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{{出典の明記|date=2014年3月2日 (日) 16:44 (UTC)|ソートキー=沖縄人1237年没しゆんてん}}
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'''舜天'''(しゅんてん、[[1166年]] - [[1237年]]は、[[舜天王統]]の開祖とされる[[琉球国王]]。在位[[1187年]] - [[1237年]]。神号は尊敦。実在を証明する同時代史料は存在しないが、の名は16世紀頃から見られ、『[[中山世鑑]]』(1655年や『[[中山世譜]]』(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている
'''舜天'''(しゅんてん、[[1166年]]([[乾道 (宋)|乾道]]2年) - [[1237年]]([[嘉煕]]元年))は、[[舜天王統]]の開祖とされる人物で、琉球の正史では初代[[琉球国王]]と位置づけられている。在位51年([[1187年]]([[淳煕]]14年) - 1237年(嘉煕元年))[[神号]]は尊敦んとん)。


琉球に渡った[[源為朝]]を父とする出自伝説をもつが、舜天、さらに彼を含む王統に関しても、実在を証明する史料はなく、伝説上の人物と考えられる。舜天は15歳で[[浦添市|浦添]][[按司]]となり、その後、[[天孫氏]]を滅ぼした逆臣・[[利勇]]を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる。ただし、国王といっても、琉球全土を支配していなかったと言われている。
== 概要 ==
舜天の名自体は、国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にすでに見られ、16世紀には実在の王と考えられていたことが分かるが、より詳しい経歴は、[[1650年]]に編纂された[[琉球王国]]の正史『中山世鑑』に見ることができる。


72歳で死去し、世子の[[舜馬順煕]]が王位を継いだ。「舜天」という名は、死後に付けられた[[諡|諡号]]ではないかと考えられている。
それによると、[[沖縄本島]]には天帝の遣いとして下界に下った神・[[アマミキヨ]]の子に始まる[[天孫氏]]と呼ばれる王統が25代続いた。この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが[[浦添市|浦添]]の[[按司]]であった舜天とされている。


== 名前 ==
王統は[[舜馬順煕]]・[[義本]]と3代にわたって続き、[[1259年]]に[[英祖 (琉球国王)|英祖]]に王位を譲ったとされている。[[舜天王統]]の支配力が沖縄諸島にわたることは疑問視されており、巨大な[[浦添城]]を中心に沖縄本島の多くの按司ら豪族を従える按司主だったのではないかとの推測もされている。
「舜天(しゅんてん<ref name="okinawa-chu407-shunten">[[高良倉吉]]「舜天」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.407</ref>)」の「舜」は、[[中国神話]]に現れる聖天子・[[舜]](しゅん)から因んだものとされ、「天」は人徳の高さや偉大さを意味する<ref name="yonami-13">与並(2005年)、p.13</ref>。舜天をはじめとする舜天王統3代の名前は、『[[おもろさうし]]』や『[[歴代宝案]]』に見受けられる琉球の人名の[[漢字]]・[[かな]]表記とは特殊で、後世になって付けられた[[諡]](おくりな)ではないかと思われる<ref name="asato etc-63">安里ほか(2004年)、p.63</ref>。また、『[[中山世譜]]』{{Refnest|group=注|『中山世譜』は、『中山世鑑』([[1650年]]編)を[[1701年]]に[[蔡鐸]]が改訂した「蔡鐸本」と、さらに蔡鐸本を[[蔡温]]が[[1725年]]に改訂した「蔡温本」の2種が存在する<ref name="asato-1">安里(2006年)、p.1</ref>。}}によれば、彼の神名・神号を「尊敦(そんとん)」としているが、『[[中山世鑑]]』は、「舜天尊敦」とだけ記されている<ref name="seikan-50-ref2">「注釈 2」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.50</ref>。「舜天(しゅんてん)」は、「尊敦(そんとん)」から転訛したものではないかと思われるが<ref name="yonami-13"/>、これらの名前は「小樽(シュタル)」という[[幼名]]から由来しているとも考えられる<ref name="yonami-14">与並(2005年)、p.14</ref>。[[東恩納寛惇]]は、「尊敦(スントゥン)」と「舜天(シュンティン、スンティン)」の[[琉球語|方言名]]から、これらは同じ根源をもつ語ではないかと述べている<ref name="ryukyushinpo-442 443">琉球新報社編(1979年)、pp.442 - 443</ref>。また、舜天は「[[首里]]の王」という意味の「首里天(しゅりてん)」からの連想とも言われている<ref name="urasoe-337">池宮正治「舜天」、『浦添市史』(1989年)、p.337</ref>。


== 経歴 ==
『中山世鑑』や『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、『[[椿説弓張月]]』などでは、舜天は[[保元の乱]]で日本を追われた[[源為朝]]の子であるという。保元の乱で為朝は[[伊豆国|伊豆]]に[[流刑]]となったが、その途上、船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。『中山世鑑』における記述では為朝が上陸した地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。尊敦は15歳で浦添按司となり、天孫氏25世の在位で謀反を起こし中山王に就いた利勇を討ち、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となった。これが舜天と伝えられる。この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。これが真実であるとすれば、舜天と[[鎌倉幕府]]を起こした[[源頼朝]]は従兄弟同士ということにもなる。
=== 実在性 ===
舜天の実在を証明する史料は全く残っていない<ref name="okinawa-chu407-shunten"/>。また、彼を祖とする舜天王統に関しても、存在さえ不明であり<ref name="okinawa-chu408-shunten outo">[[高良倉吉]]「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.408</ref>、実在しない伝説上の王統と考えられる<ref name="asato-4">安里(2006年)、p.4</ref>。しかし、[[伊波普猷]]は、『沖縄歴史物語』において、[[1522年]]([[嘉靖]]元年)の「国王頌徳碑(石門之東之碑文)」の碑文より、実在する人物と解し、舜天王統の成立から建立まで約3世紀しか経過しておらず、舜天の事績が伝説化されていたとしても、幾分は伝承されていたと述べた<ref name="OWJC-22">井上秀雄「舜天王統滅亡の考察 -英祖王への禅譲説に対する疑問-」、『沖縄女子短期大学紀要 第4号』(1985年)、p.22</ref>。


=== 出自 ===
『[[球陽]]』所載の伝説によれば、舜天は右鬢に角のような瘤があり、それを隠すために右側に髷を結い、人々もそれに倣ったという。これが琉球人の髪型、[[欹髻]](かたかしら)のはじまりとされる。
[[ファイル:Wadokina.JPG|thumb|[[沖縄県]]糸満市字大里にある「和解森」。伝承によれば、源為朝が渡来した際、大里按司の妹と会った場所といわれる。周辺住民から「[[大和]]為朝の跡」とも呼ばれているが、その由来は不明である<ref name="okinawa-ge1001">嘉手納宗徳「和解森」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.1001</ref>。{{ウィキ座標|26|07|44.36|N|127|41|24.52|E|region:JP|地図|name=和解森(ワドキナー)}}]]


『中山世鑑』<ref name="seikan-41-42">『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.41 - 42</ref>や『中山世譜』<ref name="seifu-53">『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.53</ref>によれば、舜天の父は「鎮西八郎為朝公」、すなわち[[源為朝]]としている。また『中山世譜』は、舜天の[[姓]]を「[[源氏|源(みなもと)]]」としているが<ref name="seifu-53"/>、これは「鎮西八郎為朝公」を父としているからである<ref name="asato etc-61">安里ほか(2004年)、p.61</ref>。もし、これが真実であるならば、舜天と[[源頼朝]]は[[従兄弟]]同士となる<ref name="yonami-25">与並(2005年)、p.25</ref>。『中山世鑑』の為朝伝説は、『[[保元物語]]』を参考にしており、[[1165年]]([[永万]]元年)に為朝が渡った[[鬼が島]]を琉球に置き換えて、舜天の出生につなげている<ref name="seikan-49-50">「総注」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.49 - 50</ref>。与並岳生は、[[景轍玄蘇|玄蘇長老]]の『八島記』や[[伴信友]]の『中外経緯伝』より、源為朝の舅である阿多忠景を舜天の父とする説を唱えている<ref name="yonami-34-44">与並(2005年)、pp.34 - 44</ref>。
[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、[[大正]]11年(1922年)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」。なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。</ref>。

舜天の母は「大里按司の妹」と伝えられる<ref name="seifu-53"/>。ここで、「大里」は東の島添大里([[南城市]][[大里村|大里]])、もしくは西の島尻大里([[糸満市]]字[[高嶺村|大里]])のどちらの地域に比定されるかが問題となる<ref name="seikan-54-ref1">「注釈 1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.54</ref><ref name="yonami-46">与並(2005年)、p.46</ref>。為朝と大里按司の妹が、一目を忍んで会っていたとされる「和解森(わどきな、ワドキナー)<ref name="okinawa-ge1001"/>」は、いずれにも伝承として存在するが、舜天の母とされる墓は[[島添大里城]]近くにしかない<ref name="yonami-46-47">与並(2005年)、pp.46 - 47</ref>。また、[[洪武]]年間(1368年 - 1398年)における中国への使者名に、「大里(ウフザト)」と「島尻(シマジリ)」とあり、さらに、[[1450年]]の『[[海東諸国紀]]』所載の「琉球国図」に「島尻城」と記されていることから、島添大里は「大里」、島尻大里は「島尻」といわれ、大里按司は東の島添大里を支配していたと考えられる<ref name="okinawa-jo387-oozatoaji">嘉手納宗徳「大里按司」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.387</ref>。

『中山世譜』によれば、舜天の誕生した年は「[[乾道 (宋)|乾道]]二年([[1166年]])」とある<ref name="seifu-53"/>。しかし、『中山世鑑』には、舜天の生誕年に関する記述は無く、「[[南宋]][[淳熙]]七年 御年十五歳」から逆算して、『中山世譜』に生誕年を割り出したのではないかと思われる<ref name="seikan-55">「注釈 3」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.55</ref>。前述した与並の説では、舜天の父を阿多忠景とすると、為朝が琉球に到着する前の[[1156年]]頃の生まれであり、『中山世譜』よりも約10年早まるとしている<ref name="yonami-45, 47">与並(2005年)、p.45, 47</ref>。

=== 幼年・青年期 ===
[[ファイル:Makiminato Terabu Cave 01.JPG|thumb|[[テラブガマ|牧港テラブのガマ]]。{{ウィキ座標|26|16|02.2|N|127|43|28.3|E|region:JP|地図|name=牧港テラブのガマ}}]]

為朝は大里按司の妹と通じ合い、誕生した男子を「尊敦(そんとん)」と名付けた<ref name="seikan-51">『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.51</ref>。『中山世鑑』には、為朝は望郷の念に駆られ、妻子とともに故郷へ向けて出港しようとするが、船に女房を乗せると龍神の怒りを買い、遭難してしまうと言われ、為朝は泣く泣く妻子を置いて帰ってしまった、とある<ref name="seikan-51-52">『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.51 - 52</ref>。舜天(尊敦)とその母が、父の帰りを待ちわびたという[[洞窟]](ガマ)が沖縄県[[浦添市]][[牧港]](まきみなと)に所在する<ref name="urasoe-391 392">又吉盛清「テラブのガマ」、『浦添市史』(1989年)、pp.391 - 392</ref>。標高約20[[メートル]]の[[琉球石灰岩]]台地に形成された自然の洞窟で<ref name="rekishi-312jo">「牧港ティランガマ」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.312上段</ref>、「[[テラブガマ|牧港テラブのガマ]]」と呼ばれる<ref>『浦添市 市勢要覧』(2008年)、p.34</ref>。

母親と共に浦添に居住を構えた尊敦は成長し、10歳になる頃には他よりも器量が優れていたという。[[1180年]]([[淳煕]]7年)、15歳で人民から推挙され、[[浦添市|浦添]][[按司]]となった。その頃、首里城で[[天孫氏]]が琉球を治めていたが、臣下の[[利勇]]が、[[毒]]の入った[[酒]]を[[薬]]と偽り、王に飲ませて殺害し、自らを中山王と称した。この出来事を知った尊敦は、利勇を倒すべく、父の形見である[[鎧]]と[[兜]]を着け、[[弓]]と24本の[[矢]]、黄金作りの[[太刀]]を装備し、そして金覆輪の[[鞍]]を置いた鹿毛の[[馬]]に乗り、50余りの騎兵を連れて、[[首里城]]へ出陣した。尊敦率いる軍勢の奇襲により、利勇は戦意を無くし、妻子を刺殺した後、[[切腹]]し自ら命を絶った。[[1187年]](淳煕14年)、尊敦は22歳で中山王として即位した<ref name="seikan-52-54">『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.52 - 54</ref><ref name="yonami-51">与並(2005年)、p.51</ref>。

=== 即位後 ===
[[ファイル:Kokuo Shotoku Hi.jpg|thumb|国王頌徳碑(かたのはなの碑)、沖縄県[[那覇市]]に所在。{{ウィキ座標|26|13|5.54|N|127|43|22.65|E|region:JP|地図|name=国王頌徳碑(かたのはなの碑)}}]]

即位後の舜天の事績に関して、『中山世鑑』における記述は抽象的で、 美辞麗句を並べ立てている<ref name="yonami-64">与並(2005年)、p.64</ref>。舜天の治世を表した「恩光に照らされて」の箇所は、『[[保元物語]]』冒頭部の[[鳥羽天皇]]の統治を表現した部分を引用している<ref name="seikan-50-ref">「総注」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.50</ref>。舜天は、新しく法律を制定し、それに則った政治を行ったとされる<ref name="urasoe-337"/>。また『[[球陽]]』によれば、暦は[[三正|夏正]]を使用したとある<ref name="yonami-66">与並(2005年)、p.66</ref>。

『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き<ref name="seifu-39">『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.39</ref>、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたという<ref name="asato-2">安里(2006年)、p.2</ref>。しかし、舜天王統は[[浦添城]]を居城としていたと伝えられ<ref name="urasoe-225-227">知念勇「浦添グスク」、『浦添市史』(1989年)、pp.225 - 227</ref>、首里に遷都したのは、[[察度王統]]もしくは三山統一後の[[第一尚氏]]王統と思われる<ref name="asato-2-4">安里(2006年)、pp.2 - 4</ref>。

『中山世鑑』によれば、舜天以降、「[[琉球国王|琉球国中山王]]」を継承したとしているが、「琉球国中山王」と[[君主号]]を自称したのは、[[明]]の[[朱元璋]]から招来を受けた[[察度]]が始まりとされ、次代の[[武寧]]以降から、明より「琉球国中山王」として[[冊封]]を受けた<ref name="seikan-10-ref1">「注釈1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.10</ref><ref name="seikan-12-ref1">「注釈1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12</ref>。『中山世鑑』などの琉球の正史は、初代の王を舜天としており<ref name="asato etc-60">安里ほか(2004年)、p.60</ref>、『中山世鑑』成立前の1522年(嘉靖元年)の「国王頌徳碑(石門之東之碑文)」と、[[1543年]](嘉靖23年)の「国王頌徳碑(かたのはなの碑)」から、王国内で舜天が初代の琉球国王として認識されていたと考えられる<ref name="seikan-12-ref3">「注釈3」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12</ref>。しかし、舜天が統治していたとされる頃は小規模の[[グスク]]が各地に点在し、[[沖縄本島]]全域を支配した人物は存在しなかったとされ<ref name="urasoe-338">池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.338</ref>、浦添という一地域を統治していただけに過ぎないとも言われている<ref name="okinawa-chu407-shunten"/>。

舜天は生まれつき、頭の右上に[[こぶ]]があり、それを隠すために、右寄りに髪を結っていたとされ、即位後に人民もそれに倣って[[欹髻]](かたかしら)を結ったという<ref name="urasoe-337"/>。これが、琉球における[[男性]]の[[髪型]]で、[[古琉球]]の頃(少なくとも[[15世紀]]頃)までは、側頭部に髪を結っていたが、その後は頭頂部へと位置が変化した<ref name="yonami-50-51">与並(2005年)、pp.50 - 51</ref>。

[[1237年]]([[嘉煕]]元年)、在位51年にして72歳で死去し、世子の[[舜馬順煕]]が即位した<ref name="seikan-54">『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.54</ref>。『中山世譜』によれば、[[王妃|妃]]は不伝とある<ref name="seifu-53"/>。後世に尊称として「舜天」という諡号が与えられた<ref name="higashionna-28">東恩納(1966年)、p.28</ref>。
{{-}}
== 琉球における為朝伝説 ==
琉球の為朝伝説に関する記述で最も古い文献は、[[1572年]]の[[月舟寿桂]]が著した『幻雲文集』とされる<ref name="yonami-26">与並(2005年)、p.26</ref><ref name="urasoe-377">池宮正治「為朝伝説」、『浦添市史』(1989年)、p.377</ref>{{Refnest|group=注|東恩納寛惇によれば、[[1605年]]([[慶長]]10年)の[[袋中]]著『[[琉球神道記]]』を初出としている<ref name="higashionna-25">東恩納(1966年)、p.25</ref>。}}。薩摩侵入後の1650年に書かれた、琉球王国の正史・『中山世鑑』に為朝伝説が見受けられ、琉球の王統が清和源氏の系譜に連なるものとし、また[[薩摩藩]]主・[[島津氏]]と同じく、源氏の流れを汲むと記している<ref name="yonami-23-25">与並(2005年)、pp.23 - 25</ref>。『中山世鑑』の編集者である[[羽地朝秀]]は、いわゆる「[[日琉同祖論]]」を唱え、舜天と為朝伝説を合わせた人物であり、島津氏が「源氏」を称していることから、それにへつらった羽地の創作であると考えられ<ref name="asato etc-61"/>、歴史学者の多くが為朝伝説の信憑性について否定的な見解を示している<ref name="yonami-23">与並(2005年)、p.23</ref>。『中山世鑑』の為朝伝説は、『[[保元物語]]』を基にしているが<ref name="seikan-49">「総注」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.49</ref>、東恩納寛惇は、『保元物語』が史実だとしても、どれほどの信頼性があるものか疑わしく、それを確かめる術はないとしている<ref name="higashionna-25"/>。その後、[[新井白石]]の『南島志』や[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』に、為朝伝説が取り入れられ<ref name="yonami-28">与並(2005年)、p.28</ref>、琉球処分後の[[1922年]]([[大正]]11年)、為朝の上陸地とされる[[運天港]]に、[[東郷平八郎]]の[[揮毫]]による[[石碑]]「源為朝公上陸之跡」({{ウィキ座標|26|40|57.6|N|128|00|11.6|E|region:JP|地図|name=源為朝公上陸之跡}})が建立した<ref name="yonami-25"/>。

沖縄県[[国頭郡]][[今帰仁村]]の運天(うんてん)という地名があるが、為朝が「運を天に任せて」上陸した場所と言い伝えられ、「運天」となったとされ、また、琉球を離れた為朝を舜天とその母が帰りを待ちわびたとされる浦添市の牧港(まきみなと)は、「待ちみなと」に由来しているといわれている<ref name="hiraiwa-183">高野澄「弓張月ゆかりの旅」、平岩(1981年)、p.183</ref>。しかし、古くから「運天」は「くもけな(雲慶名)」から、「牧港」は「まひなと(真比港)」から転訛した地名であって、為朝伝説による地名由来説は後世に付けられたものである<ref name="higashionna-27">東恩納(1966年)、p.27</ref>。

== 『椿説弓張月』にみる舜天 ==
{{multiple image
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| footer = 左右とも、画・[[葛飾北斎]]<ref name="hiraiwa-187">平岩(1981年)、p.187</ref>。<br/>(左)舜天丸は中山王として即位し、舜天王と称した<ref name="hiraiwa-155">平岩(1981年)、p.155</ref>。<br/>(右)画像中央やや左に、島烏を射抜く舜天丸、そして右に為朝、左下に紀平治がいる<ref name="hiraiwa-143">平岩(1981年)、p.143</ref>。
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| image1 = Chinsetsu Yumiharizuki 28-6 the enthronement of Sutemaru Cropped.jpg
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| image2 = Chinsetsu Yumiharizuki - Sutemaru shooting down a bird in flight.jpg
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}}

[[曲亭馬琴]]は家族とともに、琉球使節団の行列([[江戸上り]])を見学した<ref name="asato etc-142">安里ほか(2004年)、p.142</ref>。これを機に、『椿説弓張月』は、『保元物語』に登場する源為朝を主人公とし<ref name="hiraiwa-12">平岩(1981年)、p.12</ref>、[[保元の乱]]で[[伊豆大島]]へ流刑となった為朝が琉球へ渡来したという伝説を構想にして書き上げた作品である<ref name="hiraiwa-168">柴田光彦「曲亭馬琴と『椿説弓張月』」、平岩(1981年)、p.168</ref>。また、『[[水滸伝]]』の[[李俊]]が[[暹羅]]に渡り国王になったという話を為朝に置き換えて作られ、その子供・舜天丸(すてまる)が国王として琉球を治めるという内容を含んでいる<ref name="hiraiwa-168"/>。馬琴は琉球について、[[徐葆光]]の『中山伝信録』と[[森島中良]]の『琉球談』などを参考にして解説し<ref name="hiraiwa-72">平岩(1981年)、p.72</ref>、当時の日本人にとって、異国情緒のある琉球を舞台に仕上げている<ref name="hiraiwa-12"/>。

源為朝と白縫(しらぬい)の間に生まれた舜天丸(すてまる)は、為朝の臣下・紀平治(きへいじ)によって育てられた<ref name="hiraiwa-184 sutemaru">椿説弓張月主要人物小事典「舜天丸」、平岩(1981年)、p.184</ref>。舜天丸に武芸や文字を教えたところ、10歳で紀平治よりも全てにおいて優れた若者となった<ref name="hiraiwa-83-85">平岩(1981年)、pp.83 - 85</ref>。その頃、琉球の国王の側近・利勇が実権を握り、政治をほしいままにしていたので、国は乱れ、衰退していた<ref name="hiraiwa-85">平岩(1981年)、p.85</ref>。しかし、曚雲(もううん)という妖怪が、国王を殺害し、また利勇も討たれたので、曚雲法君(もううんほうくん)と名乗り、琉球を支配した<ref name="hiraiwa-185 mouun-riyuu">椿説弓張月主要人物小事典「曚雲」・「利勇」、平岩(1981年)、p.184</ref>。その後、舜天丸は曚雲を倒し<ref name="hiraiwa-184 sutemaru"/>、[[文治]]3年(1187年)[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]に、中山王の位を授かり、舜天王(しゅんてんおう)と称した<ref name="hiraiwa-155"/>。彼は善政を行い、琉球は治世安楽となり、国民は繁盛したという<ref name="hiraiwa-155"/>。
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沖縄県[[中頭郡]][[北中城村]]の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)で、さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕の二人の王を葬ったとされる[[コンクリート]]製の墓が存在する。また、伝承によれば、[[義本]]も葬られているとされ、「ナスの御嶽」は「義本王の墓」とも呼ばれている<ref name="kitanakagusuku-11">「仲順の文化財 ナスの御嶽」、『北中城村の文化財』(1990年)、p.11</ref>。

同県南城市字大里の南風原地区に所在する「食栄森(いいむい)御嶽」に、舜天を葬ったとされる墓がある<ref name="iimui-67,87">『食榮森』(2010年)、p.67, 87</ref>。御嶽の基壇の中央に、頂上に[[宝珠]]のついた円筒形の墓があり、周辺住民はこれを「ボーントゥー墓」と呼んでいる<ref name="iimui-87">『食榮森』(2010年)、p. 87</ref>。戦前まで、毎年[[中城御殿]]の使者も、この墓に拝みに来ていたという<ref name="iimui-87, 88">『食榮森』(2010年)、pp. 87 - 88</ref>。[[沖縄戦]]終結直後に、修理をかねて墓の中を調査したところ、[[人骨]]と[[水晶]]、[[銅鏡]]を発見している<ref name="iimui-88">『食榮森』(2010年)、p. 88</ref>。

[[崇元寺]]に、舜天から[[尚泰王]]までの歴代琉球国王の[[位牌]]が祀られていたが、沖縄戦により建物は焼失した<ref name="asato etc-62">安里ほか(2004年)、p.62</ref>。浦添城東端部に位置する「為朝岩(ためともいわ)」と呼ばれる岩は、舜天と[[英祖 (琉球国王)|英祖]]の子息を祀った[[拝所]]となっている<ref name="urasoe-376">又吉盛清「為朝岩」、『浦添市史』(1989年)、p.376</ref>。

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 安里進 『琉球の王権とグスク』 [[山川出版社]]〈日本史リブレット 42〉、2006年12月20日。ISBN 4-634-54420-2
{{reflist}}
* 安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日。ISBN 4-634-32470-9
* [[浦添市]]史編集委員会編 『浦添市史 第一巻 通史編 <small>浦添のあゆみ</small>』 浦添市教育委員会、1989年3月29日。
* 浦添市企画部国際交流課広報広聴係編 『浦添市 市勢要覧 2008』 浦添市、2008年2月。
* [[沖縄女子短期大学]]紀要編集委員会編 『沖縄女子短期大学紀要 第4号』 沖縄女子短期大学、1985年3月。
* 沖縄大百科事典刊行事務局編 『[[都道府県別百科事典|沖縄大百科事典]]』 [[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]、1983年5月30日。{{全国書誌番号|84009086}}
* [[北中城村]]教育委員会社会教育課編 『北中城村の文化財 北中城村文化財調査報告書第1集』 北中城村教育委員会、1990年3月。
* [[蔡鐸]]著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜 <small>現代語訳</small>』 [[榕樹書林]]〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
* 首里王府([[羽地朝秀]] 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』 榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
* 南風原地区集落地域整備事業推進委員会編 『食榮森 <small>南風原地区集落地域整備統合事業完了記念誌</small>』 南城市南風原区自治会、2010年9月30日。
* [[東恩納寛惇]] 『琉球の歴史』 [[至文堂]]〈日本歴史新書 増補版〉、1966年11月10日。
* [[平岩弓枝]] 『[[椿説弓張月]]』 [[学研]]〈現代語訳 日本の古典20〉、1981年4月20日。
* 平凡社地方資料センター編 『[[日本歴史地名大系]]第四八巻 沖縄県の地名』 [[平凡社]]、2002年12月10日。ISBN 4-582-49048-4
* 与並岳生 『新琉球王統史 1 舜天 / 英祖』 新星出版、2005年10月1日。ISBN 4-902193-20-5
* [[琉球新報|琉球新報社]]編 『[[東恩納寛惇]]全集 6』 [[第一書房]]、1979年12月10日(1993年7月25日再販)。ISBN 4-8042-0056-8


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[琉球国王の一覧]]
{{座標一覧}}
* [[沖縄県の歴史]]
{{琉球国王}}
* [[グスク時代]]
* [[琉球王国]]

== 外部リンク ==
* [http://www.urasoenavi.jp/tokushu/2015101800013/ 舜天・英祖・察度 「浦添三大王統」ゆかりの地を訪ねる] - うらそえナビ(浦添市観光振興課)
* [http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch2/toitu_5.html 古琉球 / 統一王朝の成立 為朝伝説] - 琉球文化アーカイブ(沖縄県立総合教育センター)
* [http://www.vill.kitanakagusuku.lg.jp/site/view/contview.jsp?cateid=6&id=127&page=1 ナスの御嶽] - 北中城村ホームページ


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2017年10月29日 (日) 07:08時点における版

舜天
琉球国中山王
在位 1187年 - 1237年

神号 尊敦
居城 浦添城
出生 1166年
死去 1237年
王世子 舜馬順煕
配偶者 不伝
王朝 舜天王統
父親 源為朝 ?
母親 大里按司の妹 ?
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舜天(しゅんてん、1166年乾道2年) - 1237年嘉煕元年))は、舜天王統の開祖とされる人物で、琉球の正史では初代琉球国王と位置づけられている。在位51年(1187年淳煕14年) - 1237年(嘉煕元年))。神号は尊敦(そんとん)。

琉球に渡った源為朝を父とする出自伝説をもつが、舜天、さらに彼を含む王統に関しても、実在を証明する史料はなく、伝説上の人物と考えられる。舜天は15歳で浦添按司となり、その後、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる。ただし、国王といっても、琉球全土を支配していなかったと言われている。

72歳で死去し、世子の舜馬順煕が王位を継いだ。「舜天」という名は、死後に付けられた諡号ではないかと考えられている。

名前

「舜天(しゅんてん[1])」の「舜」は、中国神話に現れる聖天子・(しゅん)から因んだものとされ、「天」は人徳の高さや偉大さを意味する[2]。舜天をはじめとする舜天王統3代の名前は、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球の人名の漢字かな表記とは特殊で、後世になって付けられた(おくりな)ではないかと思われる[3]。また、『中山世譜[注 1]によれば、彼の神名・神号を「尊敦(そんとん)」としているが、『中山世鑑』は、「舜天尊敦」とだけ記されている[5]。「舜天(しゅんてん)」は、「尊敦(そんとん)」から転訛したものではないかと思われるが[2]、これらの名前は「小樽(シュタル)」という幼名から由来しているとも考えられる[6]東恩納寛惇は、「尊敦(スントゥン)」と「舜天(シュンティン、スンティン)」の方言名から、これらは同じ根源をもつ語ではないかと述べている[7]。また、舜天は「首里の王」という意味の「首里天(しゅりてん)」からの連想とも言われている[8]

経歴

実在性

舜天の実在を証明する史料は全く残っていない[1]。また、彼を祖とする舜天王統に関しても、存在さえ不明であり[9]、実在しない伝説上の王統と考えられる[10]。しかし、伊波普猷は、『沖縄歴史物語』において、1522年嘉靖元年)の「国王頌徳碑(石門之東之碑文)」の碑文より、実在する人物と解し、舜天王統の成立から建立まで約3世紀しか経過しておらず、舜天の事績が伝説化されていたとしても、幾分は伝承されていたと述べた[11]

出自

沖縄県糸満市字大里にある「和解森」。伝承によれば、源為朝が渡来した際、大里按司の妹と会った場所といわれる。周辺住民から「大和為朝の跡」とも呼ばれているが、その由来は不明である[12]北緯26度07分44.36秒 東経127度41分24.52秒

『中山世鑑』[13]や『中山世譜』[14]によれば、舜天の父は「鎮西八郎為朝公」、すなわち源為朝としている。また『中山世譜』は、舜天のを「源(みなもと)」としているが[14]、これは「鎮西八郎為朝公」を父としているからである[15]。もし、これが真実であるならば、舜天と源頼朝従兄弟同士となる[16]。『中山世鑑』の為朝伝説は、『保元物語』を参考にしており、1165年永万元年)に為朝が渡った鬼が島を琉球に置き換えて、舜天の出生につなげている[17]。与並岳生は、玄蘇長老の『八島記』や伴信友の『中外経緯伝』より、源為朝の舅である阿多忠景を舜天の父とする説を唱えている[18]

舜天の母は「大里按司の妹」と伝えられる[14]。ここで、「大里」は東の島添大里(南城市大里)、もしくは西の島尻大里(糸満市大里)のどちらの地域に比定されるかが問題となる[19][20]。為朝と大里按司の妹が、一目を忍んで会っていたとされる「和解森(わどきな、ワドキナー)[12]」は、いずれにも伝承として存在するが、舜天の母とされる墓は島添大里城近くにしかない[21]。また、洪武年間(1368年 - 1398年)における中国への使者名に、「大里(ウフザト)」と「島尻(シマジリ)」とあり、さらに、1450年の『海東諸国紀』所載の「琉球国図」に「島尻城」と記されていることから、島添大里は「大里」、島尻大里は「島尻」といわれ、大里按司は東の島添大里を支配していたと考えられる[22]

『中山世譜』によれば、舜天の誕生した年は「乾道二年(1166年)」とある[14]。しかし、『中山世鑑』には、舜天の生誕年に関する記述は無く、「南宋淳熙七年 御年十五歳」から逆算して、『中山世譜』に生誕年を割り出したのではないかと思われる[23]。前述した与並の説では、舜天の父を阿多忠景とすると、為朝が琉球に到着する前の1156年頃の生まれであり、『中山世譜』よりも約10年早まるとしている[24]

幼年・青年期

牧港テラブのガマ北緯26度16分02.2秒 東経127度43分28.3秒

為朝は大里按司の妹と通じ合い、誕生した男子を「尊敦(そんとん)」と名付けた[25]。『中山世鑑』には、為朝は望郷の念に駆られ、妻子とともに故郷へ向けて出港しようとするが、船に女房を乗せると龍神の怒りを買い、遭難してしまうと言われ、為朝は泣く泣く妻子を置いて帰ってしまった、とある[26]。舜天(尊敦)とその母が、父の帰りを待ちわびたという洞窟(ガマ)が沖縄県浦添市牧港(まきみなと)に所在する[27]。標高約20メートル琉球石灰岩台地に形成された自然の洞窟で[28]、「牧港テラブのガマ」と呼ばれる[29]

母親と共に浦添に居住を構えた尊敦は成長し、10歳になる頃には他よりも器量が優れていたという。1180年淳煕7年)、15歳で人民から推挙され、浦添按司となった。その頃、首里城で天孫氏が琉球を治めていたが、臣下の利勇が、の入ったと偽り、王に飲ませて殺害し、自らを中山王と称した。この出来事を知った尊敦は、利勇を倒すべく、父の形見であるを着け、と24本の、黄金作りの太刀を装備し、そして金覆輪のを置いた鹿毛のに乗り、50余りの騎兵を連れて、首里城へ出陣した。尊敦率いる軍勢の奇襲により、利勇は戦意を無くし、妻子を刺殺した後、切腹し自ら命を絶った。1187年(淳煕14年)、尊敦は22歳で中山王として即位した[30][31]

即位後

国王頌徳碑(かたのはなの碑)、沖縄県那覇市に所在。北緯26度13分5.54秒 東経127度43分22.65秒

即位後の舜天の事績に関して、『中山世鑑』における記述は抽象的で、 美辞麗句を並べ立てている[32]。舜天の治世を表した「恩光に照らされて」の箇所は、『保元物語』冒頭部の鳥羽天皇の統治を表現した部分を引用している[33]。舜天は、新しく法律を制定し、それに則った政治を行ったとされる[8]。また『球陽』によれば、暦は夏正を使用したとある[34]

『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き[35]、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたという[36]。しかし、舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられ[37]、首里に遷都したのは、察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と思われる[38]

『中山世鑑』によれば、舜天以降、「琉球国中山王」を継承したとしているが、「琉球国中山王」と君主号を自称したのは、朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ、次代の武寧以降から、明より「琉球国中山王」として冊封を受けた[39][40]。『中山世鑑』などの琉球の正史は、初代の王を舜天としており[41]、『中山世鑑』成立前の1522年(嘉靖元年)の「国王頌徳碑(石門之東之碑文)」と、1543年(嘉靖23年)の「国王頌徳碑(かたのはなの碑)」から、王国内で舜天が初代の琉球国王として認識されていたと考えられる[42]。しかし、舜天が統治していたとされる頃は小規模のグスクが各地に点在し、沖縄本島全域を支配した人物は存在しなかったとされ[43]、浦添という一地域を統治していただけに過ぎないとも言われている[1]

舜天は生まれつき、頭の右上にこぶがあり、それを隠すために、右寄りに髪を結っていたとされ、即位後に人民もそれに倣って欹髻(かたかしら)を結ったという[8]。これが、琉球における男性髪型で、古琉球の頃(少なくとも15世紀頃)までは、側頭部に髪を結っていたが、その後は頭頂部へと位置が変化した[44]

1237年嘉煕元年)、在位51年にして72歳で死去し、世子の舜馬順煕が即位した[45]。『中山世譜』によれば、は不伝とある[14]。後世に尊称として「舜天」という諡号が与えられた[46]

琉球における為朝伝説

琉球の為朝伝説に関する記述で最も古い文献は、1572年月舟寿桂が著した『幻雲文集』とされる[47][48][注 2]。薩摩侵入後の1650年に書かれた、琉球王国の正史・『中山世鑑』に為朝伝説が見受けられ、琉球の王統が清和源氏の系譜に連なるものとし、また薩摩藩主・島津氏と同じく、源氏の流れを汲むと記している[50]。『中山世鑑』の編集者である羽地朝秀は、いわゆる「日琉同祖論」を唱え、舜天と為朝伝説を合わせた人物であり、島津氏が「源氏」を称していることから、それにへつらった羽地の創作であると考えられ[15]、歴史学者の多くが為朝伝説の信憑性について否定的な見解を示している[51]。『中山世鑑』の為朝伝説は、『保元物語』を基にしているが[52]、東恩納寛惇は、『保元物語』が史実だとしても、どれほどの信頼性があるものか疑わしく、それを確かめる術はないとしている[49]。その後、新井白石の『南島志』や曲亭馬琴の『椿説弓張月』に、為朝伝説が取り入れられ[53]、琉球処分後の1922年大正11年)、為朝の上陸地とされる運天港に、東郷平八郎揮毫による石碑「源為朝公上陸之跡」(北緯26度40分57.6秒 東経128度00分11.6秒)が建立した[16]

沖縄県国頭郡今帰仁村の運天(うんてん)という地名があるが、為朝が「運を天に任せて」上陸した場所と言い伝えられ、「運天」となったとされ、また、琉球を離れた為朝を舜天とその母が帰りを待ちわびたとされる浦添市の牧港(まきみなと)は、「待ちみなと」に由来しているといわれている[54]。しかし、古くから「運天」は「くもけな(雲慶名)」から、「牧港」は「まひなと(真比港)」から転訛した地名であって、為朝伝説による地名由来説は後世に付けられたものである[55]

『椿説弓張月』にみる舜天

左右とも、画・葛飾北斎[56]
(左)舜天丸は中山王として即位し、舜天王と称した[57]
(右)画像中央やや左に、島烏を射抜く舜天丸、そして右に為朝、左下に紀平治がいる[58]

曲亭馬琴は家族とともに、琉球使節団の行列(江戸上り)を見学した[59]。これを機に、『椿説弓張月』は、『保元物語』に登場する源為朝を主人公とし[60]保元の乱伊豆大島へ流刑となった為朝が琉球へ渡来したという伝説を構想にして書き上げた作品である[61]。また、『水滸伝』の李俊暹羅に渡り国王になったという話を為朝に置き換えて作られ、その子供・舜天丸(すてまる)が国王として琉球を治めるという内容を含んでいる[61]。馬琴は琉球について、徐葆光の『中山伝信録』と森島中良の『琉球談』などを参考にして解説し[62]、当時の日本人にとって、異国情緒のある琉球を舞台に仕上げている[60]

源為朝と白縫(しらぬい)の間に生まれた舜天丸(すてまる)は、為朝の臣下・紀平治(きへいじ)によって育てられた[63]。舜天丸に武芸や文字を教えたところ、10歳で紀平治よりも全てにおいて優れた若者となった[64]。その頃、琉球の国王の側近・利勇が実権を握り、政治をほしいままにしていたので、国は乱れ、衰退していた[65]。しかし、曚雲(もううん)という妖怪が、国王を殺害し、また利勇も討たれたので、曚雲法君(もううんほうくん)と名乗り、琉球を支配した[66]。その後、舜天丸は曚雲を倒し[63]文治3年(1187年)12月15日に、中山王の位を授かり、舜天王(しゅんてんおう)と称した[57]。彼は善政を行い、琉球は治世安楽となり、国民は繁盛したという[57]

陵墓

ナスの御嶽。奥に舜天王統三代の王を葬ったとされる墓がある。北緯26度18分17.96秒 東経127度47分50.66秒
食栄森御嶽。中央が舜天を葬ったとされる墓。北緯26度11分09.04秒 東経127度45分24.6秒

沖縄県中頭郡北中城村の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる御嶽がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)で、さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕の二人の王を葬ったとされるコンクリート製の墓が存在する。また、伝承によれば、義本も葬られているとされ、「ナスの御嶽」は「義本王の墓」とも呼ばれている[67]

同県南城市字大里の南風原地区に所在する「食栄森(いいむい)御嶽」に、舜天を葬ったとされる墓がある[68]。御嶽の基壇の中央に、頂上に宝珠のついた円筒形の墓があり、周辺住民はこれを「ボーントゥー墓」と呼んでいる[69]。戦前まで、毎年中城御殿の使者も、この墓に拝みに来ていたという[70]沖縄戦終結直後に、修理をかねて墓の中を調査したところ、人骨水晶銅鏡を発見している[71]

崇元寺に、舜天から尚泰王までの歴代琉球国王の位牌が祀られていたが、沖縄戦により建物は焼失した[72]。浦添城東端部に位置する「為朝岩(ためともいわ)」と呼ばれる岩は、舜天と英祖の子息を祀った拝所となっている[73]

脚注

注釈

  1. ^ 『中山世譜』は、『中山世鑑』(1650年編)を1701年蔡鐸が改訂した「蔡鐸本」と、さらに蔡鐸本を蔡温1725年に改訂した「蔡温本」の2種が存在する[4]
  2. ^ 東恩納寛惇によれば、1605年慶長10年)の袋中著『琉球神道記』を初出としている[49]

出典

  1. ^ a b c 高良倉吉「舜天」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.407
  2. ^ a b 与並(2005年)、p.13
  3. ^ 安里ほか(2004年)、p.63
  4. ^ 安里(2006年)、p.1
  5. ^ 「注釈 2」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.50
  6. ^ 与並(2005年)、p.14
  7. ^ 琉球新報社編(1979年)、pp.442 - 443
  8. ^ a b c 池宮正治「舜天」、『浦添市史』(1989年)、p.337
  9. ^ 高良倉吉「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.408
  10. ^ 安里(2006年)、p.4
  11. ^ 井上秀雄「舜天王統滅亡の考察 -英祖王への禅譲説に対する疑問-」、『沖縄女子短期大学紀要 第4号』(1985年)、p.22
  12. ^ a b 嘉手納宗徳「和解森」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.1001
  13. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.41 - 42
  14. ^ a b c d e 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.53
  15. ^ a b 安里ほか(2004年)、p.61
  16. ^ a b 与並(2005年)、p.25
  17. ^ 「総注」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.49 - 50
  18. ^ 与並(2005年)、pp.34 - 44
  19. ^ 「注釈 1」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.54
  20. ^ 与並(2005年)、p.46
  21. ^ 与並(2005年)、pp.46 - 47
  22. ^ 嘉手納宗徳「大里按司」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.387
  23. ^ 「注釈 3」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.55
  24. ^ 与並(2005年)、p.45, 47
  25. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.51
  26. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.51 - 52
  27. ^ 又吉盛清「テラブのガマ」、『浦添市史』(1989年)、pp.391 - 392
  28. ^ 「牧港ティランガマ」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.312上段
  29. ^ 『浦添市 市勢要覧』(2008年)、p.34
  30. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.52 - 54
  31. ^ 与並(2005年)、p.51
  32. ^ 与並(2005年)、p.64
  33. ^ 「総注」、『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.50
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参考文献

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  • 蔡鐸著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳榕樹書林〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
  • 首里王府(羽地朝秀 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』 榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
  • 南風原地区集落地域整備事業推進委員会編 『食榮森 南風原地区集落地域整備統合事業完了記念誌』 南城市南風原区自治会、2010年9月30日。
  • 東恩納寛惇 『琉球の歴史』 至文堂〈日本歴史新書 増補版〉、1966年11月10日。
  • 平岩弓枝椿説弓張月学研〈現代語訳 日本の古典20〉、1981年4月20日。
  • 平凡社地方資料センター編 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 平凡社、2002年12月10日。ISBN 4-582-49048-4
  • 与並岳生 『新琉球王統史 1 舜天 / 英祖』 新星出版、2005年10月1日。ISBN 4-902193-20-5
  • 琉球新報社編 『東恩納寛惇全集 6』 第一書房、1979年12月10日(1993年7月25日再販)。ISBN 4-8042-0056-8

関連項目

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外部リンク