie ? Le groupe admet "une part de mystère"|url=https://www.challenges.fr/luxe/coco-chanel-espionne-nazie-le-groupe-admet-une-part-de-mystere_337697|website=Challenges|accessdate=2020-01-27|language=fr|publisher=|date=2011-08-16}}</ref>。

[[AP通信]]のあるインタビューにおいて、著者ヴォーンは彼の調査の意外な方向転換についての議論を次のように述べた。「私は別のものを探していたのですが、『シャネルはナチスのエージェントだ』という別の文書に出くわしたのです...その後、私は本当の意味で合衆国、ロンドン、ベルリン、そしてローマにある全ての文書を漁りはじめました。そうて1つだけではなく、20、30、40もの、シャネルとその恋人で本職のAbwehrのスパイであるハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲについての絶対確実な文書を見出したのです<ref name="usatoday.com"/>。」

ヴォーンはまたこの書籍における暴露によって多くの人が感じた不快感にもコメントした。「世界の多くの人々が、ガブリエル・ココ・シャネルという象徴的人物、即ちフランスの最も偉大な文化的偶像が破壊されることを望んでいません。間違いなく、多数の人々がこれを脇に追いやり、忘れ去って、ただシャネルのスカーフとジュエリーが販売され続けることを優先することでしょう<ref name="usatoday.com"/>。」

== 戦後の生活とキャリア ==
[[File:COCO1970.jpg|thumb|ココ・シャネル(1970年)]]
1945年、シャネルは[[スイス]]へ移り、そこでディンクラーゲとともに数年を過ごした。1953年、彼女は[[コート・ダジュール]]の邸宅ラ・パウザ(''La Pausa'')を出版業者かつ翻訳家の{{仮リンク|エメリー・レヴェ|en|Emery Reves}}に売却した。ラ・パウザの中の5部屋が[[ダラス美術館]]で複製され、レヴェの美術コレクション及びシャネルの家具が収められている<ref name="Bretell 1995"/>。

女性が第一のクチュリエとして君臨した戦前とは異なり、戦後は[[クリスチャン・ディオール]]は1947年に彼の{{仮リンク|The New Look (スタイル)|label=The New Look|en|New Look (style)}}で成功を収めた。そしてディオール、[[クリストバル・バレンシアガ]]、{{仮リンク|ロバート・ピゲ|en|Robert Piguet}}、[[ジャック・ファット]]ら優れた男性デザイナーが認められた。シャネルは、ウエストニッパー(waist cinchers)、パッド入りブラジャー(padded bras)、厚手のスカート(heavy skirts)、stiffened jacketsといった男性のクチュリエが好む美学に対して、最終的には女性たちが反抗するであろうと確信していた。その美学を彼女は「非論理的(''illogical'')」デザインと呼んだ<ref name="EC-R-1981" />。

70歳を過ぎ、クチュールハウスを閉鎖してから15年間の後、彼女はファッション界に復帰する時が来たと感じた<ref name="EC-R-1981" />{{RP|320}}。1954年、彼女のクチュールハウスのリバイバルはパルファム・シャネルの経営権争いにおける敵であったピエール・ヴェルテメールによる全面的な資金提供の下で行われた<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|176–77}}。シャネルが1954年にカムバック・コレクションを発表した時、フランスのメディアは戦時中の彼女のドイツ軍への協力活動及び愛人生活、並びにコレクションについての論争の故に取り扱いに慎重であった。しかし、アメリカとイギリスのメディアはをそれをファッションと若者を新しい方法で結びつける「ブレークスルー」だとみなした<ref>{{Cite book|last=McLoughlin|first=Marie|title=Chanel, Gabrielle Bonheur (Coco) (1883–1971)|journal=The Bloomsbury Encyclopedia of Design|doi=10.5040/9781472596178-bed-c036|year=2016|isbn=978-1472596178}}</ref>。

アメリカの『ヴォーグ』誌の影響力ある編集者ベッティーナ・バラード(Bettina Ballard)はシャネルに忠実であり続け、1954年3月に「1950年代のシャネルの顔(the "face of Chanel" in the 1950s)」であるモデル、{{仮リンク|マリー・エレーヌ・アルノー|en|Marie-Hélène Arnaud}}の特集を組んだ、撮影者は{{仮リンク|ヘンリー・クラーク (写真家)|label=ヘンリー・クラーク|en|Henry Clarke (photographer)}}<ref name=Picardie-2010/>{{RP|270}}で、アルノーは真珠のネックレスを組み合わせた赤いVネックのドレス、層状のシアサッカーのイブニング・ガウン、ネイビージャージのミッドカーフ・スーツの3点の服を身に着けた<ref name=Ch1/>。アルノーが着たこれらの服は、「軽くパッドを入れた、スクエアショルダーのカーディガンジャケット、2つのパッチポケット、ボタンを外して折り返すと、パリッとした白い袖口が際立つスリーブ」、「立ち上がりのある襟と蝶型リボンの付いた白いモスリンのブラウス、ブラウスに付いた小さいタブでウエストのボタンに留めることのできる、ゆったりしたAラインスカート」が特徴であった<ref name="Wallach-1998"/>{{RP|151}}。バラードはこの「若々しい優雅さと無邪気さを強く印象付ける」スーツを自費で購入した<ref name=Ch1>Chaney, 2012, p. 406.</ref>。そしてアルノーがモデルを担当した衣装にはすぐに全米から注文が殺到した<ref name=Picardie-2010/>{{RP|273}}。

== 晩年 ==
彼女の最後の年月にはしばしば{{仮リンク|ジャック・シャゾ|en|Jacques Chazot}}及び親友のリルー・マーカンドがそばにいた。誠実な友人としてはブラジル人[[:en:Aimée de Heeren|Aimée de Heeren]]もおり、彼女はパリの{{仮リンク|ラ・ムーリス|label=ホテル・ムーリス|en|Le Meurice}}に1年4ヶ月住んでいた。かつてライバルであった二人は{{仮リンク|ヒュー・グローヴナー (第2代ウェストミンスター公爵)|label=ウェストミンスター公|en|Hugh Grosvenor, 2nd Duke of Westminster}}との幸福な思い出を共有していた。彼女たちは頻繁にパリの中心部で散歩をした<ref>{{cite web |title=Coco Chanel (1883–1971) |url=http://cremeriedeparis.com/cocochanel/ |website=Cremerie de Paris |accessdate=8 November 2018}}</ref>。

エドモンド・シャルル・ルーはシャネルの晩年は取り巻きの人間はたくさんいたものの、彼女を利用しようとする人間ばかりで「孤独だった」と評し、晩年の彼女の発言として「私の言葉を記事にしようと話を聞きに来る人たちもいるし、私の話に退屈しているくせに、自分の家よりもこの家で食事をするほうが多いっていう人たちもいる。でもいちばん多いのは、頼みごとをしに来る人たちね。こういう人たちがいちばん熱心。お金……いつもお金よ」という言葉を引用している<ref name="Charles-Roux-2009_和訳下"/>{{RP|287}}。

== 死 ==
老境に入ったシャネルは衰え、病を患っていた。夜間は[[睡眠時遊行症|夢遊病]]の症状が見られるようになり、眠ったまま部屋の中で立っている姿が見かけられるようになっていた<ref name="Charles-Roux-2009_和訳下"/>{{RP|292-293}}。1971年1月9日(土曜日)、彼女は普段通りに春のカタログを準備し、午後に長めのドライブに出た。そのすぐ後に気分が悪くなりベッドに早めに入った<ref name="Mazzeo-2010" />{{RP|196}}。彼女はメイドのジャンヌに最後の言葉として「人はこんなふうに死ぬのよ(C'est comme cela que l'on meurt)」と語った<ref>{{cite news |last1=Sánchez Vegara |first1=Isabel |title=Top 10 amazing facts you didn't know about Coco Chanel |url=https://www.theguardian.com/childrens-books-site/2016/feb/24/top-10-amazing-facts-you-didnt-know-about-coco-chanel |accessdate=8 November 2018 |work=The Guardian |date=2016-02-24}}</ref><ref name=":0">{{Cite news|title=Coco Chanel, possédée par sa légende|url=https://www.lemonde.fr/culture/article/2012/08/23/coco-chanel-possedee-par-sa-legende_1750784_3246.html|date=2012-08-23|accessdate=2020-01-08|language=fr|newspaper=Le Monde|author=Judith Perrignon}}</ref>。

1971年1月10日、30年以上居住していたホテル・リッツで死亡した<ref>{{cite news| url=https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0819.html |title=On This Day: Chanel, the Couturier, Dead in Paris |newspaper=The New York Times |date=11 January 1971 |accessdate=8 March 2011}}</ref>。葬儀はパリの[[マドレーヌ寺院]]で執り行われた。彼女のファッションモデルたちが最前列の席に陣取り、棺桶は白い花(ツバキ、クチナシ、ラン、ツツジ)そして少量の赤いバラで飾られた。

墓は[[スイス]]、[[ローザンヌ]]のボワ=ド=ヴォー(Bois-de-Vaux)墓地にある<ref>{{cite web|title=Cimetière du Bois-de-Vaux|author=|date=|work=Fodor's Travel Intelligence|url=http://www.fodors.com/world/europe/switzerland/vaud/review-468532.html|access-date=11 September 2012|archive-url=https://web.archive.org/web/20130928232114/http://www.fodors.com/world/europe/switzerland/vaud/review-468532.html|archive-date=28 September 2013|url-status=dead}}</ref><ref>Wilson, Scott. ''Resting Places: The Burial Sites of More Than 14,000 Famous Persons'', 3d ed.: 2 (Kindle Location 7998). McFarland & Company, Inc., Publishers. Kindle Edition</ref>。遺産の大部分はスイス在住の甥アンドレ・パラス(André Palasse)と、パリに住むパラスの2人の娘たちに相続された<ref name="sweetsmelllincoln"/>。

シャネルは生涯にわたって高級ファッションにおける重要人物とみなされていたが、シャネルが残した影響はその死後にさらに調査された。死亡時、フランスのファーストレディであったポンピドゥー大統領夫人が英雄的賛辞を贈ることを企図したが、すぐにフランスの諜報機関が戦時中のドイツ軍へのシャネルの行動について概説する文書を公開し、記念性の強い葬儀計画はすぐに破棄された<ref name="autoRefA" />。

== デザイナーとして遺したもの ==
[[File:Gabrielle Chanel en marinière.jpg|upright|left|thumb|セーラージャージとズボンを着たシャネル(1928年)]]
早くも1915年には『[[ハーパーズ バザー]]』が「たった1つもシャネルを持っていない女性は絶望的に時代遅れです...今シーズン、シャネルは全てバイヤーの口からその名前が紡ぎだされています」とシャネルのデザインを絶賛していた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|14}}。シャネルが手に入れた優位は、即ちコルセットで締め付ける女性のシルエットに対する公式の死の宣告であった。フリル、fuss、前世代の女性たちが耐え忍んできた拘束は今や時代遅れであった。彼女の影響の下で「羽根飾り(aigrettes)、ロングヘア、ホブルスカート」の時代は過ぎ去った<ref name="EC-R-1981" />{{RP|11}}。シャネルのデザインに対する美学によって第一次世界大戦後には女性のお洒落のあり方が大きく変わった。シャネルのトレードマークのファッションは若々しい安らぎ、身体的解放、運動の邪魔にならないという信頼を得ていた{{訳語疑問点|date=2020年1月}}。

エリート階級、特にイギリスのエリートたちが熱心に追及していた乗馬文化と狩猟趣味はシャネルの想像力を掻き立てた。シャネルが熱心にスポーツに打ち込んで得た知識が彼女の服飾デザインを生み出していった。ヨットの世界で体験した水上の旅の経験から、彼女は航海のためのデザインをファッションに適用した。水平なストライプのシャツ、[[ベルボトム]]のパンツ、クルーネックセーター、そして「エスパドリーユ(''espadrille'')」の靴。これらは全て伝統的に船乗りや漁師が着ていたものである<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|47, 79}}。

=== ジャージー生地 ===
[[File:Chanel jersey casual wear 1917,.jpg|thumb|right|200px|シャネルのジャージーの服3点(1917年)]]
シャネルの最初の成功は機械編みの素材であるジャージー生地を婦人服の素材とするという革新的な利用によってもたらされた。それまでジャージーは主として靴下やスポーツウェア(テニス、ゴルフ、ビーチ用の服)に使用される傾向があった。クチュールで使用するにはあまりにも「日常的(ordinary)」な生地だと考えられていた上、ニット構造は織物に比べて取り扱いが難しかったためデザイナーにも敬遠されていた<ref name="EC-R-1981" />{{RP|128, 133}}。シャネルが大量のジャージー生地を発注したのはロディエ社(Rodier)であった<ref name="EC-R-1981" />{{RP|128, 133}}。ロディエは、男性用としてさえ美的とは考えられていなかったジャージー生地を婦人服に使用するというシャネルのアイデアに躊躇し当初この注文を断ったが、シャネルはジャージー生地の可能性を強硬に主張した。最終的にシャネルがこの生地を用いて自分用にデザインした服を見たロディエはシャネルの判断を是とした<ref name="Charles-Roux-2009_和訳上"/>{{RP|239}}。シャネルの初期のウール ジャージーの旅行スーツはカーディガンジャケットとプリーツスカートから成り、ロー・ベルトのプルオーバートップと組み合わせられていた。これにローヒールの靴を組み合わせたアンサンブルは高級な婦人服におけるカジュアルルックとなった<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|13, 47}}。

シャネルによる高級ファッションへのジャージー導入は2つの理由で成功した。1つは第一次世界大戦のために他の素材が不足したこと。もう1つは女性たちがよりシンプルかつ実用性のある服を求め始めたことである。シャネルの動きやすいジャージーのスーツとドレスは実用性を備えるように作成され、体を自由に動かすことができた。これは当時女性が戦争に協力するために看護師として、公務員として、そして工場で働いていたことから極めて高く評価されていた。彼女たちの仕事は体を動かす必要があり、また通勤のために電車やバス、自転車に乗る必要もあった<ref>{{cite book|last=Leymarie|first=Jean|title=Chanel|year=1987|publisher=Rizzoli International Publications|location=New York|page=57}}</ref>。彼女たちは破れにくく、使用人の手を借りずに着ることができる服装を求めていた<ref name="Wallach-1998"/>{{RP|28}}。

=== スラヴの影響 ===
[[ポール・ポワレ]]や{{仮リンク|マリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ|es|Mariano Fortuny y Madrazo}}のようなデザイナーたちは1900年代から1910年代初頭にオートクチュールに民族的デザインを導入した<ref>{{cite web|url=http://www.vam.ac.uk/content/articles/i/introduction-to-20th-century-fashion/ |title=Introduction to 20th Century Fashion, V&A |publisher=Vam.ac.uk |date= |accessdate=23 May 2012}}</ref>。シャネルはこの傾向を引き継ぎ、1920年代初頭にスラヴ風のデザインを取り入れた。この時のシャネルの服のビーズ取付と刺繍は{{仮リンク|マリア・パヴロヴナ (公爵夫人)|label=ロシアのマリア・パヴロヴナ公爵夫人|en|Grand Duchess Maria Pavlovna of Russia (1890–1958)}}(シャネルのかつての愛人[[ドミトリー・パヴロヴィチ]]大公の姉)が設立した縫製会社キトミール(Kitmir)によって独占的に行われた<ref>[https://collections.vam.ac.uk/item/O72654/evening-dress/ 1922 evening dress embroidered by Kitmir] in the Victoria & Albert Museum collections</ref><ref name=babushka/>。シャネルの初期のコレクションでは、キトミールによる東洋的なステッチと洋式化された民族モチーフの融合が強調された<ref name=babushka/>。1922年のイブニングドレスには刺繍のある[[スカーフ|ヘッドスカーフ]](バブーシュカ:babushka)が付属していた<ref name=babushka>The Metropolitan Museum of Art Bulletin, New Series, Vol. 63, No. 2 (Fall, 2005) p.39. (for a PDF file showing relevant page, see here [http://www.metmuseum.org/pubs/bulletins/1/pdf/20209219.pdf.bannered.pdf]). An image of dress with headscarf in situ may be seen on the Metropolitan database here [http://www.metmuseum.org/Collections/search-the-collections/80038147?rpp=20&pg=1&ft=2005.114a&pos=1]</ref>。このヘッドスカーフの他にも、この時代のシャネルの服はルバシカ(roubachka)として知られるロシアのムジーク(muzhiks:農民)の服装を仄めかす長いベルトで止めるスクエアネックのブラウスを特徴としていた<ref name="EC-R-1981" />{{RP|172}}。イブニングドレスはしばしばきらめくクリスタルとblack jetの刺繍が施されていた<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|25–26}}。

[[File:1965 Chanel suit and silk blouse.jpg|thumb|left|upright|ツートンパンプス付きのシャネルのスーツとシルクのブラウス(1965年)]]

=== シャネルのスーツ ===
1923年に初めて導入された<ref>{{cite web |title=Introduction of the Chanel suit |url=https://www.designer-vintage.com/en/masterclass/article/the-chanel-suit |website=Designer-Vintage |accessdate=14 November 2018}}</ref>シャネルのツイードスーツは快適さと実用性を追求してデザインされ、柔軟で軽いウールか[[モヘヤ]]の[[ツイード]]、およびジャージーかシルクの裏地のブラウスとジャケットで構成されていた。シャネルは当時のファッションで一般的だったように素材を固くしたり肩パットを使用したりはしなかった。バストダーツを加えずに、ジャケットを地の目に沿ってカットした。こうすると、身体を素早く自由に動かすことができた。首元に適度なゆとりをもたせてネックラインをデザインし、機能的なポケットを加えた。より一層楽にするために、スカートはベルトではなく腰の周りに{{仮リンク|グログラン|en|grosgrain}}ステイが付けられた。さらに重要なことは、仮縫いをするときに細部に至るまで細心の注意が払われたことである。採寸は顧客が立った状態で肩の高さで腕を組んだ姿勢で行われた。シャネルはモデルに歩き回らせ、バスの階段を登ることを想定したプラットフォームを上がらせ、車高の低いスポーツカーに乗ることを想定して体を曲げさせるテストを行った。彼女が目指したのは、シャネルのスーツを着たまま、不意に体の一部を露出することなく、女性がこれら全てをこなせるようにすることであった。顧客それぞれがスーツが快適な状態になり、日々の活動を快適かつ容易に行えるようになるまで繰り返し調整を行った<ref>{{cite book|last=Gautier|first=Jerome|title=Chanel: The Vocabulary of Style|year=2011|publisher=Yale University Press|location=New Haven|page=244}}</ref>。

=== カメリア ===
[[カメリア]](ツバキ)というと、誰しも連想するのは[[アレクサンドル・デュマ・フィス]]の文学作品『[[椿姫 (小説)|椿姫]](''La Dame aux Camélias'')』であった。シャネルは若い頃から「椿姫」の物語に大きな影響を受けていた。椿は[[クルチザンヌ]](高級娼婦)である椿姫を連想させる花であり、彼女は白い椿を身に付けることで「仕事」ができることを示していた<ref>{{cite news |last1=Jacobs |first1=Laura |title=The Enduring Coco Chanel |url=https://www.wsj.com/articles/SB10001424052970204323904577038572818601252 |accessdate=6 September 2012 |work=Wall Street Journal |date=19 November 2011}}</ref>。カメリアはシャネル
ブランド(The House of Chanel)と同一視されるようになった。シャネルは1933年に白をトリミングした黒スーツで初めて装飾要素としてカメリアを使用した<ref name="vogue1"/>。

=== リトル・ブラック・ドレス ===
今日でも着用されている[[リトル・ブラック・ドレス]](LBD)のコンセプトはジャージーのスーツに続くシャネルのファッション用語への貢献としてしばしば語られる。1912年から1913年にかけて、女優シュザンヌ・オルランディ(Suzanne Orlandi)が[[ベルベット]]の白い襟付きのシャネル製リトル・ブラック・ドレスを着た。彼女はシャネルのリトル・ブラック・ドレスを着た最初の女性の一人であった<ref>{{cite web |title=Fashion design for Suzanne Orlandi, Été 1901, by Jeanne Paquin |url=https://collections.vam.ac.uk/item/O538478/ete-1901-fashion-design-paquin-jeanne/ |website=V&A Search the Collections |accessdate=8 April 2016}}</ref>。1920年、シャネルはオペラの観客を観察し、全ての女性に黒いドレスを着させることを自身に誓った<ref name=Picardie-2010/>{{RP|92–93}}。

1926年、『ヴォーグ』誌のアメリカ版はシャネルのロングスリーブのリトル・ブラック・ドレスの画像を掲載し、これをガルソンヌ(''garçonne''、'little boy' look)と名付けた<ref name="vogue1"/>。『ヴォーグ』誌は、このようなシンプルながらもシックなデザインは、センスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想し、このドレスのベーシックな輪郭を、広く普及していてやはり巷に溢れていたフォード社の自動車に例えた有名な批評を残した<ref>{{cite book |last1=Wollen |first1=Peter |editor1-last=Naremore |editor1-first=James |editor2-last=Brantlinger |editor2-first=Patrick |title=Modernity and Mass Culture |publisher=Indiana University Press |isbn=978-0253206275 |page=[https://archive.org/details/modernitymasscul0000unse/page/49 49] |chapter-url=https://books.google.co.uk/books?id=CeEfBGnsbkwC&pg=PA49 |language=en |chapter=Cinema/Americanism/the Robot |year=1991 |url=https://archive.org/details/modernitymasscul0000unse/page/49 }}</ref><ref>{{cite book|last1=English|first1=Bonnie|title=A Cultural History of Fashion in the 20th and 21st Centuries: From Catwalk to Sidewalk|date=2013|publisher=A&C Black|isbn=978-0857851369|page=36|url=https://books.google.co.uk/books?id=DZUdAAAAQBAJ&pg=PA36|language=en}}</ref>。他方、この質素なデザインは男性のジャーナリストたちからの広範な批判を巻き起こした。彼らは「もはや胸はなく、もはやお腹も無く、もはやお尻もない...20世紀のこの瞬間の女性ファッションは全てを削り落とした」と文句を付けた<ref name="EC-R-1981" />{{RP|210}}。このリトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。1930年代は[[世界恐慌]]の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した<ref>{{cite book|last=Pendergast|first=Tom and Sarah|title=Fashion, Costume and Culture |year=2004 |publisher=Thomson Gale |location=Farmington Hills, MI|page=792}}</ref><ref name="Vaughan-2011" />{{RP|47}}。シャネルは昼用にウールか[[シェニール織|シェニール]]のリトル・ブラック・ドレス、そして夜用に[[本しゅす|サテン]]、[[ちりめん|クレープ]]または[[ベルベット]]のリトル・ブラック・ドレスを作るようになった<ref name="Wallach-1998"/>{{RP|83}}。ある時、シャネルは「私はあえて黒を使いました。この色はいまだに衰えていません。なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」と宣言した<ref name=Picardie-2010/>。

=== ジュエリー ===
シャネルはジュエリーの概念を革新する一連のシリーズを導入した。この革新とは彼女のデザインと素材にコスチューム・ジュエリーとファイン・ジュエリーの両方が組み込まれていたことである。これはジュエリーが両者いずれかに厳密にカテゴライズされていた当時において革命的なものであった。彼女の感性には世界各地のデザインが影響を及ぼしており、しばしば東洋やエジプトのデザインに触発されていた。富裕層は高価なジュエリーの代わりにシャネルの作品を着ることで周囲に富を印象付けることができた<ref>{{cite book|last=Leymarie|first=Jean|title=Chanel|year=1987|publisher=Rizzoli International Publications|location=New York|page=153}}</ref>。[[File:Chanel 2.55.jpg|thumb|247x247px|シャネル 2.55 (2009年)|alt=|left]]

1920年代、シャネルはジュエリーデザインスタジオを開き、コスチューム・ジュエリーを制作し始めた。彼女はフェイク(コスチューム・ジュエリー)と本物(ファイン・ジュエリー)を組み合わせて作品を作るのを好み、コスチューム・ジュエリーはそれ以降シャネルブランドにおいて欠かせない要素となった<ref name="harpersbazaar">{{cite web |title=A Look Into The History Of Chanel Costume Jewellery |url=https://harpersbazaar.my/fashion/look-history-chanel-costume-jewellery/ |website=Harpers Bazaar |accessdate=2019年1月26日}}</ref><ref name="vogue1"/>。フェイク・パールのネックレスは初期のヒット作品である<ref name="vogue1"/>。シャネルのモデルたちはネックレスを複数付け、ブレスレッドを重ね、いくつもブローチを付けるなど、シャネルのスタイルに倣って複数のコスチューム・ジュエリーを身に着けた<ref name="harpersbazaar"/>。

シャネルはコスチューム・ジュエリーを(特にシャネル自身が堂々と身に着けて見せたように)憧れのアクセサリへと変えた。1927年には{{仮リンク|フルコ・ディ・ヴェルドゥーラ|label=デューク・フルコ・ディ・ヴェルドゥーラ|en|Fulco di Verdura}}の協力でシャネルブランドのジュエリーシリーズを立ち上げた。彼の白いエナメルの袖口に宝石で飾られた[[マルタ十字]]を加えたモチーフはシャネルの代名詞の1つとなり、ヴェルドゥーラとシャネルの共同制作のアイコンとなっている<ref name="vogue1"/>。お洒落で富裕な人々はこのシャネルのコレクションを大いに気に入り、シリーズは大成功した<ref name="Vaughan-2011" />{{RP|74}}。

シャネルはその後ファイン・ジュエリーの制作も行っている。the International Guild of Diamond Merchants(国際ダイアモンド商業組合)の依頼を受け、1933年にデザイナーの{{仮リンク|ポール・イリーブ|en|Paul Iribe}}と共同で高級ジュエリーのデザインを行った。これが彼女による最初のファイン・ジュエリーのデザインとなる<ref name="vogue1"/>。[[プラチナ]]に[[ダイヤモンド]]をあしらった作品には一か月の間に30,000人の観覧者が訪れた<ref name="vogue1"/>。

=== シャネルのバッグ ===
1929年、シャネルは軍用バッグに触発されたハンドバッグを作成した。これは細いショルダーストラップによって肩から下げ、手を空けることができるものであった。シャネルはファッション業界に復帰した後、1955年2月にハンドバッグのデザインを一新した。これが[[シャネル 2.55]]である(名称は制作された日付から来ている)<ref name="peder68">{{cite book|title=Handbags: What Every Woman Should Know|author=Pedersen, Stephanie|publisher=David & Charles|year=2006|isbn=978-0-7153-2495-0|location=Cincinnati|page=68}}</ref>。同時に、[[カール・ラガーフェルド]]が1980年代に行ったのと同じように、クラシックなバッグの細部が修正された。留め金とロックはシャネルのロゴを盛り込んだデザインに変更され、レザーがショルダーチェーンに組み合わされた。バッグ自体は元々の基本的なデザインを維持した<ref name=kpriss/>。2005年にシャネル社は創立50周年を記念して1955年のオリジナルのシャネル 2.55の正確なレプリカをリリースした<ref name=kpriss/>。このバッグのデザインはシャネルの修道院時代および彼女のスポーツ界に対する愛情を伝えるものであった。ストラップに使用されたチェーンはシャネルが成長した孤児院(修道院)の管理人たち(caretakers)が着用した{{仮リンク|チャタレイン|en|chatelaine (chain)}}に影響されたものであり、バーガンディの裏地は修道院の制服を参考にしたものであった<ref name=kpriss>{{cite web|last1=Kpriss|title=Short History of The Famous Chanel 2.55 Bag |url=http://stylefrizz.com/200712/short-history-of-the-famous-chanel-255-bag/|website=Style Frizz|accessdate=6 September 2015}}</ref>。キルト風の外側は騎手が着用するジャケットの影響を受け<ref name=kpriss/>、同時に行われたバックの形状とボリュームの改善も同様であった<ref name=peder68/>。

=== 日焼け ===
歴史的に、日焼けした肌は絶え間ない労苦から逃れる術の無い人生を運命づけられていた労働者階級の証であり、「純白の肌は貴族階級の確かな証であった」。しかし、シャネルは日焼けを許容するのみならず、特権とレジャーを過ごす生活のシンボルに変え、日光浴を流行させた。1920年代半ばまでに、女性たちは日光から身を守るための帽子を被らずにビーチでくつろぐようになった。<ref name="EC-R-1981" />{{RP|138–39}}。

== ポピュラー・カルチャーにおける描写 ==
=== 演劇 ===
* [[ブロードウェイ・シアター]]・ミュージカル:{{仮リンク|ココ (ミュージカル)|label=ココ|en|Coco (musical)}}(Coco)。作曲:[[アンドレ・プレヴィン]]、脚本・作詞:[[アラン・ジェイ・ラーナー]]。1969年12月18日公演開始、1970年10月3日公演終了。シャネルがクチュール・ハウスを再建した1953年-1954年を舞台とする。[[キャサリン・ヘプバーン]]が最初の8か月間の間シャネルを演じ、その後[[ダニエル・ダリュー]]が残りの期間を演じた。

=== 映画 ===
* [[ココ・シャネル (1981年の映画)|ココ・シャネル]](''Chanel Solitaire''、1981年)。シャネルを題材にした最初の映画である。監督:{{仮リンク|ジョージ・カゼンダー|en|George Kaczender}}、主演:[[マリー=フランス・ピジェ]]、[[ティモシー・ダルトン]]、[[ルトガー・ハウアー]]。
* [[ココ・シャネル (2008年の映画)|ココ・シャネル]](''Coco Chanel''、2008年)。テレビ映画として作成された。主演の[[シャーリー・マクレーン]]が70歳のシャネルを演じた。監督:{{仮リンク|クリスチャン・デュゲイ (監督)|label=クリスチャン・デュゲイ|en|Christian Duguay (director)}}。また、若年期のシャネルを{{仮リンク|バーバラ・バリュロヴァ|en|Barbora Bobuľová}}が演じ、ボーイ・カペルを{{仮リンク|オリビエ・シトラック|en|Olivier Sitruk}}が演じた。
* [[ココ・アヴァン・シャネル]](''Coco avant Chanel''/''Coco Before Chanel''、2009年)フランス語の伝記映画。[[オドレイ・トトゥ]]が主演として若きシャネルを演じ、[[ブノワ・ポールヴールド]]がエティエンヌ・バルサンを、[[アレッサンドロ・ニヴォラ ]]がボーイ・カペルを演じた。
* [[シャネル&ストラヴィンスキー]](''Coco Chanel & Igor Stravinsky''、2009年)フランス語の映画。監督:{{仮リンク|ジョン・クーネン|en|Jan Kounen}}。[[アナ・ムグラリス]]がシャネルを演じ、[[マッツ・ミケルセン]]が[[イゴール・ストラヴィンスキー]]を演じた。この映画はシャネルとストラヴィンスキーの間の情事に関する{{仮リンク|クリス・グリーンハルグ|en|Chris Greenhalgh}}の2002年の小説{{仮リンク|Coco and Igor|en|Coco and Igor}}を原作としている。[[第62回カンヌ国際映画祭]](2009年)の閉幕に選ばれた<ref name="festival-cannes.com">{{cite web|url=http://www.festival-cannes.com/en/archives/ficheFilm/id/10904957/year/2009.html |title=Festival de Cannes: Coco Chanel & Igor Stravinsky |accessdate=8 March 2011 |work=festival-cannes.com |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110409033805/http://www.festival-cannes.com/en/archives/ficheFilm/id/10904957/year/2009.html |archivedate=9 April 2011 |df=dmy}}</ref>。

=== 伝記・評伝 ===
*マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』(山中啓子訳、新版・[[ハヤカワ文庫]]NF、1995年)
*マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』(山中啓子訳、新版・[[ハヤカワ文庫]]NF、1995年)
*エドモンド・シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり・山田美明訳、ハヤカワ文庫NF(上・下)、2009年)
*エドモンド・シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり・山田美明訳、ハヤカワ文庫NF(上・下)、2009年)
104行目: 243行目:
*[[ポール・モラン]] 『シャネル 人生を語る』([[山田登世子]]訳、[[中公文庫]]、2007年)
*[[ポール・モラン]] 『シャネル 人生を語る』([[山田登世子]]訳、[[中公文庫]]、2007年)
**ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、[[文化出版局]]、1977年)。旧版
**ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、[[文化出版局]]、1977年)。旧版
*ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子訳、[[原書房]]2011年)
*ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子訳、[[原書房]] 2011年)
*ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子訳、[[文藝春秋]]2012年)
*ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子訳、[[文藝春秋]] 2012年)
*エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』(深味純子訳、[[阪急コミュニケーションズ|CCCメディアハウス]]、2009年)
*エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』(深味純子訳、[[阪急コミュニケーションズ|CCCメディアハウス]]、2009年)
*ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』([[中野香織]]訳、文化出版局2002年)
*ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』([[中野香織]]訳、文化出版局 2002年)
*クロード・ドレ 『ココ・シャネル』(上田美樹訳、[[サンリオ]]出版、1989年)
*クロード・ドレ 『ココ・シャネル』 (上田美樹訳、[[サンリオ]]出版、1989年)
*リサ・チェイニー『シャネル、革命の秘密』(中野香織監訳、[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]]2014年)
*リサ・チェイニー『シャネル、革命の秘密』(中野香織監訳、[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] 2014年)
*[[山田登世子]] 『シャネル-最強ブランドの秘密』([[朝日新書]]、2008年)
*[[山田登世子]] 『シャネル-最強ブランドの秘密』 ([[朝日新書]]、2008年)
*[[山口昌子]] 『シャネルの真実』([[人文書院]]、2002年)
*[[山口昌子]] 『シャネルの真実』 ([[人文書院]]、2002年)
**新版:[[新潮文庫]]、2008年4月/[[講談社+α文庫]]、2016年5月
**新版:[[新潮文庫]]、2008年4月/[[講談社+α文庫]]、2016年5月
*[[藤本ひとみ]] 『シャネル』(新版・[[講談社文庫]]、2008年12月)
*[[藤本ひとみ]] 『シャネル』 ([[講談社文庫]]で再刊、2008年12月)
*[[海野弘]] 『ココ・シャネルの星座』(新版・[[中公文庫]]、1992年)
*[[海野弘]] 『ココ・シャネルの星座』 ([[中公文庫]]で再刊、1992年)
*秦早穂子 『シャネル 20世紀のスタイル』(文化出版局、1990年)
*秦早穂子 『シャネル 20世紀のスタイル』 (文化出版局、1990年)
*『ココ・シャネル 20世紀ファッションの創造者』([[川上未映子]]巻末エッセイ、[[筑摩書房]]:ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉、2014年)
*『ココ・シャネル 20世紀ファッションの創造者』([[川上未映子]]解説、[[筑摩書房]]:ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉、2014年)
*アンネマリー・ファン・ハーリンゲン『ココとリトル・ブラック・ドレス』(川原あかね訳、文化出版局、2016年)
*アンネマリー・ファン・ハーリンゲン『ココとリトル・ブラック・ドレス』(川原あかね訳、文化出版局、2016年)
*イザベル・フィメイエ『素顔のココ・シャネル』(鳥取絹子訳、フランシス・ハモンド写真、[[河出書房新社]]、2016年)


=== 漫画 ===
=== 漫画 ===
124行目: 262行目:
*[[久松ゆのみ]] 『コミック版世界の伝記19 ココ・シャネル』(塚田朋子監修、ポプラ社、2012年)、児童向け
*[[久松ゆのみ]] 『コミック版世界の伝記19 ココ・シャネル』(塚田朋子監修、ポプラ社、2012年)、児童向け


=== 映画 ===
== 出典 ==
{{reflist|20em}}
* 『[[ココ・シャネル (1981年の映画)|ココ・シャネル]]』 (1981年、イギリス・フランス) 
**監督:[[ジョージ・カツェンダー]]、出演:[[マリー・フランス・ピジェ]]、[[ティモシー・ダルトン]]、[[ルトガー・ハウアー]]
*『[[ココ・シャネル (2008年の映画)|ココ・シャネル]]』 (2008年、アメリカ合衆国)
**出演:[[シャーリー・マクレーン]]
* 『[[ココ・アヴァン・シャネル]]』 (2009年、フランス)
**監督:[[アンヌ・フォンテーヌ]]、出演:[[オドレイ・トトゥ]]
*『[[シャネル&ストラヴィンスキー]]』 (2009年、フランス)
**監督:[[ヤン・クーネン]]、主演:[[アンナ・ムグラリス]]


=== 演劇 ===
== 読書案内 ==
* {{cite book | last=Charles-Roux | first= Edmonde | title=The World of Coco Chanel: Friends, Fashion, Fame | publisher=Thames & Hudson | year=2005 |isbn=978-0-500-51216-6}}
*[[ブロードウェイ]][[ミュージカル]]『[[:w:Coco (musical)|COCO]]』([[アラン・ジェイ・ラーナー]]作詞、[[アンドレ・プレヴィン]]音楽、1969年、アメリカ合衆国で初演/日本での初演は2009年)
* {{cite journal |last=Davis | first=Mary | title=Chanel, Stravinsky, and Musical Chic | journal=Fashion Theory | volume=10 | issue=4 |date=December 2006 | pages=431–60 | doi=10.2752/136270406778664986}}
**主演:[[キャサリン・ヘプバーン]](日本版は[[鳳蘭]])
* {{cite book |last=Fiemeyer | first= Isabelle | title=Intimate Chanel | publisher=Flammarion | year=2011 | isbn= 978-2-080-30162-8}}
*ミュージカル『[[ガブリエル・シャネル]]』(脚本・作詞:齋藤雅文、演出:[[宮田慶子]]、美術:[[妹尾河童]]、2009年に日本で初演)
* {{cite book |last=Madsen | first=Axel | title=Coco Chanel: A Biography | publisher=Bloomsbury Publishing PLC | year=2009 | isbn=978-1408805817}}
**主演:[[大地真央]]
* {{cite book |last=Morand | first=Paul | title=The Allure of Chanel | publisher=Pushkin Press | year=2009 | isbn=978-1-901285-98-7| title-link=The Allure of Chanel }}

* {{cite book | last=Simon |first=Linda |url=http://www.themontrealreview.com/2009/Coco-Chanel-by-Linda-Simon.php |title=Coco Chanel|publisher=Reaktion Books|year=2011| isbn=978-1-86189-859-3}} (Reviewed in ''[http://www.themontrealreview.com/2009/Coco-Chanel-by-Linda-Simon.php The Montreal Review]'')
== 出典 ==
* {{cite book | last=Smith | first = Nancy |title=Churchill on the Riviera: Winston Churchill, Wendy Reves, and the Villa La Pausa Built by Coco Chanel | publisher = Biblio Publishing | year=2017 | isbn=978-1622493661}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 関連項目 ==
{{Commonscat|Coco Chanel}}
{{wikiquote|en:Coco Chanel|ココ・シャネル(英語)}}
* [[コラボラシオン]]
* [[エルザ・スキャパレッリ]]
* [[カール・ラガーフェルド]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|Coco Chanel}}
*[http://www.chanel.com ココ・シャネル オフィシャルサイト]
{{wikiquotelang|en|Coco Chanel}}
*[http://www.1920s-fashion-and-music.com/Coco-Chanel.html 1920年代のココ・シャネル]{{en icon}}
* [http://www.chanel.com Official Site of Chanel]
* [http://www.myswitzerland.com/ja/lake-geneva-region-vaud1.html スイス政府観光局:レマン湖地方(日本語)]
* {{IMDb name|0151558|name=Coco Chanel}}

* {{FMD designer|gabrielle-chanel|Gabrielle Chanel}}
{{Normdaten}}
* [http://www.decolish.com/CocoChanel.html Coco Chanel in the Art Deco Era]
* {{YouTube|6J6EwS6O24M|Lisa Chaney on Coco Chanel}}
* {{YouTube|Vfyx6zbzKA8|Coco Chanel 1969 interview}}
* [http://www.vam.ac.uk/vastatic/microsites/1486_couture/explore.php Interactive timeline of couture houses and couturier biographies] Victoria and Albert Museum
* {{findagrave|7264027}}


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2020年1月28日 (火) 16:28時点における版

ココ・シャネル
Coco Chanel
ココ・シャネル(1920年)
本名 Gabrielle Chasnel[1]
ガブリエル・シャネル
誕生日 (1883-08-19) 1883年8月19日
出生地 フランスの旗 フランス共和国メーヌ=エ=ロワール県ソミュール
死没年 (1971-01-10) 1971年1月10日(87歳没)
死没地 フランスの旗 フランスパリ
国籍 フランスの旗 フランス
芸術分野 ファッションデザイナー
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ガブリエル・ボヌール・「ココ」・シャネルGabrielle Bonheur "Coco" Chanel1883年8月19日[2] - 1971年1月10日)はフランスのファッション・デザイナー、企業家であり、シャネルブランドの創設者。第一次世界大戦第二次世界大戦の戦間期における彼女のデザインを通じて、「コルセット・シルエット(corseted silhouette)」の束縛から女性が解放され、スポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされている。多作なファッション・クリエイターであり、高級婦人服の枠組みを超えて影響力を広げ、ジュエリー、ハンドバッグ、そして香水において独自の美学を完成させた。代表的な香水、シャネルNo.5は彼女を象徴する製品となった。シャネルは『タイム』誌の20世紀の最も重要な100人英語版にファッション・デザイナーとして唯一リストされている[3]。また、彼女自身がデザインした有名な「C」を2文字組み合わせたモノグラムは1920年代から使用されている[4]:211

シャネルは政治的には保守的な信条を持ち、ナチス・ドイツによるフランス占領の最中にはドイツに協力的な行動を取っていたことでも知られている。ドイツ当局との密接な関係、そしてドイツの外交官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)男爵英語版(Freiherr)との緊密な関係を通じて、有利な立ち位置を維持した[5][6] 。戦後、シャネルはフォン・ディンクラーゲとの関係を尋問されたが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの仲介によって枢軸国に対する協力者英語版として訴追されることを免れた。そして、戦後数年間をスイスで過ごした後、パリに戻り自分の店を再開した。戦後もファッション・デザイナーとして第一線で活動したが、1971年1月に死去した。

幼少期

ガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年、洗濯婦ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル(Eugénie Jeanne Devolle、以下、ジャンヌ)の子として、フランスメーヌ=エ=ロワール県ソーミュールの、修道女会(Sœurs de la Providence)が運営する慈善病院(救貧院)で生まれた[7]:14[8]。ガブリエルはジャンヌとアルベール・シャネル(Albert Chanel)の第二子であり、姉のジュリアが1年ほど前に生まれている[8]。アルベール・シャネルは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で[9]:27、定住所を持たず市場のある町から町へ移動する生活を送っていた。一家は荒れ果てた宿泊施設で暮らしていた。アルベールがジャンヌ・ドゥヴォルと結婚したのは1884年のことである[7]:16。これはジャンヌの家族に説得されてのことであった。一家は「協力して、事実上」、すでにアルベールに結婚のための「費用を支払っていた」のである[7]:16

ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった[7]:16[10]:41。両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの一部屋だけの住居にすし詰めで暮らしていた[8]

ガブリエルが12歳の時[4][11] 、母ジャンヌが死去した。ガブリエルことココ・シャネルは母が32歳で結核により死亡したと後に主張しているが[7]:18、これは必ずしも死因の正確な診断とは言えず、むしろ貧困、妊娠、そして肺炎が原因であった可能性が高い[12]。父アルベールは息子2人を農場労働者として送り出し、娘3人はオーバジーヌ英語版の聖母マリア聖心会(religieuses du Saint Cœur de Marie)が運営する孤児院に預けた。聖母マリア聖心会は「捨てられて孤児になった少女たちのために家庭を与えるなど、貧しく排除された人々を保護するために設立された」修道会であった[7]:27。孤児院での生活は、厳格な規律が課せられる厳しく質素なものであったが、ここで裁縫を学んだことは、彼女の後の仕事につながる経験であった可能性がある。しかし、シャネルは孤児院送りとなった時の惨めな気持ちを後年「何もかも奪われてしまった。自分は死んでしまったんだ」と回顧している[13]:21。そしてここでの暮らしについて決して語ることがなかった[13]:21[10]:59。18歳になるとオーバジーヌの孤児院を出なければならなかったため、彼女は次にムーランの町のカトリック女子寄宿舎に預けられた[14]:5

シャネルが晩年に語った子ども時代の話には多少矛盾があり、しばしば魅力的な話を付け加えているが、このような話は概ね事実ではない[8]。たとえば、彼女は母親が死去した時、父が運命を切り開くべくアメリカに向かい、自分は二人のおばに預けられたと語っているし、実際の生年より10年も後に生まれたとか、母親が亡くなったのは彼女が12歳のときではなく、これよりずっと幼かったなどの主張をしている[15][信頼性要検証]。また、ミドルネームであるボヌール(「幸福」の意)は洗礼式の際に彼女を洗礼盤の上に運んだ修道女が将来の幸福を祈って名付けたものだとも語っているが、洗礼証書にはガブリエルの名前しかなく、これも創作であると見られる[10]:43

初期の経歴

舞台を目指して

オーバジーヌ英語版で6年間裁縫を学んだ後、シャネルはある仕立て屋で職を見つけた[16]。そして副業として騎兵将校の溜まり場となっていたキャバレーで歌を歌ってもいた。シャネルはムーランのパビリオンのカフェ・コンセール(当時人気の娯楽の場)「ラ・ロトンド(La Rotonde)」で舞台デビューとなる歌を歌った。彼女の仕事はposeuse(スターたちが舞台で入れ替わる幕間に観客を楽しませて場を繋ぐパフォーマー)であり、その収入源はプレートを渡された時のチップを貯めることであった。彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃である。彼女は夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu'a vu Coco ?)」であった。彼女はココというニックネームを父親から与えられたものだと言うのを好んだが[17]、「ココ(Coco)」は彼女のレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」及び「Qui qu'a vu Coco ?」、または囲い者を暗喩するフランス語の単語「cocotte」から来ていると考えられている[18]。エンターテイナーとしてのシャネルはキャバレー通いの若い軍人たちを魅了し誘惑した[14]

1906年、シャネルは温泉リゾート地ヴィシーで働くようになった。ヴィシーは林立するコンサートホール、劇場、カフェを誇っており、彼女はそこで芸能人として成功することを夢見た。シャネルは若さと肉体的な魅力によってオーディションの審査員たちに強い印象を与えたものの、その歌声に対する評価は低く、舞台の仕事を得ることはできなかった[9]:49。何としても職を見つけなければならなかったシャネルはグランド・グリーユ(Grande Grille)でdonneuse d'eauとして勤務した。この仕事は、治癒効能があるとして有名なヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分けるというものであった[9]:45。ヴィシーの公楽シーズンが終わると、シャネルはムーランに帰り古巣の「ラ・ロトンド」に戻った。この時には彼女は自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識していた[9]:52

バルサンとカペル

セムが描いた、シャネルとアーサー・カペル「ボーイ」を描いた風刺画。(1913年)

ムーランで、シャネルは若きフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子であるエティエンヌ・バルサン英語版と出会った。23歳の時、シャネルは娼婦エミリエンヌ・ダランソンに取って代わる形でバルサンの新しいお気に入りの愛人となった[9]:10。その後3年間、バルサンと共にコンピエーニュ近郊ロワイヤリュー(Royallieu)の彼のシャトーで暮らした。この地域は樹木が並ぶ乗馬道と狩猟場で知られていた[14]:5–6。そこでの生活は自堕落なものであった。バルサンの富によってシャネルは言外にあらゆる退廃を伴うパーティーでの歓楽、美食に溺れることが可能となった。バルサンはシャネルに卑小な「豊かな生活」―ダイヤモンド、ドレス、そして真珠―を浴びせかけた。伝記作家ジャスティン・ピカルディ英語版は2010年の彼女の著作『ココ・シャネル その伝説と人生(Coco Chanel: The Legend and the Life)』において、シャネルの自殺した姉ジュリア・ベルテのただ1人の子供でファッションデザイナーの甥、アンドレ・パラス(André Palasse)は、恐らく実際にはシャネルとバルサンの間の子供だったと主張している[19]

1908年、シャネルはバルサンの友人の一人、ボーイ・カペルと関係を持ち始めた[20]。シャネルは晩年に当時を「二人の紳士が私の熱く小さな体を巡って競り合っていた」と回想している[21]:19。カペルは富裕なイギリスの上流階級で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせた[14]:7。また、彼女の最初の店舗の出店費用も提供した。カペルの服装のスタイルがシャネルのデザインセンスに影響を与えたと言われている。シャネルNo.5の容器デザインの原型となったデザインには2つの説があるが、その両方がシャネルとカペルの関係に関わるものである。一つはシャネルはカペルが革製の旅行鞄に忍ばせていたシャルベ英語版のトイレタリー・ボトルの斜めの線を長方形に入れたものを採用したというものであり[22]、もう一つはカペルが使用していたウイスキー・デカンタのデザインを採用したというものである。彼女はこのデカンタのデザインをひどく気に入ったので、「雅やかで、高価で、繊細なガラス」でこれを再現しようと考えた[23]:103。シャネルとカペルは共にドーヴィルのようなファッショナブルなリゾート地で時を過ごした。しかし、シャネルは彼と身を落ち着けることを望んでいたものの、カペルが彼女に対して誠実であったことはなかった[20]。彼女たちの情事は9年間続いた。カペルがイギリスの貴族であるダイアナ・ウィンダム夫人(Lady Diana Wyndham)と1918年に結婚した後でさえ、カペルはシャネルとの関係を完全に絶つことはなかった。カペルは1919年12月21日、交通事故で死亡した[24][25]。事故現場の道路脇に設置されたカペルの事故の記念碑はシャネルが依頼したものであると言われている[26]。事故の25年後、当時スイスに在住していたシャネルは友人のポール・モランに「彼の死は私にとって大きな打撃でした。カペルを失って、私は全てを失いました。その後の人生に幸せはなかったと、私はそう言わなければなりません。」と語っている[14]:9

シャネルの帽子を被ったガブリエル・ドルジア(Gabrielle Dorziat)、『レ・モード』誌、1912年5月。

バルサンと暮らし始めると共にシャネルは帽子のデザインを始めていた。当初これは暇つぶしであったが、企業規模へと発展していく。彼女は1910年に婦人用帽子職人英語版のライセンスを取得し、カンボン通り21番地にChanel Modesと名付けたブティックを開業した[27]。この場所は既に被服業界の拠点が確立されていたため、シャネルはこの店では彼女が作った帽子のみを販売した。シャネルの製帽業者としてのキャリアは舞台女優ガブリエル・ドルジア英語版が1912年に演出家フェルナン・ノジエールフランス語版の作品『ベラミ(Bel Ami)』(ギ・ド・モーパッサンの小説『ベラミ』の戯曲化)でシャネルの帽子をかぶったことを通じて花開いた。その後、ドルジアは『レ・モード(Les Modes)』誌に掲載された写真において再びシャネルの帽子のモデルとなった[27]

ドーヴィルとビアリッツ

1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出した。シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー英語版トリコットのような安手の生地で作られていた[27]。ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあった。ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(marinière)を販売した。シャネルは姉妹のアントワネット(Antoinette)と同い年の父方の叔母アドリエンヌ(Adrienne)という2人の家族から献身的な支援を受けた[9]:42。アドリエンヌとアントワネットはシャネルの作品のモデルをするために採用された。2人は毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝した[9]:107–08

シャネルはドーヴィルでの成功を再現することを決意し、1915年にビアリッツに本格的な店舗を出した。スペインの富裕層の顧客に近いコスタ・バスカのビアリッツは金持ちグループや第一次世界大戦で自国から亡命してきた人々の遊び場であった[28]。ビアリッツの店舗はフロントがなくカジノの正面の別荘内にあった。1年間の営業のあと、この地でのビジネスが極めて有利なものであることが証明され、1916年にはシャネルはカペルが提供した原資を返済することができるようになった[9]:124–25。ビアリッツでシャネルは追放されたロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公と出会った。シャネルと大公はロマンティックなひと時を過ごし、その後何年もの間密接な関係を維持した[9]:166。1919年、シャネルは「クチュリエール」として登録し、パリのカンボン通り31番地に自身のメゾン・ド・クチュール(maison de couture)を開業した[27]

クチュリエールとして

自身の帽子店にいるシャネル(右、1919年)。セムによる風刺画。

1918年、シャネルはパリで最もファッショナブルな地区の1つにあるカンボン通り31番地の建物を購入した。1921年、彼女は初期のファッションブティックと言える店舗をオープンさせた。この店は衣類、帽子、アクセサリーを主に取り扱い、後にジュエリーや香水にも分野を拡大した。1927年までに、シャネルはカンボン通りに5つの不動産(properties)を保有し、建物には23から31までの番号が付けられていた[29]

1920年の春(恐らくは5月)、シャネルはバレエ・リュスの団長セルゲイ・ディアギレフによってロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーに引き合わされた[30]。夏の間に、シャネルは戦後、ストラヴィンスキーの一家がソヴィエト連邦から逃れ住処を探していることを知った。彼女はストラヴィンスキー一家をパリの郊外のギャルシュにある自分の新居ベルレスピロ(Bel Respiro)に招待し、彼らが適当な住居を見つけることができるまでの間住まわせた[30]:318。彼らは1920年9月の第2週にベルレスピロに到着し[30]:318、1921年の5月まで滞在した[30]:329。シャネルはまた、バレエ・リュスの新たなストラヴィンスキーの新作(1920年)、『春の祭典Le Sacre du Printemps)』の金銭的損失をディアギレフへの匿名の贈与で補填した。その金額は300,000フランと言われている[30]:319。クチュール・コレクションの発表に加えて、シャネルはバレエ・リュスのためのダンス衣装のデザインに没頭した。1923年から1937年にかけて、彼女はディアギレフとダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーが振付た作品群、特に『青列車Le Train bleu)』、ダンス・オペラの『オルフェ(Orphée)』と『オイディプス王(Œdipe roi)』に協力した[14]:31–32

1922年、ギャラリー・ラファイエットの創業者テオフィル・バデ英語版パリロンシャン競馬場でのレースで、シャネルを実業家のピエール・ヴェルテメールに紹介した。ヴェルテメールは自身の経営する百貨店でシャネルNo.5の販売を行うことに興味を持った[31]。1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドのブルジョワ英語版の経営陣であった。彼らは企業法人パルファム・シャネル(Parfums Chanel)を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがテオフィル・バデの取り分であった。株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた[23]:95。後に、この契約に不満だったシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けた[31][23]。彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(the bandit who screwed me)」と発言している[23]:153

シャネルが長く交友をつづけた人物の1人にミシア・セールがいた。彼女はパリのボヘミアンブルジョワで、スペインの画家ホセ・マリア・セール英語版の妻であった。シャネルとセールは似た者同士で惹かれ合ったと言われる。当時のミシアの目にシャネルがどのように映っていたのかについて、伝記作家らは「シャネルの天才、気前の良さ、破壊的なウィットを伴う激情、痛烈な毒舌、熱狂的な破壊性は誰をも惹きつけると同時に愕然とさせた」と評している[14]:13。シャネルとミシアは2人とも修道院で学んでいた経験があり、共通の興味と信頼を保ち続けた。彼女たちはまた、薬物の使用も共有していた。1935年までにシャネルは薬物を利用する習慣を持つようになっており、人生の終わりに至るまで日常的にモルヒネを注射していた[14]:80–81チャンドラー・バール英語版の『匂いの帝王(The Emperor of Scent)』によれば、ルカ・トゥリン英語版は著作の中で、シャネルは「パリで最も素晴らしいコカインパーティーを催したのでココと呼ばれた」という根拠のない噂を広めた[32]

作家のコレットはシャネルと同じ社会的なサークルに加っており、随筆集『牢獄と天国(Prisons et Paradis)』(1932年)の中でアトリエで働いているシャネルについて次のような奇態な説明を残している。「全ての人間の顔がある動物に似るとするならば、マドモアゼル・シャネルの顔は小さな黒い雄牛である。彼女のカーリーな黒髪は仔牛のそれであり、彼女の額から眉の上を通って落ち、彼女の頭の上をあらゆる動きで踊っている[9]:248。」

英国貴族との関係

シャネルとウィンストン・チャーチル(1921年)

1923年、ケンブリッジ侯爵の隠し子と言われているヴェラ・ベイト・ロンバーディ英語版(サラ・ガートルード・アールライトとして生まれた[33] )は、シャネルに最上級の英国貴族社交界に加わることを認めた。これは政治家ウィンストン・チャーチルやウェストミンスター公のような貴族、エドワード8世のような王族ら重要人物を中心に運営されているエリートのグループである。1923年にモンテ・カルロにおいて、当時40歳のシャネルはロンバーディによって大富豪であるウェストミンスター公ヒュー・リチャード・アーサー・グローヴナー英語版に紹介された。彼は親しい人々から「ベンドア(Bendor)」と呼ばれていた。ウェストミンスター公はシャネルに豪華な宝石、高価な美術品、ロンドンの有名なメイフェア地区にある邸宅を気前よく与えた。彼とシャネルの関係は10年続いた[14]:36–37

公爵に紹介されたのと同じように、再びロンバーディを通じて、ロンバーディの従兄弟であった王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード8世に紹介された。エドワード8世はシャネルに惚れ込み、シャネルとウェストミンスター公の関係を知りつつ彼女を追いかけた。エドワード8世がシャネルのアパルトマンを訪れ、自分を彼に親しい人々と同じように「デーヴィッド(David)」と呼ぶように求めたというゴシップがあった。数年後、『ヴォーグ』誌の編集者ダイアナ・ヴリーランドは「情熱的でひたむきで、猛烈に独立心旺盛な、その存在そのものが偉業であるシャネル」はエドワード8世と「すばらしいロマンティックなひとときをともにしたことがあった」と書いた[14]:38[13]:71

1927年、ウェストミンスター公はアルプ=マリティーム県プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)にあるロクブリュヌ=カップ=マルタンに購入した土地をシャネルに贈り、シャネルはそこに別荘(villa)を建設した。これは建築家のロベール・ストレイツ(Robert Streitz)によって建てられ、彼女はこれをラ・パウザ英語版La Pausa、休息所)と呼んだ[34]。ストレイツは階段とパティオのコンセプトにシャネルが若き日を過ごしたオーバジーヌ英語版修道院から影響を受けたデザイン要素が取り入れた[14]:48–49[35]。ウェストミンスター公とシャネルの関係はゴシップ誌に結婚を噂されるほどのものになり、ウェストミンスター公自身もシャネルに仕事を辞めてパートナーになることを求めていた[13]:85。しかし、シャネルが結婚することはなかった。なぜウェストミンスター公と結婚しなかったのか、と問われた時、シャネルは「ウェストミンスター公は何人もいました。シャネルは1人しかいません。」と答えたと言われる[36]

映画用のデザイン

亡命中のドミトリー・パヴロヴィチ大公。1920年代。

1931年、モンテ・カルロにいる間にシャネルは共通の友人であったドミトリー・パヴロヴィチ大公を通じてサミュエル・ゴールドウィンと知り合った。ドミトリー・パヴロヴィチ大公は最後のロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世の従兄弟である。ゴールドウィンはシャネルに興味深い提案を行った。それは総計100万ドル(今日のおよそ7500万ドルに相当)の報酬でMGMのスターたちのための衣装デザインを依頼し、そのためにシャネルをハリウッドに2年間招聘するというものであった。シャネルはこの依頼に同意した。この彼女のハリウッドへの初渡航には友人であるミシア・セールが同行した。

1932年に、ニューヨークからカリフォルニアへ向かう途上、彼女のために豪華に飾り付けられた列車の車両内で、シャネルは『Colliers』紙にインタビューを受けた。彼女は「映画が私に何を提供しなければならないのか、そして私が映画に何を提供しなければならないのかを見定める」ためにハリウッド行きに同意したと語った[23]:127

シャネルはマーヴィン・ルロイ監督の映画『今宵ひととき英語版』(1931年)でグロリア・スワンソンが身に着けた衣装と、ローウェル・シャーマン監督の映画『黄金に踊る英語版』(1932年)でアイナ・クレアが身に着けた衣装をデザインした。グレタ・ガルボマレーネ・ディートリヒの二人が個人的な顧客となった[37]

彼女はアメリカ映画での経験を通じてハリウッド映画産業に嫌気がさし、ハリウッドの映画世界の文化を嫌うようになった。彼女はハリウッドの映画文化を「幼稚(infantile)」だと評した[14]:68 シャネルの評決は「ハリウッドは悪趣味の首都...要するに下品。」であった。[14]:62。結局、彼女の美的なデザインは映画にはあまりふさわしくなかった。『ザ・ニューヨーカーThe New Yorker)』誌によれば、シャネルは不機嫌な様子でハリウッドを去ったという。同誌は「シャネルは一人のレディを一人のレディのように見せた」のに対して、「ハリウッドは一人のレディを二人のレディのように見せたがっているのだから」として、シャネルのデザインは映画界の大物たちにとっては派手さが足りなかったのだろうと推測している[13]:117[38]。シャネルはいくつかのフランス映画の衣装デザインは続けた。その中にはジャン・ルノワール監督の1939年の映画『ゲームの規則』があり、彼女は「ラ・メゾン・シャネル(La Maison Chanel)」としてクレジットされている。彼女は左翼のルノワールをルキノ・ヴィスコンティに紹介した。彼女はヴィスコンティというシャイなイタリア人が映画業界で働きたがっていることに気付いていた。ルノワールはヴィスコンティに好感を持ち、次の映画プロジェクトに彼を連れて行った[7]:306

重要な情事:ルヴェルディとイリーブ

シャネルは当時最も影響力のある複数の男性の愛人であったが、結婚することはなかった。彼女は詩人ピエール・ルヴェルディ、およびイラストレーター・デザイナーのポール・イリーブ英語版と重要な関係を持っていた。彼女とルヴェルディの恋愛関係は1926年にルヴェルディがカトリックに帰依し、北西部サルト県ソレムに隠棲したときに終わったが、定期刊行物に掲載された、シャネルのものとされる伝説的な名言はルヴェルディの助言の下で、共同で作られたものとされている。

シャネルの書簡を検討すると、彼女が書いた手紙の不器用さと、シャネルのものとされる名言の作者の才能の間に完全な矛盾があることが明らかになる...ルヴェルディは彼女が自分の「職業(メティエ[39])」について書いたわずか数篇のアフォリズムを修正し、さらにこの「シャネリズム(Chanelisms)」(シャネル名言集)に、人生や美的感覚、または魅力や愛などについて、より一般的な考察を加えたのである[9]:328

彼女とイリーブとの関係は深く、1935年にイリーブが急死するまで続いた。イリーブとシャネルは同じ反動的政治思想を共有しており、シャネルはイリーブが出していた国粋主義・反共和主義の風刺週刊新聞の『ル・テモワンフランス語版(証人)』[40][41]に資金提供を行っていた。『ル・テモワン』紙は、ゼノフォビアを煽り、反ユダヤ主義を唱える新聞であった。[14]:78-79[7]:300。同紙終刊の1年後の1936年には、シャネルは急進左翼誌の『Futur英語版』への資金提供を行い、極右から極左に急旋回した[7]:313

スキャパレッリとの競争

シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する営利企業になっており大きな利益をあげていた[37]。しかし1930年代の間に、オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになった。1920年代のフラッパーのボーイッシュな装いと短いスカートは瞬く間に姿を消した。ハリウッドの映画スター用のシャネルのデザインは成功せず、期待されたようには彼女の名声を高めなかった。より重要だったのは、シャネルという星がエルザ・スキャパレッリという最大のライバルによって覆い隠されてしまったことであった。シュールレアリスムへの遊び心ある援用で満ちていたスキャパレッリの革新的デザインはファッション界において圧倒的称賛を集め、熱狂を生み出した。シャネルはアバンギャルド(前衛的)な立ち位置を失っていると感じとり、ジャン・コクトー台本のオペラ『エディプス王』で彼とコラボレーションした。そこで彼女がデザインした衣装は嘲られ、「包帯でぐるぐる巻きにされた俳優たちは救急搬送されるミイラか、何かの事故の犠牲者のようであった。」と、酷くこき下ろされた[14]:96 。彼女はまたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの作品、『バッカス祭(Bacchanale)』の衣装にも関与した。衣装デザインはサルバドール・ダリによって行われた。しかしながら、1939年9月3日にイギリスが対独宣戦布告を行ったことで、バレエ・リュスはロンドンへ去ることを余儀なくされた。彼らがヨーロッパに残した衣装は、ダリの最初のデザインに従ってカリンスカ(Karinska)によって作り直された[42]

第二次世界大戦

シャネルは第二次世界大戦中、フランスを占領したドイツ軍に協力的な姿勢を取っており、このことは彼女の評価に影響を与えるものとしてしばしば議論となっている。戦時中のシャネルの行動は既に20世紀中に知られていたが[43]、2011年に伝記作家ハル・ヴォーンが新たに機密解除された資料に基づいてシャネルの対独協力行為を具体的に明らかにした『Sleeping with the Enemy, Coco Chanel and the Secret War』を出版したことでこの件は再び大きな注目を浴びた[44][45][14]

1939年に第二次世界大戦が始まった後、シャネルはカンボン通り31番地の店を閉め、アパルトマンは店舗の上に残しておいた。彼女は今はファッションの時代ではないと語った[28]。この結果、4,000人の女性が雇用を失った[14]:101。彼女の伝記を書いたヴォーンは、1936年のフランスの大規模なゼネストの中で、賃上げと労働時間の短縮を求めてストライキを行った労働者たちへの報復の機会としてシャネルが戦争の勃発を利用したと示唆している。店舗閉鎖の最中、シャネルは自身の政治的見解について決定的な声明を出した。シャネルはレオン・ブルム等、ユダヤ人の政治家たちはヨーロッパを脅かすボルシェヴィキであると信じていた[14]:101。こうしたシャネルの見解は彼女が修道院にいた頃に受けた教育(当時はイエス・キリストを十字架にかけたユダヤ人をイエスの殺害者として教えることが珍しいことではなかった)に端を発し[13]:21、長年の間の愛人たち(それは同時に彼女の立身出世を助けた支援者たちでもあった)との関係の中で研ぎ澄まされたものであった[13]:165

ドイツによるフランス占領中、シャネルはホテル・リッツに住んだ。このホテルはドイツ軍の上級軍人たちから好ましい居住地として注目されていた。パリ駐在のドイツ外交官でかつてのプロイセン軍将校かつ法務長官(Attorney General)であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲドイツ語版男爵(フライヘア英語版)とシャネルのロマンティックな情事によってリッツでの彼女の立ち位置は有利なものとなった[14]:Chapter 11。彼は1920年代から軍の情報機関の諜報員であった[14]:57

シャネルがウェストミンスター公と関係を持っていた1930年代、彼女のスタイルは彼女の個人的な感情を反映し始めた。彼女が小さな黒いドレスを再作成することができなかったのはそのような現実の兆候であった。彼女は「少ないほど豊かである(less is more)」という美学を追求し始めた.[44]

パルファム・シャネル経営権を巡る戦い

シャネル・ブランドの香水シャネルNo.5

第二次世界大戦、とりわけナチスによるユダヤ人が所有する不動産と企業の没収によって、シャネルにパルファム・シャネルと、その最も収益性の高い製品、シャネルNo.5が生み出す金銭的利益全てを手に入れる機会が訪れた。その経営者ヴェルテメール兄弟はユダヤ人であった。シャネルは自身の「アーリア人」としての立場を使ってパルファム・シャネルの単独所有権を合法化するべくドイツ当局に申請を出した。

1941年5月5日、彼女はユダヤ人の金融資産の処分に関する採決を担当している政府行政官に手紙を書いた。彼女のパルファム・シャネルに対する所有権の根拠は、パルファム・シャネルは「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であった彼らはすでにこれを法的に「放棄している」というものであった[23]:150[46]

彼女はさらに、「私には争う余地のない優先権があります...この事業を創設して以来、私が創り出したものから受け取った利益は...適正なものではありません。...(そして)貴方様には、過去17年にわたって私が被ってきた損害を多少なりとも回復するために、お力をお貸し頂けるものと思います[23]:152–53」と書いている。

シャネルは、ナチスがいずれユダヤ人に対して下す命令をヴェルテメール兄弟が予期し、1940年5月にパルファム・シャネルの経営権をフランス人カトリック教徒の実業家・事業家フェリクス・アミオ英語版に法的に譲渡していたことを知らなかった。戦後、アミオはパルファム・シャネルをヴェルテメール兄弟の手に返した[23]:150[46]

第二次世界大戦終結直後、業界はパルファム・シャネルの経営権を巡る法的闘争を興味と若干の懸念を持って見守っていた。本係争における利害関係者たちは戦時中のシャネルとナチスの関係がもしも公に知れ渡れば、シャネルブランドの名声と地位に深刻な影響を及ぼすと認識していた。『フォーブス』誌はヴェルテメール兄弟が抱えていたジレンマを「(ピエール・ヴェルテメールは)法的闘争がシャネルの戦時中の活動を照らし出し、(どれほどまでに)彼女のイメージを破壊してしまうだろうか―それによって彼のビジネスも破壊されてしまうだろうか(を心配していた)」と要約している[23]:175

シャネルはヴェルテメールに対する訴訟のためにヴィシー・フランス政権の首相ピエール・ラヴェル英語版の義理の息子、ルネ・ド・シャンボン英語版を弁護士として雇った[47]。結局、ヴェルテメールとシャネルは1924年の元々の契約について再交渉し、互いに和解した。1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(21世紀の通貨換算でおよそ9億ドルに相当する)を受け取った。また、将来の全世界におけるシャネルNo.5の売り上げの2パーセントについて権利を得た。彼女が得た経済的利益は莫大なものであった。彼女は1年あたり2500万ドルの収入を得ていたと予想されており、当時世界で最も富裕な女性となっていた。付け加えて、ピエール・ヴェルテメールはシャネル自身が提案した特殊な条項に同意した。即ちヴェルテメールは、シャネルのその後の一生涯にわたり、彼女の生活費を―些末なものから大型出費に至るまで―全て負担することに合意した[23]:175–77[48]

ナチスの諜報活動との関わり

ワルター・シェレンベルグ(Walter Schellenberg)将軍。親衛隊情報機関「Sicherheitsdienst」の長。

伝記作家ハル・ヴォーン英語版が発見した機密解除文書によってパリ警視庁がシャネルに関する文書を保有していることが明らかになった。シャネルはこの文書に(ウェストミンスターを表わす)偽名「WESMINSTER」(原文ママ)、「諜報員番号(Indicatif d'agent)F-7124」と記されていた。[49][14]:140。ヴォーンにとってこれはシャネルとドイツ情報機関の関係を示す情報であった。ナチ・ハンターとして知られる歴史学者のセルジュ・クラルスフェルトは「彼女に諜報員番号が付けられたからといって、必ずしも個人的に関与していたということにはならない。密告者のなかには、知らないうちに番号を付けられた者もいた」と述べている[50]

ヴォーンは、シャネルが早くも1941年にはドイツに協力しベルリン国家保安本部Reichssicherheitshauptamt)で親衛隊の情報部SDSicherheitsdienst)とドイツ軍諜報機関アプヴェーアAbwehr)の長であるワルター・シェレンベルグ英語版将軍のために動いていたことを確認した[14]:xix。第二次世界大戦が終わった時、シェレンベルクはニュルンベルク軍事裁判にかけられ、戦争犯罪のために禁固6年の判決を受けた。彼は不治の肝臓疾患のために1951年に釈放されイタリアで療養した。シャネルはシェレンベルクの医療費と生活費を負担し、その妻と家族を資金的に支えた。そして彼が1952年に死去した時、その葬儀費用もシャネルが支払った[14]:205–07

シャネルのスパイ行為の疑いはドイツ軍の戦車がパリに入りナチスの占領が始まった時に始まった。シャネルは直ちにドイツ占領軍の本部として使用された豪華なホテル・リッツ(Hotel Ritz)に安全を求め、そこでドイツ大使館で働いていたゲシュタポに近いハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵と恋に落ちた。ナチスによるフランス占領が始まった時、シャネルは彼女の店を閉めることを決定し、その決意は愛国的な動機からきたものであると主張した。しかしながら、彼女がドイツ軍が拠点としていたホテル・リッツに移動した時、その動機がどのようなものであるか多くの人々がはっきりと悟った。多くのフランス女性がドイツ軍人たちとの「水平的協力(horizontal collaboration)」のために罰せられる一方、シャネルがそのような事態に直面することはなかった。1944年にフランスが解放された時、シャネルは自身の店のウィンドウに全てのGIにシャネルNo.5を無料で提供すると書いたメモを残した。この最中、彼女はナチスの諜報活動に協力したことで犯罪者として告訴されるのを避けるためスイスに亡命した[44]

モデルフート作戦

2014年末、フランス諜報機関が機密文書の機密を解除し公開したことで、第二次世界大戦中のドイツの諜報活動においてココ・シャネルが果たした役割が明らかとなった。1943年にマドリードを訪れ、連合国優位に傾く戦況の中、シャネルが関与した中で最も有名な任務の1つはモデルフート作戦(Modellhut、'Operation Model Hat')である。彼女の任務はドイツの外交情報機関からウィンストン・チャーチルへのメッセンジャーであり、シャネルの友人であった当時のスペイン駐在イギリス大使を通じて和平を仲介することであった[44][13]:256

1943年、シャネルはベルリンの「獅子の巣」にある国家保安本部Reichssicherheitshauptamt)へ、彼女の連絡係と「旧友」であるパリ駐在ドイツ大使館の報道官(press attaché)ハンス・ギュンター・フォンディンクラーゲとともに向かった。元プロイセン軍将校であり、法務長官(Attorney General)でもあった彼は、友人や同僚の間では「Sparrow(スズメ)」というニックネームでも呼ばれていた[5][6]。ディンクラーゲはまた、ドイツのSicherheitsdienst(Security Service)の共同設立者でもあった。彼の上司がワルター・シェレンベルグとベルリンのアレクサンデル・ワーグ(Alexander Waag)であった[5][6]。シャネルとディンクラーゲは国家保安本部でワルター・シェレンベルグに報告を行い、その場でシャネルがディンクラーゲに提案した馬鹿げた計画も報告されることになっていた。その計画は、彼女、ココ・シャネルがイギリス首相ウィンストン・チャーチルと面会し、ドイツと交渉を行うように説得したいというものであった[14]:xix[5][6]。1943年末、または1944年初頭、シャネルとシェレンベルクは親衛隊による交渉を行い、イギリスに分離講和を考慮させる計画を立てた。シェレンベルクは型破りな手法を用いるという欠点があった[5]。戦争終結時にイギリスの諜報機関によって尋問された時でも、シェレンベルクはシャネルが「政治的交渉をチャーチルと行うのに十分なほど彼の知己を得ている」という見解を維持していた.[14]:169。この作戦は「Operation Modellhut」というコード名を付けられていた。彼らはまたベラ・ベイト・ロンバーディ英語版も採用した。ナチスのエージェントで1944年にイギリスの諜報機関へと走ったヨセフ・フォン・レーデブーア=ヴィヒェルン伯爵(Count Joseph von Ledebur-Wicheln)は1943年初頭にディンクラーゲと会談を持ったこと供述している。それによれば、ディンクラーゲは特使の中にロンバーディを参加させることを彼に伝えた。ディンクラーゲは彼女を参加させる口実として、「アプヴェーアAbwehr)」は「(シャネルに協力させる)その前に、ある若いイタリア人女性(引用注:ロンバーディ)をフランスに連れてくる必要がある。レズビアン的な傾向のあるシャネルは、その女を愛している。」という虚偽の話をしたと言う[14]:163–64[13]:262

シェレンベルグとシャネルの策動を知らなかったロンバーディはスペインへの旅行はマドリードにシャネルのクチュールを設立する可能性を探るためのビジネスとしての旅行であると信じ込まされていた。ロンバーディの役目はシャネルが書いた手紙をマドリードのイギリス大使館経由でウィンストン・チャーチルへと届けることであった[14]:169–71[13]:270。また、シェレンベルグは親衛隊連絡将校(liaison officer)であるワルター・クッチュマン英語版大尉(Captain)に「マドリードでマドモアゼル・シャネルに大金を手渡すよう」指示を出した[13]:174。結局このミッションは失敗した。イギリス情報機関(M16)の尋問調書によれば、マドリードに到着した後、ロンバーディがイギリス大使館にシャネルを含む自分の同行者全員がナチスのスパイだと伝えたことで計画が破綻したことが明らかになっている[13]:275[14]:174–75

告発に対する備え

1944年9月、シャネルはフランスの粛清委員会に尋問された[51]。この委員会はシャネルのドイツ諜報活動への協力について文書化された証拠を保持しておらず、彼女を釈放せざるを得なかった。シャネルのgrand-niece(兄弟の孫)であるガブリエラ・パレス・ラブリュニー(Gabrielle Palasse Labrunie)によれば、シャネルは自宅に戻った時、「チャーチルが私を解放した」と言ったという[14]:186–87

シャネルに対するチャーチルの介入の度合いは、戦後にゴシップと疑惑の種となった。もしシャネルが自身の活動について裁判で証言することを強制された場合、イギリスのトップクラスの官僚や社会的エリート、そして王室の親ナチ的態度と活動が暴露されるだろうと人々が心配したのだと、幾人かの歴史家が主張している。ヴォーンはチャーチルがフランス共和国臨時政府のイギリス大使ダフ・カッパー英語版にシャネルを保護するように命じたと主張する人も存在すると書いている[14]:187

1949年、パリに来て捜査官たちの前に立つように要求されたシャネルは、ゲシュタポの諜報員ルイ・ド・ヴォーフルラン男爵(Baron Louis de Vaufreland)の戦争犯罪裁判で彼女の活動について示された証言に立ち向かうため、亡命先のスイスを離れた。シャネルは全ての告発を否定した。彼女は裁判長(presiding judge)ルクレール(Leclercq)に証明書として「ダフ・カッパー氏からの声明を手配することが可能です」と申し出た[14]:199

シャネルの友人かつ伝記作家であるマルセル・ヘンドリック(Marcel Haedrich)は戦時中におけるシャネルとナチスの交流について「マドモアゼル・シャネルが占領中の黒い年月の彼女自身について明らかにした僅かな情報は歯の浮くようなものだ。真剣に受け止めようもない」と述べている[23]:175

チャーチルとシャネルの友人関係は1920年代にシャネルとウェストミンスター公の恋が燃え上がりスキャンダルが始まった頃に構築された。終戦時のチャーチルの介入によってスパイ活動への協力というシャネルの罪に懲罰が与えられることはなくなり、彼女の資産は救われた[44]

論争

2011年8月にヴォーンの本が出版された時、彼が機密指定解除された軍事情報文書の内容を暴露したことで、シャネルの活動についてかなりの論争が引き起こされた。シャネル社は声明を発表し、その一部は複数のメディアで公表された。法人としてのシャネルは会社役員がこの本についてメディアによる抜粋しか読んでいないことを認めつつ「この(スパイ活動についての)主張に反駁した」[52]

シャネルグループは「確かに言えることは、彼女が戦時中にドイツの貴族と関係を持っていたことである。たとえディンクラーゲ男爵の母方がイギリス人であったとしても、また彼女(シャネル)が戦前から彼を知っていたとしても、ドイツ人と恋愛関係を持つのに相応しい時代ではなかった」と述べる一方[53]、「実際に何が起こったのか。彼女がどのような役割を演じようとしていたのか。この点については見解が分かれており、謎の部分が残っている」ことを強調している[54]

AP通信のあるインタビューにおいて、著者ヴォーンは彼の調査の意外な方向転換についての議論を次のように述べた。「私は別のものを探していたのですが、『シャネルはナチスのエージェントだ』という別の文書に出くわしたのです...その後、私は本当の意味で合衆国、ロンドン、ベルリン、そしてローマにある全ての文書を漁りはじめました。そうて1つだけではなく、20、30、40もの、シャネルとその恋人で本職のAbwehrのスパイであるハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲについての絶対確実な文書を見出したのです[52]。」

ヴォーンはまたこの書籍における暴露によって多くの人が感じた不快感にもコメントした。「世界の多くの人々が、ガブリエル・ココ・シャネルという象徴的人物、即ちフランスの最も偉大な文化的偶像が破壊されることを望んでいません。間違いなく、多数の人々がこれを脇に追いやり、忘れ去って、ただシャネルのスカーフとジュエリーが販売され続けることを優先することでしょう[52]。」

戦後の生活とキャリア

ファイル:COCO1970.jpg
ココ・シャネル(1970年)

1945年、シャネルはスイスへ移り、そこでディンクラーゲとともに数年を過ごした。1953年、彼女はコート・ダジュールの邸宅ラ・パウザ(La Pausa)を出版業者かつ翻訳家のエメリー・レヴェ英語版に売却した。ラ・パウザの中の5部屋がダラス美術館で複製され、レヴェの美術コレクション及びシャネルの家具が収められている[35]

女性が第一のクチュリエとして君臨した戦前とは異なり、戦後はクリスチャン・ディオールは1947年に彼のThe New Look英語版で成功を収めた。そしてディオール、クリストバル・バレンシアガロバート・ピゲ英語版ジャック・ファットら優れた男性デザイナーが認められた。シャネルは、ウエストニッパー(waist cinchers)、パッド入りブラジャー(padded bras)、厚手のスカート(heavy skirts)、stiffened jacketsといった男性のクチュリエが好む美学に対して、最終的には女性たちが反抗するであろうと確信していた。その美学を彼女は「非論理的(illogical)」デザインと呼んだ[9]

70歳を過ぎ、クチュールハウスを閉鎖してから15年間の後、彼女はファッション界に復帰する時が来たと感じた[9]:320。1954年、彼女のクチュールハウスのリバイバルはパルファム・シャネルの経営権争いにおける敵であったピエール・ヴェルテメールによる全面的な資金提供の下で行われた[23]:176–77。シャネルが1954年にカムバック・コレクションを発表した時、フランスのメディアは戦時中の彼女のドイツ軍への協力活動及び愛人生活、並びにコレクションについての論争の故に取り扱いに慎重であった。しかし、アメリカとイギリスのメディアはをそれをファッションと若者を新しい方法で結びつける「ブレークスルー」だとみなした[55]

アメリカの『ヴォーグ』誌の影響力ある編集者ベッティーナ・バラード(Bettina Ballard)はシャネルに忠実であり続け、1954年3月に「1950年代のシャネルの顔(the "face of Chanel" in the 1950s)」であるモデル、マリー・エレーヌ・アルノー英語版の特集を組んだ、撮影者はヘンリー・クラーク英語版[19]:270で、アルノーは真珠のネックレスを組み合わせた赤いVネックのドレス、層状のシアサッカーのイブニング・ガウン、ネイビージャージのミッドカーフ・スーツの3点の服を身に着けた[56]。アルノーが着たこれらの服は、「軽くパッドを入れた、スクエアショルダーのカーディガンジャケット、2つのパッチポケット、ボタンを外して折り返すと、パリッとした白い袖口が際立つスリーブ」、「立ち上がりのある襟と蝶型リボンの付いた白いモスリンのブラウス、ブラウスに付いた小さいタブでウエストのボタンに留めることのできる、ゆったりしたAラインスカート」が特徴であった[21]:151。バラードはこの「若々しい優雅さと無邪気さを強く印象付ける」スーツを自費で購入した[56]。そしてアルノーがモデルを担当した衣装にはすぐに全米から注文が殺到した[19]:273

晩年

彼女の最後の年月にはしばしばジャック・シャゾ英語版及び親友のリルー・マーカンドがそばにいた。誠実な友人としてはブラジル人Aimée de Heerenもおり、彼女はパリのホテル・ムーリス英語版に1年4ヶ月住んでいた。かつてライバルであった二人はウェストミンスター公英語版との幸福な思い出を共有していた。彼女たちは頻繁にパリの中心部で散歩をした[57]

エドモンド・シャルル・ルーはシャネルの晩年は取り巻きの人間はたくさんいたものの、彼女を利用しようとする人間ばかりで「孤独だった」と評し、晩年の彼女の発言として「私の言葉を記事にしようと話を聞きに来る人たちもいるし、私の話に退屈しているくせに、自分の家よりもこの家で食事をするほうが多いっていう人たちもいる。でもいちばん多いのは、頼みごとをしに来る人たちね。こういう人たちがいちばん熱心。お金……いつもお金よ」という言葉を引用している[43]:287

老境に入ったシャネルは衰え、病を患っていた。夜間は夢遊病の症状が見られるようになり、眠ったまま部屋の中で立っている姿が見かけられるようになっていた[43]:292-293。1971年1月9日(土曜日)、彼女は普段通りに春のカタログを準備し、午後に長めのドライブに出た。そのすぐ後に気分が悪くなりベッドに早めに入った[23]:196。彼女はメイドのジャンヌに最後の言葉として「人はこんなふうに死ぬのよ(C'est comme cela que l'on meurt)」と語った[58][51]

1971年1月10日、30年以上居住していたホテル・リッツで死亡した[59]。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で執り行われた。彼女のファッションモデルたちが最前列の席に陣取り、棺桶は白い花(ツバキ、クチナシ、ラン、ツツジ)そして少量の赤いバラで飾られた。

墓はスイスローザンヌのボワ=ド=ヴォー(Bois-de-Vaux)墓地にある[60][61]。遺産の大部分はスイス在住の甥アンドレ・パラス(André Palasse)と、パリに住むパラスの2人の娘たちに相続された[47]

シャネルは生涯にわたって高級ファッションにおける重要人物とみなされていたが、シャネルが残した影響はその死後にさらに調査された。死亡時、フランスのファーストレディであったポンピドゥー大統領夫人が英雄的賛辞を贈ることを企図したが、すぐにフランスの諜報機関が戦時中のドイツ軍へのシャネルの行動について概説する文書を公開し、記念性の強い葬儀計画はすぐに破棄された[44]

デザイナーとして遺したもの

セーラージャージとズボンを着たシャネル(1928年)

早くも1915年には『ハーパーズ バザー』が「たった1つもシャネルを持っていない女性は絶望的に時代遅れです...今シーズン、シャネルは全てバイヤーの口からその名前が紡ぎだされています」とシャネルのデザインを絶賛していた[14]:14。シャネルが手に入れた優位は、即ちコルセットで締め付ける女性のシルエットに対する公式の死の宣告であった。フリル、fuss、前世代の女性たちが耐え忍んできた拘束は今や時代遅れであった。彼女の影響の下で「羽根飾り(aigrettes)、ロングヘア、ホブルスカート」の時代は過ぎ去った[9]:11。シャネルのデザインに対する美学によって第一次世界大戦後には女性のお洒落のあり方が大きく変わった。シャネルのトレードマークのファッションは若々しい安らぎ、身体的解放、運動の邪魔にならないという信頼を得ていた[訳語疑問点]

エリート階級、特にイギリスのエリートたちが熱心に追及していた乗馬文化と狩猟趣味はシャネルの想像力を掻き立てた。シャネルが熱心にスポーツに打ち込んで得た知識が彼女の服飾デザインを生み出していった。ヨットの世界で体験した水上の旅の経験から、彼女は航海のためのデザインをファッションに適用した。水平なストライプのシャツ、ベルボトムのパンツ、クルーネックセーター、そして「エスパドリーユ(espadrille)」の靴。これらは全て伝統的に船乗りや漁師が着ていたものである[14]:47, 79

ジャージー生地

シャネルのジャージーの服3点(1917年)

シャネルの最初の成功は機械編みの素材であるジャージー生地を婦人服の素材とするという革新的な利用によってもたらされた。それまでジャージーは主として靴下やスポーツウェア(テニス、ゴルフ、ビーチ用の服)に使用される傾向があった。クチュールで使用するにはあまりにも「日常的(ordinary)」な生地だと考えられていた上、ニット構造は織物に比べて取り扱いが難しかったためデザイナーにも敬遠されていた[9]:128, 133。シャネルが大量のジャージー生地を発注したのはロディエ社(Rodier)であった[9]:128, 133。ロディエは、男性用としてさえ美的とは考えられていなかったジャージー生地を婦人服に使用するというシャネルのアイデアに躊躇し当初この注文を断ったが、シャネルはジャージー生地の可能性を強硬に主張した。最終的にシャネルがこの生地を用いて自分用にデザインした服を見たロディエはシャネルの判断を是とした[10]:239。シャネルの初期のウール ジャージーの旅行スーツはカーディガンジャケットとプリーツスカートから成り、ロー・ベルトのプルオーバートップと組み合わせられていた。これにローヒールの靴を組み合わせたアンサンブルは高級な婦人服におけるカジュアルルックとなった[14]:13, 47

シャネルによる高級ファッションへのジャージー導入は2つの理由で成功した。1つは第一次世界大戦のために他の素材が不足したこと。もう1つは女性たちがよりシンプルかつ実用性のある服を求め始めたことである。シャネルの動きやすいジャージーのスーツとドレスは実用性を備えるように作成され、体を自由に動かすことができた。これは当時女性が戦争に協力するために看護師として、公務員として、そして工場で働いていたことから極めて高く評価されていた。彼女たちの仕事は体を動かす必要があり、また通勤のために電車やバス、自転車に乗る必要もあった[62]。彼女たちは破れにくく、使用人の手を借りずに着ることができる服装を求めていた[21]:28

スラヴの影響

ポール・ポワレマリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソスペイン語版のようなデザイナーたちは1900年代から1910年代初頭にオートクチュールに民族的デザインを導入した[63]。シャネルはこの傾向を引き継ぎ、1920年代初頭にスラヴ風のデザインを取り入れた。この時のシャネルの服のビーズ取付と刺繍はロシアのマリア・パヴロヴナ公爵夫人英語版(シャネルのかつての愛人ドミトリー・パヴロヴィチ大公の姉)が設立した縫製会社キトミール(Kitmir)によって独占的に行われた[64][65]。シャネルの初期のコレクションでは、キトミールによる東洋的なステッチと洋式化された民族モチーフの融合が強調された[65]。1922年のイブニングドレスには刺繍のあるヘッドスカーフ(バブーシュカ:babushka)が付属していた[65]。このヘッドスカーフの他にも、この時代のシャネルの服はルバシカ(roubachka)として知られるロシアのムジーク(muzhiks:農民)の服装を仄めかす長いベルトで止めるスクエアネックのブラウスを特徴としていた[9]:172。イブニングドレスはしばしばきらめくクリスタルとblack jetの刺繍が施されていた[14]:25–26

ツートンパンプス付きのシャネルのスーツとシルクのブラウス(1965年)

シャネルのスーツ

1923年に初めて導入された[66]シャネルのツイードスーツは快適さと実用性を追求してデザインされ、柔軟で軽いウールかモヘヤツイード、およびジャージーかシルクの裏地のブラウスとジャケットで構成されていた。シャネルは当時のファッションで一般的だったように素材を固くしたり肩パットを使用したりはしなかった。バストダーツを加えずに、ジャケットを地の目に沿ってカットした。こうすると、身体を素早く自由に動かすことができた。首元に適度なゆとりをもたせてネックラインをデザインし、機能的なポケットを加えた。より一層楽にするために、スカートはベルトではなく腰の周りにグログラン英語版ステイが付けられた。さらに重要なことは、仮縫いをするときに細部に至るまで細心の注意が払われたことである。採寸は顧客が立った状態で肩の高さで腕を組んだ姿勢で行われた。シャネルはモデルに歩き回らせ、バスの階段を登ることを想定したプラットフォームを上がらせ、車高の低いスポーツカーに乗ることを想定して体を曲げさせるテストを行った。彼女が目指したのは、シャネルのスーツを着たまま、不意に体の一部を露出することなく、女性がこれら全てをこなせるようにすることであった。顧客それぞれがスーツが快適な状態になり、日々の活動を快適かつ容易に行えるようになるまで繰り返し調整を行った[67]

カメリア

カメリア(ツバキ)というと、誰しも連想するのはアレクサンドル・デュマ・フィスの文学作品『椿姫La Dame aux Camélias)』であった。シャネルは若い頃から「椿姫」の物語に大きな影響を受けていた。椿はクルチザンヌ(高級娼婦)である椿姫を連想させる花であり、彼女は白い椿を身に付けることで「仕事」ができることを示していた[68]。カメリアはシャネル ブランド(The House of Chanel)と同一視されるようになった。シャネルは1933年に白をトリミングした黒スーツで初めて装飾要素としてカメリアを使用した[37]

リトル・ブラック・ドレス

今日でも着用されているリトル・ブラック・ドレス(LBD)のコンセプトはジャージーのスーツに続くシャネルのファッション用語への貢献としてしばしば語られる。1912年から1913年にかけて、女優シュザンヌ・オルランディ(Suzanne Orlandi)がベルベットの白い襟付きのシャネル製リトル・ブラック・ドレスを着た。彼女はシャネルのリトル・ブラック・ドレスを着た最初の女性の一人であった[69]。1920年、シャネルはオペラの観客を観察し、全ての女性に黒いドレスを着させることを自身に誓った[19]:92–93

1926年、『ヴォーグ』誌のアメリカ版はシャネルのロングスリーブのリトル・ブラック・ドレスの画像を掲載し、これをガルソンヌ(garçonne、'little boy' look)と名付けた[37]。『ヴォーグ』誌は、このようなシンプルながらもシックなデザインは、センスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想し、このドレスのベーシックな輪郭を、広く普及していてやはり巷に溢れていたフォード社の自動車に例えた有名な批評を残した[70][71]。他方、この質素なデザインは男性のジャーナリストたちからの広範な批判を巻き起こした。彼らは「もはや胸はなく、もはやお腹も無く、もはやお尻もない...20世紀のこの瞬間の女性ファッションは全てを削り落とした」と文句を付けた[9]:210。このリトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。1930年代は世界恐慌の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した[72][14]:47。シャネルは昼用にウールかシェニールのリトル・ブラック・ドレス、そして夜用にサテンクレープまたはベルベットのリトル・ブラック・ドレスを作るようになった[21]:83。ある時、シャネルは「私はあえて黒を使いました。この色はいまだに衰えていません。なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」と宣言した[19]

ジュエリー

シャネルはジュエリーの概念を革新する一連のシリーズを導入した。この革新とは彼女のデザインと素材にコスチューム・ジュエリーとファイン・ジュエリーの両方が組み込まれていたことである。これはジュエリーが両者いずれかに厳密にカテゴライズされていた当時において革命的なものであった。彼女の感性には世界各地のデザインが影響を及ぼしており、しばしば東洋やエジプトのデザインに触発されていた。富裕層は高価なジュエリーの代わりにシャネルの作品を着ることで周囲に富を印象付けることができた[73]

シャネル 2.55 (2009年)

1920年代、シャネルはジュエリーデザインスタジオを開き、コスチューム・ジュエリーを制作し始めた。彼女はフェイク(コスチューム・ジュエリー)と本物(ファイン・ジュエリー)を組み合わせて作品を作るのを好み、コスチューム・ジュエリーはそれ以降シャネルブランドにおいて欠かせない要素となった[74][37]。フェイク・パールのネックレスは初期のヒット作品である[37]。シャネルのモデルたちはネックレスを複数付け、ブレスレッドを重ね、いくつもブローチを付けるなど、シャネルのスタイルに倣って複数のコスチューム・ジュエリーを身に着けた[74]

シャネルはコスチューム・ジュエリーを(特にシャネル自身が堂々と身に着けて見せたように)憧れのアクセサリへと変えた。1927年にはデューク・フルコ・ディ・ヴェルドゥーラ英語版の協力でシャネルブランドのジュエリーシリーズを立ち上げた。彼の白いエナメルの袖口に宝石で飾られたマルタ十字を加えたモチーフはシャネルの代名詞の1つとなり、ヴェルドゥーラとシャネルの共同制作のアイコンとなっている[37]。お洒落で富裕な人々はこのシャネルのコレクションを大いに気に入り、シリーズは大成功した[14]:74

シャネルはその後ファイン・ジュエリーの制作も行っている。the International Guild of Diamond Merchants(国際ダイアモンド商業組合)の依頼を受け、1933年にデザイナーのポール・イリーブ英語版と共同で高級ジュエリーのデザインを行った。これが彼女による最初のファイン・ジュエリーのデザインとなる[37]プラチナダイヤモンドをあしらった作品には一か月の間に30,000人の観覧者が訪れた[37]

シャネルのバッグ

1929年、シャネルは軍用バッグに触発されたハンドバッグを作成した。これは細いショルダーストラップによって肩から下げ、手を空けることができるものであった。シャネルはファッション業界に復帰した後、1955年2月にハンドバッグのデザインを一新した。これがシャネル 2.55である(名称は制作された日付から来ている)[75]。同時に、カール・ラガーフェルドが1980年代に行ったのと同じように、クラシックなバッグの細部が修正された。留め金とロックはシャネルのロゴを盛り込んだデザインに変更され、レザーがショルダーチェーンに組み合わされた。バッグ自体は元々の基本的なデザインを維持した[76]。2005年にシャネル社は創立50周年を記念して1955年のオリジナルのシャネル 2.55の正確なレプリカをリリースした[76]。このバッグのデザインはシャネルの修道院時代および彼女のスポーツ界に対する愛情を伝えるものであった。ストラップに使用されたチェーンはシャネルが成長した孤児院(修道院)の管理人たち(caretakers)が着用したチャタレイン英語版に影響されたものであり、バーガンディの裏地は修道院の制服を参考にしたものであった[76]。キルト風の外側は騎手が着用するジャケットの影響を受け[76]、同時に行われたバックの形状とボリュームの改善も同様であった[75]

日焼け

歴史的に、日焼けした肌は絶え間ない労苦から逃れる術の無い人生を運命づけられていた労働者階級の証であり、「純白の肌は貴族階級の確かな証であった」。しかし、シャネルは日焼けを許容するのみならず、特権とレジャーを過ごす生活のシンボルに変え、日光浴を流行させた。1920年代半ばまでに、女性たちは日光から身を守るための帽子を被らずにビーチでくつろぐようになった。[9]:138–39

ポピュラー・カルチャーにおける描写

演劇

映画

伝記・評伝

  • マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』(山中啓子訳、新版・ハヤカワ文庫NF、1995年)
  • エドモンド・シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり・山田美明訳、ハヤカワ文庫NF(上・下)、2009年)
    • シャルル・ルー 『シャネルの生涯とその時代』 (秦早穂子訳、鎌倉書房、1981年)。旧版
  • ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』(山田登世子訳、中公文庫、2007年)
    • ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、文化出版局、1977年)。旧版
  • ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子訳、原書房 2011年)
  • ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子訳、文藝春秋 2012年)
  • エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』(深味純子訳、CCCメディアハウス、2009年)
  • ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』(中野香織訳、文化出版局 2002年)
  • クロード・ドレ 『ココ・シャネル』 (上田美樹訳、サンリオ出版、1989年)
  • リサ・チェイニー『シャネル、革命の秘密』(中野香織監訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン 2014年)
  • 山田登世子 『シャネル-最強ブランドの秘密』 (朝日新書、2008年)
  • 山口昌子 『シャネルの真実』 (人文書院、2002年)
  • 藤本ひとみ 『シャネル』 (講談社文庫で再刊、2008年12月)
  • 海野弘 『ココ・シャネルの星座』 (中公文庫で再刊、1992年)
  • 秦早穂子 『シャネル 20世紀のスタイル』 (文化出版局、1990年)
  • 『ココ・シャネル 20世紀ファッションの創造者』(川上未映子解説、筑摩書房:ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉、2014年)
  • アンネマリー・ファン・ハーリンゲン『ココとリトル・ブラック・ドレス』(川原あかね訳、文化出版局、2016年)

漫画

出典

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