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'''日本の貨幣史'''(かへいし)では[[日本]]の[[貨幣]]の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に[[蝦夷]]や[[琉球]]と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、[[貨幣史]]を参照。
'''日本の貨幣史'''(かへいし)では[[日本]]の[[貨幣]]の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に[[蝦夷]]や[[琉球]]と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、[[貨幣史]]を参照。


== 概要 ==
== 概要 ==
=== 物品貨幣 ===
=== 各時代の概要 ===
; 古代
貨幣の素材そのものに価値のある貨幣を、[[物品貨幣]]や[[商品貨幣]]と呼ぶ。日本では、古代から[[米]]・[[絹]]・[[布]]が物品貨幣として用いられ、東国は絹と布、西国は米が用いられる傾向があった。米は初期の金融や手形の発生にも関係した。のちには、米の収穫量をもとにした[[石高制]]の普及にもつながった。古代から中世においては金属貨幣の流通がたびたび不足して、その都度、これらの物品貨幣が重要となった<ref>中島 (1999) p.113</ref>
日本で金属貨幣が作られる以前の[[弥生時代]]の遺跡からは、中国から運ばれた硬貨が発見されている{{Sfn|松村、次山|2011|p=}}。貨幣の素材そのものに価値のある貨幣を、[[物品貨幣]]や[[商品貨幣]]と呼ぶ。日本では、古代から[[米]]・[[絹]]・[[布]]が物品貨幣として用いられた。米は初期の金融や手形の発生にも関係した{{Sfn|仁藤|1998|p=54}}。


[[File:Japan known coin types from 708 to 958.jpg|250px|right|thumb|皇朝十二銭と関連銭貨([[開基勝宝]]は模造)]]
=== 金属貨幣 ===
日本で作られた金属貨幣で、現存する最古の[[銀貨]]は[[7世紀]]の[[無文銀銭]]、最古の[[銅貨]]は[[708年]]([[和銅]]元年)の[[和同開珎]]、最古の[[金貨]]は[[760年]]([[天平宝字]]4年)の[[開基勝宝]]である。地金の重量を測って用いる[[秤量貨幣]]の銀が[[飛鳥時代]]から存在し、8世紀には[[硬貨]]が発行された。
[[Image:Zeni1kanbun.jpg|250px|thumb|寛永通寳一貫文]]
日本で金属貨幣が作られる以前の[[弥生時代]]の遺跡からは、中国から運ばれた硬貨が発見されている。日本で作られた金属貨幣で、現存する最古の[[銀貨]]は[[7世紀]]の[[無文銀銭]]、最古の[[銅貨]]は[[708年]]([[和銅]]元年)の[[和同開珎]]、最古の[[金貨]]は[[760年]]([[天平宝字]]4年)の[[開基勝宝]]である。地金の重量を測って用いる[[秤量貨幣]]の銀が[[飛鳥時代]]から存在し、8世紀には[[硬貨]]が発行された。秤量貨幣には主に銀が用いられ、[[江戸時代]]までこの傾向が続いた。銅貨は酸化銅からの鋳造は容易であるが、火山の多い日本では硫化銅が主体だった。そのため[[室町時代]]後期に[[山下吹]]という精錬方法が開発されるまでは銅が慢性的に不足しており、銅貨の発行に影響を与えた<ref>三上 (1998) p.175</ref>。金と銀は、16世紀に大陸から伝わった[[灰吹法]]によって産出量が増加して、江戸時代には貴金属の輸出も行われた<ref>瀧澤・西脇編 (1999) p.66</ref>。


貨幣の発行によって物資の調達や財政を改善する[[貨幣発行益]]は、古代より利用されてきた。和同開珎が発行された時代の銅貨は、原料である銅の4倍ほどの貨幣発行益があった{{Sfn|三上|1998|p=135}}。朝廷が発行した[[皇朝十二銭]]は新貨のたびに銅貨の含有率が下がり、貨幣発行は朝廷や通貨制度への信用低下をもたらし、結果として銭離れを招いた{{Sfn|瀧澤、西脇|1999|p=12}}。このために和同開珎を含めて初期に作られた硬貨は、数々の奨励策にも関わらず流通が限られ、いったん硬貨の発行は停止した{{Sfn|三上|1998|p=第10章}}。
[[和同開珎]]を含めて初期に作られた硬貨は、数々の奨励策にも関わらず流通が限られ、いったん硬貨の発行は停止した。中世に入ると、中国との貿易で流入した大量の銅貨によって硬貨が広まる。江戸時代には、[[金]]・[[銀]]・[[銅]]にもとづいて[[江戸時代の三貨制度|三貨制度]]が定められ、金属貨幣の流通が全国で統一された<ref>三上 (2011) p.29</ref>。


; 中世
=== 紙幣 ===
中世に入ると、中国との貿易で流入した大量の銅貨([[宋銭]])によって硬貨が広まる。秤量貨幣としては主に銀が用いられ、この傾向はのちの[[江戸時代]]でも続いた。銅貨は[[酸化銅]]からの鋳造は容易であるが、火山の多い日本では[[硫化銅]]が主体だった。そのため[[室町時代]]後期に[[山下吹]]という精錬方法が開発されるまでは銅が慢性的に不足しており、銅貨の発行に影響を与えた{{Sfn|三上|1998|p=175}}。古代から中世においては金属貨幣の流通がたびたび不足して、その都度、物品貨幣が重要となった{{Sfn|中島|1999|p=113}}。東国は絹と布、西国は米が用いられる傾向があった。金と銀は、16世紀に大陸から伝わった[[灰吹法]]によって産出量が増加して、江戸時代には貴金属の輸出も行われた{{Sfn|瀧澤、西脇|1999|p=66}}。
存在が確認されている最古の[[紙幣]]は、[[1610年]]に発行された[[羽書]]である。羽書は私札と呼ばれ、そのほかに藩領が発行する[[藩札]]や、旗本領が発行する[[旗本札]]があった。[[明治時代]]からは、政府による[[政府紙幣]]や銀行による[[銀行券]]が発行された<ref>植村 (1994)</ref>。


税制では、通貨単位を尺度とする[[貫高制]]にかわり、米の収穫量を尺度とする[[石高制]]の普及が進んだ。石高制の普及には、[[太閤検地]]が大きな影響を与えた{{Sfn|秋澤|1993|p=}}。
=== 貨幣の単位 ===
古代から中世にかけて、[[文 (通貨単位)|文]](もん)や[[貫]]が用いられた。江戸時代では、金貨の単位は[[両]]、[[分]](ぶ)、[[朱]](しゅ)があり、銀貨の単位は[[貫]]、[[匁]](もんめ)、分(ふん)、銅貨の単位には[[文 (通貨単位)|文]](もん)が定められた。明治時代からは[[円 (通貨)|円]]が採用されて現在にいたっている。円の補助単位として、[[銭]](せん)、[[厘]](りん)がある<ref>瀧澤・西脇編 (1999)</ref>。


; 近世
=== 貨幣発行益 ===
[[Image:Zeni1kanbun.jpg|250px|thumb|寛永通寳一貫文]]
貨幣の発行によって物資の調達や財政を改善する[[貨幣発行益]]は、古代より利用されてきた。和同開珎が発行された時代の銅貨は、原料である銅の4倍ほどの貨幣発行益があった<ref>三上 (1998) p.135</ref>。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、朝廷が発行した[[皇朝十二銭]]や、江戸幕府による[[貨幣改鋳#日本|改鋳]]、明治政府の政府紙幣などがある。貨幣発行が政府や通貨制度への信用低下をもたらす場合があり、皇朝十二銭では新貨のたびに銅貨の含有率が下がり、銭離れを招いた。[[日中戦争]]や[[太平洋戦争]]の時期に発行された紙幣や軍票は、日本統治下の地域で[[インフレーション]]を起こして、通貨の信用低下をもたらした<ref>多田井 (1997) 下巻</ref>。
江戸時代には、[[江戸幕府]]によって[[金]]・[[銀]]・[[銅]]にもとづく[[江戸時代の三貨制度|三貨制度]]が定められ、金属貨幣の流通が全国で統一された{{Sfn|三上|2011|p=29}}。この時代に[[紙幣]]も発行されており、存在が確認されている最古の紙幣は、[[1610年]]に発行された[[羽書]]である。羽書は私札とも呼ばれ、藩領が発行する[[藩札]]や、旗本領が発行する[[旗本札]]があった{{Sfn|植村|1994|P=}}。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、江戸幕府による[[貨幣改鋳#日本|改鋳]]がある{{Sfn|東野|1997|p=第11章}}。


; 近代
貨幣の発行を政府と銀行のいずれが行うかによって、貨幣発行益は異なる。たとえば[[2014年]]度([[平成]]26年度)には日本銀行券が30億枚発行されており、銀行券製造費は51,483,108,000円となっている<ref>日本銀行「[https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/order/bn_order.pdf 平成27年度の銀行券発注高]」2016年1月7日閲覧</ref><ref>日本銀行「[http://www.boj.or.jp/about/account/data/zai1505a.pdf 第130回事業年度財務諸表等]」p.3、2016年1月7日閲覧</ref>。ただし、現在の日本では、政府ではなく[[中央銀行]]である[[日本銀行]]が貨幣を発行している。このため、銀行券の製造コストと額面の差額は貨幣発行益とはならない<ref>小栗 (2006)</ref>。日本銀行の貨幣発行益は、銀行券発行の対価として買い入れた手形や国債から得られる利息となる<ref>日本銀行「[https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/outline/a24.htm/ 日本銀行の利益はどのように発生しますか? 通貨発行益とは何ですか?]」2016年1月7日閲覧</ref>。
[[明治時代]]からは、政府による[[政府紙幣]]や銀行による[[銀行券]]が発行された{{Sfn|植村|1994|P=}}。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、明治政府の政府紙幣などがある{{Sfn|加藤、秋谷|2000|p=60, 77}}。[[日清戦争]]の[[賠償金|軍事賠償金]]をもとに[[金本位制]]を本格的に採用し、外債の発行で[[日露戦争]]の戦費を調達した{{Sfn|岡崎|1997|p=第1章}}。[[日中戦争]]や[[太平洋戦争]]の時期に占領地などで用いられた紙幣や[[軍用手票]](軍票)は、日本統治下の地域で[[インフレーション]]を起こして、通貨の信用低下をもたらした{{Sfn|多田井|1997|P=}}。

; 現代
第二次世界大戦後の日本の通貨は、ドルを基軸とする[[ブレトンウッズ協定]]のもとで為替レートが定められた。ブレトン・ウッズ体制は、[[ニクソン・ショック]]を経た変動相場制への移行によって終了した{{Sfn|加藤、秋谷|2000|P=294}}。アメリカの[[双子の赤字]]をきっかけとして、為替レート安定のために先進5か国([[G5]])による[[プラザ合意]]がなされると、急速に円高が進んだ{{Sfn|加藤、秋谷|2000|P=294}}。

現代の日本では、日本政府ではなく[[中央銀行]]にあたる[[日本銀行]]が貨幣を発行している。たとえば[[2014年]]度([[平成]]26年度)には日本銀行券が30億枚発行され、銀行券製造費は51,483,108,000円となっている<ref>{{Cite news|url=https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/order/bn_order.pdf|title=平成27年度の銀行券発注高|work=|newspaper=日本銀行|date=--|accessdate=2016-01-07}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.boj.or.jp/about/account/data/zai1505a.pdf|title=第130回事業年度財務諸表等|work=|newspaper=日本銀行|date=--|accessdate=2016-01-07}}</ref>。このため、銀行券の製造コストと額面の差額は貨幣発行益とはならない{{Sfn|小栗 (2006)}}。日本銀行の貨幣発行益は、銀行券発行の対価として買い入れた手形や国債から得られる利息となる<ref>{{Cite news|url=https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/outline/a24.htm/|title=日本銀行の利益はどのように発生しますか? 通貨発行益とは何ですか?|work=|newspaper=日本銀行|date=--|accessdate=2016-01-07}}</ref>。

=== 貨幣の単位 ===
古代から中世にかけて、[[文 (通貨単位)|文]](もん)や[[貫]]が用いられた。江戸時代では、金貨の単位は[[両]]、[[分]](ぶ)、[[朱]](しゅ)があり、銀貨の単位は[[貫]]、[[匁]](もんめ)、分(ふん)、銅貨の単位には[[文 (通貨単位)|文]](もん)が定められた。明治時代からは[[円 (通貨)|円]]が採用されて現在にいたっている。円の補助単位として、[[銭]](せん)、[[厘]](りん)がある{{Sfn|瀧澤、西脇|1999|P=}}。


== 古代 ==
== 古代 ==
=== 弥生時代、古墳時代 ===
=== 弥生時代、古墳時代 ===
[[弥生時代]]の遺跡からは、中国の硬貨である[[秦]]から[[前漢]]にかけての[[半両銭]]や[[五銖銭]]が発見されている。弥生時代と[[古墳時代]]の遺跡で出土した中国の硬貨は、[[青銅器]]の原料となっていたほかに祭祀にも用いられていた<ref>松村次山 (2011)</ref>。[[下関市]][[武久町]]の海岸砂丘から出土した[[武久浜墳墓群]]の半両銭は[[副葬品]]であることが判明している<ref>山口県「[http://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/detail.asp?mid=110074&pid=bl 山口県の文化財 武久浜墳墓群出土品]」2016年1月7日閲覧</ref>。『[[魏志倭人伝]]』に記述がある[[一支国]]の首都とされる[[原の辻遺跡]]では前漢時代の五銖銭が出土しているが、副葬品には含まれていない。原の辻遺跡は港をもつ交易地であることから、青銅器の原料のほかに交易で貨幣として流通していたとする説もある<ref>藤尾 (2015) p.141</ref>
[[弥生時代]]の遺跡からは、中国の硬貨である[[秦]]から[[前漢]]にかけての[[半両銭]]や[[五銖銭]]が発見されている。弥生時代と[[古墳時代]]の遺跡で出土した中国の硬貨は、[[青銅器]]の原料となっていたほかに祭祀にも用いられていた{{Sfn|松村次山|2011|p=}}。[[下関市]][[武久町]]の海岸砂丘から出土した[[武久浜墳墓群]]の半両銭は[[副葬品]]であることが判明している<ref>{{Cite news|url=http://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/detail.asp?mid=110074&pid=bl|title=山口県の文化財 武久浜墳墓群出土品|work=|newspaper=山口県|date=--|accessdate=2016-01-07}}</ref>。『[[魏志倭人伝]]』に記述がある[[一支国]]の首都とされる[[原の辻遺跡]]では前漢時代の五銖銭が出土しているが、副葬品には含まれていない。原の辻遺跡は港をもつ交易地であることから、青銅器の原料のほかに交易で貨幣として流通していたとする説もある{{Sfn|藤尾|2015|p=141}}


=== 律令時代 ===
=== 律令国家の貨幣 ===
[[律令制]]においては、[[真綿]]、[[布]]、[[絁]](あしぎぬ)、[[鍬]]、[[米]]、[[塩]]などが物品貨幣として用いられていた。当時は価値の尺度、支払い、交換などの機能別に貨幣があり、組み合わせて使用されていた。たとえば[[藤原京]]の市場でものを買うには、まず銀を尺度として品物の価値を計算してから、同じ価値を持つ糸や布で交換した<ref> (2012) p.191</ref>。[[奈良時代]]の[[官人]]への報酬や[[経典]]の筆写への報酬は、布や絁で支払われている<ref>瀧澤 (1996) p.2</ref>。8世紀の[[新羅]]との貿易では、真綿を交換に用いていた<ref>丸山 (2010) 第7章</ref>
[[律令制]]においては、[[真綿]]、[[布]]、[[絁]](あしぎぬ)、[[鍬]]、[[米]]、[[塩]]などが物品貨幣として用いられていた。当時は価値の尺度、支払い、交換などの機能別に貨幣があり、組み合わせて使用されていた。たとえば[[藤原京]]の市場でものを買うには、まず銀を尺度として品物の価値を計算してから、同じ価値を持つ糸や布で交換した{{Sfn||2012|p=191}}。[[奈良時代]]の[[官人]]への報酬や[[経典]]の筆写への報酬は、布や絁で支払われている{{Sfn|瀧澤|1996|p=2}}


律令政府は、首都の造営をはじめとする大規模な国家事業の支払い手段として、金属貨幣の普及をすすめた。支払いの内容は、雇用の賃金である功銭や、資材の購入費とされる。こうして和同開珎は[[平城京]]の造営、万年通宝は平城京の改築や[[保良宮]]の造営、神宮開宝は[[西大寺]]・[[西隆寺]]や[[由義宮]]の造営に対応して発行された。和同開珎の発行後は、中央の労賃は銭貨で、地方の労賃は刈り取った稲である[[穎稲]]で支払われるようになる<ref>栄原 (2011) 第4章</ref>
律令政府は、首都の造営をはじめとする大規模な国家事業の支払い手段として、金属貨幣の普及をすすめた。支払いの内容は、雇用の賃金である功銭や、資材の購入費とされる。和同開珎は[[平城京]]の造営、万年通宝は平城京の改築や[[保良宮]]の造営、神宮開宝は[[西大寺]]・[[西隆寺]]や[[由義宮]]の造営に対応して発行された。和同開珎の発行後は、中央の労賃は銭貨で、地方の労賃は刈り取った稲である[[穎稲]]で支払われるようになる{{Sfn|栄原|2011|p=第4章}}

貿易用の貨幣として、[[物品貨幣]]として銀や金の輸出が始まった。銀は、674年に対馬で銀が発見されて国産化された。金は日本は朝鮮半島から金を輸入しており、平安時代に[[陸奥国]]で砂金が発見されて以降は東北からの砂金が用いられた。東大寺で[[東大寺盧舎那仏像|大仏]]に鍍金するための金が不足した時に陸奥国で金が発見され、聖武天皇が東大寺に行幸して喜んだという記録が『続日本紀』にある{{Sfn|田中|2009|p=137}}。初めて金の国外輸送は、776年([[宝亀]]7年)の遣唐使[[藤原清河]]に対する砂金の支給である{{Sfn|田中|2009|p=145}}。8世紀の[[新羅]]との貿易では、真綿を交換に用いていた{{Sfn|丸山|2010|p=第7章}}。


=== 最古の国内鋳貨 ===
=== 最古の国内鋳貨 ===
[[画像:Fuhon-sen.JPG|thumb|100px|right|富本銭(複製品)]]
[[画像:Fuhon-sen.JPG|thumb|100px|right|富本銭(複製品)]]
日本の金属貨幣は、硬貨が作られる以前には[[秤量貨幣]]が用いられていた。[[飛鳥寺]]の物資調達についての[[木簡]]には、秤量銀貨を用いた記録や、銭の単位である「文」の表記がある<ref> (2012) p.151</ref>。『[[日本書紀]]』には、[[683年]]([[天武天皇]]12年)に銅銭を推奨して、銀銭を禁じる記述がある。[[694年]]([[持統天皇]]8年)には、貨幣を[[鋳造]]する機関である[[鋳銭司]]の長官が任命された。設けられた銭鋳司には、奈良時代の催鋳銭司、鋳銭寮、長門鋳銭司、岡田鋳銭司、登美鋳銭司、田原鋳銭司、平安時代の長門鋳銭使、周防鋳銭司、山城国葛野郡鋳銭所などがある<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.23</ref>
日本の金属貨幣は、硬貨が作られる以前には[[秤量貨幣]]が用いられていた。[[飛鳥寺]]の物資調達についての[[木簡]]には、秤量銀貨を用いた記録や、銭の単位である「文」の表記がある{{Sfn||2012|p=151}}。『[[日本書紀]]』には、[[683年]]([[天武天皇]]12年)に銅銭を推奨して、銀銭を禁じる記述がある。貨幣を[[鋳造]]する機関である[[鋳銭司]]の長官が任命されて、設けられた銭鋳司には、奈良時代の催鋳銭司、鋳銭寮、長門鋳銭司、岡田鋳銭司、登美鋳銭司、田原鋳銭司、平安時代の長門鋳銭使、周防鋳銭司、山城国葛野郡鋳銭所などがある{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=23}}


国内での[[鋳造貨幣]]として現存する最古のものは、[[7世紀]]の銀貨の無文銀銭があり、次に銅貨の[[富本銭]]がある。[[飛鳥池工房]]には富本銭を鋳造した工房があり、ほかに釘などの鉄製品や銅製品が作られていた。鉄工房や銅工房で働いていたのは、帰化系の氏族である[[東漢氏]]を中心とする工人だったとされる<ref> (2012)</ref>
国内での[[鋳造貨幣]]として現存する最古のものは、[[7世紀]]の銀貨の無文銀銭があり、次に銅貨の[[富本銭]]がある。[[飛鳥池工房]]には富本銭を鋳造した工房があり、ほかに釘などの鉄製品や銅製品が作られていた。鉄工房や銅工房で働いていたのは、帰化系の氏族である[[東漢氏]]を中心とする工人だったとされる{{Sfn||2012|p=}}


無文銀銭や富本銭は、[[厭勝銭]](まじない用の銭)であるか、それとも流通していたかについては論争が続いている<ref>松村 (2004)</ref>。古代においては全く価値体系の違う物とも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせることがあった。富本銭は流通目的ではなく厭勝銭目的であったとする学説や、[[三途の川]]の渡し賃として[[六文銭]]を[[冥銭]]として棺に入れたという慣習など、貨幣と宗教のつながりを想起させる話が多く残されている<ref>東野 (1997) p.14</ref><ref>三上 (1998) 第11章</ref><ref>栄原 (2011)</ref>
無文銀銭や富本銭は、[[厭勝銭]](まじない用の銭)であるか、それとも流通していたかについては論争が続いている{{Sfn|松村|2004|p=}}。古代においては全く価値体系の違う物とも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせることがあった。富本銭は流通目的ではなく厭勝銭目的であったとする学説や、[[三途の川]]の渡し賃として[[六文銭]]を[[冥銭]]として棺に入れたという慣習など、貨幣と宗教のつながりを想起させる話が多く残されている{{Sfn|東野|1997|p=14}}{{Sfn|三上|1998|p=第11章}}{{Sfn|栄原|2011|p=}}


=== 和同開珎 ===
=== 和同開珎 ===
[[ファイル:Wadogin.jpg|thumb|right|100px|和同開珎銀銭]]
[[ファイル:Wadogin.jpg|thumb|right|100px|和同開珎銀銭]]
[[飛鳥時代]]の708年(和銅元年)には、[[和同開珎]]が発行された。和銅という元号は、[[元明天皇]]の時代に[[武蔵国]]秩父郡で銅が発見されたことがきっかけとなった。[[新羅]]の帰化人である[[金上无]]が、和同(にきあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して朝廷に献上した。当時は、そのように銅が貴重な資源だった<ref>三上 (1998) p.174</ref>。和同開珎は銀貨が5月、銅貨が8月に施行され、唐から流入していた[[開元通宝]]をモデルにしたといわれる。発行にあたっては、[[平城京]]で製造した種銭を見本として各地の工房に配り、大量生産を意図していた<ref>松村次山 (2011)</ref>。翌年の709年(和銅2年)には私鋳の禁止令が出され、和同開珎の銀貨は廃止されており、当初から銀貨の贋金が問題となっていた。『[[経国集]]』には、711年(和銅4年)より前に作られた役人用の試験答案も収録されており、そこにはすでに私鋳対策の問題があった<ref>東野 (1997) p.22</ref>
[[飛鳥時代]]には、[[和同開珎]]が発行された。和銅という元号は、[[元明天皇]]の時代に[[武蔵国]]秩父郡で銅が発見されたことがきっかけとなった。[[新羅]]の帰化人である[[金上无]]が、和同(にきあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して朝廷に献上した。当時は、そのように銅が貴重な資源だった{{Sfn|三上|1998|p=174}}。和同開珎は銀貨が5月、銅貨が8月に施行され、唐から流入していた[[開元通宝]]をモデルにしたといわれる。発行にあたっては、[[平城京]]で製造した種銭を見本として各地の工房に配り、大量生産を意図していた{{Sfn|松村次山|2011|p=}}。翌年の709年(和銅2年)には私鋳の禁止令が出され、和同開珎の銀貨は廃止されており、当初から銀貨の贋金が問題となっていた。漢詩集の『[[経国集]]』には、711年(和銅4年)より前に作られた役人用の試験答案も収録されており、そこにはすでに私鋳対策の問題があった{{Sfn|東野|1997|p=22}}


==== 金属貨幣の奨励策 ====
; 金属貨幣の奨励策
和同開珎を流通させるため、律令政府は数々の奨励政策を行った。価値の基準としての硬貨([[銭貨]])は、[[711年]](和銅4年)に穀6升(現在の2升4合)=銭1文として、[[712年]](和銅5年)に調庸の基準として布1常=銭5文とする。こうして物納であった調庸に硬貨を認め、貨幣による代納を[[調銭]]や[[遥銭]]と呼んだ。支払い用としては、平城京造営工事の労賃や、官人の給与に硬貨を部分的に導入して、官人には東西市などでの使用を強制した。交換用の貨幣を普及させるために硬貨で購入できるものを増やして、交通の要所では納税する物資を運ぶ者や旅行者が米を硬貨で購入できるようにした。硬貨を蓄蔵する利点としては、同年10月には[[蓄銭叙位令]]を出して、貯蓄した銅貨の量によって[[位階]]を昇進できるようにした。貯蓄した銅貨は叙位の際に献納銭として政府に回収されるため、実際には蓄蔵と流通の双方を促進するのが目的だった。しかし、昇進のために献納銭をする者は少なく、強化策として郡司の任命には6貫の献納銭が必要とした。叙位法の影響で昇進するための私鋳や、貨幣発行益を目的とする私鋳の増加が予想されたことから、私鋳銭の罰則が流刑から斬刑(死刑)へと重くなった<ref>三上 (1998) 第7章、第8章</ref><ref>ただし、律令政府は貨幣の流通を都と畿内に限定して、国家による支払いで地方に流れた貨幣は地方では流通させずに政府に回収する方針であり、蓄銭叙位令もその一環であったとする森明彦の説がある明彦「和同開珎の価値規定と流通構造」『日本古代貨幣制度史の研究』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1283-6)</ref>
和同開珎を流通させるため、律令政府は数々の奨励政策を行った。価値の基準としての硬貨([[銭貨]])は、[[711年]](和銅4年)に穀6升(現在の2升4合)=銭1文として、[[712年]](和銅5年)に調庸の基準として布1常=銭5文とする。物納であった調庸に硬貨を認め、貨幣による代納を[[調銭]]や[[遥銭]]と呼んだ。支払い用としては、平城京造営工事の労賃や、官人の給与に硬貨を部分的に導入して、官人には東西市などでの使用を強制した。交換用の貨幣を普及させるために硬貨で購入できるものを増やして、交通の要所では納税する物資を運ぶ者や旅行者が米を硬貨で購入できるようにした。硬貨を蓄蔵する利点としては、同年10月には[[蓄銭叙位令]]を出して、貯蓄した銅貨の量によって[[位階]]を昇進できるようにした。貯蓄した銅貨は叙位の際に献納銭として政府に回収されるため、実際には蓄蔵と流通の双方を促進するのが目的だった。しかし、昇進のために献納銭をする者は少なく、強化策として郡司の任命には6貫の献納銭が必要とした。叙位法の影響で昇進するための私鋳や、貨幣発行益を目的とする私鋳の増加が予想されたことから、私鋳銭の罰則が流刑から斬刑(死刑)へと重くなった{{Sfn|三上|1998|P=第7章、第8章}}{{Refnest|group="†"|ただし、律令政府は貨幣の流通を都と畿内に限定して、国家による支払いで地方に流れた貨幣は地方では流通させずに政府に回収する方針であり、蓄銭叙位令もその一環であったとする森明彦の説がある{{Sfn||2016|P=}}}}


=== 皇朝十二銭 ===
=== 皇朝十二銭 ===
和同開珎の発行量が増えるにつれて物価も上昇して、711年(和同4年)は穀6升=銭1文が、751年([[天平勝宝]]3年)には穀6升=銭30文に上がった。律令政府は、私鋳銭への対策という発表のもとで新貨幣の鋳造を行う。次に発行された[[万年通宝]]は、銅量は和同開珎と同じでありながら、和同開珎の10倍の価値を持つと定められた{{Sfn|三上|1998|p=154}}。
[[File:Japan known coin types from 708 to 958.jpg|250px|right|thumb|皇朝十二銭と関連銭貨([[開基勝宝]]は模造)]]

和同開珎の発行量が増えるにつれて物価も上昇して、711年(和同4年)は穀6升=銭1文が、751年([[天平勝宝]]3年)には穀6升=銭30文に上がった。律令政府は、私鋳銭への対策という発表のもとで新貨幣の鋳造を行う。次に発行された[[万年通宝]]は、銅量は和同開珎と同じでありながら、和同開珎の10倍の価値を持つと定められた<ref>三上 (1998) p.154</ref>。
708年(和銅元年)から[[平安時代]]中期の[[958年]]([[天徳 (日本)|天徳]]2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから[[皇朝十二銭]]と呼ばれた{{Sfn|三上|1998|P=}}。発行年は以下の通りである。


{|class="wikitable" style="text-align:center;float:right;margin-left:1em"
708年(和銅元年)から[[平安時代]]中期の[[958年]]([[天徳 (日本)|天徳]]2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから[[皇朝十二銭]]と呼ばれた<ref>三上 (1998)</ref>。発行年は次の通りである。和同開珎(708年・和銅元年)、万年通宝([[760年]]・[[天平宝字]]4年)、[[神功開宝]]([[765年]]・[[天平神護]]元年)、[[隆平永宝]]([[796年]]・[[延暦]]15年)、[[富寿神宝]]([[818年]]・[[弘仁]]9年)、[[承和昌宝]]([[835年]]・[[承和 (日本)|承和]]2年)、[[長年大宝]]([[848年]]・[[嘉祥]]元年)、[[饒益神宝]]([[859年]]・[[貞観 (日本)|貞観]]元年)、[[貞観永宝]]([[870年]]・貞観12年)、[[寛平大宝]]([[890年]]・[[寛平]]2年)、[[延喜通宝]]([[907年]]・[[延喜]]7年)、[[乾元大宝]](958年・天徳2年)。
!貨幣名!!発行年!!
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|和同開珎||708年(和銅元年)
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|万年通宝(萬年通寳)||[[760年]]([[天平宝字]]4年)
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|[[神功開宝]](神功開寳)||[[765年]]([[天平神護]]元年)
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|[[隆平永宝]](隆平永寳)||[[796年]]([[延暦]]15年)
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|[[富寿神宝]](富壽神寳)||[[818年]]([[弘仁]]9年)
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|[[承和昌宝]](承和昌寳)||[[835年]]([[承和 (日本)|承和]]2年)
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|[[長年大宝]](長年大寳)||[[848年]]([[嘉祥]]元年)
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|[[饒益神宝]](饒益神寳)||[[859年]]([[貞観 (日本)|貞観]]元年)
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|[[貞観永宝]](貞観永寳)||[[870年]](貞観12年)
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|[[寛平大宝]](寛平大寳)||[[890年]]([[寛平]]2年)
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|[[延喜通宝]](延喜通寳)||[[907年]]([[延喜]]7年)
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|[[乾元大宝]](乹元大寳)||958年(天徳2年)
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=== 銭離れ ===
=== 銭離れ ===
奈良時代には、平城京のある[[畿内]]とその周辺地域を中心として銅貨が用いられた。しかし原材料の銅は不足して、和同開珎の含有率90パーセントから万年通宝の78パーセント、富寿神宝の66パーセントと低下が続き、かわって[[鉛]]の含有率が増えてゆく。律令政府は[[貨幣発行益|改鋳益]]を得るため、[[貨幣改鋳|改鋳]]のたびに目方と質が低下した新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとした。交換比率は8つの銅貨で記録が残っており、それにもとづけば、延喜通宝1枚は和同開珎1億枚と同じ価値となる<ref>三上 (1998) p.155</ref>。実際には旧貨よりも銅含有率が低い新貨を、価値が高いものとして扱ったため、旧貨は退蔵されて流通されなくなる。そこで朝廷では[[779年]]([[宝亀]]10年)には和同開珎の使用を禁止して、[[798年]]([[延暦]]17年)に蓄銭禁止令を出し、[[800年]](延暦19年)には蓄銭叙位令を廃止した。これらの施策は、通貨量の確保と、インフレーションの防止が目的だったとされる<ref>三上 (1998) 第10章</ref>。硬貨の認識は次第にすすみ、『[[日本霊異記]]』や『[[今昔物語集]]』などにも銅貨が登場する説話が記録されている<ref>三上 (1998) p.142</ref>。しかし、度重なる改鋳によって硬貨は価値や信用が低下して、流通の減少も止まらず、民衆の銭離れが起こった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.12</ref>。硬貨は[[估価法]]などの公定価格の尺度としては通用したが、支払いや交換には物品貨幣の米、絹、布が用いられ続けた<ref>三上 (1998) p.148</ref>
奈良時代には、平城京のある[[畿内]]とその周辺地域を中心として銅貨が用いられた。しかし原材料の銅は不足して、和同開珎の含有率90パーセントから万年通宝の78パーセント、富寿神宝の66パーセントと低下が続き、かわって[[鉛]]の含有率が増えてゆく。律令政府は[[貨幣発行益|改鋳益]]を得るため、[[貨幣改鋳|改鋳]]のたびに目方と質が低下した新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとした。交換比率は8つの銅貨で記録が残っており、それにもとづけば、延喜通宝1枚は和同開珎1億枚と同じ価値となる{{Sfn|三上|1998|p=155}}。実際には旧貨よりも銅含有率が低い新貨を、価値が高いものとして扱ったため、旧貨は退蔵されて流通されなくなる。そこで朝廷では和同開珎の使用を禁止して、蓄銭禁止令を出し、蓄銭叙位令を廃止した。これらの施策は、通貨量の確保と、インフレーションの防止が目的だったとされる{{Sfn|三上|1998|p=第10章}}{{Refnest|group="†"|硬貨の認識は次第にすすみ、『[[日本霊異記]]』や『[[今昔物語集]]』などにも銅貨が登場する説話が記録されている{{Sfn|三上|1998|p=142}}。}}。しかし、度重なる改鋳によって硬貨は価値や信用が低下して、流通の減少も止まらず、民衆の銭離れが起こった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=12}}。硬貨は[[估価法]]などの公定価格の尺度としては通用したが、支払いや交換には物品貨幣の米、絹、布が用いられ続けた{{Sfn|三上|1998|p=148}}。皇朝十二銭以降、朝廷は硬貨の発行を停止する。[[11世紀]]前期からは東国では絹や布、西国では米を中心とする物品貨幣が用いられた


=== 古代の金融 ===
=== 古代の金融 ===
金融活動としては、8世紀に[[出挙]]という[[利子]]付きの貸借が行われていた。[[国司]]が財政をまかなうために行う公出挙と、より利息が高く個人が行う私出挙がある。出挙は貸稲(いらしのいね)とも呼ばれ、春や夏に稲を貸し付けて秋に3割から5割の利息を返済させた。9世紀の『日本霊異記』には、米や酒の私出挙について記述があり、[[大安寺]]の修多羅分の銭が金融資本とされた事例が見られる。[[正倉院文書]]や木簡には、出挙の一種である月借銭解という借金の申込書にあたる記録がある。月借銭は月ぎめの短期融資で高利であり、[[官司]]が官人に貸付を行っていた。月借銭解の金額は最低100文、最大5貫で、数百文が多かった<ref>仁藤 (1998) p.54</ref><ref>丸山 (2010) p.211</ref>
金融活動としては、8世紀に[[出挙]]という[[利子]]付きの貸借が行われていた。[[国司]]が財政をまかなうために行う公出挙と、より利息が高く個人が行う私出挙がある。出挙は貸稲(いらしのいね)とも呼ばれ、春や夏に稲を貸し付けて秋に3割から5割の利息を返済させた。9世紀の『日本霊異記』には、米や酒の私出挙について記述があり、[[大安寺]]の修多羅分の銭が金融資本とされた事例が見られる。[[正倉院文書]]や木簡には、出挙の一種である[[月借銭解]]という借金の申込書にあたる記録がある。月借銭は月ぎめの短期融資で高利であり、[[官司]]が官人に貸付を行っていた。月借銭解の金額は最低100文、最大5貫で、数百文が多かった{{Sfn|仁藤|1998|p=54}}{{Sfn|丸山|2010|p=211}}


== 中世 ==
== 中世 ==
=== 貿易と貨幣流入 ===
=== 貿易と貨幣流入 ===
[[ファイル:Hokuso-sen.jpg|thumb|right|240px|宋銭]]
[[ファイル:Hokuso-sen.jpg|thumb|right|240px|宋銭]]
皇朝十二銭以降、朝廷は硬貨の発行を停止する。[[11世紀]]前期からは東国では絹や布、西国では米を中心とする物品貨幣が用いられた。[[平安時代]]中期から戦国時代にかけての硬貨の普及は、中国の[[宋]]からの銅貨がきっかけとなった。[[日宋貿易]]を通じて流入した[[宋銭]]が、そのまま日本国内の貨幣として通用した<ref>大田 (1995)</ref>。[[1193年]]([[建久]]4年)には出挙の返済に宋銭の使用を禁じた記録があるが、[[13世紀]]前半には、銅貨は絹や布が持っていた価値尺度の機能を果たし始め、[[鎌倉幕府]]は銅貨の流通を認めるようになる。鎌倉時代の公卿である[[広橋経光]]の『[[民経記]]』には、[[西園寺公経]]によって銭10万貫文を運んだ貿易船の逸話が書かれている。13世紀に中国で成立した[[元 (王朝)|元]]は、紙幣の[[交鈔]]を流通させるために貴金属の私的な取引を禁じ、日本には管理貿易や密貿易によって銅貨の流入が続いた<ref>四日市 (2008)</ref>。韓国の[[新安郡]]で発見された沈没船は、7500貫の銅貨を積んで日本へ向かっていた船であった<ref>東野 (1997) p.77</ref>。[[明]]の時代に入ると、[[日明貿易]]によって[[永楽通宝]]などの明銭が流入した。明においても外国への銅貨の流出が懸念されて、室町幕府からの朝貢に対する回賜に紙幣を用いることもあった。しかし日本では銅貨での受け取りを求めて、中国紙幣は国内では流通しなかった<ref>東野 (1997) p.92</ref>
[[平安時代]]中期から戦国時代にかけての硬貨の普及は、中国の[[宋]]からの銅貨がきっかけとなった。[[日宋貿易]]を通じて流入した[[宋銭]]が、そのまま日本国内の貨幣として通用した{{Sfn|大田|1995|p=}}。[[1193年]]([[建久]]4年)には出挙の返済に宋銭の使用を禁じた記録があるが、[[13世紀]]前半には、銅貨は絹や布が持っていた価値尺度の機能を果たし始め、[[鎌倉幕府]]は銅貨の流通を認めるようになる。鎌倉時代の公卿である[[広橋経光]]の『[[民経記]]』には、[[西園寺公経]]によって銭10万貫文を運んだ貿易船の逸話が書かれている。13世紀に中国で成立した[[元 (王朝)|元]]は、紙幣の[[交鈔]]を流通させるために貴金属の私的な取引を禁じ、日本には管理貿易や密貿易によって銅貨の流入が続いた{{Sfn|四日市|2008|p=}}。韓国の[[新安郡]]で発見された沈没船は、7500貫の銅貨を積んで日本へ向かっていた船であった{{Sfn|東野|1997|p=77}}元の次に[[明]]の時代に入ると、[[日明貿易]]によって[[永楽通宝]]などの明銭が流入した。明では外国への銅貨の流出が懸念されて、室町幕府からの朝貢に対する回賜に紙幣を用いることもあった。しかし日本では銅貨での受け取りを求めて、中国紙幣は国内では流通しなかった{{Sfn|東野|1997|p=92}}


=== 金属貨幣の普及 ===
=== 金属貨幣の普及 ===
こうして硬貨の流入が続き、やがて絹、布、米に代わって銅貨で[[年貢]]を納める[[代銭納]]が広まり、特に東国において普及した<ref>網野 (1994)</ref>。代銭納制によって生産物の換金が必要になると商品の流通が活発となり、そのため渡来銭だけでは足りず、豪族や大商人が発行した[[私鋳銭]]も流通した。そうした私鋳銭は粗悪だったため、[[鐚銭]]とも呼ばれて悪貨として扱われた。悪貨の受け取りを断る行為は[[撰銭]]と呼ばれ、15世紀以降に深刻となる。鐚銭には数百年の流通によって割れ、欠け、磨耗が著しい宋銭も含まれており、「ビタ一文受け取らない」のビタとは鐚銭のことである<ref>中島 (1999)</ref>
硬貨の流入が続き、絹、布、米に代わって銅貨で[[年貢]]を納める[[代銭納]]が広まり、特に東国において普及した{{Sfn|網野|1994|p=}}。代銭納制によって生産物の換金が必要になると商品の流通が活発となり、そのため渡来銭だけでは足りず、豪族や大商人が発行した[[私鋳銭]]も流通した。そうした私鋳銭は粗悪だったため、[[鐚銭]]とも呼ばれて悪貨として扱われた。悪貨の受け取りを断る行為は[[撰銭]]と呼ばれ、15世紀以降に深刻となる。鐚銭には数百年の流通によって割れ、欠け、磨耗が著しい宋銭も含まれており、「ビタ一文受け取らない」のビタとは鐚銭のことである{{Sfn|中島|1999|p=}}


硬貨に加えて、紙幣を流通させる計画もあった。[[後醍醐天皇]]は[[建武の新政]]において、乾坤通宝という新貨を銅貨と楮幣(とへい)という紙幣で発行すると宣言した。しかし政権の崩壊によって実現はしなかった<ref>中島 (1999) p121</ref>
硬貨に加えて、中国にならって紙幣を流通させる計画もあった{{Refnest|group="†"|中国では。宋の[[交子]]に始まり、元の時代に交鈔、明の時代に宝鈔と呼ばれた紙幣が発行された。}}。[[後醍醐天皇]]は[[建武の新政]]において、[[乾坤通宝]]という新貨を銅貨と[[楮幣]](とへい)という紙幣で発行すると宣言した。しかし政権の崩壊によって実現はしなかった{{Sfn|中島|1999|p=121}}


=== 中世の金融 ===
=== 中世の金融 ===
貨幣や商品の流通が増加するにつれて信用経済も発展して、[[金融業]]も活発となる。利子付の貸借を[[利銭]]や[[借銭]]などと呼び、債権者は銭主、債務者は負人や借主と呼ばれた。[[鎌倉時代]]からは、年貢を運ぶ手間を省略するために為替(かわし)や[[割符]]という[[手形]]が用いられるようになり、[[室町時代]]からの割符は商業の取引にも流通した。決済されるものに応じて、[[替銭]]や[[替米]]などとも呼ばれた。割符が用いられた史料によれば、1個で10貫文という定額の割符が通用して、本来なら1回の個別送金用である替銭と区別する記述も見られる。このため、割符には不特定の人々のあいだで流通して紙幣に近い機能を持っていたという説もある<ref>桜井 (1996) 第8章</ref>
貨幣や商品の流通が増加するにつれて信用経済も発展して、[[金融業]]も活発となる。利子付の貸借を[[利銭]]や[[借銭]]などと呼び、債権者は銭主、債務者は負人や借主と呼ばれた。[[鎌倉時代]]からは、年貢を運ぶ手間を省略するために為替(かわし)や[[割符]]という[[手形]]が用いられるようになり、[[室町時代]]からの割符は商業の取引にも流通した。決済されるものに応じて、[[替銭]]や[[替米]]などとも呼ばれた。割符が用いられた史料によれば、1個で10貫文という定額の割符が通用して、本来なら1回の個別送金用である替銭と区別する記述も見られる。このため、割符には不特定の人々のあいだで流通して紙幣に近い機能を持っていたという説もある{{Sfn|桜井|1996|p=第8章}}


室町時代の初期から中期にかけては[[借上 (中世)|借上]]という金融業者が活動して、室町中期からは[[土倉]]や[[酒屋]]が現れ、[[室町幕府]]が衰退するまではそうした業者が[[納銭方]]なども行って利益を得た。当時の利率は年利6割や7割2分が多く、それ以上の場合もあった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.48</ref>。鎌倉時代から室町時代にかけて特に[[御家人]]の債務問題が深刻となると、[[債務免除]]を行う[[徳政令]]が出された<ref>笠松 (1983)</ref>
室町時代の初期から中期にかけては[[借上 (中世)|借上]]という金融業者が活動して、室町中期からは[[土倉]]や[[酒屋]]が現れ、[[室町幕府]]が衰退するまではそうした業者が[[納銭方]]なども行って利益を得た。当時の利率は年利6割や7割2分が多く、それ以上の場合もあった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=48}}。鎌倉時代から室町時代にかけて特に[[御家人]]の債務問題が深刻となると、[[債務免除]]を行う[[徳政令]]が出された{{Sfn|笠松|1983|p=}}


=== 撰銭令 ===
=== 撰銭令 ===
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には日本に銅貨が入らなくなる。日明貿易の断絶と、明の[[海禁]]政策によって銅貨の流入が停止して、加えて産銅の減少から明の鋳造が低調となったことが原因である<ref>黒田 (1999)</ref>。一方で国内では悪貨を巡るトラブルが絶えず、撰銭を禁じて悪貨を流通させるための[[撰銭令]]が出されるようになる。撰銭令は[[大内氏]]([[1485年]])に始まり、室町幕府([[1506年]]等)、[[北条氏]][[1558年]]などの東国諸大名、[[織田信長]]([[1569年]])らによって出された。撰銭令に登場する悪貨として、うちひらめ、さかひ銭、ほろ、焼銭(やけせん)、ゑみやう、大欠(おおかけ)、破(われ)、磨り、南京、京銭(きんせん)などがある。この中で、さかひ銭は[[堺]]で作られた私鋳銭とされ、ほかにも鎌倉、京都、[[加治木]]といった都市や港町で中国の銅貨を模した私鋳銭が作られていた<ref>東野 (1997) 第8章</ref>。銅貨不足が解消されないため撰銭が続き、代わりに物品貨幣である米の普及が進んだ。撰銭令も米の普及に影響しており、16世紀後半の畿内では撰銭令の発布から2、3年後に米での支払いが増えている<ref>日本銀行金融研究所 (1997)</ref>
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には日本に銅貨が入らなくなる。日明貿易の断絶と、明の[[海禁]]政策によって銅貨の流入が停止して、加えて産銅の減少から明の鋳造が低調となったことが原因である{{Sfn|黒田|1999|p=}}。一方で国内では悪貨を巡るトラブルが絶えず、撰銭を禁じて悪貨を流通させるための[[撰銭令]]が出されるようになる。撰銭令は[[大内氏]]に始まり、室町幕府、[[北条氏]][[織田信長]]などの諸大名によって出された。撰銭令に登場する悪貨として、うちひらめ、さかひ銭、ほろ、焼銭(やけせん)、ゑみやう、大欠(おおかけ)、破(われ)、磨り、南京、京銭(きんせん)などがある。この中で、さかひ銭は[[堺]]で作られた私鋳銭とされ、ほかにも鎌倉、京都、[[加治木]]といった都市や港町で中国の銅貨を模した私鋳銭が作られていた{{Sfn|東野|1997|p=第8章}}。銅貨不足が解消されないため撰銭が続き、代わりに物品貨幣である米の普及が進んだ。撰銭令も米の普及に影響しており、16世紀後半の畿内では撰銭令の発布から2、3年後に米での支払いが増えている{{Sfn|日本銀行金融研究所|1997|p=}}


=== 鉱山と精錬法の伝来 ===
=== 鉱山と精錬法の伝来 ===
[[File:Sekishu Chogin.jpg|thumb|right|200px|石見銀山の[[石州銀]]。[[造幣博物館]] 切遣い跡有]]
[[File:Sekishu Chogin.jpg|thumb|right|200px|石見銀山の[[石州銀]]。[[造幣博物館]] 切遣い跡有]]
[[戦国大名]]は戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。そこで[[金鉱山|金山]]と[[銀山]]の開発がすすみ、[[領国貨幣]]が戦国大名により作られるようになる。大陸に由来する精錬技術である[[灰吹法]]の普及は、金銀の産出量に大きな影響を与えた。灰吹法とは、金銀の鉱石を鉛に溶かして反射炉に入れ、空気を吹きつけて酸化させた鉛を灰に吸着させて金銀を取りだす方法である<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.311</ref>。古代から銀鉱脈で知られていた[[石見銀山]]の採掘が16世紀前半に再開されると、対馬や壱岐を経由して[[李氏朝鮮]]と貿易をしていた[[博多]]や、朝鮮半島へ鉱石が運ばれて精錬が行われた。『[[朝鮮王朝実録]]』には、[[1528年]]([[大永]]8年)の[[漢城]]で日本の鉛鉄から密かに銀を精錬したという事件の記述もある。石見銀山の発見を記した『[[銀山旧記]]』によれば、[[1533年]]([[天文 (元号)|天文]]2年)に博多の商人である[[神屋寿禎]]が宗丹と桂寿(慶寿の表記もあり)という技術者を石見に連れてきており、これが灰吹法の伝来とされる<ref>本多 (2015) p.16</ref>。その後、灰吹法が但馬の[[生野銀山]]など各地に伝わって産出が増えると、銀は畿内や九州で流通する。さらに、外国との取り引きが行われる貿易港や、外国の産物が集まる交易地で用いられるようになった<ref>本多 (2015) p.20</ref>
[[戦国大名]]は戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。そこで[[金鉱山|金山]]と[[銀山]]の開発がすすみ、[[領国貨幣]]が戦国大名により作られるようになる。大陸に由来する精錬技術である[[灰吹法]]の普及は、金銀の産出量に大きな影響を与えた。灰吹法とは、金銀の鉱石を鉛に溶かして反射炉に入れ、空気を吹きつけて酸化させた鉛を灰に吸着させて金銀を取りだす方法である{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=311}}。古代から銀鉱脈で知られていた[[石見銀山]]の採掘が16世紀前半に再開されると、対馬や壱岐を経由して[[李氏朝鮮]]と貿易をしていた[[博多]]や、朝鮮半島へ鉱石が運ばれて精錬が行われた。『[[朝鮮王朝実録]]』には、[[1528年]]([[大永]]8年)の[[漢城]]で日本の鉛鉄から密かに銀を精錬したという事件の記述もある。石見銀山の発見を記した『[[銀山旧記]]』によれば、[[1533年]]([[天文 (元号)|天文]]2年)に博多の商人である[[神屋寿禎]]が[[宗丹]][[桂寿]](慶寿の表記もあり)という技術者を石見に連れてきており、これが灰吹法の伝来とされる{{Sfn|本多|2015|p=16}}。その後、灰吹法が但馬の[[生野銀山]]など各地に伝わって産出が増えると、銀は畿内や九州で流通する。さらに、外国との取り引きが行われる貿易港や、外国の産物が集まる交易地で用いられるようになった{{Sfn|本多|2015|p=20}}


東日本では、甲斐や駿河、伊豆で金が採掘され、[[佐渡金山]]はのちの江戸時代から本格化する。戦国大名のなかには、[[春日山城]]に約400キログラムにあたる金を蓄えた[[上杉謙信]]や、[[甲州金]]と呼ばれた金貨を流通させた[[武田信玄]](晴信)なども現れた。大口取引には[[砂金]]および[[灰吹銀]]が用いられ、金は板金や碁石金に整形されるようになる<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.202</ref>。当時は東日本で金山が多く、西日本で銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中して、江戸時代にも影響を与えた<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.65</ref>
東日本では、甲斐や駿河、伊豆で金が採掘され、[[佐渡金山]]はのちの江戸時代から本格化する。戦国大名のなかには、[[春日山城]]に約400キログラムにあたる金を蓄えた[[上杉謙信]]や、[[甲州金]]と呼ばれた金貨を流通させた[[武田信玄]](晴信)なども現れた。大口取引には[[砂金]]および[[灰吹銀]]が用いられ、金は板金や碁石金に整形されるようになる{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=202}}。当時は東日本で金山が多く、西日本で銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中して、江戸時代にも影響を与えた{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=65}}


=== 日本の銀と貿易 ===
=== 銀と貿易 ===
銀が国際的な貨幣であったため、1540年代以降には銀を外国に運ぶ貿易が活発となる。日本の銀は倭銀とも呼ばれて貿易用に普及が進み、朝鮮では貨幣として使われている木綿布と交換された。朝鮮政府は民間の私貿易で銀が大量に流入するのを避けるために、公貿易として対処した。これは、明への貢銀を避けるための対策もかねていた。[[1544年]](天文13年)には安心と名乗る僧が日本国王使として朝鮮に8万両の銀を持ち込んでいるが、当時の日本からの国使は多くが貿易を目的とした[[偽使]]であった。銀と引き換えに大量の綿布が輸入されて、船舶の帆布や衣料品となる。大内氏の主催による[[1539年]](天文8年)の第18次[[遣明船]]には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した<ref>本多 (2015) p.22</ref>
銀が国際的な貨幣であったため、1540年代以降には銀を外国に運ぶ貿易が活発となる。日本の銀は倭銀とも呼ばれて貿易用に普及が進み、朝鮮では貨幣として使われている木綿布と交換された。朝鮮政府は民間の私貿易で銀が大量に流入するのを避けるために、公貿易として対処した。これは、明への貢銀を避けるための対策もかねていた。[[1544年]](天文13年)には[[安心]]と名乗る僧が日本国王使として朝鮮に8万両の銀を持ち込んでいるが、当時の日本からの国使は多くが貿易を目的とした[[偽使]]であった。銀と引き換えに大量の綿布が輸入されて、船舶の帆布や衣料品となる。大内氏の主催による[[1539年]](天文8年)の第18次[[遣明船]]には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した{{Sfn|本多|2015|p=22}}


銀の増産によって、海外からの日本進出も盛んになる。明の[[鄭舜功]]が書いた『[[日本一鑑]]』によれば、[[1534年]](天文3年)には[[福建]]の商人が日本の僧からの情報で貿易を盛んにしたとされている。明では銀で納税する[[一条鞭法]]という銀本位制をとっていたため、銀を求めて福建のほかにも[[浙江]]や[[広東]]の商人が訪れた。[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]との[[南蛮貿易]]が始まると、[[平戸]]からも銀が運ばれるようになった<ref>本多 (2015) p.31</ref>。明は[[海禁]]の政策をとっており、[[倭寇]]とつながりがあるされた日本との取り引きは密貿易であった。しかし、中国沿岸やポルトガルの商人は統制のなかでも日本に渡航を続けて、[[1570年]]([[永禄]]13年)にはポルトガルが長崎・[[マカオ]]間の定期航路を開設する。これによって日本銀がマカオから明に流入するルートが確立した。戦国・織豊時代の日本は、銀によって生糸や絹織物などの高価な外国産品や、火薬原料である[[硝石]]などの軍需物資を調達した<ref>本多 (2015) p.46</ref>
銀の増産によって、海外からの日本進出も盛んになる。明の[[鄭舜功]]が書いた『[[日本一鑑]]』によれば、[[1534年]](天文3年)には[[福建]]の商人が日本の僧からの情報で貿易を盛んにしたとされている。明では銀で納税する[[一条鞭法]]という銀本位制をとっていたため、銀を求めて福建のほかにも[[浙江]]や[[広東]]の商人が訪れた。[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]との[[南蛮貿易]]が始まると、[[平戸]]からも銀が運ばれるようになった{{Sfn|本多|2015|p=31}}。明は[[海禁]]の政策をとっており、[[倭寇]]とつながりがあるされた日本との取り引きは密貿易であった。しかし、中国沿岸やポルトガルの商人は統制のなかでも日本に渡航を続けて、[[1570年]]([[永禄]]13年)にはポルトガルが長崎・[[マカオ]]間の定期航路を開設する。これによって日本銀がマカオから明に流入するルートが確立した。戦国・織豊時代の日本は、銀によって生糸や絹織物などの高価な外国産品や、火薬原料である[[硝石]]などの軍需物資を調達した{{Sfn|本多|2015|p=46}}


=== 貫高制と石高制 ===
=== 貫高制と石高制 ===
税制では、通貨の単位である貫を尺度とする[[貫高制]]にかわって、米の収穫量を尺度とする[[石高制]]が優勢となってゆく。室町幕府では15世紀から守護や国人の所領の規模を貫高という単位で表しており、貫高を基準として徴税を行っていた。各地で[[荘園制]]が解体するにつれて、戦国大名も貫高をもとに軍役や年貢の基準を定めるようになり、領内の把握と権力強化のために[[検地]]を行った<ref>永原 (1996) p.64, p.81</ref>。貫高制は貨幣での納税を求めたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増した。農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難であった。こうして『[[妙法寺記]]』や『[[多聞院日記]]』などの記録によれば、戦国期における米価は安定もしくは低落を続けた。貫高制と検地は戦国大名の支配を強化する一方で、農民の年貢減免を求める紛争や、欠落(かけおち)などの逃亡の増加を招いた<ref>永原 (1996) p.86</ref>
税制では、通貨の単位である貫を尺度とする[[貫高制]]にかわって、米の収穫量を尺度とする[[石高制]]が優勢となってゆく。室町幕府では15世紀から守護や国人の所領の規模を貫高という単位で表しており、貫高を基準として徴税を行っていた。各地で[[荘園制]]が解体するにつれて、戦国大名も貫高をもとに軍役や年貢の基準を定めるようになり、領内の把握と権力強化のために[[検地]]を行った{{Sfn|永原|1996|p=64,81}}。貫高制は貨幣での納税を求めたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増した。農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難であった。『[[妙法寺記]]』や『[[多聞院日記]]』などの記録によれば、戦国期における米価は安定もしくは低落を続けた。貫高制と検地は戦国大名の支配を強化する一方で、農民の年貢減免を求める紛争や、欠落(かけおち)などの逃亡の増加を招いた{{Sfn|永原|1996|p=86}}


戦国期には、銅貨や米に加えて金や銀の流通が増加して貨幣状況が複雑となった。[[織田信長]]は京都において、米を商取引に使うことを禁じつつ、金銀の商取引を認めて銅貨との交換比率を定めた。米による現納を正確にするために、京都の[[十合枡]]を公定枡として採用して、これはのちの豊臣政権にも引き継がれる。公定枡による度量衡の統一は、米の価値尺度としての信用を高めたため、結果として石高の信用につながった<ref>本多 (2012)</ref>
戦国期には、銅貨や米に加えて金や銀の流通が増加して貨幣状況が複雑となった。[[織田信長]]は京都において、米を商取引に使うことを禁じつつ、金銀の商取引を認めて銅貨との交換比率を定めた。米による現納を正確にするために、京都の[[十合枡]]を公定枡として採用して、これはのちの豊臣政権にも引き継がれる。公定枡による度量衡の統一は、米の価値尺度としての信用を高めたため、結果として石高の信用につながった{{Sfn|本多|2012|p=}}


貫高制と検地の関係は、[[豊臣秀吉]]によって石高制と検地へと変更される。秀吉は[[太閤検地]]が古代の検田を継承するとして、天皇のもとでの国家事業として位置づけた。そして[[1589年]]([[天正]]17年)の美濃検地をはじめとして、貫高制から石高制への切りかえをすすめた。秀吉は[[1591年]](天正19年)に、天皇に献上する[[検地帳]]である御前帳を石高で提出するように諸大名に求めて、全国で石高制の成立がすすんだ。秀吉の要求は、石高制による軍役の編成と大陸出兵が理由とされており、[[1592年]]([[文禄]]元年)には[[文禄の役]]が起きている<ref>秋澤 (1993)</ref>。石高制が優勢となった背景には、領主の政策もあった。貫高制の進展は農民の離農や、欠落を招く恐れがあることから、封建制度の維持のために年貢を米で納めさせる政策をとり、[[江戸幕府]]にも継承された<ref>三上 (1996)</ref>
貫高制と検地の関係は、[[豊臣秀吉]]によって石高制と検地へと変更される。秀吉は[[太閤検地]]が古代の検田を継承するとして、天皇のもとでの国家事業として位置づけた。そして[[1589年]]([[天正]]17年)の美濃検地をはじめとして、貫高制から石高制への切りかえをすすめた。秀吉は[[1591年]](天正19年)に、天皇に献上する[[検地帳]]である御前帳を石高で提出するように諸大名に求めて、全国で石高制の成立がすすんだ。秀吉の要求は、石高制による軍役の編成と大陸出兵が理由とされており、[[1592年]]([[文禄]]元年)には[[文禄の役]]が起きている{{Sfn|秋澤|1993|p=}}。石高制が優勢となった背景には、領主の政策もあった。貫高制の進展は農民の離農や、欠落を招く恐れがあることから、封建制度の維持のために年貢を米で納めさせる政策をとり、[[江戸幕府]]にも継承された{{Sfn|三上|1996|p=}}


== 近世 ==
== 近世 ==
皇朝十二銭が発行中止になってから、日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度にもとづいて初めて作られた金属貨幣は、起源は不詳であるが戦国時代には[[甲斐国]]を中心とする戦国大名・甲斐武田氏の領国で[[地方貨幣|地方貨]]として用いられた[[甲州金]]とされる<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.205</ref>。続いて豊臣秀吉が製造を命じた[[天正大判]]<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.10</ref>も通貨としての性格は薄かった。全国的な貨幣の統一は、江戸時代からとなる<ref>東野 (1997) p.151</ref>
皇朝十二銭が発行中止になってから、日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度にもとづいて初めて作られた金属貨幣は、起源は不詳であるが戦国時代には[[甲斐国]]を中心とする戦国大名・甲斐武田氏の領国で[[地方貨幣|地方貨]]として用いられた[[甲州金]]とされる{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=205}}。続いて豊臣秀吉が製造を命じた[[天正大判]]{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=10}}も通貨としての性格は薄かった。全国的な貨幣の統一は、江戸時代からとなる{{Sfn|東野|1997|p=151}}


=== 江戸時代の三貨制度 ===
=== 江戸時代の三貨制度 ===
[[ファイル:Ko-kaneitsuho.jpg|thumb|left|100px|寛永通寳]]
[[ファイル:Ko-kaneitsuho.jpg|thumb|left|100px|寛永通寳]]
{{main|江戸時代の三貨制度}}
{{main|江戸時代の三貨制度}}
[[江戸時代]]になると貨幣制度が統一され、[[江戸幕府]]が金貨・銀貨・銅貨(銭貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の[[正貨]]とした。まず慶長の幣制により金貨・銀貨が作られ、続いて[[1606年]]([[慶長]]11年)に[[慶長通宝]]が発行され、皇朝十二銭以来600年ぶりの銅貨公鋳となった。2年後には明銭の永楽通宝の流通が禁止され、永勘定(1[[貫文]]=金1[[両]])による優位性を廃止した<ref>三上 (1996)</ref>。鋳貨を発行した場所をそれぞれ[[金座]]、[[銀座 (歴史)|銀座]]、[[銭座]]と呼んだ<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.41、p.80、p.96</ref>
[[江戸時代]]になると貨幣制度が統一され、[[江戸幕府]]が金貨・銀貨・銅貨(銭貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の[[正貨]]とした。まず慶長の幣制により金貨・銀貨が作られ、続いて[[1606年]]([[慶長]]11年)に[[慶長通宝]]が発行され、皇朝十二銭以来600年ぶりの銅貨公鋳となった。2年後には明銭の永楽通宝の流通が禁止され、永勘定(1[[貫文]]=金1[[両]])による優位性を廃止した{{Sfn|三上|1996|p=}}。鋳貨を発行した場所をそれぞれ[[金座]]、[[銀座 (歴史)|銀座]]、[[銭座]]と呼んだ{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=41、p.80、p.96}}


[[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|left|120px|慶長小判]]
[[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|left|120px|慶長小判]]
[[ファイル:Keicho-chogin2.jpg|thumb|right|120px|慶長丁銀]]
[[ファイル:Keicho-chogin2.jpg|thumb|right|120px|慶長丁銀]]
金貨の単位は[[両]]、分(ぶ)、[[朱]](しゅ)があり、1両=4分(ぶ)、1分=4朱の4進法だった。銀貨の単位は[[貫]](かん)、[[匁]](もんめ)、分(ふん)があり、1貫=1000匁、1匁=10分だった。銅貨の単位には文があり、1貫文=1000文だった。金・銀・銅はそれぞれ独自の体系を持ち、交換用の基準を決められてはいたが、実際には金・銀・銅の相場は変動して、現在の為替相場のように機能した。そのため後述のように両替商が重要となった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.45、p.112</ref>
金貨の単位は[[両]]、分(ぶ)、[[朱]](しゅ)があり、1両=4分(ぶ)、1分=4朱の4進法だった。銀貨の単位は[[貫]](かん)、[[匁]](もんめ)、分(ふん)があり、1貫=1000匁、1匁=10分だった。銅貨の単位には文があり、1貫文=1000文だった。金・銀・銅はそれぞれ独自の体系を持ち、交換用の基準を決められてはいたが、実際には金・銀・銅の相場は変動して、現在の為替相場のように機能した。そのため後述のように両替商が重要となった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=45, 112}}


==== 金貨 ====
==== 金貨 ====
金貨には[[大判]]、[[小判]]、[[一分金|一分判]]の3種類がある。大判は、大名や旗本など特権身分の[[贈り物|贈与]]や賜与、多額の支払い用の金貨であり、販売値段は時価である御道具値段として表され、枚数で数えられた<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.209</ref>。実際の交換には、小判と一分判がよく用いられた。小判は楕円形であり、両を単位とする。一分判は小判の4分の1に相当して、分を単位とする。円形の円分金や、短冊形の額壱分金がある<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.233</ref>
金貨には[[大判]]、[[小判]]、[[一分金|一分判]]の3種類がある。大判は、大名や旗本など特権身分の[[贈り物|贈与]]や賜与、多額の支払い用の金貨であり、販売値段は時価である御道具値段として表され、枚数で数えられた{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=209}}。実際の交換には、小判と一分判がよく用いられた。小判は楕円形であり、両を単位とする。一分判は小判の4分の1に相当して、分を単位とする。円形の円分金や、短冊形の額壱分金がある{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=233}}


==== 銀貨 ====
==== 銀貨 ====
銀貨は[[丁銀]]が主体で、ほかに大小さまざまな[[豆板銀]]があった。金貨と銅貨は額面価値と枚数で価値を決める[[計数貨幣]]であったが、銀貨は[[18世紀]]半ばまで丁銀、豆板銀といった秤量貨幣であった。この統一を目指して、幕府の老中である[[田沼意次]]は[[1765年]]([[明和]]2年)に初の計数銀貨として[[五匁銀|明和五匁銀]]を発行させた。これは商人の反発によって[[1772年]](明和9年)に発行が停止されたものの、同年に[[南鐐二朱銀]]が代わって発行され、こちらは徐々に定着した<ref>鈴木 (2002) p.218-219</ref>。以降、計数貨幣の銀貨と秤量貨幣の銀貨が併用され、南鐐二朱銀は合計39年間にわたって発行された。[[19世紀]]初頭の[[文政]]年間に入ると、金貨の単位である分・朱を通貨単位とする計数銀貨の流通高が秤量銀貨を上回った<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.280</ref>
銀貨は[[丁銀]]が主体で、ほかに大小さまざまな[[豆板銀]]があった。金貨と銅貨は額面価値と枚数で価値を決める[[計数貨幣]]であったが、銀貨は[[18世紀]]半ばまで丁銀、豆板銀といった秤量貨幣であった。この統一を目指して、幕府の老中である[[田沼意次]]は初の計数銀貨として[[五匁銀|明和五匁銀]]を発行させた。これは商人の反発によって[[1772年]](明和9年)に発行が停止されたものの、同年に[[南鐐二朱銀]]が代わって発行され、こちらは徐々に定着した{{Sfn|鈴木|2002|p=218-219}}。以降、計数貨幣の銀貨と秤量貨幣の銀貨が併用され、南鐐二朱銀は合計39年間にわたって発行された。[[19世紀]]初頭の[[文政]]年間に入ると、金貨の単位である分・朱を通貨単位とする計数銀貨の流通高が秤量銀貨を上回った{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=280}}


==== 銅貨(銭貨) ====
==== 銅貨(銭貨) ====
銅貨は小額取引用で、庶民にもっとも使われた。本格的な銅貨鋳造および全国的な流通にいたるのは、[[1636年]]([[寛永]]13年)に発行された[[寛永通宝]]以後となった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.96</ref>。[[1768年]](明和5年)には、田沼意次の改革で、それまで1文銭のみだった寛永通宝に4文銭が加わった。初期の銅貨と比べれば含有率が低い真鍮貨だが、当時は[[長崎貿易]]による銅流出で銅が不足しており、鉄貨の銭が増えていたため普及した<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.280</ref>
銅貨は小額取引用で、庶民にもっとも使われた。本格的な銅貨鋳造および全国的な流通にいたるのは[[寛永通宝]]以後となった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=96}}。[[1768年]](明和5年)には、田沼意次の改革で、それまで1文銭のみだった寛永通宝に4文銭が加わった。初期の銅貨と比べれば含有率が低い真鍮貨だが、当時は[[長崎貿易]]による銅流出で銅が不足しており、鉄貨の銭が増えていたため普及した{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=280}}


=== 江戸時代の紙幣 ===
=== 江戸時代の紙幣 ===
[[File:Ise Yamada Hagaki.jpg|thumb|80px|伊勢山田羽書(1610年)]]
[[File:Ise Yamada Hagaki.jpg|thumb|80px|伊勢山田羽書(1610年)]]
==== 羽書 ====
==== 羽書 ====
現存する日本最古の[[紙幣]]は、[[1610年]](慶長15年)に伊勢国で発行された[[山田羽書]]である。羽書という語の由来は、小額貨幣を指す端書からとされる。伊勢国は[[伊勢商人]]でも知られる商業の活発な地域であり、秤量貨幣である銀の取引の煩雑さや、釣銭用の銅貨の不足を解決するのが目的とされた。山田羽書は秤量銀貨の預かり証として発行されて[[伊勢神宮]]の宗教権威により流通して、やがて紙幣として普及が進んだ。発行にあたっては、[[楮]]から[[和紙]]を作って[[版木]]で印刷をした<ref>植村 (1994) p.19</ref>。図柄としては、[[大黒天]]、[[えびす|恵比寿]]、[[弁財天]]、[[布袋]]、[[倶利伽羅竜王]]などの人物のほかに、[[うちでのこづち|打ち出の小槌]]、[[瑞雲]]、[[青海波]]、蝶、[[麒麟]]、象が描かれた。こうした図柄は、明治政府の政府紙幣にも影響を与えている<ref>植村 (1989) p.25</ref>。羽書のように[[藩|藩領]]や[[旗本|旗本領]]以外で発行された紙幣は[[私札]]とも呼ばれる。私札には発行者によって[[公家札]]・[[寺社札]]、[[町村札]]、[[宿駅札]]、[[鉱山札]]、[[私人札]]などがあった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.142</ref>
現存する日本最古の[[紙幣]]は、伊勢国で発行された[[山田羽書]]である。羽書という語の由来は、小額貨幣を指す端書からとされる。伊勢国は[[伊勢商人]]でも知られる商業の活発な地域であり、秤量貨幣である銀の取引の煩雑さや、釣銭用の銅貨の不足を解決するのが目的とされた。山田羽書は秤量銀貨の預かり証として発行されて[[伊勢神宮]]の宗教権威により流通して、紙幣として普及が進んだ。発行にあたっては、[[楮]]から[[和紙]]を作って[[版木]]で印刷をした{{Sfn|植村|1994|p=19}}。図柄としては、[[大黒天]]、[[えびす|恵比寿]]、[[弁財天]]、[[布袋]]、[[倶利伽羅竜王]]などの人物のほかに、[[うちでのこづち|打ち出の小槌]]、[[瑞雲]]、[[青海波]]、蝶、[[麒麟]]、象が描かれた。こうした図柄は、明治政府の政府紙幣にも影響を与えている{{Sfn|植村|1989|p=25}}。羽書のように[[藩|藩領]]や[[旗本|旗本領]]以外で発行された紙幣は[[私札]]とも呼ばれる。私札には発行者によって[[公家札]]・[[寺社札]]、[[町村札]]、[[宿駅札]]、[[鉱山札]]、[[私人札]]などがあった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=142}}


==== 藩札 ====
==== 藩札 ====
大名領国では、[[藩札]]と呼ばれる紙幣が発行された。[[藩]]という呼称は明治維新以後に普及したものであり、当時は札、鈔、判書という具合に呼ばれた<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.129</ref>。初の藩札は[[1630年]](寛永7年)に[[備後福山藩]]から発行されている。楮による丈夫な和紙を用い、用紙には摂津の[[名塩村]]、越前の[[五箇村 (福井県)|五箇村]]、美濃の[[岐阜市|岐阜]]などの名産地のものが使われた。職人たちは誓書によって藩札用紙の製法の秘密を守り、印刷には版面を彫刻する[[絵師]]がおり、[[判師]]と呼ばれた。版木は2分割か3分割されており、1人では完成しないように偽造対策がされていた。図柄には七福神の大黒天、弁財天や、鶴、亀、[[神代文字]]、[[梵字]]などが使われ、偽造対策の印章も使われた<ref>植村 (1994)</ref>
大名領国では、[[藩札]]と呼ばれる紙幣が発行された。[[藩]]という呼称は明治維新以後に普及したものであり、当時は札、鈔、判書という具合に呼ばれた{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=129}}。初の藩札は[[1630年]](寛永7年)に[[備後福山藩]]から発行されている。楮による丈夫な和紙を用い、用紙には摂津の[[名塩村]]、越前の[[五箇村 (福井県)|五箇村]]、美濃の[[岐阜市|岐阜]]などの名産地のものが使われた。職人たちは誓書によって藩札用紙の製法の秘密を守り、印刷には版面を彫刻する[[絵師]]がおり、[[判師]]と呼ばれた。版木は2分割か3分割されており、1人では完成しないように偽造対策がされていた。図柄には七福神の大黒天、弁財天や、鶴、亀、[[神代文字]]、[[梵字]]などが使われ、偽造対策の印章も使われた{{Sfn|植村|1994|p=}}


藩札の発行目的は、藩財政の窮乏が多くの原因であった。領内での流通を目的としていたが、藩内を越えて流通したものもあった。旗本が治める[[知行地]]では、藩札と同様の目的で[[旗本札]]が発行された。江戸時代後期までの藩札は銀立てによる銀札が多く、特に銀遣いの西日本で流通した。[[1707年]](宝永4年)には前年に改鋳された[[宝永二ツ宝丁銀|宝永銀]]流通促進のため、幕府は札遣いの禁止を出して紙幣は流通停止とした。この禁止令は、改鋳で新たに発行する質の低い銀貨と藩札が競合することを避けるためとされる。札遣いの禁止は、[[1730年]](享保15年)まで続いた<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.131</ref>
藩札の発行目的は、藩財政の窮乏が多くの原因であった。領内での流通を目的としていたが、藩内を越えて流通したものもあった。旗本が治める[[知行地]]では、藩札と同様の目的で[[旗本札]]が発行された。江戸時代後期までの藩札は銀立てによる銀札が多く、特に銀遣いの西日本で流通した。[[1707年]](宝永4年)には前年に改鋳された[[宝永二ツ宝丁銀|宝永銀]]流通促進のため、幕府は札遣いの禁止を出して紙幣は流通停止とした。この禁止令は、改鋳で新たに発行する質の低い銀貨と藩札が競合することを避けるためとされる。札遣いの禁止は、[[1730年]](享保15年)まで続いた{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=131}}


のちの明治政府による統計では、244藩、14[[代官所]]、9[[旗本|旗本領]]により計1694種類の紙幣が発行されていたという。江戸時代の庶民は金貨や銀貨を目にする機会が少なく、実際によく用いた貨幣は銅貨と紙幣だったという説もある<ref>植村 (1994) p.20</ref>
のちの明治政府による統計では、244藩、14[[代官所]]、9[[旗本|旗本領]]により計1694種類の紙幣が発行されていたという。江戸時代の庶民は金貨や銀貨を目にする機会が少なく、実際によく用いた貨幣は銅貨と紙幣だったという説もある{{Sfn|植村|1994|p=20}}


=== 両替商 ===
=== 両替商 ===
[[画像:Hariguchi-tenbin.jpg|thumb|left|200px|両替に用いられた針口天秤]]
[[画像:Hariguchi-tenbin.jpg|thumb|left|200px|両替に用いられた針口天秤]]
金貨は江戸以北の太平洋側の地域、銀貨は大坂、京都、東北以南の日本海側の地域で主に用いられた。江戸では金貨が流通する金遣い(きんづかい)であったのに対して、上方では主として銀貨が流通する銀遣い(ぎんづかい)であった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.307</ref>。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に両替が必要であった。このため[[両替商]]の存在が重要となり、金座や銀座の周辺にいた両替商は、本両替商と銭両替商へと分業が進んだ。本両替商には為替や貸付、預金などの業務を行う者もおり、なかでも江戸の本両替仲間と大坂の十人両替仲間がよく知られるようになった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.112</ref>
金貨は江戸以北の太平洋側の地域、銀貨は大坂、京都、東北以南の日本海側の地域で主に用いられた。江戸では金貨が流通する金遣い(きんづかい)であったのに対して、上方では主として銀貨が流通する銀遣い(ぎんづかい)であった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=307}}。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に両替が必要であった。このため[[両替商]]の存在が重要となり、金座や銀座の周辺にいた両替商は、本両替商と銭両替商へと分業が進んだ。本両替商には為替や貸付、預金などの業務を行う者もおり、なかでも江戸の本両替仲間と大坂の十人両替仲間がよく知られるようになった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=112}}


[[1609年]](慶長14年)に[[御定相場]]として金1両=銀50匁=永1貫文=鐚4貫文(4,000[[文 (通貨単位)|文]])と定められ、[[1700年]](元禄13年)には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定されたが、実際には相場が変動していた。幕府貨幣の三貨のほかに、米も貨幣として流通し続け、米の預かり証である[[米切手]]も用いられた。さらに多額の金銭の輸送のリスクを避けるために[[為替]]が発達して、大坂では手形決済が商品取引の99パーセントにも及び、京都では50パーセント、江戸はそれ以下だったとされる<ref>加藤秋谷編 (2000) p.22</ref>
[[1609年]](慶長14年)に[[御定相場]]として金1両=銀50匁=永1貫文=鐚4貫文(4,000[[文 (通貨単位)|文]])と定められ、[[1700年]](元禄13年)には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定されたが、実際には相場が変動していた。幕府貨幣の三貨のほかに、米も貨幣として流通し続け、米の預かり証である[[米切手]]も用いられた。さらに多額の金銭の輸送のリスクを避けるために[[為替]]が発達して、大坂では手形決済が商品取引の99パーセントにも及び、京都では50パーセント、江戸はそれ以下だったとされる{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=22}}


=== 江戸時代の貿易と貨幣 ===
=== 江戸時代の貿易と貨幣 ===
江戸時代の日本は貴金属の輸出国であり、[[朱印船貿易]]が[[1635年]](寛永12年)まで行われて貨幣も流通した。取引相手はポルトガル、ベトナムの[[安南]]、スペイン領[[マニラ]]、タイの[[アユタヤ王朝]]や[[パタニ王国]]などの諸国だった。江戸幕府によって[[1639年]](寛永16年)に[[鎖国令]]が出されたのちは、ポルトガルに代わり[[オランダ東インド会社]]が日本と取引を行った<ref>東野 (1997) 第11章</ref>
江戸時代の日本は貴金属の輸出国であり、[[朱印船貿易]]が[[1635年]](寛永12年)まで行われて貨幣も流通した。取引相手はポルトガル、ベトナムの[[安南]]、スペイン領[[マニラ]]、タイの[[アユタヤ王朝]]や[[パタニ王国]]などの諸国だった。江戸幕府によって[[1639年]](寛永16年)に[[鎖国令]]が出されたのちは、ポルトガルに代わり[[オランダ東インド会社]]が日本と取引を行った{{Sfn|東野|1997|p=第11章}}


==== 長崎貿易 ====
==== 長崎貿易 ====
[[画像:Nagasaki-boekisen.jpg|thumb|right|220px|長崎貿易銭]]
[[画像:Nagasaki-boekisen.jpg|thumb|right|220px|長崎貿易銭]]
オランダ東インド会社はポルトガルの手法を参考にして中国産の生糸などを日本に売り、日本は金や銀で支払いをした。[[1640年]](寛永17年)には小判2万1千枚と大判300枚が輸出されるなど金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に送った。輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐため、[[1659年]]([[万治]]2年)には貿易用の[[長崎貿易銭]]が発行された。[[1667年]]([[寛文]]年)には小判4万枚以上が輸出され、オランダの単位に換算すると106万[[ギルダー|グルデン]]以上となり、オランダ本国から東インド会社への送金34万グルデンを上回るほどだった。銀の輸出量は、17世紀前半当時の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半の[[バタヴィア]]では日本の小判が流通して、獅子の刻印を打ったものが9から10[[ターラー (通貨)|ライクスダアルダー]]として用いられた。金銀の流出は長年の問題となり、幕府は[[1685年]]([[貞享]]2年)からの[[定高貿易法]]で貿易に上限を設けたり、[[1695年]]([[元禄]]8年)の改鋳などを行う。改鋳は取引国のオランダや中国から反発を受ける原因となった<ref>東野 (1997) 第11章</ref>
オランダ東インド会社はポルトガルの手法を参考にして中国産の生糸などを日本に売り、日本は金や銀で支払いをした。[[1640年]](寛永17年)には小判2万1千枚と大判300枚が輸出されるなど金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に送った。輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐため、[[1659年]]([[万治]]2年)には貿易用の[[長崎貿易銭]]が発行された。[[1667年]]([[寛文]]年)には小判4万枚以上が輸出され、オランダの単位に換算すると106万[[ギルダー|グルデン]]以上となり、オランダ本国から東インド会社への送金34万グルデンを上回るほどだった。銀の輸出量は、17世紀前半当時の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半の[[バタヴィア]]では日本の小判が流通して、獅子の刻印を打ったものが9から10[[ターラー (通貨)|ライクスダアルダー]]として用いられた。金銀の流出は長年の問題となり、幕府は[[1685年]]([[貞享]]2年)からの[[定高貿易法]]で貿易に上限を設けたり、[[1695年]]([[元禄]]8年)の改鋳などを行う。改鋳は取引国のオランダや中国から反発を受ける原因となった{{Sfn|東野|1997|p=第11章}}


==== 日朝貿易 ====
==== 日朝貿易 ====
朝鮮半島においては李氏朝鮮と[[対馬藩]]が貿易をしており、日本は中国の生糸や朝鮮の[[高麗人参]]を慶長銀で購入していた。やがて改鋳した銀貨を用いるようになるが、改鋳で含有率が低くなった銀貨は、朝鮮側が受け取りを拒否するようになる。薬用として貴重であり消費が増えていた高麗人参の輸出が中止され、対馬藩は幕府に対策を訴える。そこで、[[1710年]](宝永7年)には高麗人参専用の銀貨として[[人参代往古銀]]発行され<ref>田代 (2011) p.115</ref>
朝鮮半島においては李氏朝鮮と[[対馬藩]]が貿易をしており、日本は中国の生糸や朝鮮の[[高麗人参]]を慶長銀で購入していた。改鋳した銀貨を用いるようになるが、改鋳で含有率が低くなった銀貨は、朝鮮側が受け取りを拒否するようになる。薬用として貴重であり消費が増えていた高麗人参の輸出が中止され、対馬藩は幕府に対策を訴える。幕府は[[1710年]](宝永7年)には高麗人参専用の銀貨として[[人参代往古銀]]発行{{Sfn|田代|2011|p=115}}


==== 山丹貿易 ====
==== 山丹貿易 ====
北方では、樺太の[[アイヌ]]が、山丹人とも呼ばれる[[ニヴフ]]や[[ウリチ]]と[[山丹貿易]]を行った。山丹側の商品は中国の[[清]]に朝貢をして得た絹織物や大陸の産物で、アイヌの商品は[[クロテン]]をはじめとする毛皮や幕府から得た鉄製品だった。取り引きにおいて日本や清の金属貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された<ref>佐々木 (1996) p.212</ref>。[[松前藩]]はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手しており、清の絹織物は[[蝦夷錦]]と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした<ref>佐々木 (1996) p.181</ref>
北方では、樺太の[[アイヌ]]が、山丹人とも呼ばれる[[ニヴフ]]や[[ウリチ]]と[[山丹貿易]]を行った。山丹側の商品は中国の[[清]]に朝貢をして得た絹織物や大陸の産物で、アイヌの商品は[[クロテン]]をはじめとする毛皮や幕府から得た鉄製品だった。取り引きにおいて日本や清の金属貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された{{Sfn|佐々木|1996|p=212}}。[[松前藩]]はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手しており、清の絹織物は[[蝦夷錦]]と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした{{Sfn|佐々木|1996|p=181}}


==== 銅の流出 ====
==== 銅の流出 ====
金銀の次は銅の輸出が増え、17世紀から18世紀初頭にかけての日本は当時世界一の年間6000トンを産出した。銅の流出は国内に影響を与え、[[元文]]時代になると鉄で作られた寛永銭が目立つようになった。輸出された銅は海外の貨幣にも用いられ、東インド会社時代の[[セイロン]]や、ナポレオン戦争時代の[[ジャワ]]では、日本の銅地金を切断して刻印を打った貨幣が現地用に急造されていた<ref>東野 (1997) 第11章、第12章</ref>
金銀の次は銅の輸出が増え、17世紀から18世紀初頭にかけての日本は当時世界一の年間6000トンを産出した。銅の流出は国内に影響を与え、[[元文]]時代になると鉄で作られた寛永銭が目立つようになった。輸出された銅は海外の貨幣にも用いられ、東インド会社時代の[[セイロン]]や、[[ナポレオン戦争]]時代の[[ジャワ]]では、日本の銅地金を切断して刻印を打った貨幣が現地用に急造されていた{{Sfn|東野|1997|p=第11章、第12章}}


=== 六道銭 ===
=== 六道銭 ===
厭勝銭に関連がある貨幣として、副葬品に用いられるものを[[六道銭]]と呼ぶ。六道銭には寛永通宝のほかに南無阿弥陀仏と書かれた[[念仏銭]]、南無妙法蓮華経と書かれた[[題目銭]]などがあり、ほかに[[絵銭]]がある。絵銭には図柄によって多くの名称が知られており、馬が描かれた[[駒曳銭]]、七福神から選ばれた[[大黒銭]]や[[恵比寿銭]]、玩具にも使われた[[面子銭]]などがある<ref>嶋谷 (1998)</ref>
厭勝銭に関連がある貨幣として、副葬品に用いられるものを[[六道銭]]と呼ぶ。六道銭には寛永通宝のほかに南無阿弥陀仏と書かれた[[念仏銭]]、南無妙法蓮華経と書かれた[[題目銭]]などがあり、ほかに[[絵銭]]がある。絵銭には図柄によって多くの名称が知られており、馬が描かれた[[駒曳銭]]、七福神から選ばれた[[大黒銭]]や[[恵比寿銭]]、玩具にも使われた[[面子銭]]などがある{{Sfn|嶋谷|1998|p=}}


=== 改鋳 ===
=== 改鋳 ===
[[File:Koban evolution.jpg|thumb|right|800px|小判の大きさの変化]]
[[File:Koban evolution.jpg|thumb|right|800px|小判の大きさの変化]]
経済の拡大にともない、貴金属の産出の減少と通貨の流通不足が起き、幕府財政の悪化が深刻化した。このため幕府では金銀貨の改鋳が行われた。[[元禄]]・[[宝永]](小判1回、丁銀4回<ref>最後の改鋳は[[正徳 (日本)|正徳]]元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ</ref>)・[[正徳 (日本)|正徳]]・[[享保]](小判のみ<ref>丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある丹野 (1999)</ref>)・[[元文]]・明和([[五匁銀]]、[[南鐐二朱銀|南鐐二朱判]])・文政・[[天保]]・[[嘉永]]([[一朱銀]]のみ)・[[安政]]・[[万延]](小判のみ)の計14回にわたる改鋳が行われた。ただし一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる。江戸幕府最初の金貨である[[慶長小判]]の時には約17.8グラム・金含有率84.3パーセントあったものが、最後の[[万延小判]]には約3.3グラム・金含有率56.8パーセントという水準にまで低下している<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.254</ref>
経済の拡大にともない、貴金属の産出の減少と通貨の流通不足が起き、幕府財政の悪化が深刻化した。このため幕府では金銀貨の改鋳が行われた。[[元禄]]・[[宝永]](小判1回、丁銀4回{{Refnest|group="†"|最後の改鋳は[[正徳 (日本)|正徳]]元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ。}})・[[正徳 (日本)|正徳]]・[[享保]](小判のみ{{Refnest|group="†"|丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある{{Sfn|丹野|1999|p=}}}}。)・[[元文]]・明和([[五匁銀]]、[[南鐐二朱銀|南鐐二朱判]])・文政・[[天保]]・[[嘉永]]([[一朱銀]]のみ)・[[安政]]・[[万延]](小判のみ)の計14回にわたる改鋳が行われた。ただし一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる。江戸幕府最初の金貨である[[慶長小判]]の時には約17.8グラム・金含有率84.3パーセントあったものが、最後の[[万延小判]]には約3.3グラム・金含有率56.8パーセントという水準にまで低下している{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=254}}


改鋳による貨幣発行益を[[出目]]と呼び、元禄改鋳では500万両、天保の改鋳では幕府年収の30パーセントの利益があった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.311</ref>。江戸幕府による改鋳は、含有量が異なる金属貨幣を同価として扱うことで、退蔵されている富裕層の金銀貨を投資に向けさせ、貯蓄への課税と同様の効果を目的としたという評価もなされている<ref>村井 (2007) 第5章</ref>。また、当時は長崎貿易で貴金属の流出が続いており、金銀貨の含有率を下げることで貿易額を保ったまま流出量を減らす目的もあったとされる。しかし、こうした改鋳は貿易相手国のオランダ、中国、朝鮮の反発をまねいたため、幕府は貿易用の貨幣を発行したり、金銀から銅への切り替えを進めた<ref>東野 (1997) 第11章</ref>
改鋳による貨幣発行益を[[出目]]と呼び、元禄改鋳では500万両、天保の改鋳では幕府年収の30パーセントの利益があった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=311}}。江戸幕府による改鋳は、含有量が異なる金属貨幣を同価として扱うことで、退蔵されている富裕層の金銀貨を投資に向けさせ、貯蓄への課税と同様の効果を目的としたという評価もなされている{{Sfn|村井|2007|p=第5章}}。また、当時は長崎貿易で貴金属の流出が続いており、金銀貨の含有率を下げることで貿易額を保ったまま流出量を減らす目的もあったとされる。しかし、こうした改鋳は貿易相手国のオランダ、中国、朝鮮の反発をまねいたため、幕府は貿易用の貨幣を発行したり、金銀から銅への切り替えを進めた{{Sfn|東野|1997|p=第11章}}


=== 幕末 ===
=== 幕末 ===
[[File:Tomebun-2buban.jpg|thumb|right|200px|万延二分判(止め分/称明治二分金)]]
[[File:Tomebun-2buban.jpg|thumb|right|200px|万延二分判(止め分/称明治二分金)]]
{{main|幕末の通貨問題}}
{{main|幕末の通貨問題}}
幕末からの[[開]]により、通商条約を結ぶうえで貨幣の交換比率が問題となった。幕府とアメリカ総領事[[タウンゼント・ハリス]]の交渉では、[[貿易銀]]である[[メキシコドル]]と日本の[[一分銀#天保一分銀|天保一分銀]]が、ドルにとって有利な重量交換で行われることが決まり、[[1858年]](安政5年)に[[日米修好通商条約]]が締結された。日本では[[鎖国]]により[[金銀比価]]の差が少なかったが、欧米ではその差が大きく、日本の金を海外へ持ち出せば利益が大きい。このため[[1859年]](安政6年)の横浜港開港によって、外国の貿易商はドルを一分銀に交換したのちに一分銀を小判に換え、半年で30万〜40万両ともいわれる大量の金が日本から流出した<ref>東野 (1997) p.231</ref>
幕末からの[[開]]により、通商条約を結ぶうえで貨幣の交換比率が問題となった。幕府とアメリカ総領事[[タウンゼント・ハリス]]の交渉では、[[貿易銀]]である[[メキシコドル]]と日本の[[一分銀#天保一分銀|天保一分銀]]が、ドルにとって有利な重量交換で行われることが決まり、[[1858年]](安政5年)に[[日米修好通商条約]]が締結された。日本では[[鎖国]]により[[金銀比価]]の差が少なかったが、欧米ではその差が大きく、日本の金を海外へ持ち出せば利益が大きい。このため[[1859年]](安政6年)の横浜港開港によって、外国の貿易商はドルを一分銀に交換したのちに一分銀を小判に換え、半年で30万〜40万両ともいわれる大量の金が日本から流出した{{Sfn|東野|1997|p=231}}


幕府は[[万延]]の改鋳で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延[[二分金|二分判]]が流通を制した。この二分判にも諸藩による贋造が横行して、さらに幾種もの貨幣が並列した。非常に複雑な流通となったために諸外国の反発を買い、[[改税約書]]によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないことや、将来的な通貨改革と金銀地金の持込によって本位貨幣を発行する自由造幣局の設立を約束させられた。これを継承した[[明治政府]]も[[高輪談判]]の結果、通貨の近代化に踏み切った<ref>三上 (2011) 第3章</ref>
幕府は[[万延]]の改鋳で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延[[二分金|二分判]]が流通を制した。この二分判にも諸藩による贋造が横行して、さらに幾種もの貨幣が並列した。非常に複雑な流通となったために諸外国の反発を買い、[[改税約書]]によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないことや、将来的な通貨改革と金銀地金の持込によって本位貨幣を発行する自由造幣局の設立を約束させられた。これを継承した[[明治政府]]も[[高輪談判]]の結果、通貨の近代化に踏み切った{{Sfn|三上|2011|p=第3章}}
{{江戸時代の貨幣}}
{{江戸時代の貨幣}}
{{江戸時代の地方貨幣}}
{{江戸時代の地方貨幣}}
176行目: 214行目:
|4=一圓金貨(原貨), 一圓銀貨
|4=一圓金貨(原貨), 一圓銀貨
}}
}}
[[1867年]]に[[王政復古]]が宣言されると、維新政府は[[1868年]]([[明治]]2年)に金座や銀座を[[貨幣司]]に吸収した。藩札については、[[1871年]](明治4年)の藩札処分令によって廃止された。同年2月に現在の[[造幣局 (日本)|造幣局]]にあたる[[造幣寮]]が開設されて、5月に[[新貨条例]]の制定があり、[[円 (通貨)|円]]という単位が正式に採用された<ref>三上 (2011) 第4章</ref>。当時はイギリスから広まった国際的な[[金本位制]]が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、[[アメリカ・ドル]]の1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする[[本位貨幣]]が定められた<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.157</ref>
[[1867年]]に[[王政復古]]が宣言されると、維新政府は[[1868年]]([[明治]]2年)に金座や銀座を[[貨幣司]]に吸収した。藩札については、[[1871年]](明治4年)の藩札処分令によって廃止された。同年2月に現在の[[造幣局 (日本)|造幣局]]にあたる[[造幣寮]]が開設されて、5月に[[新貨条例]]の制定があり、[[円 (通貨)|円]]という単位が正式に採用された{{Sfn|三上|2011|p=第4章}}。当時はイギリスから広まった国際的な[[金本位制]]が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、[[アメリカ・ドル]]の1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする[[本位貨幣]]が定められた{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=157}}


貿易専用銀貨として、1円銀貨も発行された。モデルとなったのはメキシコの8レアル銀貨(メキシコドル)で、レアルは貿易決済用として国際的に流通していた[[洋銀]]([[貿易銀]])であった。銀貨は貿易専用だったが、貿易銀として国際決済に用いられることが増え、また本位金貨の絶対数不足のため、[[1878年]](明治11年)には貿易銀も本位貨幣扱いとされる。新貨条例は金本位制をとりつつも、事実上は[[金銀複本位制]]となった<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.159</ref>
貿易専用銀貨として、1円銀貨も発行された。モデルとなったのはメキシコの8レアル銀貨(メキシコドル)で、レアルは貿易決済用として国際的に流通していた[[洋銀]]([[貿易銀]])であった。銀貨は貿易専用だったが、貿易銀として国際決済に用いられることが増え、また本位金貨の絶対数不足のため、[[1878年]](明治11年)には貿易銀も本位貨幣扱いとされる。新貨条例は金本位制をとりつつも、事実上は[[金銀複本位制]]となった{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=159}}


[[ファイル:First Meiji one yen banknote 1871.jpg|thumb|200px|right|明治通宝1円紙幣]]
[[ファイル:First Meiji one yen banknote 1871.jpg|thumb|200px|right|明治通宝1円紙幣]]
[[1868年]](慶応4年)から[[1869年]](明治2年)まで、明治政府により[[太政官札]]が発行される。[[戊辰戦争]]の戦費や[[殖産興業]]の費用調達が目的であり、これが初の日本全国で通用する[[政府紙幣]]([[不換紙幣]])となった。明治政府は[[1870年]](明治3年)にフランクフルトの[[ドンドルフ・ナウマン]]社に発注して[[明治通宝]]を発行して、1871年(明治4年)7月には現在の[[国立印刷局]]にあたる[[紙幣司]]が設けられた。新紙幣はドイツで作られたため、ゲルマン紙幣とも呼ばれた。[[1873年]](明治6年)には[[国立銀行紙幣]]の旧券が印刷され、[[天の岩戸]]開き、[[蒙古襲来]]、[[神功皇后]]などの神話や歴史のテーマが図柄に採用された<ref>植村 (1994)</ref>
[[1868年]](慶応4年)から[[1869年]](明治2年)まで、明治政府により[[太政官札]]が発行される。[[戊辰戦争]]の戦費や[[殖産興業]]の費用調達が目的であり、これが初の日本全国で通用する[[政府紙幣]]([[不換紙幣]])となった。明治政府は[[1870年]](明治3年)にフランクフルトの[[ドンドルフ・ナウマン]]社に発注して[[明治通宝]]を発行して、1871年(明治4年)7月には現在の[[国立印刷局]]にあたる[[紙幣司]]が設けられた。新紙幣はドイツで作られたため、ゲルマン紙幣とも呼ばれた。[[1873年]](明治6年)には[[国立銀行紙幣]]の旧券が印刷され、[[天の岩戸]]開き、[[蒙古襲来]]、[[神功皇后]]などの神話や歴史のテーマが図柄に採用された{{Sfn|植村|1994|p=}}。のちの新券では、[[富国強兵]]や殖産興業など当時の政策に合致する水兵や鍛冶屋が採用された{{Sfn|植村|1989|p=72}}


==== 紙幣の国産化 ====
==== 紙幣の国産化 ====
[[画像:Jingusatsu 1881.jpg|thumb|200px|[[政府紙幣]](一円券) [[1878年]](明治11年)]]
[[画像:Jingusatsu 1881.jpg|thumb|200px|[[政府紙幣]](一円券) [[1878年]](明治11年)]]
新紙幣の偽造防止のために、当初は「明治通宝」の文字を書家が手書きしていた。しかし、1日あたり約500枚が限界であったために木版に変更となった。押印の手間に加えて、外国で紙幣を製造するコストの高さや、緊急時の発行が問題視された。こうして[[1874年]](明治7年)には紙幣製造の機械と版面がドイツから運ばれ、技術指導の技術者の派遣も決定した<ref>植村 (1989) p.44</ref>
新紙幣の偽造防止のために、当初は「明治通宝」の文字を書家が手書きしていた。しかし、1日あたり約500枚が限界であったために木版に変更となった。押印の手間に加えて、外国で紙幣を製造するコストの高さや、緊急時の発行が問題視された。[[1874年]](明治7年)には紙幣製造の機械と版面がドイツから運ばれ、技術指導の技術者の派遣も決定した{{Sfn|植村|1989|p=44}}


[[1875年]](明治8年)には、ドンドルフ・ナウマン社で働いていたイタリアの版画家[[エドアルド・キヨッソーネ]]が来日をして、紙幣司で製造にあたった。キヨッソーネは[[改造紙幣]]1円札で神功皇后を描き、これが日本初の肖像入り紙幣となる<ref>東野 (1997) p.251</ref>。のちの新券では、[[富国強兵]]や殖産興業など当時の政策に合致する水兵や鍛冶屋が採用された<ref>植村 (1989) p.72</ref>
[[1875年]](明治8年)には、ドンドルフ・ナウマン社で働いていたイタリアの版画家[[エドアルド・キヨッソーネ]]が来日をして、紙幣司で製造にあたった。キヨッソーネは[[改造紙幣]]1円札で神功皇后を描き、これが日本初の肖像入り紙幣となる{{Sfn|東野|1997|p=251}}


=== 銀行制度 ===
=== 銀行制度 ===
[[File:10yen notebank 1885.jpg|thumb|拾円日本銀行兌換銀券]]
[[File:10yen notebank 1885.jpg|thumb|拾円日本銀行兌換銀券]]
==== 国立銀行 ====
==== 国立銀行 ====
明治政府は不換紙幣である政府紙幣を大量に発行して、1867年から1868年にかけては政府歳入の7割に達していた。この状況を改善するために、イギリス式の中央銀行と、アメリカ式の分権的な銀行を参考に検討をする。結果として、アメリカの{{仮リンク|国法銀行法|en|National Bank Act}}を参考に[[1872年]](明治5年)[[国立銀行条例]]を制定した。この条例は民間銀行による兌換紙幣の発行と貨幣価値の安定をはかる内容で、国立銀行とは「国法によって立てられた銀行」を指すもので、実際は民間銀行である<ref>加藤秋谷編 (2000) p.60</ref>こうして設立された[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]は兌換紙幣として[[銀行券]]である国立銀行紙幣を発行して、のちに[[1876年]](明治9年)の条例改正で不換紙幣の発行も可能となる。国立銀行は決済手段や金融仲介サービスを提供したが、不換紙幣は解消されずインフレーションを招き、[[紙幣整理]]が行われた。[[1880年]](明治13年)までに国立銀行は153行が設立され、現在の銀行の起源となったものも多い<ref>岡崎 (1997) 第1章</ref>。国立銀行のほかに、紙幣の発行はできない[[私立銀行]]も多数設立された<ref>加藤秋谷編 (2000) p.77</ref>
明治政府は不換紙幣である政府紙幣を大量に発行して、1867年から1868年にかけては政府歳入の7割に達していた。この状況を改善するために、イギリス式の中央銀行と、アメリカ式の分権的な銀行を参考に検討をする。結果として、アメリカの{{仮リンク|国法銀行法|en|National Bank Act}}を参考に[[1872年]](明治5年)[[国立銀行条例]]を制定した。この条例は民間銀行による兌換紙幣の発行と貨幣価値の安定をはかる内容で、国立銀行とは「国法によって立てられた銀行」を指すもので、実際は民間銀行である{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=60}}。設立された[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]は兌換紙幣として[[銀行券]]である国立銀行紙幣を発行して、のちに[[1876年]](明治9年)の条例改正で不換紙幣の発行も可能となる。国立銀行は決済手段や金融仲介サービスを提供したが、不換紙幣は解消されずインフレーションを招き、[[紙幣整理]]が行われた。[[1880年]](明治13年)までに国立銀行は153行が設立され、現在の銀行の起源となったものも多い{{Sfn|岡崎|1997|p=第1章}}。国立銀行のほかに、紙幣の発行はできない[[私立銀行]]も多数設立された{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=77}}


==== 中央銀行 ====
==== 中央銀行 ====
[[1882年]](明治15年)に[[中央銀行]]として[[日本銀行]]が創設された。これ以後は日本銀行が唯一の発券銀行となり、国立銀行紙幣の回収にあたる。そして[[1885年]](明治18年)に最初の[[日本銀行券]]にあたる日本銀行兌換銀券が発行された<ref>瀧澤西脇編 (1999) p.165</ref>。銀券発行により日本は銀本位制に移行して、物価の安定は達成したが、当時は国際的に金本位制が普及しており円為替レートは[[1897年]](明治30年)までに40パーセント以上切り下がった。円安によって輸出は促進される一方でインフレーションが持続して、金本位制の採用につながる<ref>岡崎 (1997) 第1章</ref>。日本銀行兌換銀券の図柄には、国立銀行紙幣新券の[[えびす|恵比寿]]に続いて大黒天が採用され、商売繁盛を願うのが理由とされている。「兌換銀券人物描出の件」という閣議決定がなされ、肖像にふさわしい人物として、[[日本武尊]]、[[武内宿禰]]、[[藤原鎌足]]、[[聖徳太子]]、[[和気清麻呂]]、[[坂上田村麻呂]]、[[菅原道眞]]があげられた<ref>植村 (1994) p.51</ref>
[[1882年]](明治15年)に[[中央銀行]]として[[日本銀行]]が創設された。これ以後は日本銀行が唯一の発券銀行となり、国立銀行紙幣の回収にあたる。そして[[1885年]](明治18年)に最初の[[日本銀行券]]にあたる日本銀行兌換銀券が発行された{{Sfn|瀧澤西脇|1999|p=165}}。銀券発行により日本は銀本位制に移行して、物価の安定は達成したが、当時は国際的に金本位制が普及しており円為替レートは[[1897年]](明治30年)までに40パーセント以上切り下がった。円安によって輸出は促進される一方でインフレーションが持続して、金本位制の採用につながる{{Sfn|岡崎|1997|p=第1章}}。日本銀行兌換銀券の図柄には、国立銀行紙幣新券の[[えびす|恵比寿]]に続いて大黒天が採用され、商売繁盛を願うのが理由とされている。「兌換銀券人物描出の件」という閣議決定がなされ、肖像にふさわしい人物として、[[日本武尊]]、[[武内宿禰]]、[[藤原鎌足]]、[[聖徳太子]]、[[和気清麻呂]]、[[坂上田村麻呂]]、[[菅原道眞]]があげられた{{Sfn|植村|1994|p=51}}


==== 朝鮮、台湾との関係 ====
==== 朝鮮、台湾との関係 ====
当時の日本の政策は、周辺地域の通貨制度にも影響を与えた。李氏朝鮮とのあいだでは[[1876年]]に[[日朝修好条規]]を結び、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定めた。日本の国立銀行である[[第一銀行]]韓国総支店は業務を拡大して、[[1902年]](明治35年)に第一銀行券を発行し、[[大韓帝国]]の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の韓国銀行([[朝鮮銀行]])は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった<ref>糟谷 (1996) p.68</ref>。[[日本統治時代の台湾|台湾]]は、[[1895年]](明治28年)に日清戦争後の[[下関条約]]によって中国の[[清]]から割譲され、[[1899年]](明治32年)に[[台湾銀行]]が設立された<ref>多田井 (1997) 上巻</ref>
当時の日本の政策は、周辺地域の通貨制度にも影響を与えた。李氏朝鮮とのあいだでは[[1876年]]に[[日朝修好条規]]を結び、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定めた。日本の国立銀行である[[第一銀行]]韓国総支店は業務を拡大して、[[1902年]](明治35年)に第一銀行券を発行し、[[大韓帝国]]の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の韓国銀行([[朝鮮銀行]])は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった{{Sfn|糟谷|1996|p=68}}。[[日本統治時代の台湾|台湾]]は、[[1895年]](明治28年)に日清戦争後の[[下関条約]]によって中国の[[清]]から割譲され、[[1899年]](明治32年)に[[台湾銀行]]が設立された{{Sfn|多田井|1997|P=上巻}}


==== 金融恐慌 ====
==== 金融恐慌 ====
銀行制度は現在のように整備されておらず、[[1920年代]]から銀行の[[取り付け騒ぎ]]が頻繁するようになった。のちの[[1927年]]([[昭和]]2年)には[[昭和金融恐慌]]を招くことになる。大規模な取り付け騒ぎで紙幣が不足したことから発行された[[二百円紙幣]]は、緊急だったため片面だけの印刷で、偽札と間違えられて逮捕された所持人もいた<ref>植村 (1989) p.126</ref>
銀行制度は現在のように整備されておらず、[[1920年代]]から銀行の[[取り付け騒ぎ]]が頻繁するようになった。のちの[[1927年]]([[昭和]]2年)には[[昭和金融恐慌]]を招くことになる。大規模な取り付け騒ぎで紙幣が不足したことから発行された[[二百円紙幣]]は、緊急だったため片面だけの印刷で、偽札と間違えられて逮捕された所持人もいた{{Sfn|植村|1989|p=126}}


=== 金本位制 ===
=== 金本位制 ===
[[1897年]](明治30年)に[[日清戦争]]の[[賠償金|軍事賠償金]]として得た金額は3億6000万円で、[[1895年]](明治28年)の日本のGNPの2割以上にあたる。この賠償金を[[金準備|金準備金]]に設定して、金本位制を軸とした[[貨幣法]]が施行された。公的には新貨条例から金本位制が定められていたが、この時点までは事実上の[[銀本位制]]で、1円=金0.75グラムとされた。金本位制の本格的な採用によって外債の発行が容易となり、[[日露戦争]]の戦費調達のために10億円の外債を発行したほか、日露戦争の勝利で対外的な信用が高まって地方債や社債も海外で発行された<ref>岡崎 (1997) 第1章</ref>
[[1897年]](明治30年)に[[日清戦争]]の[[賠償金|軍事賠償金]]として得た金額は3億6000万円で、[[1895年]](明治28年)の日本のGNPの2割以上にあたる。この賠償金を[[金準備|金準備金]]に設定して、金本位制を軸とした[[貨幣法]]が施行された。公的には新貨条例から金本位制が定められていたが、この時点までは事実上の[[銀本位制]]で、1円=金0.75グラムとされた。金本位制の本格的な採用によって外債の発行が容易となり、[[日露戦争]]の戦費調達のために10億円の外債を発行したほか、日露戦争の勝利で対外的な信用が高まって地方債や社債も海外で発行された{{Sfn|岡崎|1997|p=第1章}}


==== 金輸出解禁 ====
==== 金輸出解禁 ====
[[第一次世界大戦]]の影響を受けて、日本は[[1917年]]([[大正]]6年)9月に金輸出の禁止を行い、金本位制を停止した。大戦期の[[マネーサプライ]]の平均増加率は29パーセントで、大戦期間のインフレ率は年平均15.29パーセントとなった<ref>岡崎 (1997) 第2章</ref>。大戦後の[[1919年]](大正8年)にはアメリカをはじめとして各国が金本位制を再開して、[[1922年]](大正11年)の[[ジェノヴァ会議]]では、各国に金本位制への再開を求める決議がなされる。日本でも金本位制再開のための[[金輸出解禁]](金解禁)について検討が進むが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌の影響もあって決定が遅れ、業界団体、新聞の経済部、商工会議所などから金輸出解禁の要望が出された。[[1929年]](昭和4年)には、[[世界恐慌]]ののちに金輸出解禁の方針が発表される。世界的な不況のなかで金輸出解禁が適切であるかについては、政策担当者のあいだでも激しい論争があった<ref>若田部 (2003)</ref>。金輸出解禁の実施は[[1930年]](昭和5年)1月となり、100円=43ドルから44ドルだった為替レートは旧平価の49ドル85セントに戻された<ref>加藤秋谷編 (2000) p.160</ref>
[[第一次世界大戦]]の影響を受けて、日本は[[1917年]]([[大正]]6年)9月に金輸出の禁止を行い、金本位制を停止した。大戦期の[[マネーサプライ]]の平均増加率は29パーセントで、大戦期間のインフレ率は年平均15.29パーセントとなった{{Sfn|岡崎|1997|p=第2章}}。大戦後の[[1919年]](大正8年)にはアメリカをはじめとして各国が金本位制を再開して、[[1922年]](大正11年)の[[ジェノヴァ会議]]では、各国に金本位制への再開を求める決議がなされる。日本でも金本位制再開のための[[金輸出解禁]](金解禁)について検討が進むが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌の影響もあって決定が遅れ、業界団体、新聞の経済部、商工会議所などから金輸出解禁の要望が出された。[[1929年]](昭和4年)には、[[世界恐慌]]ののちに金輸出解禁の方針が発表される。世界的な不況のなかで金輸出解禁が適切であるかについては、政策担当者のあいだでも激しい論争があった{{Sfn|若田部|2003|p=}}。金輸出解禁の実施は[[1930年]](昭和5年)1月となり、100円=43ドルから44ドルだった為替レートは旧平価の49ドル85セントに戻された{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=160}}


==== 昭和恐慌 ====
==== 昭和恐慌 ====
{{see also|リフレーション#昭和恐慌と高橋財政}}
{{see also|リフレーション#昭和恐慌と高橋財政}}
金輸出解禁から4カ月で、2億円の正貨にあたる金が国外に流出した。解禁前と解禁後の平価の差額を利用すれば利益が出るため、解禁直後から政府の予想以上に金が流出した点が原因とされる。金本位制のもとでは、金の流出は国内で流通する通貨の減少につながる。このために日本銀行の通貨発行高は、1930年(昭和5年)1月の14億4300万円から同年9月には11億2400万円と減少した。以前から金輸出解禁に備えて[[デフレーション]]政策をとっていた日本では、国内市場の縮小や輸出産業の不振がさらに深刻となる。こうして1930年から[[昭和恐慌]]となり、特に農産物においては暴落と凶作が重なって[[昭和農業恐慌]]とも呼ばれた。加えて、[[1931年]](昭和6年)の[[満州事変]]は日本の国際的信用の低下を呼び、資本逃避を加速させた。同年9月にイギリスが金本位制を停止すると、日本も金本位制を停止するとの予想から円為替レート低下への期待が高まり、国内投資家はドル買いを行い、海外投資家は資本逃避を行った。政府と日本銀行は[[横浜正金銀行]]にドル売りの介入をさせ、[[公定歩合]]を引き上げて投機を防ごうとするが、同年12月には日本も金輸出を停止して再び[[管理通貨制度]]に移行した<ref>中村 (1994)</ref>。[[1932年]](昭和7年)からは再建策として、[[国債]]の日銀引き受けによる通貨供給、低金利といった政策が採用された。為替レートの低下は輸出を促進して、早い段階で景気回復へ向かった<ref>岩田編著 (2004)</ref>。しかし財政再建策を進めた[[高橋是清]]は、軍事費の削減も計画していたため[[二・二六事件]]で暗殺された<ref>加藤秋谷編 (2000) p.163</ref>
金輸出解禁から4カ月で、2億円の正貨にあたる金が国外に流出した。解禁前と解禁後の平価の差額を利用すれば利益が出るため、解禁直後から政府の予想以上に金が流出した点が原因とされる。金本位制のもとでは、金の流出は国内で流通する通貨の減少につながる。このために日本銀行の通貨発行高は、1930年(昭和5年)1月の14億4300万円から同年9月には11億2400万円と減少した。以前から金輸出解禁に備えて[[デフレーション]]政策をとっていた日本では、国内市場の縮小や輸出産業の不振がさらに深刻となる。1930年から[[昭和恐慌]]となり、特に農産物においては暴落と凶作が重なって[[昭和農業恐慌]]とも呼ばれた。加えて、[[1931年]](昭和6年)の[[満州事変]]は日本の国際的信用の低下を呼び、資本逃避を加速させた。同年9月にイギリスが金本位制を停止すると、日本も金本位制を停止するとの予想から円為替レート低下への期待が高まり、国内投資家はドル買いを行い、海外投資家は資本逃避を行った。政府と日本銀行は[[横浜正金銀行]]にドル売りの介入をさせ、[[公定歩合]]を引き上げて投機を防ごうとするが、同年12月には日本も金輸出を停止して再び[[管理通貨制度]]に移行した{{Sfn|中村|1994|p=}}。[[1932年]](昭和7年)からは再建策として、[[国債]]の日銀引き受けによる通貨供給、低金利といった政策が採用された。為替レートの低下は輸出を促進して、早い段階で景気回復へ向かった{{Sfn|岩田|2004|p=}}。しかし財政再建策を進めた[[高橋是清]]は、軍事費の削減も計画していたため[[二・二六事件]]で暗殺された{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=163}}


=== ブロック経済の通貨と軍票 ===
=== ブロック経済の通貨と軍票 ===
[[ファイル:Bank of Manchukuo 1Yuan 1932.JPG|right|thumb|200px|満州国圓(1932年)]]
[[ファイル:Bank of Manchukuo 1Yuan 1932.JPG|right|thumb|200px|満州国圓(1932年)]]
{{see also|中華民国期の通貨の歴史}}
{{see also|中華民国期の通貨の歴史}}
世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するために[[ブロック経済]]を進めた。ブロック経済は[[英連邦]]の{{仮リンク|スターリングブロック|en|Sterling area}}をはじめとして通貨圏にもとづいており、日本は日本円を中心とする[[日満支経済ブロック]]を形成した<ref>湯浅 (1998) p.399</ref>。日満支経済ブロックには、日本および日本統治下の台湾、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[満州国]]、そして中国の[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]、[[蒙古連合自治政府]]が含まれ、各地の中央銀行としては台湾銀行(1899年)、朝鮮銀行(1911年)、[[満州中央銀行]](1932年)、[[中国聯合準備銀行|中国連合準備銀行]](1938年)、[[中央儲備銀行]](1940年)がある。これらの銀行は通貨として台湾銀行券、[[朝鮮銀行券]]、[[満州国圓]]、連合準備銀行券、儲備銀行券を発行した。台湾や朝鮮には日本円を導入する案もあったが、混乱発生時に日本に波及するとの理由で採用はされなかった<ref>多田井 (1997) 下巻</ref>。[[太平洋戦争]]の開戦後に日本の統治下に置かれた東南アジアの諸国は、円とは異なる通貨を維持しつつ日本の経済圏に組み込まれた<ref>多田井 (1997) 下巻</ref>
世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するために[[ブロック経済]]を進めた。ブロック経済は[[英連邦]]の{{仮リンク|スターリングブロック|en|Sterling area}}をはじめとして通貨圏にもとづいており、日本は日本円を中心とする[[日満支経済ブロック]]を形成した{{Sfn|湯浅|1998|p=399}}。日満支経済ブロックには、日本および日本統治下の台湾、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[満州国]]、そして中国の[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]、[[蒙古連合自治政府]]が含まれ、各地の中央銀行としては台湾銀行(1899年)、朝鮮銀行(1911年)、[[満州中央銀行]](1932年)、[[中国聯合準備銀行|中国連合準備銀行]](1938年)、[[中央儲備銀行]](1940年)がある。これらの銀行は通貨として台湾銀行券、[[朝鮮銀行券]]、[[満州国圓]]、連合準備銀行券、儲備銀行券を発行した。台湾や朝鮮には日本円を導入する案もあったが、混乱発生時に日本に波及するとの理由で採用はされなかった{{Sfn|多田井|1997|p=下巻}}。[[太平洋戦争]]の開戦後に日本の統治下に置かれた東南アジアの諸国は、円とは異なる通貨を維持しつつ日本の経済圏に組み込まれた{{Sfn|多田井|1997|p=下巻}}


==== 預け合い契約 ====
==== 預け合い契約 ====
[[日中戦争]]や[[太平洋戦争]]の戦費を調達するため、銀行間で預け合い契約という手法がとられた。連合準備銀行は朝鮮銀行、儲備銀行は横浜正金銀行と契約をした。預け合い契約では、たとえば朝鮮銀行東京支店から北京支店に戦費を送金されると、北京支店はそれを自行の連銀名義の円預金口座に記帳する。一方で連銀は自行の朝鮮銀行名義の連銀券預金口座に同額を記帳する。こうして連銀にある朝鮮銀行の連銀券預け金は戦費にあてられた。預け合い契約によって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した。通貨価値の下落は信用の低下を招き、かわりに[[蒋介石政権]]の通貨である[[法幣]]が流通した<ref>多田井 (1997) 下巻 p.240</ref>
[[日中戦争]]や[[太平洋戦争]]の戦費を調達するため、銀行間で預け合い契約という手法がとられた。連合準備銀行は朝鮮銀行、儲備銀行は横浜正金銀行と契約をした。預け合い契約では、たとえば朝鮮銀行東京支店から北京支店に戦費を送金されると、北京支店はそれを自行の連銀名義の円預金口座に記帳する。一方で連銀は自行の朝鮮銀行名義の連銀券預金口座に同額を記帳する。連銀にある朝鮮銀行の連銀券預け金は戦費にあてられた。預け合い契約によって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した。通貨価値の下落は信用の低下を招き、かわりに[[蒋介石政権]]の通貨である[[法幣]]が流通した{{Sfn|多田井|1997|p=240}}


==== 軍票 ====
==== 軍票 ====
[[ファイル:Japanese Ten Peso note- Occupation currency.jpg|thumb|200px|フィリピンで日本軍が使用した10ペソ軍票(1942年)]]
[[ファイル:Japanese Ten Peso note- Occupation currency.jpg|thumb|200px|フィリピンで日本軍が使用した10ペソ軍票(1942年)]]
[[日中戦争]]以降は、軍が占領地や勢力下で物資調達に用いる[[軍用手票]](軍票)が増加した。中国大陸では日中戦争開戦の4ヶ月後に軍票の使用が始まり、東南アジアでは[[1941年]](昭和16年)の[[マレー作戦]]後に南方外貨表示軍票が発行された。[[1942年]](昭和17年)には[[南方開発金庫]]が設立され、[[1943年]](昭和18年)に南方開発金庫券(南発券)を発行したが、実態としては軍票と同様に扱われた。日中戦争での軍票は円標示で、法幣に対する物資争奪戦に用いられた。南方占領地の[[大東亜戦争軍票]]や南発券は現地通貨を標示して、物資を現地自活するために用いられた。いずれの地域でも、輸送力の低下や物資の不足により増発され、特に1943年(昭和18年)以降は濫発によるインフレーションが各地の経済を混乱させた<ref>小林 (1993) 第3章</ref><ref>多田井 (1997) 下巻</ref>
[[日中戦争]]以降は、軍が占領地や勢力下で物資調達に用いる[[軍用手票]](軍票)が増加した。中国大陸では日中戦争開戦の4ヶ月後に軍票の使用が始まり、東南アジアでは[[1941年]](昭和16年)の[[マレー作戦]]後に南方外貨表示軍票が発行された。[[1942年]](昭和17年)には[[南方開発金庫]]が設立され、[[1943年]](昭和18年)に南方開発金庫券(南発券)を発行したが、実態としては軍票と同様に扱われた。日中戦争での軍票は円標示で、法幣に対する物資争奪戦に用いられた。南方占領地の[[大東亜戦争軍票]]や南発券は現地通貨を標示して、物資を現地自活するために用いられた。いずれの地域でも、輸送力の低下や物資の不足により増発され、特に1943年(昭和18年)以降は濫発によるインフレーションが各地の経済を混乱させた{{Sfn|小林|1993|p=第3章}}{{Sfn|多田井|1997|p=下巻}}


=== ブレトンウッズ体制 ===
=== ブレトンウッズ体制 ===
[[1944年]](昭和19年)にアメリカのブレトンウッズで連合国通貨金融会議が開催され、大戦後の国際金融についての協定が結ばれた。これが[[ブレトンウッズ協定]]であり、金との兌換性は[[USドル]]のみが持ち、各国の通貨はUSドルとの[[固定相場制]]をとるという体制だった。金とドルの交換レートは、金1オンス=35USドルと定められた。戦後の日本の通貨も、ブレトンウッズ体制にもとづいて定められることになる<ref>加藤秋谷編 (2000) p.294</ref>
[[1944年]](昭和19年)にアメリカのブレトンウッズで連合国通貨金融会議が開催され、大戦後の国際金融についての協定が結ばれた。これが[[ブレトンウッズ協定]]であり、金との兌換性は[[USドル]]のみが持ち、各国の通貨はUSドルとの[[固定相場制]]をとるという体制だった。金とドルの交換レートは、金1オンス=35USドルと定められた。戦後の日本の通貨も、ブレトンウッズ体制にもとづいて定められることになる{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=294}}


==== 戦後新紙幣 ====
==== 戦後新紙幣 ====
[[ファイル:Series A 100 Yen Bank of Japan note - front.jpg|right|200px|thumb|百円札]]
[[ファイル:Series A 100 Yen Bank of Japan note - front.jpg|right|200px|thumb|百円札]]
[[1945年]](昭和20年)8月15日に日本は[[第二次世界大戦]]で敗戦を迎え、沖縄県や奄美群島では、アメリカ軍の軍票である[[B円]]が1958年まで流通した<ref>冨田 (1994) 第3章第2節</ref>。[[連合国軍占領下の日本]]は新しい紙幣を発行することになり、新しい図柄の検討は民間の印刷会社も参加できるコンペ形式で20日間の公募が行われた。11月の審査には[[大蔵省]]、日本銀行関係者、画家の[[藤田嗣治]]や[[杉浦非水]]らが参加した。審査の結果、[[千円札]]の図柄には[[新薬師寺]]の[[伐折羅大将]]、[[五百円札]]には[[広隆寺]]の[[弥勒菩薩半跏思惟像]]が選ばれ、戦争で焼失を逃れた仏像が心をなごませるというのが選考理由であった。高額紙幣は当面必要がないため[[百円札]]が弥勒菩薩、[[十円札]]が伐折羅大将として決定したが、この案は[[GHQ]]によって不採用とされた。不採用の理由は、伐折羅大将は戦勝国に対する怒り、弥勒菩薩像は敗戦の悲哀を表現するように見られるというものであった。そこで百円札は従来の[[聖徳太子]]を継続して、十円札は[[国会議事堂]]を使用した。インフレーションが進行して紙幣の供給が急務とされたが、物資や機械の不足により、民間の印刷会社も動員して印刷が行われた<ref>植村 (1994) p.25</ref>
[[1945年]](昭和20年)8月15日に日本は[[第二次世界大戦]]で敗戦を迎え、沖縄県や奄美群島では、アメリカ軍の軍票である[[B円]]が1958年まで流通した{{Sfn|冨田|1994|p=第3章第2節}}。[[連合国軍占領下の日本]]は新しい紙幣を発行することになり、新しい図柄の検討は民間の印刷会社も参加できるコンペ形式で20日間の公募が行われた。11月の審査には[[大蔵省]]、日本銀行関係者、画家の[[藤田嗣治]]や[[杉浦非水]]らが参加した。審査の結果、[[千円札]]の図柄には[[新薬師寺]]の[[伐折羅大将]]、[[五百円札]]には[[広隆寺]]の[[弥勒菩薩半跏思惟像]]が選ばれ、戦争で焼失を逃れた仏像が心をなごませるというのが選考理由であった。高額紙幣は当面必要がないため[[百円札]]が弥勒菩薩、[[十円札]]が伐折羅大将として決定したが、この案は[[GHQ]]によって不採用とされた。不採用の理由は、伐折羅大将は戦勝国に対する怒り、弥勒菩薩像は敗戦の悲哀を表現するように見られるというものであった。そこで百円札は従来の[[聖徳太子]]を継続して、十円札は[[国会議事堂]]を使用した。インフレーションが進行して紙幣の供給が急務とされたが、物資や機械の不足により、民間の印刷会社も動員して印刷が行われた{{Sfn|植村|1994|p=25}}


==== 高度成長 ====
==== 高度成長 ====
[[Image:Changeover to the New-Yen in 1946.JPG|thumb|200px|新円切替]]
[[Image:Changeover to the New-Yen in 1946.JPG|thumb|200px|新円切替]]
[[1946年]](昭和21年)の[[金融緊急措置令]]で[[新円切替]]が行われるなどインフレーション対策が行われたが、1945年から1950年の5年間で卸売物価は70倍となった。このインフレーションにより最も利得を得たのは、多額の国債を発行していた政府、巨額の負債がある金融機関や企業だった。金融緊急措置令は[[預金封鎖]]をともなっていたため、多くの個人にとっては現金・預金・公債について損失となった。公定価格の数十倍のヤミ価格で物資が取り引きされて個人業者には利益をもたらして、食料となる農産物をヤミで売った農村では、新10円札の厚さが一尺(約30センチ)に達すると一尺祝いという宴会を行った。その一方、[[1947年]](昭和21年)にはヤミ食料を拒否した[[山口良忠]]判事が栄養失調で死亡する事件も起きた。[[1949年]](昭和24年)3月から[[ドッジ・ライン]]が実施されると、ヤミ物価は低下して価格や配給の統制が解消に向かった<ref>岡崎 (1997) 第4章</ref>
[[1946年]](昭和21年)の[[金融緊急措置令]]で[[新円切替]]が行われるなどインフレーション対策が行われたが、1945年から1950年の5年間で卸売物価は70倍となった。このインフレーションにより最も利得を得たのは、多額の国債を発行していた政府、巨額の負債がある金融機関や企業だった。金融緊急措置令は[[預金封鎖]]をともなっていたため、多くの個人にとっては現金・預金・公債について損失となった。公定価格の数十倍のヤミ価格で物資が取り引きされて個人業者には利益をもたらした{{Refnest|group="†"|食料となる農産物をヤミで売った農村では、新10円札の厚さが一尺(約30センチ)に達すると一尺祝いという宴会を行った。}}。その一方、[[1947年]](昭和21年)にはヤミ食料を拒否した[[山口良忠]]判事が栄養失調で死亡する事件も起きた。[[1949年]](昭和24年)3月から[[ドッジ・ライン]]が実施されると、ヤミ物価は低下して価格や配給の統制が解消に向かった{{Sfn|岡崎|1997|p=第4章}}


第二次世界大戦後の日本の通貨は、ブレトンウッズ体制に従うこととなった。占領下の貿易は貿易庁とGHQの仲介で行われ、為替レートは存在せず個々の取引ごとに円とドルの換算比率を決めていた。ドッジ・ラインにより、円は1ドル=360円(変動幅±1パーセント)に固定された。ブレトンウッズ体制のもとで、日本は[[高度経済成長]]をとげる<ref>岡崎 (1997) 第4章</ref>
第二次世界大戦後の日本の通貨は、ブレトンウッズ体制に従うこととなった。占領下の貿易は貿易庁とGHQの仲介で行われ、為替レートは存在せず個々の取引ごとに円とドルの換算比率を決めていた。ドッジ・ラインにより、円は1ドル=360円(変動幅±1パーセント)に固定された。ブレトンウッズ体制のもとで、日本は[[高度経済成長]]をとげる{{Sfn|岡崎|1997|p=第4章}}


1938年(昭和13年)に施行されていた[[臨時通貨法]]は戦時の時限立法であったが、戦後に期限が削除され、激しいインフレーションにともなって円単位の[[臨時補助貨幣]]が追加された。この法律のもとで、[[1988年]](昭和63年)まで臨時補助貨幣が発行され続けた。円単位であるにもかかわらず、1〜500円硬貨が[[補助貨幣]]と呼ばれたのは、このような背景がある<ref>加藤秋谷編 (2000) p.242</ref>
1938年(昭和13年)に施行されていた[[臨時通貨法]]は戦時の時限立法であったが、戦後に期限が削除され、激しいインフレーションにともなって円単位の[[臨時補助貨幣]]が追加された。この法律のもとで、[[1988年]](昭和63年)まで臨時補助貨幣が発行され続けた。円単位であるにもかかわらず、1〜500円硬貨が[[補助貨幣]]と呼ばれたのは、このような背景がある{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=242}}


=== 変動相場制 ===
=== 変動相場制 ===
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==== ブレトンウッズ体制の終了 ====
==== ブレトンウッズ体制の終了 ====
[[File:USD-JPY (Plaza Accord).svg|thumb|250px|1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日を示す。]]
[[File:USD-JPY (Plaza Accord).svg|thumb|250px|1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日を示す。]]
[[1971年]](昭和46年)8月15日、アメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領は、USドルが金との兌換を一時停止すると発表した。原因はアメリカの金保有量の減少によるもので、それまでの金とドルにもとづく国際通貨体制の終了をもたらし、[[ニクソンショック]]とも呼ばれた。ニクソンショックによってドルの値下がりが予想されたため、ヨーロッパの外国為替市場はいったん閉鎖したのちに変動相場制へ移行する。一方で日本は、市場を閉鎖せずに1ドル=360円のレートでドル買いを続けた。このドル買いによって、8月15日の発表から8月28日の変動相場制移行までのあいだに、5億5千万ドルの為替差損を出した<ref>東野 (1997) p.239</ref>。その後の[[スミソニアン協定]]で固定相場制が再開され、ドル切下げと[[円切上げ]]が決定する。新たに金1オンス=38ドル、1ドル=308円(変動幅±2.25パーセント)の交換レートが定められたが、固定相場の維持はやはり困難となり、[[1973年]](昭和48年)2月に日本は再び変動相場制へ移行した<ref>加藤秋谷編 (2000) p.294</ref>
[[1971年]](昭和46年)8月15日、アメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領は、USドルが金との兌換を一時停止すると発表した。原因はアメリカの金保有量の減少によるもので、それまでの金とドルにもとづく国際通貨体制の終了をもたらし、[[ニクソンショック]]とも呼ばれた。ニクソンショックによってドルの値下がりが予想されたため、ヨーロッパの外国為替市場はいったん閉鎖したのちに変動相場制へ移行する。一方で日本は、市場を閉鎖せずに1ドル=360円のレートでドル買いを続けた。このドル買いによって、8月15日の発表から8月28日の変動相場制移行までのあいだに、5億5千万ドルの為替差損を出した{{Sfn|東野|1997|p=239}}。その後の[[スミソニアン協定]]で固定相場制が再開され、ドル切下げと[[円切上げ]]が決定する。新たに金1オンス=38ドル、1ドル=308円(変動幅±2.25パーセント)の交換レートが定められたが、固定相場の維持はやはり困難となり、[[1973年]](昭和48年)2月に日本は再び変動相場制へ移行した{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=294}}


==== プラザ合意 ====
==== プラザ合意 ====
[[1980年代]]前半のアメリカの[[ロナルド・レーガン]]政権のもとで、[[双子の赤字]]と呼ばれた貿易赤字と財政赤字が問題となった。為替レートを安定させるために、[[1985年]](昭和60年)9月22日に[[G5]]の蔵相や中央銀行総裁による会議が開催され、[[プラザ合意]]がなされた。これ以降は円高が急速に進み、2年間で1ドル=240円前後から121円と2倍近く上がった<ref>加藤秋谷編 (200) p.310</ref>
[[1980年代]]前半のアメリカの[[ロナルド・レーガン]]政権のもとで、[[双子の赤字]]と呼ばれた貿易赤字と財政赤字が問題となった。為替レートを安定させるために、[[1985年]](昭和60年)9月22日に[[G5]]の蔵相や中央銀行総裁による会議が開催され、[[プラザ合意]]がなされた。これ以降は円高が急速に進み、2年間で1ドル=240円前後から121円と2倍近く上がった{{Sfn|加藤秋谷|200|p=310}}


==== 円高とデフレーション ====
==== 円高とデフレーション ====
[[Image:GDPDeflator01.png|thumb|250px|right|1995年から2008年の日本の[[GDPデフレーター]]前年同四半期増加率(%)。]]
[[Image:GDPDeflator01.png|thumb|250px|right|1995年から2008年の日本の[[GDPデフレーター]]前年同四半期増加率(%)。]]
1980年代後半から日本は[[バブル景気]]となり、[[1990年代]]前半には[[バブル崩壊]]が始まるが、金融政策で緊縮策をとったため状況は悪化して、円高とデフレーションが進行する。日本は円の国際化としてアジアへの直接投資やラテンアメリカ諸国の債務問題への資金協力を行い、[[1997年]]の[[アジア通貨危機]]の際には[[アジア通貨基金]]構想を出す。しかし、円の国際化は本格化しなかった。頓挫原因としては、各国やIMFの反対、国内経済の低迷、金融機関の[[不良債権#日本|不良債権処理]]による縮小、アジア諸国に対する市場開放の不十分さが指摘されている。[[2000年代]]前半の超低金利の時期には、円で資金調達をして外貨に投資する[[円キャリートレード]]が増加して、[[外国為替証拠金取引]](FX)の個人投資家を表す[[ミセス・ワタナベ]]という語も生まれた<ref>小林中林 (2010) 第5章</ref>
1980年代後半から日本は[[バブル景気]]となり、[[1990年代]]前半には[[バブル崩壊]]が始まるが、金融政策で緊縮策をとったため状況は悪化して、円高とデフレーションが進行する。日本は円の国際化としてアジアへの直接投資やラテンアメリカ諸国の債務問題への資金協力を行い、[[1997年]]の[[アジア通貨危機]]の際には[[アジア通貨基金]]構想を出す。しかし、円の国際化は本格化しなかった。頓挫原因としては、各国やIMFの反対、国内経済の低迷、金融機関の[[不良債権#日本|不良債権処理]]による縮小、アジア諸国に対する市場開放の不十分さが指摘されている。[[2000年代]]前半の超低金利の時期には、円で資金調達をして外貨に投資する[[円キャリートレード]]が増加して、[[外国為替証拠金取引]](FX)の個人投資家を表す[[ミセス・ワタナベ]]という語も生まれた{{Sfn|小林中林|2010|p=第5章}}


日本経済の長期停滞は、[[失われた10年]]や[[失われた20年]]とも呼ばれている。1990年以降の長期停滞については、消費・投資・生産などの実物的現象よりも物価・為替レートなどの貨幣的現象を原因とする研究がある。理由には国内におけるデフレの持続に加えて、対外的にはプラザ合意以降に円高が持続した点があげられ、これは総需要の停滞およびデフレの進行という解釈と整合している。生産の伸びに対して[[マネーストック]]の伸びが少なかった点から、日本銀行の金融政策によるマネタリーベースの伸びが十分でなかったと指摘されている<ref>片岡 (2010) p.157</ref>
日本経済の長期停滞は、[[失われた10年]]や[[失われた20年]]とも呼ばれている。1990年以降の長期停滞については、消費・投資・生産などの実物的現象よりも物価・為替レートなどの貨幣的現象を原因とする研究がある。理由には国内におけるデフレの持続に加えて、対外的にはプラザ合意以降に円高が持続した点があげられ、これは総需要の停滞およびデフレの進行という解釈と整合している。生産の伸びに対して[[マネーストック]]の伸びが少なかった点から、日本銀行の金融政策によるマネタリーベースの伸びが十分でなかったと指摘されている{{Sfn|片岡|2010|p=157}}


=== クレジットカード、電子マネー、デビットカード ===
=== クレジットカード、電子マネー、デビットカード ===
[[1950年代]]にはアメリカで[[クレジットカード]]による決済が始まり、日本では[[1960年代]]から同様のサービスが始まった。クレジットカードはカード番号の不正利用など問題点がないわけではなく、このような欠点を克服するものとして[[1990年代]]には[[電子マネー]]が出現している。日本では、電子マネー実験として[[1999年]](平成11年)の渋谷でVISAキャッシュ、新宿でスーパーキャッシュが試験的に用いられた。どちらも接触式の[[ICカード]]による[[プリペイド]]方式だった。その後は[[2001年]](平成13年)頃からタッチ式のプリペイド電子マネーが交通機関を中心に普及している<ref>岡田 (2008) p.155</ref>
[[1950年代]]にはアメリカで[[クレジットカード]]による決済が始まり、日本では[[1960年代]]から同様のサービスが始まった。クレジットカードはカード番号の不正利用など問題点がないわけではなく、このような欠点を克服するものとして[[1990年代]]には[[電子マネー]]が出現している。日本では、電子マネー実験として[[1999年]](平成11年)の渋谷でVISAキャッシュ、新宿でスーパーキャッシュが試験的に用いられた。どちらも接触式の[[ICカード]]による[[プリペイド]]方式だった。その後は[[2001年]](平成13年)頃からタッチ式のプリペイド電子マネーが交通機関を中心に普及している{{Sfn|岡田|2008|p=155}}


[[デビットカード]]は即日決済が可能なキャッシュカードにあたり、認証機関を通さずに決済できる。現金よりも個人小切手やクレジットカードの決済が習慣となっている欧米で普及が早かった。日本では[[1999年]](平成11年)のJ-Debitから始まっている<ref>加藤秋谷編 (2000) p.343</ref>
[[デビットカード]]は即日決済が可能なキャッシュカードにあたり、認証機関を通さずに決済できる。現金よりも個人小切手やクレジットカードの決済が習慣となっている欧米で普及が早かった。日本では[[1999年]](平成11年)のJ-Debitから始まっている{{Sfn|加藤秋谷|2000|p=343}}


=== 仮想通貨 ===
=== 仮想通貨 ===
[[仮想通貨]]は、国家による裏付けを持たない点、ネットワークによって流通する点、決済手段である点などの特徴を持つ貨幣である<ref>岡田・高橋・山崎(2015) p.7</ref>。仮想通貨として有名なものに[[ビットコイン]]があり、汎用性のある決済手段として国際的に流通している。これに対して、ゲーム内の通貨や[[マイレージ]]などは、汎用性がない点で広義の仮想通貨とされる<ref>岡田・高橋・山崎(2015) p.12</ref>。 日本円と異なり、仮想通貨は[[強制通用力]]を持っていない。そのため、2015年(平成26年)2月25日の第186回国会の質問第28号では、日本の民法においてビットコインが通貨に該当するのかが問題とされた<ref>岡田・高橋・山崎(2015) p.119</ref>
[[仮想通貨]]は、国家による裏付けを持たない点、ネットワークによって流通する点、決済手段である点などの特徴を持つ貨幣である{{Sfn|岡田ほか|2015|p=7}}。仮想通貨として有名なものに[[ビットコイン]]があり、汎用性のある決済手段として国際的に流通している。これに対して、ゲーム内の通貨や[[マイレージ]]などは、汎用性がない点で広義の仮想通貨とされる{{Sfn|岡田ほか|2015|p=12}}。 日本円と異なり、仮想通貨は[[強制通用力]]を持っていない。そのため、2015年(平成26年)2月25日の第186回国会の質問第28号では、日本の民法においてビットコインが通貨に該当するのかが問題とされた{{Sfn|岡田ほか|2015|p=119}}


日本においては、東京でビットコインの交換所を提供していた[[マウントゴックス]]社が破綻する事件が起きた。大量のビットコインが消失したため、マウントゴックス社は2014年(平成25年)2月26日にビットコインの取引を停止して、同社のユーザーは訴訟を起こした。2月28日には、マウントゴックスは東京地方裁判所に民事再生申立手続きを行った<ref>岡田・高橋・山崎(2015) p.215</ref>。マウントゴックス社の破綻により明らかになった点として、破綻した法人の財産の保全をする場合に、仮想通貨を管理することの困難さが指摘されている<ref>岡田・高橋・山崎(2015) p.218</ref>
日本においては、東京でビットコインの交換所を提供していた[[マウントゴックス]]社が破綻する事件が起きた。大量のビットコインが消失したため、マウントゴックス社は2014年(平成25年)2月26日にビットコインの取引を停止して、同社のユーザーは訴訟を起こした。2月28日には、マウントゴックスは東京地方裁判所に民事再生申立手続きを行った{{Sfn|岡田ほか|2015|p=215}}。マウントゴックス社の破綻により明らかになった点として、破綻した法人の財産の保全をする場合に、仮想通貨を管理することの困難さが指摘されている{{Sfn|岡田ほか|2015|p=218}}


[[2016年]](平成28年)[[5月25日]]、情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律(平成28年6月3日法律第62号)が成立し、[[資金決済に関する法律]]の一部が改正された(2016年9月15日現在、施行日未定<ref>この改正法は、「公布の日から起算して一年を超えない範囲内において政令で定める日」から施行される(平成2863法律第62号附則1条)。</ref>)。改正後の同法2条5項には、仮想通貨の定義が以下の通り定められた。
[[2016年]](平成28年)[[5月25日]]、情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律(平成28年6月3日法律第62号)が成立し、[[資金決済に関する法律]]の一部が改正された(平成2941施行)。改正後の同法2条5項には、仮想通貨の定義が以下の通り定められた。
{{Quotation|
{{Quotation|
;資金決済に関する法律
;資金決済に関する法律
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* 760年(天平宝字4年) - 初の金貨である[[開基勝宝]]発行。
* 760年(天平宝字4年) - 初の金貨である[[開基勝宝]]発行。
* [[765年]]([[天平神護]]元年) - [[神功開宝]]発行。
* [[765年]]([[天平神護]]元年) - [[神功開宝]]発行。
* [[779年]]([[宝亀]]10年) - 朝廷が和同開珎の使用を禁止する。
* [[796年]]([[延暦]]15年) - [[隆平永宝]]発行。
* [[796年]]([[延暦]]15年) - [[隆平永宝]]発行。
* [[798年]](延暦17年) - 蓄銭禁止令を発布。
* [[798年]](延暦17年) - 蓄銭禁止令を発布。
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* [[1930年]](昭和5年)1月 - [[金輸出解禁]]。大量の金が流出する。
* [[1930年]](昭和5年)1月 - [[金輸出解禁]]。大量の金が流出する。
* 1930年(昭和5年) - [[昭和恐慌]]、[[昭和農業恐慌]]が発生。
* 1930年(昭和5年) - [[昭和恐慌]]、[[昭和農業恐慌]]が発生。
* [[1931年]](昭和6年)9月 - [[満州事変]]。
* [[1931年]](昭和6年)12月 - 金本位制(兌換)を停止し、事実上の[[管理通貨制度]]に移行
* 1931年(昭和6年)12月 - 金本位制(兌換)を停止し、事実上の[[管理通貨制度]]に移行。
* [[1932年]](昭和7年) - [[満州国]]にて[[満州中央銀行]]設立。
* [[1932年]](昭和7年) - [[満州国]]にて[[満州中央銀行]]設立。
* [[1937年]](昭和12年) - [[日中戦争]]開戦の4ヶ月後に[[軍票]]を発行。
* [[1937年]](昭和12年) - [[日中戦争]]開戦の4ヶ月後に[[軍票]]を発行。
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* [[1999年]](平成11年) - 電子マネーの試験的な運用が開始。[[デビットカード]]のJ-Debitがサービス開始。
* [[1999年]](平成11年) - 電子マネーの試験的な運用が開始。[[デビットカード]]のJ-Debitがサービス開始。
* [[2011年]](平成23年)[[10月31日]] - 1ドル=75円32銭の戦後最高値を更新。
* [[2011年]](平成23年)[[10月31日]] - 1ドル=75円32銭の戦後最高値を更新。
* [[2014年]](平成25年) - 円が[[ジンバブエ]]でも法定通貨となる<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html ジンバブエ基礎データ]、外務省2016年3月18</ref>
* [[2014年]](平成25年) - 円が[[ジンバブエ]]でも法定通貨となる<ref>{{Cite news|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html|title=ジンバブエ基礎データ|work=|newspaper=外務省|date=2016-03-18|accessdate=2016-01-07}}</ref>


== 出典・脚注 ==
== 出典・脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"}}
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=== 出典 ===
{{Reflist|3|}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 単行本 ===
* [[秋澤繁]] 「太閤検地」(『岩波講座 日本通史 第11巻』 岩波書店、1993年。)
* {{Citation| 和書
* [[網野善彦]] 「貨幣と資本」(『岩波講座 日本通史 第9巻』 岩波書店、1994年。)
| first = 繁
* [[市大樹]] 『飛鳥の木簡 - 古代史の新たな展開』 中央公論新社〈中公新書〉、2012年。
| last = 秋澤
* [[岩田規久男]]編著 『昭和恐慌の研究』 東洋経済新報社、2004年。
| author-link = 秋澤繁
* [[上里隆史]] 『海の王国・琉球 - 「海域アジア」屈指の交易国家の実像』 洋泉社〈歴史新書〉、2012年。
| chapter = 太閤検地
* [[植村峻]] 『紙幣肖像の歴史』 東京美術、1989年。
| publisher = 岩波書店
* 植村峻 『お札の文化史』 NTT出版、1994年。
| pages =
| title = 岩波講座 日本通史 第11巻
| editor1 =
| year = 1993
}}
* {{Citation| 和書
| first = 善彦
| last = 網野
| author-link = 網野善彦
| chapter = 貨幣と資本
| publisher = 岩波書店
| pages =
| title = 岩波講座 日本通史 第9巻
| editor1 =
| year = 1994
}}
* {{Citation| 和書
| first = 泰典
| last = 荒野
| author-link = 荒野泰典
| chapter = 日本から見た環日本海交流圏
| publisher = 有斐閣
| series = 有斐閣アルマ
| pages =
| title = 北・東北アジア地域交流史
| editor1 = [[姫田光義]]
| year = 2012
}}
* {{Citation| 和書
| first = 大樹
| last = 市
| author-link = 市大樹
| title = 飛鳥の木簡 - 古代史の新たな展開
| publisher = 中央公論新社
| series = 中公新書
| year = 2012
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 亮
| last = 井上
| author-link = 井上亮 (ジャーナリスト)
| title = 忘れられた島々 - 「南洋群島」の現代史
| publisher = 平凡社
| series = 平凡社新書
| year = 2015
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 喜代子
| last = 井村
| author-link = 井村喜代子
| title = 現代日本経済論〔新版〕
| publisher = 有斐閣
| series =
| year = 2000
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| ref = {{sfnref|岩田|2004}}
| publisher = 東洋経済新報社
| pages =
| title = 昭和恐慌の研究
| editor = [[岩田規久男]]
| year = 2004
}}
* {{Citation| 和書
| first = 隆史
| last = 上里
| author-link = 上里隆史
| title = 海の王国・琉球 - 「海域アジア」屈指の交易国家の実像
| publisher = 洋泉社
| series = 歴史新書
| year = 2012
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 隆夫
| last = 宇野
| author-link = 宇野隆夫
| chapter = 原始・古代の流通
| publisher = 小学館
| pages =
| title = 古代史の論点3 都市と工業と流通
| editor1 = [[田中琢]]
| editor2 = [[金関恕]]
| year = 1998
}}
* {{Citation| 和書
| first = 峻
| last = 植村
| author-link = 植村峻
| title = 紙幣肖像の歴史
| publisher = 東京美術
| series =
| year = 1989
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 峻
| last = 植村
| author-link =
| title = お札の文化史
| publisher = NTT出版
| series =
| year = 1994
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 渉
| last = 榎本
| author-link = 榎本渉
| chapter = 板渡の墨蹟と日宋貿易
| publisher = 九州大学出版会
| pages =
| title = モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流
| editor1 = 四日市康博
| year = 2008
}}
* {{Citation| 和書
| first = 康時
| last = 大庭
| author-link = 大庭康時
| chapter = 鴻臚館
| publisher = 岩波書店
| pages =
| title = 列島の古代史4 人と物の移動
| editor1 = 上原真人
| editor2 = 白石太一郎
| editor3 = 吉川真司
| editor4 = 吉村武彦
| year = 2005
}}
* {{Citation| 和書
| first = 美穂子
| last = 岡
| author-link = 岡美穂子
| title = 商人と宣教師 - 南蛮貿易の世界
| publisher = 東京大学出版会
| series =
| year = 2010
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 哲二
| last = 岡崎
| author-link = 岡崎哲二
| title = 工業化の軌跡 - 経済大国前史
| publisher = 読売新聞社
| series = 20世紀の日本
| year = 1997
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 仁志
| last = 岡田
| author-link = 岡田仁志
| title = 電子マネーがわかる
| publisher = 日本経済新聞社
| series = 日経文庫
| year = 2008
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| author1 = 岡田仁志
| author2 = [[高橋郁夫]]
| author3 = [[山崎重一郎]]
| ref = {{sfnref|岡田ほか|2015}}
| title = 仮想通貨 - 技術・法律・制度
| series =
| publisher = 東洋経済新報社
| pages =
| periodical =
| year = 2015
}}
* {{Citation| 和書
| first = 宏至
| last = 笠松
| author-link = 笠松宏至
| title = 徳政令
| publisher = 岩波書店
| series = 岩波新書
| year = 1983
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 弘樹
| last = 落合
| author-link = 落合弘樹
| title = 秩禄処分 - 明治維新と武士のリストラ
| publisher = 中央公論新社
| series = 中公新書
| year = 1999
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 懐
| last = 梶谷
| author-link = 梶谷懐
| title = 日本と中国経済 - 相互交流と衝突の100年
| publisher = 筑摩書房
| series = ちくま新書
| year = 2016
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 憲一
| last = 糟谷
| author-link = 糟谷憲一
| title = 朝鮮の近代
| publisher = 山川出版社
| series = 世界史リブレット
| year = 1996
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 剛士
| last = 片岡
| author-link = 片岡剛士
| title = 日本の「失われた20年」 - デフレを超える経済政策に向けて
| publisher = 藤原書店
| series =
| year = 2010
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 剛士
| last = 片岡
| author-link = 片岡剛士
| title = 円のゆくえを問いなおす - 実証的・歴史的にみた日本経済
| publisher = 筑摩書房
| series = ちくま新書
| year = 2012
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| publisher = 東京堂出版
| pages =
| ref = {{sfnref|加藤、秋谷|2000}}
| title = 日本史小百科 -近代- 〈金融〉
| editor1 = [[加藤隆]]
| editor2 = [[秋谷紀男]]
| year = 2000
}}
* {{Citation| 和書
| first = 俊彦
| last = 菊池
| author-link = 菊池俊彦
| title = オホーツクの古代史
| publisher = 平凡社
| series = 平凡社新書
| year = 2009
| isbn =
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* {{Citation| 和書
| first = 明伸
| last = 黒田
| author-link = 黒田明伸
| chapter = 16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通
| publisher = 青木書店
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| title = 越境する貨幣
| editor1 = [[歴史学研究会]]
| year = 1999
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* {{Citation| 和書
| first = 英夫
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| author-link = 小林英夫 (経済学者)
| title = 日本軍政下のアジア - 「大東亜共栄圏」と軍票
| publisher = 岩波書店
| series = 岩波新書
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[小林正宏]]
| author2 = [[中林伸一]]
| ref = {{sfnref|小林、中林|2010}}
| title = 通貨で読み解く世界経済 - ドル、ユーロ、人民元、そして円
| series = 中公新書
| publisher = 中央公論新社
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| periodical =
| year = 2010
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* {{Citation| 和書
| first = 利男
| last = 斉藤
| author-link = 斉藤利男
| title = 平泉 - 北方王国の夢
| publisher = 講談社
| series = 講談社選書メチエ
| year = 2014
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* {{Citation| 和書
| first = 永遠男
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| author-link = 栄原永遠男
| title = 日本古代銭貨研究
| publisher = 清文堂出版
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| year = 2011
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* {{Citation| 和書
| first = 英治
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| author-link = 桜井英治
| title = 日本中世の経済構造
| publisher = 岩波書店
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| year = 1996
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* {{Citation| 和書
| first = 英治
| last = 桜井
| author-link =
| title = 贈与の歴史学 - 儀礼と経済のあいだ
| publisher = 中央公論新社
| series = 中公新書
| year = 2011
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* {{Citation| 和書
| first = 英治
| last = 桜井
| author-link =
| title = 交換・権力・文化 - ひとつの日本中世社会論
| publisher = みすず書房

| series =
| year = 2017
| isbn =
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* {{Citation| 和書
| first = 史郎
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| author-link = 佐々木史郎
| title = 北方から来た交易民 - 絹と毛皮とサンタン人
| publisher = 日本放送出版協会
| series = NHKブックス
| year = 1996
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* {{Citation| 和書
| first = 和彦
| last = 嶋谷
| author-link = 嶋谷和彦
| chapter = 近世の墓と銭
| publisher = 山川出版社
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| title = お金の不思議 - 貨幣の歴史学
| editor = [[国立歴史民俗博物館]]
| year = 1998
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* {{Citation| 和書
| first = 伸也
| last = 杉山
| author-link = 杉山伸也
| title = 明治維新とイギリス商人 - トマス・グラバーの生涯 
| publisher = 岩波書店
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| year = 1993
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* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| publisher = 岩波書店
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| title = 貨幣の地域史 - 中世から近世へ
| editor = [[鈴木公雄]]
| year = 2007
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* {{Citation| 和書
| first = 浩三
| last = 鈴木
| author-link = 鈴木浩三
| title = 資本主義は江戸で生まれた
| publisher = 日本経済新聞社
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* {{Citation| 和書
| first = 拓郎
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| author-link = 瀬川拓郎
| title = アイヌ学入門
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* {{Citation| 和書
| first = 拓郎
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| author-link =
| title = アイヌと縄文 もうひとつの日本の歴史
| publisher = 筑摩書房
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| year = 2016
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[ルシオ・デ・ソウザ]]
| author2 = 岡美穂子
| ref = {{sfnref|デ・ソウザ、岡|2017}}
| title = 大航海時代の日本人奴隷 - アジア・新大陸・ヨーロッパ
| series = 中公叢書
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| periodical =
| year = 2017
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* {{Citation| 和書
| first = 貫太
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| author-link = 高田貫太
| title = 海の向こうから見た倭国
| publisher = 講談社
| series = 講談社現代新書
| year = 2017
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* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| publisher = 東京堂出版
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| ref = {{sfnref|瀧澤、西脇|1999}}
| title = 日本史小百科〈貨幣〉
| editor1 = [[瀧澤武雄]]
| editor2 = [[西脇康]]
| year = 1999
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* {{Citation| 和書
| first =
| last =
| author-link =
| chapter =
| publisher = 山川出版社
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| title = 世界各国史2 朝鮮史
| editor1 = [[武田幸男]]
| year = 2000
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* {{Citation| 和書
| first = 公
| last = 田島
| author-link = 田島公
| chapter = 大陸・半島との往来
| publisher = 岩波書店
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| title = 列島の古代史4 人と物の移動
| editor1 = 上原真人
| editor2 = 白石太一郎
| editor3 = 吉川真司
| editor4 = 吉村武彦
| year = 2005
}}
* {{Citation| 和書
| first = 和生
| last = 田代
| author-link = 田代和生
| title = 倭館 - 鎖国時代の日本人町
| publisher = 文藝春秋社
| series = 文春新書
| year = 2002
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* {{Citation| 和書
| first = 喜生
| last = 多田井
| author-link = 多田井喜生
| title = 大陸に渡った円の興亡(下巻)
| publisher = 東洋経済新報社
| series =
| year = 1997
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* {{Citation| 和書
| first = 健夫
| last = 田中
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| title = 東アジア通交圏と国際認識
| publisher = 吉川弘文館
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| year = 1997
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* {{Citation| 和書
| first = 健夫
| last = 田中
| author-link =
| title = 倭寇
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
| year = 2012
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* {{Citation| 和書
| first = 史生
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| author-link = 田中史生
| title = 越境の古代史
| publisher = 筑摩書房
| series = ちくま新書
| year = 2009
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* {{Citation| 和書
| first = 治之
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| author-link = 東野治之
| title = 貨幣の日本史
| publisher = 朝日新聞社
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* {{Citation| 和書
| first = 治之
| last = 東野
| author-link =
| title = 遣唐使
| publisher = 岩波書店
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| year = 2007
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}}
* {{Citation| 和書
| first = 昌弘
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| author-link = 冨田昌弘
| title = 紙幣が語る戦後世界 - 通貨デザインの変遷をたどる
| publisher = 中央公論新社
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| year = 1994
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* {{Citation| 和書
| first = 圭一
| last = 中島
| author-link = 中島圭一
| chapter = 日本の中世国家と貨幣
| publisher = 青木書店
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| title = 越境する貨幣
| editor = 歴史学研究会
| year = 1999
}}
* {{Citation| 和書
| first = 昭
| last = 永積
| author-link = 永積昭
| title = オランダ東インド会社
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
| year = 2000
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 洋子
| last = 永積
| author-link = 永積洋子
| chapter = 東西交易の中継地台湾の盛衰
| publisher = 山川出版社
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| title = 市場の地域史
| editor1 = 佐藤次高
| editor2 = 岸本美緒
| year = 1999
}}
* {{Citation| 和書
| first = 慶二
| last = 永原
| author-link = 永原慶二
| chapter = 大名領国制の展開
| publisher = 山川出版社
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| title = 日本歴史大系 第7巻
| editor =
| year = 1996
}}
* {{Citation| 和書
| first = 和之
| last = 中村
| author-link = 中村和之
| chapter = 北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏
| publisher = 有斐閣
| series = 有斐閣アルマ
| pages =
| title = 北・東北アジア地域交流史
| editor1 = 姫田光義
| year = 2012
}}
* {{Citation| 和書
| first = 隆英
| last = 中村
| author-link = 中村隆英
| title = 昭和恐慌と経済政策 - ある大蔵大臣の悲劇
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
| year = 1994
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 和之
| last = 中村
| author-link = 中村和之
| chapter = 北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏
| publisher = 有斐閣
| series = 有斐閣アルマ
| pages =
| title = 北・東北アジア地域交流史
| editor1 = 姫田光義
| year = 2012
}}
* {{Citation| 和書
| first = 哲
| last = 中村
| author-link = 中村哲 (経済学者)
| title = 近代東アジア史像の再構成
| publisher = 桜井書店
| series =
| year = 2000
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 敦史
| last = 仁藤
| author-link = | chapter =
| publisher = 近代東アジア史像の再構成
| pages =
| title = お金の不思議 - 貨幣の歴史学
| editor = 国立歴史民俗博物館
| year = 1998
}}
* {{Citation| 和書
| author1 = [[橋本寿朗]]
| author2 = [[長谷川信]]
| author3 = [[宮島英昭]]
| author4 = [[齊藤直]]
| ref = {{sfnref|橋本ほか|2011}}
| title = 現代日本経済
| series = 有斐閣アルマ
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| year = 2011
}}
* {{Citation| 和書
| author1 = [[坂野潤治]]
| author2 = [[大野健一]]
| ref = {{sfnref|板野、大野|2010}}
| title = 明治維新 1858-1881
| series = 講談社現代新書
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| periodical =
| year = 2010
}}
* {{Citation| 和書
| first = 慎一郎
| last = 藤尾
| author-link = 藤尾慎一郎
| title = 弥生時代の歴史
| publisher = 講談社
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| year = 2015
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* {{Citation| 和書
| first = 博之
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| author-link = 本多博之
| title = 天下統一とシルバーラッシュ - 銀と戦国の流通革命
| publisher = 吉川弘文館
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| year = 2015
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* {{Citation| 和書
| first = 裕美子
| last = 丸山
| author-link = 丸山裕美子
| title = 正倉院文書の世界 - よみがえる天平の時代
| publisher = 中央公論新社
| series = 中公新書
| year = 2010
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* {{Citation| 和書
| first = 喜孝
| last = 三上
| author-link = 三上喜孝
| title = 日本古代の貨幣と社会
| publisher = 吉川弘文館
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| year = 2005
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* {{Citation| 和書
| first = 隆三
| last = 三上
| author-link = 三上隆三
| title = 江戸の貨幣物語
| publisher = 東洋経済新報社
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| year = 1996
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}}
* {{Citation| 和書
| first = 隆三
| last = 三上
| author-link =
| title = 貨幣の誕生 - 皇朝銭の博物誌
| publisher = 朝日新聞社
| series = 朝日選書
| year = 1998
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}}
* {{Citation| 和書
| first = 隆三
| last = 三上
| author-link =
| title = 円の誕生 - 近代貨幣制度の成立
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
| year = 2011
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| author1 = [[宮本又郎]]
| author2 = [[阿部武司]]
| author3 = [[宇田川勝]]
| author4 = [[沢井実]]
| author5 = [[橘川武郎]]
| ref = {{sfnref|宮本ほか|2007}}
| title = 日本経営史〔新版〕 - 江戸時代から21世紀へ
| series =
| publisher = 有斐閣
| pages =
| periodical =
| year = 2007
}}
* {{Citation| 和書
| first = 淳志
| last = 村井
| author-link = 村井淳志
| title = 勘定奉行荻原重秀の生涯
| publisher = 集英社
| series = 集英社新書
| year = 2007
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 章介
| last = 村井
| author-link = 村井章介
| title = 中世倭人伝
| publisher = 岩波書店
| series = 岩波新書
| year = 1993
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 勝彦
| last = 村上
| author-link = 村上勝彦
| chapter = 貿易の拡大と資本の輸出入
| publisher = 東京大学出版会
| pages =
| title = 日本経済史2 - 産業革命期
| editor1 = 石井寛治
| editor2 = 原朗
| editor3 = 武田晴人
| year = 2000
}}
* {{Citation| 和書
| first = 明彦
| last = 森
| author-link = 森明彦
| chapter =
| publisher = 塙書房
| pages =
| title = 日本古代貨幣制度史の研究
| editor1 =
| editor2 =
| editor3 =
| year = 2016
}}
* {{Citation| 和書
| first = 章司
| last = 森下
| author-link = 森下章司
| title = 古墳の古代史 - 東アジアのなかの日本
| publisher = 筑摩書房
| series = ちくま新書
| year = 2016
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| editor1 = [[山田豪一]]
| ref = {{sfnref|山田編|1995}}
| author-link =
| title = オールド上海 阿片事情
| publisher = 亜紀書房
| series =
| year = 1995
}}
* {{Citation| 和書
| first = 赳男
| last = 湯浅
| author-link = 湯浅赳男
| title = 文明の「血液」 - 貨幣から見た世界史(増補新版)
| publisher = 新評論
| series =
| year = 1998
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| first = 康博
| last = 四日市
| author-link = 四日市康博
| chapter = 銀と銅銭のアジア海道
| publisher = 九州大学出版会
| pages =
| title = モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流
| editor1 = 四日市康博
| year = 2008
}}

=== 論文、記事 ===
* [[大久保隆]]・[[鹿野嘉昭]]「[http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/1996/kk15-1-6.pdf 貨幣学 (Numismatics) の歴史と今後の発展可能性について]」日本銀行金融研究所「金融研究」第15巻第ー号、1996年。
* [[大田由紀夫]] 「一ニ-一五世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布 - 日本・中国を中心として」(『社会経済史学』 61巻2号、1995年。)
* [[大田由紀夫]] 「一ニ-一五世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布 - 日本・中国を中心として」(『社会経済史学』 61巻2号、1995年。)
* {{Cite web|author=[[酒寄雅志]]|year=2011|url=http://www.nihonkaigaku.org/library/lecture/i110211-houkoku.pdf|title=渤海と古代の日本|format=PDF|work=2010年度第6回日本海学講座|publisher=日本海学推進機構|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|酒寄|2011}}}}
* [[岡崎哲二]] 『工業化の軌跡 - 経済大国前史』 読売新聞社〈20世紀の日本5〉、1997年。
* [[岡田仁志]] 『電子マネーがわかる』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2008年。
* 岡田仁志・[[高橋郁夫]]・[[山崎重一郎]] 『仮想通貨 - 技術・法律・制度』 東洋経済新報社、2015年。
* [[小栗誠治]] 「[http://hdl.handle.net/10441/253 セントラル・バンキングとシーニョレッジ]」 滋賀大学経済学部研究年報、2006年。
* [[小栗誠治]] 「[http://hdl.handle.net/10441/253 セントラル・バンキングとシーニョレッジ]」 滋賀大学経済学部研究年報、2006年。
* [[笠松宏至]] 『徳政令』 岩波書店〈岩波新書〉、1983年。
* [[糟谷憲一]] 『朝鮮の近代』 山川出版社、1996年。
* [[片岡剛士]] 『日本の「失われた20年」 - デフレを超える経済政策に向けて』 藤原書店、2010年。
* 片岡剛士 『円のゆくえを問いなおす - 実証的・歴史的にみた日本経済』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2012年。
* [[加藤隆]]・[[秋谷紀男]]編 『日本史小百科 -近代- 〈金融〉』 東京堂出版、2000年。
* [[黒田明伸]] 「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」([[歴史学研究会]]編 『越境する貨幣』 青木書店、1999年。)
* [[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]] 『日本軍政下のアジア - 「大東亜共栄圏」と軍票』 岩波書店〈岩波新書〉、1993年。
* [[小林正宏]]・[[中林伸一]] 『通貨で読み解く世界経済 - ドル、ユーロ、人民元、そして円』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年。
* [[栄原永遠男]] 『日本古代銭貨研究』 清文堂出版、2011年。
* [[桜井英治]] 『日本中世の経済構造』 岩波書店、1996年。
* 桜井英治 『贈与の歴史学 - 儀礼と経済のあいだ』 中央公論新社〈中公新書〉、2011年。
* [[佐々木史郎]] 『北方から来た交易民 - 絹と毛皮とサンタン人』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1996年。
* [[嶋谷和彦]] 「近世の墓と銭」([[国立歴史民俗博物館]]編 『お金の不思議 - 貨幣の歴史学』 山川出版社、1998年。)
* [[鈴木公雄]]編 『貨幣の地域史 - 中世から近世へ』 岩波書店、2007年。
* [[鈴木浩三]] 『資本主義は江戸で生まれた』 日本経済新聞社、2002年。
* [[瀧澤武雄]]・[[西脇康]]編 『日本史小百科〈貨幣〉』 東京堂出版、1999年。
* [[田代和生]] 『新・倭館 - 鎖国時代の日本人町』 ゆまに書房、2011年。
* [[多田井喜生]] 『大陸に渡った円の興亡(上・下)』 東洋経済新報社、1997年。
* [[丹野昌弘]] 「いわゆる正徳丁銀について」(『月刊 収集』 1999年9月号。)
* [[丹野昌弘]] 「いわゆる正徳丁銀について」(『月刊 収集』 1999年9月号。)
* [[東野治之]] 『貨幣の日本史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。
* [[冨田昌弘]] 『紙幣が語る戦後世界 - 通貨デザインの変遷をたどる』 中央公論新社〈中公新書〉、1994年。
* [[永原慶二]] 「大名領国制の展開」(『日本歴史大系 第7巻』 山川出版社、1996年。)
* [[中島圭一]] 「日本の中世国家と貨幣」(歴史学研究会編 『越境する貨幣』 青木書店、1999年。)
* [[中村隆英]] 『昭和恐慌と経済政策 - ある大蔵大臣の悲劇』 講談社〈講談社学術文庫〉、1994年。
* [[仁藤敦史]] 「古代の借金生活」(国立歴史民俗博物館編 『お金の不思議 - 貨幣の歴史学』 山川出版社、1998年。)
* [[日本銀行金融研究所]] 「[http://www.imes.boj.or.jp/japanese/zenbun97/kk16-2-2.pdf 日本の貨幣・金融史を考える - 古代の貨幣および中世から近世への移行に伴う貨幣の変容を中心として]」 日本銀行金融研究所、1997年。
* [[日本銀行金融研究所]] 「[http://www.imes.boj.or.jp/japanese/zenbun97/kk16-2-2.pdf 日本の貨幣・金融史を考える - 古代の貨幣および中世から近世への移行に伴う貨幣の変容を中心として]」 日本銀行金融研究所、1997年。
* [[藤尾慎一郎]] 『弥生時代の歴史』 講談社〈現代新書〉、2015年。
* [[本多博之]] 「[http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/34343/20141016201809255866/HiroshimaUniv-StudGradSchLett_72_v1.pdf 織田政権期京都の貨幣流通 - 石高制と基準銭「びた」の成立]」 広島大学大学院文学研究科論集72巻、2012年。
* [[本多博之]] 「[http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/34343/20141016201809255866/HiroshimaUniv-StudGradSchLett_72_v1.pdf 織田政権期京都の貨幣流通 - 石高制と基準銭「びた」の成立]」 広島大学大学院文学研究科論集72巻、2012年。
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== 関連項目 ==
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* [[貨幣史]] - [[中国の貨幣制度史]]
* [[貨幣史]] - [[中国の貨幣制度史]]
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* [[日本の経済史]] - [[日本の貿易史]]
* [[日本の経済史]] - [[日本の貿易史]]
* [[日本のインフレーション]] - [[日本のデフレーション]]
* [[日本のインフレーション]] - [[日本のデフレーション]]
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== 外部リンク==
== 外部リンク==
*[http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/ 日本銀行金融研究所貨幣博物館]
*[http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/ 日本銀行金融研究所貨幣博物館]
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2018年8月21日 (火) 06:46時点における版

万延大判

日本の貨幣史(かへいし)では日本貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に蝦夷地琉球と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、貨幣史を参照。

概要

各時代の概要

古代

日本で金属貨幣が作られる以前の弥生時代の遺跡からは、中国から運ばれた硬貨が発見されている[1]。貨幣の素材そのものに価値のある貨幣を、物品貨幣商品貨幣と呼ぶ。日本では、古代からが物品貨幣として用いられた。米は初期の金融や手形の発生にも関係した[2]

皇朝十二銭と関連銭貨(開基勝宝は模造)

日本で作られた金属貨幣で、現存する最古の銀貨7世紀無文銀銭、最古の銅貨708年和銅元年)の和同開珎、最古の金貨760年天平宝字4年)の開基勝宝である。地金の重量を測って用いる秤量貨幣の銀が飛鳥時代から存在し、8世紀には硬貨が発行された。

貨幣の発行によって物資の調達や財政を改善する貨幣発行益は、古代より利用されてきた。和同開珎が発行された時代の銅貨は、原料である銅の4倍ほどの貨幣発行益があった[3]。朝廷が発行した皇朝十二銭は新貨のたびに銅貨の含有率が下がり、貨幣発行は朝廷や通貨制度への信用低下をもたらし、結果として銭離れを招いた[4]。このために和同開珎を含めて初期に作られた硬貨は、数々の奨励策にも関わらず流通が限られ、いったん硬貨の発行は停止した[5]

中世

中世に入ると、中国との貿易で流入した大量の銅貨(宋銭)によって硬貨が広まる。秤量貨幣としては主に銀が用いられ、この傾向はのちの江戸時代でも続いた。銅貨は酸化銅からの鋳造は容易であるが、火山の多い日本では硫化銅が主体だった。そのため室町時代後期に山下吹という精錬方法が開発されるまでは銅が慢性的に不足しており、銅貨の発行に影響を与えた[6]。古代から中世においては金属貨幣の流通がたびたび不足して、その都度、物品貨幣が重要となった[7]。東国は絹と布、西国は米が用いられる傾向があった。金と銀は、16世紀に大陸から伝わった灰吹法によって産出量が増加して、江戸時代には貴金属の輸出も行われた[8]

税制では、通貨単位を尺度とする貫高制にかわり、米の収穫量を尺度とする石高制の普及が進んだ。石高制の普及には、太閤検地が大きな影響を与えた[9]

近世
寛永通寳一貫文

江戸時代には、江戸幕府によってにもとづく三貨制度が定められ、金属貨幣の流通が全国で統一された[10]。この時代に紙幣も発行されており、存在が確認されている最古の紙幣は、1610年に発行された羽書である。羽書は私札とも呼ばれ、藩領が発行する藩札や、旗本領が発行する旗本札があった[11]。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、江戸幕府による改鋳がある[12]

近代

明治時代からは、政府による政府紙幣や銀行による銀行券が発行された[11]。貨幣発行益を目的とした改鋳や新貨の発行として、明治政府の政府紙幣などがある[13]日清戦争軍事賠償金をもとに金本位制を本格的に採用し、外債の発行で日露戦争の戦費を調達した[14]日中戦争太平洋戦争の時期に占領地などで用いられた紙幣や軍用手票(軍票)は、日本統治下の地域でインフレーションを起こして、通貨の信用低下をもたらした[15]

現代

第二次世界大戦後の日本の通貨は、ドルを基軸とするブレトンウッズ協定のもとで為替レートが定められた。ブレトン・ウッズ体制は、ニクソン・ショックを経た変動相場制への移行によって終了した[16]。アメリカの双子の赤字をきっかけとして、為替レート安定のために先進5か国(G5)によるプラザ合意がなされると、急速に円高が進んだ[16]

現代の日本では、日本政府ではなく中央銀行にあたる日本銀行が貨幣を発行している。たとえば2014年度(平成26年度)には日本銀行券が30億枚発行され、銀行券製造費は51,483,108,000円となっている[17][18]。このため、銀行券の製造コストと額面の差額は貨幣発行益とはならない[19]。日本銀行の貨幣発行益は、銀行券発行の対価として買い入れた手形や国債から得られる利息となる[20]

貨幣の単位

古代から中世にかけて、(もん)やが用いられた。江戸時代では、金貨の単位は(ぶ)、(しゅ)があり、銀貨の単位は(もんめ)、分(ふん)、銅貨の単位には(もん)が定められた。明治時代からはが採用されて現在にいたっている。円の補助単位として、(せん)、(りん)がある[21]

古代

弥生時代、古墳時代

弥生時代の遺跡からは、中国の硬貨であるから前漢にかけての半両銭五銖銭が発見されている。弥生時代と古墳時代の遺跡で出土した中国の硬貨は、青銅器の原料となっていたほかに祭祀にも用いられていた[1]下関市武久町の海岸砂丘から出土した武久浜墳墓群の半両銭は副葬品であることが判明している[22]。『魏志倭人伝』に記述がある一支国の首都とされる原の辻遺跡では前漢時代の五銖銭が出土しているが、副葬品には含まれていない。原の辻遺跡は港をもつ交易地であることから、青銅器の原料のほかに交易で貨幣として流通していたとする説もある[23]

律令国家の貨幣

律令制においては、真綿(あしぎぬ)、などが物品貨幣として用いられていた。当時は価値の尺度、支払い、交換などの機能別に貨幣があり、組み合わせて使用されていた。たとえば藤原京の市場でものを買うには、まず銀を尺度として品物の価値を計算してから、同じ価値を持つ糸や布で交換した[24]奈良時代官人への報酬や経典の筆写への報酬は、布や絁で支払われている[25]

律令政府は、首都の造営をはじめとする大規模な国家事業の支払い手段として、金属貨幣の普及をすすめた。支払いの内容は、雇用の賃金である功銭や、資材の購入費とされる。和同開珎は平城京の造営、万年通宝は平城京の改築や保良宮の造営、神宮開宝は西大寺西隆寺由義宮の造営に対応して発行された。和同開珎の発行後は、中央の労賃は銭貨で、地方の労賃は刈り取った稲である穎稲で支払われるようになる[26]

貿易用の貨幣として、物品貨幣として銀や金の輸出が始まった。銀は、674年に対馬で銀が発見されて国産化された。金は日本は朝鮮半島から金を輸入しており、平安時代に陸奥国で砂金が発見されて以降は東北からの砂金が用いられた。東大寺で大仏に鍍金するための金が不足した時に陸奥国で金が発見され、聖武天皇が東大寺に行幸して喜んだという記録が『続日本紀』にある[27]。初めて金の国外輸送は、776年(宝亀7年)の遣唐使藤原清河に対する砂金の支給である[28]。8世紀の新羅との貿易では、真綿を交換に用いていた[29]

最古の国内鋳貨

富本銭(複製品)

日本の金属貨幣は、硬貨が作られる以前には秤量貨幣が用いられていた。飛鳥寺の物資調達についての木簡には、秤量銀貨を用いた記録や、銭の単位である「文」の表記がある[30]。『日本書紀』には、683年天武天皇12年)に銅銭を推奨して、銀銭を禁じる記述がある。貨幣を鋳造する機関である鋳銭司の長官が任命されて、設けられた銭鋳司には、奈良時代の催鋳銭司、鋳銭寮、長門鋳銭司、岡田鋳銭司、登美鋳銭司、田原鋳銭司、平安時代の長門鋳銭使、周防鋳銭司、山城国葛野郡鋳銭所などがある[31]

国内での鋳造貨幣として現存する最古のものは、7世紀の銀貨の無文銀銭があり、次に銅貨の富本銭がある。飛鳥池工房には富本銭を鋳造した工房があり、ほかに釘などの鉄製品や銅製品が作られていた。鉄工房や銅工房で働いていたのは、帰化系の氏族である東漢氏を中心とする工人だったとされる[32]

無文銀銭や富本銭は、厭勝銭(まじない用の銭)であるか、それとも流通していたかについては論争が続いている[33]。古代においては全く価値体系の違う物とも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせることがあった。富本銭は流通目的ではなく厭勝銭目的であったとする学説や、三途の川の渡し賃として六文銭冥銭として棺に入れたという慣習など、貨幣と宗教のつながりを想起させる話が多く残されている[34][35][36]

和同開珎

和同開珎銀銭

飛鳥時代には、和同開珎が発行された。和銅という元号は、元明天皇の時代に武蔵国秩父郡で銅が発見されたことがきっかけとなった。新羅の帰化人である金上无が、和同(にきあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して朝廷に献上した。当時は、そのように銅が貴重な資源だった[37]。和同開珎は銀貨が5月、銅貨が8月に施行され、唐から流入していた開元通宝をモデルにしたといわれる。発行にあたっては、平城京で製造した種銭を見本として各地の工房に配り、大量生産を意図していた[1]。翌年の709年(和銅2年)には私鋳の禁止令が出され、和同開珎の銀貨は廃止されており、当初から銀貨の贋金が問題となっていた。漢詩集の『経国集』には、711年(和銅4年)より前に作られた役人用の試験答案も収録されており、そこにはすでに私鋳対策の問題があった[38]

金属貨幣の奨励策

和同開珎を流通させるため、律令政府は数々の奨励政策を行った。価値の基準としての硬貨(銭貨)は、711年(和銅4年)に穀6升(現在の2升4合)=銭1文として、712年(和銅5年)に調庸の基準として布1常=銭5文とする。物納であった調庸に硬貨を認め、貨幣による代納を調銭遥銭と呼んだ。支払い用としては、平城京造営工事の労賃や、官人の給与に硬貨を部分的に導入して、官人には東西市などでの使用を強制した。交換用の貨幣を普及させるために硬貨で購入できるものを増やして、交通の要所では納税する物資を運ぶ者や旅行者が米を硬貨で購入できるようにした。硬貨を蓄蔵する利点としては、同年10月には蓄銭叙位令を出して、貯蓄した銅貨の量によって位階を昇進できるようにした。貯蓄した銅貨は叙位の際に献納銭として政府に回収されるため、実際には蓄蔵と流通の双方を促進するのが目的だった。しかし、昇進のために献納銭をする者は少なく、強化策として郡司の任命には6貫の献納銭が必要とした。叙位法の影響で昇進するための私鋳や、貨幣発行益を目的とする私鋳の増加が予想されたことから、私鋳銭の罰則が流刑から斬刑(死刑)へと重くなった[39][† 1]

皇朝十二銭

和同開珎の発行量が増えるにつれて物価も上昇して、711年(和同4年)は穀6升=銭1文が、751年(天平勝宝3年)には穀6升=銭30文に上がった。律令政府は、私鋳銭への対策という発表のもとで新貨幣の鋳造を行う。次に発行された万年通宝は、銅量は和同開珎と同じでありながら、和同開珎の10倍の価値を持つと定められた[41]

708年(和銅元年)から平安時代中期の958年天徳2年)にかけての250年間に12種類の銅貨が発行され、朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれた[39]。発行年は以下の通りである。

貨幣名 発行年
和同開珎 708年(和銅元年)
万年通宝(萬年通寳) 760年天平宝字4年)
神功開宝(神功開寳) 765年天平神護元年)
隆平永宝(隆平永寳) 796年延暦15年)
富寿神宝(富壽神寳) 818年弘仁9年)
承和昌宝(承和昌寳) 835年承和2年)
長年大宝(長年大寳) 848年嘉祥元年)
饒益神宝(饒益神寳) 859年貞観元年)
貞観永宝(貞観永寳) 870年(貞観12年)
寛平大宝(寛平大寳) 890年寛平2年)
延喜通宝(延喜通寳) 907年延喜7年)
乾元大宝(乹元大寳) 958年(天徳2年)

銭離れ

奈良時代には、平城京のある畿内とその周辺地域を中心として銅貨が用いられた。しかし原材料の銅は不足して、和同開珎の含有率90パーセントから万年通宝の78パーセント、富寿神宝の66パーセントと低下が続き、かわっての含有率が増えてゆく。律令政府は改鋳益を得るため、改鋳のたびに目方と質が低下した新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとした。交換比率は8つの銅貨で記録が残っており、それにもとづけば、延喜通宝1枚は和同開珎1億枚と同じ価値となる[42]。実際には旧貨よりも銅含有率が低い新貨を、価値が高いものとして扱ったため、旧貨は退蔵されて流通されなくなる。そこで朝廷では和同開珎の使用を禁止して、蓄銭禁止令を出し、蓄銭叙位令を廃止した。これらの施策は、通貨量の確保と、インフレーションの防止が目的だったとされる[5][† 2]。しかし、度重なる改鋳によって硬貨は価値や信用が低下して、流通の減少も止まらず、民衆の銭離れが起こった[4]。硬貨は估価法などの公定価格の尺度としては通用したが、支払いや交換には物品貨幣の米、絹、布が用いられ続けた[44]。皇朝十二銭以降、朝廷は硬貨の発行を停止する。11世紀前期からは東国では絹や布、西国では米を中心とする物品貨幣が用いられた。

古代の金融

金融活動としては、8世紀に出挙という利子付きの貸借が行われていた。国司が財政をまかなうために行う公出挙と、より利息が高く個人が行う私出挙がある。出挙は貸稲(いらしのいね)とも呼ばれ、春や夏に稲を貸し付けて秋に3割から5割の利息を返済させた。9世紀の『日本霊異記』には、米や酒の私出挙について記述があり、大安寺の修多羅分の銭が金融資本とされた事例が見られる。正倉院文書や木簡には、出挙の一種である月借銭解という借金の申込書にあたる記録がある。月借銭は月ぎめの短期融資で高利であり、官司が官人に貸付を行っていた。月借銭解の金額は最低100文、最大5貫で、数百文が多かった[2][45]

中世

貿易と貨幣流入

宋銭

平安時代の中期から戦国時代にかけての硬貨の普及は、中国のからの銅貨がきっかけとなった。日宋貿易を通じて流入した宋銭が、そのまま日本国内の貨幣として通用した[46]1193年建久4年)には出挙の返済に宋銭の使用を禁じた記録があるが、13世紀前半には、銅貨は絹や布が持っていた価値尺度の機能を果たし始め、鎌倉幕府は銅貨の流通を認めるようになる。鎌倉時代の公卿である広橋経光の『民経記』には、西園寺公経によって銭10万貫文を運んだ貿易船の逸話が書かれている。13世紀に中国で成立したは、紙幣の交鈔を流通させるために貴金属の私的な取引を禁じ、日本には管理貿易や密貿易によって銅貨の流入が続いた[47]。韓国の新安郡で発見された沈没船は、7500貫の銅貨を積んで日本へ向かっていた船であった[48]。元の次にの時代に入ると、日明貿易によって永楽通宝などの明銭が流入した。明では外国への銅貨の流出が懸念されて、室町幕府からの朝貢に対する回賜に紙幣を用いることもあった。しかし日本では銅貨での受け取りを求めて、中国紙幣は国内では流通しなかった[49]

金属貨幣の普及

硬貨の流入が続き、絹、布、米に代わって銅貨で年貢を納める代銭納が広まり、特に東国において普及した[50]。代銭納制によって生産物の換金が必要になると商品の流通が活発となり、そのため渡来銭だけでは足りず、豪族や大商人が発行した私鋳銭も流通した。そうした私鋳銭は粗悪だったため、鐚銭とも呼ばれて悪貨として扱われた。悪貨の受け取りを断る行為は撰銭と呼ばれ、15世紀以降に深刻となる。鐚銭には数百年の流通によって割れ、欠け、磨耗が著しい宋銭も含まれており、「ビタ一文受け取らない」のビタとは鐚銭のことである[51]

硬貨に加えて、中国にならって紙幣を流通させる計画もあった[† 3]後醍醐天皇建武の新政において、乾坤通宝という新貨を銅貨と楮幣(とへい)という紙幣で発行すると宣言した。しかし政権の崩壊によって実現はしなかった[52]

中世の金融

貨幣や商品の流通が増加するにつれて信用経済も発展して、金融業も活発となる。利子付の貸借を利銭借銭などと呼び、債権者は銭主、債務者は負人や借主と呼ばれた。鎌倉時代からは、年貢を運ぶ手間を省略するために為替(かわし)や割符という手形が用いられるようになり、室町時代からの割符は商業の取引にも流通した。決済されるものに応じて、替銭替米などとも呼ばれた。割符が用いられた史料によれば、1個で10貫文という定額の割符が通用して、本来なら1回の個別送金用である替銭と区別する記述も見られる。このため、割符には不特定の人々のあいだで流通して紙幣に近い機能を持っていたという説もある[53]

室町時代の初期から中期にかけては借上という金融業者が活動して、室町中期からは土倉酒屋が現れ、室町幕府が衰退するまではそうした業者が納銭方なども行って利益を得た。当時の利率は年利6割や7割2分が多く、それ以上の場合もあった[54]。鎌倉時代から室町時代にかけて特に御家人の債務問題が深刻となると、債務免除を行う徳政令が出された[55]

撰銭令

戦国時代には日本に銅貨が入らなくなる。日明貿易の断絶と、明の海禁政策によって銅貨の流入が停止して、加えて産銅の減少から明の鋳造が低調となったことが原因である[56]。一方で国内では悪貨を巡るトラブルが絶えず、撰銭を禁じて悪貨を流通させるための撰銭令が出されるようになる。撰銭令は大内氏に始まり、室町幕府、北条氏織田信長などの諸大名によって出された。撰銭令に登場する悪貨として、うちひらめ、さかひ銭、ほろ、焼銭(やけせん)、ゑみやう、大欠(おおかけ)、破(われ)、磨り、南京、京銭(きんせん)などがある。この中で、さかひ銭はで作られた私鋳銭とされ、ほかにも鎌倉、京都、加治木といった都市や港町で中国の銅貨を模した私鋳銭が作られていた[57]。銅貨不足が解消されないため撰銭が続き、代わりに物品貨幣である米の普及が進んだ。撰銭令も米の普及に影響しており、16世紀後半の畿内では撰銭令の発布から2、3年後に米での支払いが増えている[58]

鉱山と精錬法の伝来

石見銀山の石州銀造幣博物館 切遣い跡有

戦国大名は戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。そこで金山銀山の開発がすすみ、領国貨幣が戦国大名により作られるようになる。大陸に由来する精錬技術である灰吹法の普及は、金銀の産出量に大きな影響を与えた。灰吹法とは、金銀の鉱石を鉛に溶かして反射炉に入れ、空気を吹きつけて酸化させた鉛を灰に吸着させて金銀を取りだす方法である[59]。古代から銀鉱脈で知られていた石見銀山の採掘が16世紀前半に再開されると、対馬や壱岐を経由して李氏朝鮮と貿易をしていた博多や、朝鮮半島へ鉱石が運ばれて精錬が行われた。『朝鮮王朝実録』には、1528年大永8年)の漢城で日本の鉛鉄から密かに銀を精錬したという事件の記述もある。石見銀山の発見を記した『銀山旧記』によれば、1533年天文2年)に博多の商人である神屋寿禎宗丹桂寿(慶寿の表記もあり)という技術者を石見に連れてきており、これが灰吹法の伝来とされる[60]。その後、灰吹法が但馬の生野銀山など各地に伝わって産出が増えると、銀は畿内や九州で流通する。さらに、外国との取り引きが行われる貿易港や、外国の産物が集まる交易地で用いられるようになった[61]

東日本では、甲斐や駿河、伊豆で金が採掘され、佐渡金山はのちの江戸時代から本格化する。戦国大名のなかには、春日山城に約400キログラムにあたる金を蓄えた上杉謙信や、甲州金と呼ばれた金貨を流通させた武田信玄(晴信)なども現れた。大口取引には砂金および灰吹銀が用いられ、金は板金や碁石金に整形されるようになる[62]。当時は東日本で金山が多く、西日本で銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中して、江戸時代にも影響を与えた[63]

倭銀と貿易

銀が国際的な貨幣であったため、1540年代以降には銀を外国に運ぶ貿易が活発となる。日本の銀は倭銀とも呼ばれて貿易用に普及が進み、朝鮮では貨幣として使われている木綿布と交換された。朝鮮政府は民間の私貿易で銀が大量に流入するのを避けるために、公貿易として対処した。これは、明への貢銀を避けるための対策もかねていた。1544年(天文13年)には安心と名乗る僧が日本国王使として朝鮮に8万両の銀を持ち込んでいるが、当時の日本からの国使は多くが貿易を目的とした偽使であった。銀と引き換えに大量の綿布が輸入されて、船舶の帆布や衣料品となる。大内氏の主催による1539年(天文8年)の第18次遣明船には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した[64]

銀の増産によって、海外からの日本進出も盛んになる。明の鄭舜功が書いた『日本一鑑』によれば、1534年(天文3年)には福建の商人が日本の僧からの情報で貿易を盛んにしたとされている。明では銀で納税する一条鞭法という銀本位制をとっていたため、銀を求めて福建のほかにも浙江広東の商人が訪れた。ポルトガルとの南蛮貿易が始まると、平戸からも銀が運ばれるようになった[65]。明は海禁の政策をとっており、倭寇とつながりがあるされた日本との取り引きは密貿易であった。しかし、中国沿岸やポルトガルの商人は統制のなかでも日本に渡航を続けて、1570年永禄13年)にはポルトガルが長崎・マカオ間の定期航路を開設する。これによって日本銀がマカオから明に流入するルートが確立した。戦国・織豊時代の日本は、銀によって生糸や絹織物などの高価な外国産品や、火薬原料である硝石などの軍需物資を調達した[66]

貫高制と石高制

税制では、通貨の単位である貫を尺度とする貫高制にかわって、米の収穫量を尺度とする石高制が優勢となってゆく。室町幕府では15世紀から守護や国人の所領の規模を貫高という単位で表しており、貫高を基準として徴税を行っていた。各地で荘園制が解体するにつれて、戦国大名も貫高をもとに軍役や年貢の基準を定めるようになり、領内の把握と権力強化のために検地を行った[67]。貫高制は貨幣での納税を求めたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増した。農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難であった。『妙法寺記』や『多聞院日記』などの記録によれば、戦国期における米価は安定もしくは低落を続けた。貫高制と検地は戦国大名の支配を強化する一方で、農民の年貢減免を求める紛争や、欠落(かけおち)などの逃亡の増加を招いた[68]

戦国期には、銅貨や米に加えて金や銀の流通が増加して貨幣状況が複雑となった。織田信長は京都において、米を商取引に使うことを禁じつつ、金銀の商取引を認めて銅貨との交換比率を定めた。米による現納を正確にするために、京都の十合枡を公定枡として採用して、これはのちの豊臣政権にも引き継がれる。公定枡による度量衡の統一は、米の価値尺度としての信用を高めたため、結果として石高の信用につながった[69]

貫高制と検地の関係は、豊臣秀吉によって石高制と検地へと変更される。秀吉は太閤検地が古代の検田を継承するとして、天皇のもとでの国家事業として位置づけた。そして1589年天正17年)の美濃検地をはじめとして、貫高制から石高制への切りかえをすすめた。秀吉は1591年(天正19年)に、天皇に献上する検地帳である御前帳を石高で提出するように諸大名に求めて、全国で石高制の成立がすすんだ。秀吉の要求は、石高制による軍役の編成と大陸出兵が理由とされており、1592年文禄元年)には文禄の役が起きている[9]。石高制が優勢となった背景には、領主の政策もあった。貫高制の進展は農民の離農や、欠落を招く恐れがあることから、封建制度の維持のために年貢を米で納めさせる政策をとり、江戸幕府にも継承された[70]

近世

皇朝十二銭が発行中止になってから、日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度にもとづいて初めて作られた金属貨幣は、起源は不詳であるが戦国時代には甲斐国を中心とする戦国大名・甲斐武田氏の領国で地方貨として用いられた甲州金とされる[71]。続いて豊臣秀吉が製造を命じた天正大判[72]も通貨としての性格は薄かった。全国的な貨幣の統一は、江戸時代からとなる[73]

江戸時代の三貨制度

寛永通寳

江戸時代になると貨幣制度が統一され、江戸幕府が金貨・銀貨・銅貨(銭貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の正貨とした。まず慶長の幣制により金貨・銀貨が作られ、続いて1606年慶長11年)に慶長通宝が発行され、皇朝十二銭以来600年ぶりの銅貨公鋳となった。2年後には明銭の永楽通宝の流通が禁止され、永勘定(1貫文=金1)による優位性を廃止した[70]。鋳貨を発行した場所をそれぞれ金座銀座銭座と呼んだ[74]

慶長小判
慶長丁銀

金貨の単位は、分(ぶ)、(しゅ)があり、1両=4分(ぶ)、1分=4朱の4進法だった。銀貨の単位は(かん)、(もんめ)、分(ふん)があり、1貫=1000匁、1匁=10分だった。銅貨の単位には文があり、1貫文=1000文だった。金・銀・銅はそれぞれ独自の体系を持ち、交換用の基準を決められてはいたが、実際には金・銀・銅の相場は変動して、現在の為替相場のように機能した。そのため後述のように両替商が重要となった[75]

金貨

金貨には大判小判一分判の3種類がある。大判は、大名や旗本など特権身分の贈与や賜与、多額の支払い用の金貨であり、販売値段は時価である御道具値段として表され、枚数で数えられた[76]。実際の交換には、小判と一分判がよく用いられた。小判は楕円形であり、両を単位とする。一分判は小判の4分の1に相当して、分を単位とする。円形の円分金や、短冊形の額壱分金がある[77]

銀貨

銀貨は丁銀が主体で、ほかに大小さまざまな豆板銀があった。金貨と銅貨は額面価値と枚数で価値を決める計数貨幣であったが、銀貨は18世紀半ばまで丁銀、豆板銀といった秤量貨幣であった。この統一を目指して、幕府の老中である田沼意次は初の計数銀貨として明和五匁銀を発行させた。これは商人の反発によって1772年(明和9年)に発行が停止されたものの、同年に南鐐二朱銀が代わって発行され、こちらは徐々に定着した[78]。以降、計数貨幣の銀貨と秤量貨幣の銀貨が併用され、南鐐二朱銀は合計39年間にわたって発行された。19世紀初頭の文政年間に入ると、金貨の単位である分・朱を通貨単位とする計数銀貨の流通高が秤量銀貨を上回った[79]

銅貨(銭貨)

銅貨は小額取引用で、庶民にもっとも使われた。本格的な銅貨鋳造および全国的な流通にいたるのは寛永通宝以後となった[80]1768年(明和5年)には、田沼意次の改革で、それまで1文銭のみだった寛永通宝に4文銭が加わった。初期の銅貨と比べれば含有率が低い真鍮貨だが、当時は長崎貿易による銅流出で銅が不足しており、鉄貨の銭が増えていたため普及した[79]

江戸時代の紙幣

伊勢山田羽書(1610年)

羽書

現存する日本最古の紙幣は、伊勢国で発行された山田羽書である。羽書という語の由来は、小額貨幣を指す端書からとされる。伊勢国は伊勢商人でも知られる商業の活発な地域であり、秤量貨幣である銀の取引の煩雑さや、釣銭用の銅貨の不足を解決するのが目的とされた。山田羽書は秤量銀貨の預かり証として発行されて伊勢神宮の宗教権威により流通して、紙幣として普及が進んだ。発行にあたっては、から和紙を作って版木で印刷をした[81]。図柄としては、大黒天恵比寿弁財天布袋倶利伽羅竜王などの人物のほかに、打ち出の小槌瑞雲青海波、蝶、麒麟、象が描かれた。こうした図柄は、明治政府の政府紙幣にも影響を与えている[82]。羽書のように藩領旗本領以外で発行された紙幣は私札とも呼ばれる。私札には発行者によって公家札寺社札町村札宿駅札鉱山札私人札などがあった[83]

藩札

大名領国では、藩札と呼ばれる紙幣が発行された。という呼称は明治維新以後に普及したものであり、当時は札、鈔、判書という具合に呼ばれた[84]。初の藩札は1630年(寛永7年)に備後福山藩から発行されている。楮による丈夫な和紙を用い、用紙には摂津の名塩村、越前の五箇村、美濃の岐阜などの名産地のものが使われた。職人たちは誓書によって藩札用紙の製法の秘密を守り、印刷には版面を彫刻する絵師がおり、判師と呼ばれた。版木は2分割か3分割されており、1人では完成しないように偽造対策がされていた。図柄には七福神の大黒天、弁財天や、鶴、亀、神代文字梵字などが使われ、偽造対策の印章も使われた[11]

藩札の発行目的は、藩財政の窮乏が多くの原因であった。領内での流通を目的としていたが、藩内を越えて流通したものもあった。旗本が治める知行地では、藩札と同様の目的で旗本札が発行された。江戸時代後期までの藩札は銀立てによる銀札が多く、特に銀遣いの西日本で流通した。1707年(宝永4年)には前年に改鋳された宝永銀流通促進のため、幕府は札遣いの禁止を出して紙幣は流通停止とした。この禁止令は、改鋳で新たに発行する質の低い銀貨と藩札が競合することを避けるためとされる。札遣いの禁止は、1730年(享保15年)まで続いた[85]

のちの明治政府による統計では、244藩、14代官所、9旗本領により計1694種類の紙幣が発行されていたという。江戸時代の庶民は金貨や銀貨を目にする機会が少なく、実際によく用いた貨幣は銅貨と紙幣だったという説もある[86]

両替商

両替に用いられた針口天秤

金貨は江戸以北の太平洋側の地域、銀貨は大坂、京都、東北以南の日本海側の地域で主に用いられた。江戸では金貨が流通する金遣い(きんづかい)であったのに対して、上方では主として銀貨が流通する銀遣い(ぎんづかい)であった[87]。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に両替が必要であった。このため両替商の存在が重要となり、金座や銀座の周辺にいた両替商は、本両替商と銭両替商へと分業が進んだ。本両替商には為替や貸付、預金などの業務を行う者もおり、なかでも江戸の本両替仲間と大坂の十人両替仲間がよく知られるようになった[88]

1609年(慶長14年)に御定相場として金1両=銀50匁=永1貫文=鐚4貫文(4,000)と定められ、1700年(元禄13年)には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定されたが、実際には相場が変動していた。幕府貨幣の三貨のほかに、米も貨幣として流通し続け、米の預かり証である米切手も用いられた。さらに多額の金銭の輸送のリスクを避けるために為替が発達して、大坂では手形決済が商品取引の99パーセントにも及び、京都では50パーセント、江戸はそれ以下だったとされる[89]

江戸時代の貿易と貨幣

江戸時代の日本は貴金属の輸出国であり、朱印船貿易1635年(寛永12年)まで行われて貨幣も流通した。取引相手はポルトガル、ベトナムの安南、スペイン領マニラ、タイのアユタヤ王朝パタニ王国などの諸国だった。江戸幕府によって1639年(寛永16年)に鎖国令が出されたのちは、ポルトガルに代わりオランダ東インド会社が日本と取引を行った[12]

長崎貿易

長崎貿易銭

オランダ東インド会社はポルトガルの手法を参考にして中国産の生糸などを日本に売り、日本は金や銀で支払いをした。1640年(寛永17年)には小判2万1千枚と大判300枚が輸出されるなど金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に送った。輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐため、1659年万治2年)には貿易用の長崎貿易銭が発行された。1667年寛文年)には小判4万枚以上が輸出され、オランダの単位に換算すると106万グルデン以上となり、オランダ本国から東インド会社への送金34万グルデンを上回るほどだった。銀の輸出量は、17世紀前半当時の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半のバタヴィアでは日本の小判が流通して、獅子の刻印を打ったものが9から10ライクスダアルダーとして用いられた。金銀の流出は長年の問題となり、幕府は1685年貞享2年)からの定高貿易法で貿易に上限を設けたり、1695年元禄8年)の改鋳などを行う。改鋳は取引国のオランダや中国から反発を受ける原因となった[12]

日朝貿易

朝鮮半島においては李氏朝鮮と対馬藩が貿易をしており、日本は中国の生糸や朝鮮の高麗人参を慶長銀で購入していた。改鋳した銀貨を用いるようになるが、改鋳で含有率が低くなった銀貨は、朝鮮側が受け取りを拒否するようになる。薬用として貴重であり消費が増えていた高麗人参の輸出が中止され、対馬藩は幕府に対策を訴える。幕府は1710年(宝永7年)には高麗人参専用の銀貨として人参代往古銀を発行した[90]

山丹貿易

北方では、樺太のアイヌが、山丹人とも呼ばれるニヴフウリチ山丹貿易を行った。山丹側の商品は中国のに朝貢をして得た絹織物や大陸の産物で、アイヌの商品はクロテンをはじめとする毛皮や幕府から得た鉄製品だった。取り引きにおいて日本や清の金属貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された[91]松前藩はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手しており、清の絹織物は蝦夷錦と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした[92]

銅の流出

金銀の次は銅の輸出が増え、17世紀から18世紀初頭にかけての日本は当時世界一の年間6000トンを産出した。銅の流出は国内に影響を与え、元文時代になると鉄で作られた寛永銭が目立つようになった。輸出された銅は海外の貨幣にも用いられ、東インド会社時代のセイロンや、ナポレオン戦争時代のジャワでは、日本の銅地金を切断して刻印を打った貨幣が現地用に急造されていた[93]

六道銭

厭勝銭に関連がある貨幣として、副葬品に用いられるものを六道銭と呼ぶ。六道銭には寛永通宝のほかに南無阿弥陀仏と書かれた念仏銭、南無妙法蓮華経と書かれた題目銭などがあり、ほかに絵銭がある。絵銭には図柄によって多くの名称が知られており、馬が描かれた駒曳銭、七福神から選ばれた大黒銭恵比寿銭、玩具にも使われた面子銭などがある[94]

改鋳

小判の大きさの変化

経済の拡大にともない、貴金属の産出の減少と通貨の流通不足が起き、幕府財政の悪化が深刻化した。このため幕府では金銀貨の改鋳が行われた。元禄宝永(小判1回、丁銀4回[† 4])・正徳享保(小判のみ[† 5]。)・元文・明和(五匁銀南鐐二朱判)・文政・天保嘉永一朱銀のみ)・安政万延(小判のみ)の計14回にわたる改鋳が行われた。ただし一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる。江戸幕府最初の金貨である慶長小判の時には約17.8グラム・金含有率84.3パーセントあったものが、最後の万延小判には約3.3グラム・金含有率56.8パーセントという水準にまで低下している[96]

改鋳による貨幣発行益を出目と呼び、元禄改鋳では500万両、天保の改鋳では幕府年収の30パーセントの利益があった[59]。江戸幕府による改鋳は、含有量が異なる金属貨幣を同価として扱うことで、退蔵されている富裕層の金銀貨を投資に向けさせ、貯蓄への課税と同様の効果を目的としたという評価もなされている[97]。また、当時は長崎貿易で貴金属の流出が続いており、金銀貨の含有率を下げることで貿易額を保ったまま流出量を減らす目的もあったとされる。しかし、こうした改鋳は貿易相手国のオランダ、中国、朝鮮の反発をまねいたため、幕府は貿易用の貨幣を発行したり、金銀から銅への切り替えを進めた[12]

幕末

万延二分判(止め分/称明治二分金)

幕末からの開港により、通商条約を結ぶうえで貨幣の交換比率が問題となった。幕府とアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの交渉では、貿易銀であるメキシコドルと日本の天保一分銀が、ドルにとって有利な重量交換で行われることが決まり、1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結された。日本では鎖国により金銀比価の差が少なかったが、欧米ではその差が大きく、日本の金を海外へ持ち出せば利益が大きい。このため1859年(安政6年)の横浜港開港によって、外国の貿易商はドルを一分銀に交換したのちに一分銀を小判に換え、半年で30万〜40万両ともいわれる大量の金が日本から流出した[98]

幕府は万延の改鋳で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延二分判が流通を制した。この二分判にも諸藩による贋造が横行して、さらに幾種もの貨幣が並列した。非常に複雑な流通となったために諸外国の反発を買い、改税約書によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないことや、将来的な通貨改革と金銀地金の持込によって本位貨幣を発行する自由造幣局の設立を約束させられた。これを継承した明治政府高輪談判の結果、通貨の近代化に踏み切った[99]

近現代

新貨条例

一圓金貨(原貨), 一圓銀貨
一圓金貨(原貨), 一圓銀貨

1867年王政復古が宣言されると、維新政府は1868年明治2年)に金座や銀座を貨幣司に吸収した。藩札については、1871年(明治4年)の藩札処分令によって廃止された。同年2月に現在の造幣局にあたる造幣寮が開設されて、5月に新貨条例の制定があり、という単位が正式に採用された[100]。当時はイギリスから広まった国際的な金本位制が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、アメリカ・ドルの1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする本位貨幣が定められた[101]

貿易専用銀貨として、1円銀貨も発行された。モデルとなったのはメキシコの8レアル銀貨(メキシコドル)で、レアルは貿易決済用として国際的に流通していた洋銀貿易銀)であった。銀貨は貿易専用だったが、貿易銀として国際決済に用いられることが増え、また本位金貨の絶対数不足のため、1878年(明治11年)には貿易銀も本位貨幣扱いとされる。新貨条例は金本位制をとりつつも、事実上は金銀複本位制となった[102]

明治通宝1円紙幣

1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)まで、明治政府により太政官札が発行される。戊辰戦争の戦費や殖産興業の費用調達が目的であり、これが初の日本全国で通用する政府紙幣不換紙幣)となった。明治政府は1870年(明治3年)にフランクフルトのドンドルフ・ナウマン社に発注して明治通宝を発行して、1871年(明治4年)7月には現在の国立印刷局にあたる紙幣司が設けられた。新紙幣はドイツで作られたため、ゲルマン紙幣とも呼ばれた。1873年(明治6年)には国立銀行紙幣の旧券が印刷され、天の岩戸開き、蒙古襲来神功皇后などの神話や歴史のテーマが図柄に採用された[11]。のちの新券では、富国強兵や殖産興業など当時の政策に合致する水兵や鍛冶屋が採用された[103]

紙幣の国産化

政府紙幣(一円券) 1878年(明治11年)

新紙幣の偽造防止のために、当初は「明治通宝」の文字を書家が手書きしていた。しかし、1日あたり約500枚が限界であったために木版に変更となった。押印の手間に加えて、外国で紙幣を製造するコストの高さや、緊急時の発行が問題視された。1874年(明治7年)には紙幣製造の機械と版面がドイツから運ばれ、技術指導の技術者の派遣も決定した[104]

1875年(明治8年)には、ドンドルフ・ナウマン社で働いていたイタリアの版画家エドアルド・キヨッソーネが来日をして、紙幣司で製造にあたった。キヨッソーネは改造紙幣1円札で神功皇后を描き、これが日本初の肖像入り紙幣となる[105]

銀行制度

拾円日本銀行兌換銀券

国立銀行

明治政府は不換紙幣である政府紙幣を大量に発行して、1867年から1868年にかけては政府歳入の7割に達していた。この状況を改善するために、イギリス式の中央銀行と、アメリカ式の分権的な銀行を参考に検討をする。結果として、アメリカの国法銀行法英語版を参考に1872年(明治5年)国立銀行条例を制定した。この条例は民間銀行による兌換紙幣の発行と貨幣価値の安定をはかる内容で、国立銀行とは「国法によって立てられた銀行」を指すもので、実際は民間銀行である[106]。設立された国立銀行は兌換紙幣として銀行券である国立銀行紙幣を発行して、のちに1876年(明治9年)の条例改正で不換紙幣の発行も可能となる。国立銀行は決済手段や金融仲介サービスを提供したが、不換紙幣は解消されずインフレーションを招き、紙幣整理が行われた。1880年(明治13年)までに国立銀行は153行が設立され、現在の銀行の起源となったものも多い[14]。国立銀行のほかに、紙幣の発行はできない私立銀行も多数設立された[107]

中央銀行

1882年(明治15年)に中央銀行として日本銀行が創設された。これ以後は日本銀行が唯一の発券銀行となり、国立銀行紙幣の回収にあたる。そして1885年(明治18年)に最初の日本銀行券にあたる日本銀行兌換銀券が発行された[108]。銀券発行により日本は銀本位制に移行して、物価の安定は達成したが、当時は国際的に金本位制が普及しており円為替レートは1897年(明治30年)までに40パーセント以上切り下がった。円安によって輸出は促進される一方でインフレーションが持続して、金本位制の採用につながる[14]。日本銀行兌換銀券の図柄には、国立銀行紙幣新券の恵比寿に続いて大黒天が採用され、商売繁盛を願うのが理由とされている。「兌換銀券人物描出の件」という閣議決定がなされ、肖像にふさわしい人物として、日本武尊武内宿禰藤原鎌足聖徳太子和気清麻呂坂上田村麻呂菅原道眞があげられた[109]

朝鮮、台湾との関係

当時の日本の政策は、周辺地域の通貨制度にも影響を与えた。李氏朝鮮とのあいだでは1876年日朝修好条規を結び、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定めた。日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店は業務を拡大して、1902年(明治35年)に第一銀行券を発行し、大韓帝国の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の韓国銀行(朝鮮銀行)は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった[110]台湾は、1895年(明治28年)に日清戦争後の下関条約によって中国のから割譲され、1899年(明治32年)に台湾銀行が設立された[15]

金融恐慌

銀行制度は現在のように整備されておらず、1920年代から銀行の取り付け騒ぎが頻繁するようになった。のちの1927年昭和2年)には昭和金融恐慌を招くことになる。大規模な取り付け騒ぎで紙幣が不足したことから発行された二百円紙幣は、緊急だったため片面だけの印刷で、偽札と間違えられて逮捕された所持人もいた[111]

金本位制

1897年(明治30年)に日清戦争軍事賠償金として得た金額は3億6000万円で、1895年(明治28年)の日本のGNPの2割以上にあたる。この賠償金を金準備金に設定して、金本位制を軸とした貨幣法が施行された。公的には新貨条例から金本位制が定められていたが、この時点までは事実上の銀本位制で、1円=金0.75グラムとされた。金本位制の本格的な採用によって外債の発行が容易となり、日露戦争の戦費調達のために10億円の外債を発行したほか、日露戦争の勝利で対外的な信用が高まって地方債や社債も海外で発行された[14]

金輸出解禁

第一次世界大戦の影響を受けて、日本は1917年大正6年)9月に金輸出の禁止を行い、金本位制を停止した。大戦期のマネーサプライの平均増加率は29パーセントで、大戦期間のインフレ率は年平均15.29パーセントとなった[112]。大戦後の1919年(大正8年)にはアメリカをはじめとして各国が金本位制を再開して、1922年(大正11年)のジェノヴァ会議では、各国に金本位制への再開を求める決議がなされる。日本でも金本位制再開のための金輸出解禁(金解禁)について検討が進むが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌の影響もあって決定が遅れ、業界団体、新聞の経済部、商工会議所などから金輸出解禁の要望が出された。1929年(昭和4年)には、世界恐慌ののちに金輸出解禁の方針が発表される。世界的な不況のなかで金輸出解禁が適切であるかについては、政策担当者のあいだでも激しい論争があった[113]。金輸出解禁の実施は1930年(昭和5年)1月となり、100円=43ドルから44ドルだった為替レートは旧平価の49ドル85セントに戻された[114]

昭和恐慌

金輸出解禁から4カ月で、2億円の正貨にあたる金が国外に流出した。解禁前と解禁後の平価の差額を利用すれば利益が出るため、解禁直後から政府の予想以上に金が流出した点が原因とされる。金本位制のもとでは、金の流出は国内で流通する通貨の減少につながる。このために日本銀行の通貨発行高は、1930年(昭和5年)1月の14億4300万円から同年9月には11億2400万円と減少した。以前から金輸出解禁に備えてデフレーション政策をとっていた日本では、国内市場の縮小や輸出産業の不振がさらに深刻となる。1930年から昭和恐慌となり、特に農産物においては暴落と凶作が重なって昭和農業恐慌とも呼ばれた。加えて、1931年(昭和6年)の満州事変は日本の国際的信用の低下を呼び、資本逃避を加速させた。同年9月にイギリスが金本位制を停止すると、日本も金本位制を停止するとの予想から円為替レート低下への期待が高まり、国内投資家はドル買いを行い、海外投資家は資本逃避を行った。政府と日本銀行は横浜正金銀行にドル売りの介入をさせ、公定歩合を引き上げて投機を防ごうとするが、同年12月には日本も金輸出を停止して再び管理通貨制度に移行した[115]1932年(昭和7年)からは再建策として、国債の日銀引き受けによる通貨供給、低金利といった政策が採用された。為替レートの低下は輸出を促進して、早い段階で景気回復へ向かった[116]。しかし財政再建策を進めた高橋是清は、軍事費の削減も計画していたため二・二六事件で暗殺された[117]

ブロック経済の通貨と軍票

満州国圓(1932年)

世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めた。ブロック経済は英連邦スターリングブロック英語版をはじめとして通貨圏にもとづいており、日本は日本円を中心とする日満支経済ブロックを形成した[118]。日満支経済ブロックには、日本および日本統治下の台湾、朝鮮満州国、そして中国の中華民国臨時政府南京国民政府蒙古連合自治政府が含まれ、各地の中央銀行としては台湾銀行(1899年)、朝鮮銀行(1911年)、満州中央銀行(1932年)、中国連合準備銀行(1938年)、中央儲備銀行(1940年)がある。これらの銀行は通貨として台湾銀行券、朝鮮銀行券満州国圓、連合準備銀行券、儲備銀行券を発行した。台湾や朝鮮には日本円を導入する案もあったが、混乱発生時に日本に波及するとの理由で採用はされなかった[119]太平洋戦争の開戦後に日本の統治下に置かれた東南アジアの諸国は、円とは異なる通貨を維持しつつ日本の経済圏に組み込まれた[119]

預け合い契約

日中戦争太平洋戦争の戦費を調達するため、銀行間で預け合い契約という手法がとられた。連合準備銀行は朝鮮銀行、儲備銀行は横浜正金銀行と契約をした。預け合い契約では、たとえば朝鮮銀行東京支店から北京支店に戦費を送金されると、北京支店はそれを自行の連銀名義の円預金口座に記帳する。一方で連銀は自行の朝鮮銀行名義の連銀券預金口座に同額を記帳する。連銀にある朝鮮銀行の連銀券預け金は戦費にあてられた。預け合い契約によって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した。通貨価値の下落は信用の低下を招き、かわりに蒋介石政権の通貨である法幣が流通した[120]

軍票

フィリピンで日本軍が使用した10ペソ軍票(1942年)

日中戦争以降は、軍が占領地や勢力下で物資調達に用いる軍用手票(軍票)が増加した。中国大陸では日中戦争開戦の4ヶ月後に軍票の使用が始まり、東南アジアでは1941年(昭和16年)のマレー作戦後に南方外貨表示軍票が発行された。1942年(昭和17年)には南方開発金庫が設立され、1943年(昭和18年)に南方開発金庫券(南発券)を発行したが、実態としては軍票と同様に扱われた。日中戦争での軍票は円標示で、法幣に対する物資争奪戦に用いられた。南方占領地の大東亜戦争軍票や南発券は現地通貨を標示して、物資を現地自活するために用いられた。いずれの地域でも、輸送力の低下や物資の不足により増発され、特に1943年(昭和18年)以降は濫発によるインフレーションが各地の経済を混乱させた[121][119]

ブレトンウッズ体制

1944年(昭和19年)にアメリカのブレトンウッズで連合国通貨金融会議が開催され、大戦後の国際金融についての協定が結ばれた。これがブレトンウッズ協定であり、金との兌換性はUSドルのみが持ち、各国の通貨はUSドルとの固定相場制をとるという体制だった。金とドルの交換レートは、金1オンス=35USドルと定められた。戦後の日本の通貨も、ブレトンウッズ体制にもとづいて定められることになる[122]

戦後新紙幣

百円札

1945年(昭和20年)8月15日に日本は第二次世界大戦で敗戦を迎え、沖縄県や奄美群島では、アメリカ軍の軍票であるB円が1958年まで流通した[123]連合国軍占領下の日本は新しい紙幣を発行することになり、新しい図柄の検討は民間の印刷会社も参加できるコンペ形式で20日間の公募が行われた。11月の審査には大蔵省、日本銀行関係者、画家の藤田嗣治杉浦非水らが参加した。審査の結果、千円札の図柄には新薬師寺伐折羅大将五百円札には広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像が選ばれ、戦争で焼失を逃れた仏像が心をなごませるというのが選考理由であった。高額紙幣は当面必要がないため百円札が弥勒菩薩、十円札が伐折羅大将として決定したが、この案はGHQによって不採用とされた。不採用の理由は、伐折羅大将は戦勝国に対する怒り、弥勒菩薩像は敗戦の悲哀を表現するように見られるというものであった。そこで百円札は従来の聖徳太子を継続して、十円札は国会議事堂を使用した。インフレーションが進行して紙幣の供給が急務とされたが、物資や機械の不足により、民間の印刷会社も動員して印刷が行われた[124]

高度成長

新円切替

1946年(昭和21年)の金融緊急措置令新円切替が行われるなどインフレーション対策が行われたが、1945年から1950年の5年間で卸売物価は70倍となった。このインフレーションにより最も利得を得たのは、多額の国債を発行していた政府、巨額の負債がある金融機関や企業だった。金融緊急措置令は預金封鎖をともなっていたため、多くの個人にとっては現金・預金・公債について損失となった。公定価格の数十倍のヤミ価格で物資が取り引きされて個人業者には利益をもたらした[† 6]。その一方、1947年(昭和21年)にはヤミ食料を拒否した山口良忠判事が栄養失調で死亡する事件も起きた。1949年(昭和24年)3月からドッジ・ラインが実施されると、ヤミ物価は低下して価格や配給の統制が解消に向かった[125]

第二次世界大戦後の日本の通貨は、ブレトンウッズ体制に従うこととなった。占領下の貿易は貿易庁とGHQの仲介で行われ、為替レートは存在せず個々の取引ごとに円とドルの換算比率を決めていた。ドッジ・ラインにより、円は1ドル=360円(変動幅±1パーセント)に固定された。ブレトンウッズ体制のもとで、日本は高度経済成長をとげる[125]

1938年(昭和13年)に施行されていた臨時通貨法は戦時の時限立法であったが、戦後に期限が削除され、激しいインフレーションにともなって円単位の臨時補助貨幣が追加された。この法律のもとで、1988年(昭和63年)まで臨時補助貨幣が発行され続けた。円単位であるにもかかわらず、1〜500円硬貨が補助貨幣と呼ばれたのは、このような背景がある[126]

変動相場制

ブレトンウッズ体制の終了

1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日を示す。

1971年(昭和46年)8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、USドルが金との兌換を一時停止すると発表した。原因はアメリカの金保有量の減少によるもので、それまでの金とドルにもとづく国際通貨体制の終了をもたらし、ニクソンショックとも呼ばれた。ニクソンショックによってドルの値下がりが予想されたため、ヨーロッパの外国為替市場はいったん閉鎖したのちに変動相場制へ移行する。一方で日本は、市場を閉鎖せずに1ドル=360円のレートでドル買いを続けた。このドル買いによって、8月15日の発表から8月28日の変動相場制移行までのあいだに、5億5千万ドルの為替差損を出した[127]。その後のスミソニアン協定で固定相場制が再開され、ドル切下げと円切上げが決定する。新たに金1オンス=38ドル、1ドル=308円(変動幅±2.25パーセント)の交換レートが定められたが、固定相場の維持はやはり困難となり、1973年(昭和48年)2月に日本は再び変動相場制へ移行した[122]

プラザ合意

1980年代前半のアメリカのロナルド・レーガン政権のもとで、双子の赤字と呼ばれた貿易赤字と財政赤字が問題となった。為替レートを安定させるために、1985年(昭和60年)9月22日にG5の蔵相や中央銀行総裁による会議が開催され、プラザ合意がなされた。これ以降は円高が急速に進み、2年間で1ドル=240円前後から121円と2倍近く上がった[128]

円高とデフレーション

1995年から2008年の日本のGDPデフレーター前年同四半期増加率(%)。

1980年代後半から日本はバブル景気となり、1990年代前半にはバブル崩壊が始まるが、金融政策で緊縮策をとったため状況は悪化して、円高とデフレーションが進行する。日本は円の国際化としてアジアへの直接投資やラテンアメリカ諸国の債務問題への資金協力を行い、1997年アジア通貨危機の際にはアジア通貨基金構想を出す。しかし、円の国際化は本格化しなかった。頓挫の原因としては、各国やIMFの反対、国内経済の低迷、金融機関の不良債権処理による縮小、アジア諸国に対する市場開放の不十分さが指摘されている。2000年代前半の超低金利の時期には、円で資金調達をして外貨に投資する円キャリートレードが増加して、外国為替証拠金取引(FX)の個人投資家を表すミセス・ワタナベという語も生まれた[129]

日本経済の長期停滞は、失われた10年失われた20年とも呼ばれている。1990年以降の長期停滞については、消費・投資・生産などの実物的現象よりも物価・為替レートなどの貨幣的現象を原因とする研究がある。理由には国内におけるデフレの持続に加えて、対外的にはプラザ合意以降に円高が持続した点があげられ、これは総需要の停滞およびデフレの進行という解釈と整合している。生産の伸びに対してマネーストックの伸びが少なかった点から、日本銀行の金融政策によるマネタリーベースの伸びが十分でなかったと指摘されている[130]

クレジットカード、電子マネー、デビットカード

1950年代にはアメリカでクレジットカードによる決済が始まり、日本では1960年代から同様のサービスが始まった。クレジットカードはカード番号の不正利用など問題点がないわけではなく、このような欠点を克服するものとして1990年代には電子マネーが出現している。日本では、電子マネー実験として1999年(平成11年)の渋谷でVISAキャッシュ、新宿でスーパーキャッシュが試験的に用いられた。どちらも接触式のICカードによるプリペイド方式だった。その後は2001年(平成13年)頃からタッチ式のプリペイド電子マネーが交通機関を中心に普及している[131]

デビットカードは即日決済が可能なキャッシュカードにあたり、認証機関を通さずに決済できる。現金よりも個人小切手やクレジットカードの決済が習慣となっている欧米で普及が早かった。日本では1999年(平成11年)のJ-Debitから始まっている[132]

仮想通貨

仮想通貨は、国家による裏付けを持たない点、ネットワークによって流通する点、決済手段である点などの特徴を持つ貨幣である[133]。仮想通貨として有名なものにビットコインがあり、汎用性のある決済手段として国際的に流通している。これに対して、ゲーム内の通貨やマイレージなどは、汎用性がない点で広義の仮想通貨とされる[134]。 日本円と異なり、仮想通貨は強制通用力を持っていない。そのため、2015年(平成26年)2月25日の第186回国会の質問第28号では、日本の民法においてビットコインが通貨に該当するのかが問題とされた[135]

日本においては、東京でビットコインの交換所を提供していたマウントゴックス社が破綻する事件が起きた。大量のビットコインが消失したため、マウントゴックス社は2014年(平成25年)2月26日にビットコインの取引を停止して、同社のユーザーは訴訟を起こした。2月28日には、マウントゴックスは東京地方裁判所に民事再生申立手続きを行った[136]。マウントゴックス社の破綻により明らかになった点として、破綻した法人の財産の保全をする場合に、仮想通貨を管理することの困難さが指摘されている[137]

2016年(平成28年)5月25日、情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律(平成28年6月3日法律第62号)が成立し、資金決済に関する法律の一部が改正された(平成29年4月1日施行)。改正後の同法2条5項には、仮想通貨の定義が以下の通り定められた。

資金決済に関する法律
(定義)
第2条
5 この法律において「仮想通貨」とは、次に掲げるものをいう。
一 物品を購入し、若しくは借り受け、又は役務の提供を受ける場合に、これらの代価の弁済のために不特定の者に対して使用することができ、かつ、不特定の者を相手方として購入及び売却を行うことができる財産的価値(電子機器その他の物に電子的方法により記録されているものに限り、本邦通貨及び外国通貨並びに通貨建資産を除く。次号において同じ。)であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの
二 不特定の者を相手方として前号に掲げるものと相互に交換を行うことができる財産的価値であって、電子情報処理組織を用いて移転することができるもの

また、併せて仮想通貨交換業等の規制も定められ、仮想通貨の利用に関する法整備を進めた。

年表

鋳造途中の文久永宝。枝銭(えだぜに)と呼ばれる
備後福山藩が享保15年に発行した藩札

出典・脚注

注釈

  1. ^ ただし、律令政府は貨幣の流通を都と畿内に限定して、国家による支払いで地方に流れた貨幣は地方では流通させずに政府に回収する方針であり、蓄銭叙位令もその一環であったとする森明彦の説がある[40]
  2. ^ 硬貨の認識は次第にすすみ、『日本霊異記』や『今昔物語集』などにも銅貨が登場する説話が記録されている[43]
  3. ^ 中国では。宋の交子に始まり、元の時代に交鈔、明の時代に宝鈔と呼ばれた紙幣が発行された。
  4. ^ 最後の改鋳は正徳元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ。
  5. ^ 丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある[95]
  6. ^ 食料となる農産物をヤミで売った農村では、新10円札の厚さが一尺(約30センチ)に達すると一尺祝いという宴会を行った。

出典

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参考文献

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  • 田島公 著「大陸・半島との往来」、上原真人; 白石太一郎; 吉川真司 ほか 編『列島の古代史4 人と物の移動』岩波書店、2005年。 
  • 田代和生『倭館 - 鎖国時代の日本人町』文藝春秋社〈文春新書〉、2002年。 
  • 多田井喜生『大陸に渡った円の興亡(下巻)』東洋経済新報社、1997年。 
  • 田中健夫『東アジア通交圏と国際認識』吉川弘文館、1997年。 
  • 田中健夫『倭寇』講談社〈講談社学術文庫〉、2012年。 
  • 田中史生『越境の古代史』筑摩書房〈ちくま新書〉、2009年。 
  • 東野治之『貨幣の日本史』朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。 
  • 東野治之『遣唐使』岩波書店〈岩波新書〉、2007年。 
  • 冨田昌弘『紙幣が語る戦後世界 - 通貨デザインの変遷をたどる』中央公論新社〈中公新書〉、1994年。 
  • 中島圭一 著「日本の中世国家と貨幣」、歴史学研究会 編『越境する貨幣』青木書店、1999年。 
  • 永積昭『オランダ東インド会社』講談社〈講談社学術文庫〉、2000年。 
  • 永積洋子 著「東西交易の中継地台湾の盛衰」、佐藤次高; 岸本美緒 編『市場の地域史』山川出版社、1999年。 
  • 永原慶二「大名領国制の展開」『日本歴史大系 第7巻』山川出版社、1996年。 
  • 中村和之 著「北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏」、姫田光義 編『北・東北アジア地域交流史』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。 
  • 中村隆英『昭和恐慌と経済政策 - ある大蔵大臣の悲劇』講談社〈講談社学術文庫〉、1994年。 
  • 中村和之 著「北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏」、姫田光義 編『北・東北アジア地域交流史』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。 
  • 中村哲『近代東アジア史像の再構成』桜井書店、2000年。 
  • 仁藤敦史 著、国立歴史民俗博物館 編『お金の不思議 - 貨幣の歴史学』近代東アジア史像の再構成、1998年。 
  • 橋本寿朗; 長谷川信; 宮島英昭; 齊藤直『現代日本経済』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年。 
  • 坂野潤治; 大野健一『明治維新 1858-1881』講談社〈講談社現代新書〉、2010年。 
  • 藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』講談社〈現代新書〉、2015年。 
  • 本多博之『天下統一とシルバーラッシュ - 銀と戦国の流通革命』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2015年。 
  • 丸山裕美子『正倉院文書の世界 - よみがえる天平の時代』中央公論新社〈中公新書〉、2010年。 
  • 三上喜孝『日本古代の貨幣と社会』吉川弘文館、2005年。 
  • 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年。 
  • 三上隆三『貨幣の誕生 - 皇朝銭の博物誌』朝日新聞社〈朝日選書〉、1998年。 
  • 三上隆三『円の誕生 - 近代貨幣制度の成立』講談社〈講談社学術文庫〉、2011年。 
  • 宮本又郎; 阿部武司; 宇田川勝; 沢井実; 橘川武郎『日本経営史〔新版〕 - 江戸時代から21世紀へ』有斐閣、2007年。 
  • 村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』集英社〈集英社新書〉、2007年。 
  • 村井章介『中世倭人伝』岩波書店〈岩波新書〉、1993年。 
  • 村上勝彦 著「貿易の拡大と資本の輸出入」、石井寛治; 原朗; 武田晴人 編『日本経済史2 - 産業革命期』東京大学出版会、2000年。 
  • 森明彦『日本古代貨幣制度史の研究』塙書房、2016年。 
  • 森下章司『古墳の古代史 - 東アジアのなかの日本』筑摩書房〈ちくま新書〉、2016年。 
  • 山田豪一 編『オールド上海 阿片事情』亜紀書房、1995年。 
  • 湯浅赳男『文明の「血液」 - 貨幣から見た世界史(増補新版)』新評論、1998年。 
  • 四日市康博 著「銀と銅銭のアジア海道」、四日市康博 編『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』九州大学出版会、2008年。 

論文、記事

関連項目

外部リンク