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{{サッカー選手
{{サッカー選手
| 名前 = デメトリオ・アルベルティーニ
|名前 = デメトリオ・アルベルティーニ
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| 本名 =
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| 愛称 = コンダクター、デミー<br />プレーテ(司祭)、メトロノーム
|愛称=コンダクター、デミー<br />プレーテ(司祭)、メトロノーム
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| 身長 = 180cm
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| 利き足 = 右足
|利き足=右足
| 年1 = 1988-1990 | クラブ1 = {{flagicon|ITA}} [[ACミラン]]
|ユース年1=1985-1988|ユースクラブ1={{flagicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]
| 出場1 = 2 | 得点1 = 0
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| 年2 = 1990-1991 | クラブ2 = {{flagicon|ITA}} [[カルチョ・パドヴァ|パドヴァ]]
|年2=1990-1991|クラブ2={{flagicon|ITA}} [[カルチョ・パドヴァ|パドヴァ]]|出場2=28|得点2=5
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| 出場2 = 28 | 得点2 = 5
| 3 = 1991-2002 | クラブ3 = {{flagicon|ITA}} [[ACミラン]]
|年4=2002-2003|クラブ4={{flagicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]|出場4=28|得点4=2
|年5=2003-2004|クラブ5={{flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]|出場5=23|得点5=2
| 出場3 = 293 | 得点3 = 21
| 4 = 2002-2003 | クラブ4 = {{flagicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]
|年6=2004 |クラブ6={{flagicon|ITA}} [[アタランタBC|アタランタ]]|出場6=14|得点6=1
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|代表年1=1989 |代表1={{ITAf}} U-18|代表出場1=7|代表得点1 = 0
| 年5 = 2003-2004 | クラブ5 = {{flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]
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|代表年2=1990-1992|代表2={{ITAf}} U-21|代表出場2=17|代表得点2=0
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| 年6 = 2004 | クラブ6 = {{flagicon|ITA}} [[アタランタBC|アタランタ]]
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| 年7 = 2005 | クラブ7 = {{flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]
| 出場7 = 5 | 得点7 = 0
| totalcaps = 393 | totalgoals = 31
| 代表年1 = 1991-2002
| 代表1 = {{ITA}}
| 代表出場1 = 79 | 代表得点1 = 3
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| 監督チーム1 =
| クラブ成績更新日 = 2016年9月4日
| 代表成績更新日 = 2016年9月4日
}}
}}
'''デメトリオ・アルベルティーニ'''(Demetrio Albertini, [[1971年]][[8月23日]]-)は[[イタリア]]の元[[サッカー|サッカー選手]]。[[サッカーのポジション|ポジション]]は[[ミッドフィールダー|MF]]([[ミッドフィールダー|レジスタ]])。2005年12月引退。2006年7月に[[イタリアサッカー連盟]](FIGC)副会長に就任した。


'''デメトリオ・アルベルティーニ'''(Demetrio Albertini, [[1971年]][[8月23日]]-)は[[イタリア]]・[[ロンバルディア州]]出身の元[[サッカーイタリア代表|同国代表]][[サッカー選手]]。[[サッカーのポジション|ポジション]]は[[ミッドフィールダー|MF]]([[ミッドフィールダー|レジスタ]])。1990年代の[[ACミラン]]とイタリア代表のレギュラーを務め<ref name=espn.co.uk>{{cite web|url=http://espnfc.com/news/story?id=361831&amp;cc=5739&src=mobile&cc=5739|title=AC Milan bid farewell to legend Albertini|publisher=ESPN FC|accessdate=4 August 2013}}</ref>、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]制覇と2度の[[UEFAチャンピオンズリーグ]]など、多くのタイトルを獲得した。また、キャリア終盤にはスペインの[[FCバルセロナ]]に移籍し、最終シーズンには[[リーガ・エスパニョーラ]]を制覇した。
==略歴==
===ACミランでの活躍===
10歳でイタリアの名門[[ACミラン]]の入団テストに合格。[[ジャンニ・リベラ]]の再来と言われ、その類まれなる才能を見出されたアルベルティーニは、わずか17歳5ヶ月で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]デビューを果たすが、当時のミランは[[ルート・フリット]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[フランク・ライカールト]]、[[フランコ・バレージ]]、[[パオロ・マルディーニ]]ら錚々たる顔ぶれが揃い、後にリーグ戦無敗優勝を含む3連覇を達成するほどのチームだったため、出場機会に恵まれず、1990-91シーズン11月に[[カルチョ・パドヴァ|パドヴァ]]にレンタル移籍される。しかし、パドヴァで経験を積んだアルベルティーニは、翌シーズンミランに戻ると、その年から中盤に君臨し、セリエAで3連覇を成し遂げるなど、チーム内で確固たる地位を築いていった。


イタリア代表では、[[FIFAワールドカップ]]と[[UEFA欧州選手権]]にそれぞれ2度出場し、共に1度決勝に進出した。2005年12月引退し、2006年7月に[[イタリアサッカー連盟]](FIGC)副会長に就任した。
その後、ミランでの公式戦出場406試合、(セリエA293試合、[[コッパ・イタリア]]46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)、28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]5得点)の記録を残し、獲得したタイトルは、[[スクデット]]5回、[[イタリア・スーパーカップ]]優勝3回、[[UEFAスーパーカップ]]優勝1回、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]優勝1回にものぼっている。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。


== 経歴 ==
===イタリア代表===
=== クラブチーム ===
[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]でも、94、98年W杯に出場。ユーロも96、00に出場。[[1994 FIFAワールドカップ|94年W杯]]では、サッキ監督がもう1人の守備的MFである[[ディノ・バッジョ]]に対して「アルベルティーニの左10mに平行になるようにいろ」という指示を与えており、わずか22歳にしてサッキ監督から全幅の信頼を得ていたのである。02年W杯はアキレス腱の怪我によりメンバーから漏れる。代表での79キャップ(主将5試合)はイタリア歴代8位という記録である。イタリア代表伝統の[[アルファベット]]順の慣例に従い、[[バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]、ユーロ96で背番号10をつけたこともある。
==== ACミラン ====
[[チェーザレ・マルディーニ]]監督をして「アルベルティーニがくしゃみをするとイタリア代表は風邪をひく」とも言わしめた。アルベルティーニはイタリアの心臓であった。
[[File:Demetrio Albertini Padova.jpg|thumb|thumb|left|200px|[[カルチョ・パドヴァ|パドヴァ]]でプレーするアルベルティーニ。]]
[[モンツァ・エ・ブリアンツァ県]]の[[ベザーナ・イン・ブリアンツァ]]で生まれ、10歳でイタリアの名門[[ACミラン]]の入団テストに合格。1989年1月15日のホームの[[コモ・カルチョ|コモ]]戦で、わずか17歳で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]デビューを果たした。しかしその後は出場機会に恵まれず、1990年から[[セリエB]]の[[カルチョ・パドヴァ|パドヴァ]]にレンタルで移籍した。パドヴァでは28試合に出場して5得点を挙げ、最も有望な若手イタリア人選手に送られるディアドラ賞を獲得した<ref>{{cite web|url=http://www.tifomilan.it/wiki/demetrio_albertini|title=demetrio albertini|language=Italian|accessdate=2014-07-20}}</ref>。その活躍が認められて翌シーズンにミランに復帰すると、その年から中盤のレギュラーの地位を確立した<ref name="AC Milan Hall of Fame: Demetrio Albertini">{{cite web|url=http://www.acmilan.com/it/archive/show_player/Demetrio-Albertini|title=AC Milan Hall of Fame: Demetrio Albertini|website=acmilan.com|language=Italian|accessdate=19 March 2015}}</ref><ref name="Demetrio ALBERTINI: Metronomo">{{cite web|url=http://www.magliarossonera.it/protagonisti/Gioc-Albertini.html|title=Demetrio ALBERTINI: "Metronomo"|website=magliarossonera.it|language=Italian|accessdate=19 March 2015}}</ref>。


[[File:Albertini Milan 1991 1992.jpg|thumb|thumb|left|200px|1991-91シーズンのセリエA優勝を喜ぶアルベルティーニ]]
===選手キャリアの晩年===
アルベルティーニはミランで、1992年からの3連覇を含むセリエAを5度、公式戦出場406試合(セリエA293試合、[[コッパ・イタリア]]46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]5得点)の記録を残し、[[イタリア・スーパーカップ]]を3度、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]と[[UEFAスーパーカップ]]をそれぞれ1度ずつ獲得している<ref name="AC Milan Hall of Fame: Demetrio Albertini"/><ref name="Demetrio ALBERTINI: Metronomo"/>。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。
2002-03シーズン、スペインの名門[[アトレティコ・マドリード]]へ電撃レンタル移籍。アウェーの[[マドリードダービー]]では後半50分に[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]から同点ゴールを叩き込んだ。このゴールは専門誌のベストゴールに選ばれた。その後、2003-04シーズンに[[SSラツィオ|ラツィオ]]、2004-05シーズンに[[アタランタBC|アタランタ]]とクラブを転々とする。


==== ミラン離脱後 ====
2004-05シーズン冬、かつてのチームメイトであるライカールトが指揮をとる[[FCバルセロナ|バルセロナ]]へ移籍したが、怪我もあり、期待された活躍は出来なかった。[[2005年]]夏に契約が満了し、2005年[[12月6日]]に現役引退を発表。引退会見の式場には[[アドリアーノ・ガッリアーニ]]、[[パオロ・マルディーニ]]、[[アレッサンドロ・コスタクルタ]]、[[ジョアン・ラポルタ]]、[[フランク・ライカールト]]、[[マルコ・ファンバステン]]、[[カルレス・プジョル]]など親交の深い人々が駆けつけ、[[2006年]][[3月15日]]に[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サンシーロ]]で引退セレモニーが行われた。現在監督になるための勉強中である。
2002年からは、スペインの強豪[[アトレティコ・マドリード]]に移籍し、28試合に出場して2得点を挙げた。しかし1年後の2003年、[[ジュゼッペ・パンカロ]]がミランへ去った母国イタリアの[[SSラツィオ]]に移籍した<ref>{{cite web|title=Albertini addio al veleno "Milan sei stato ingrato". Parigi vende Ronaldinho|url=http://archiviostorico.corriere.it/2002/luglio/06/Albertini_addio_veleno_Milan_sei_co_0_0207062475.shtml|accessdate=2014-07-20}}</ref>。このシーズン、アルベルティーニは28試合に出場して2得点を挙げ、ラツィオのコッパ・イタリアでの優勝に貢献した。2004年からは[[アタランタBC]]に移籍し14試合に出場した後、2005年、元チームメイトの[[フランク・ライカールト]]が指揮するスペインの名門[[FCバルセロナ]]に移籍<ref name="Demetrio ALBERTINI: Metronomo"/>し、5試合に出場した後に引退した<ref name="Demetrio ALBERTINI: Metronomo"/>。


== 評価 ==
=== 代表 ===
代表では、[[サッカーイタリア代表]]として1991年12月21日にイタリアの[[フォッジャ]]で行われた[[サッカーキプロス代表|キプロス]]戦でデビューし、2-1で勝利を飾った。その後、2002年まで歴代8位の79試合に出場して3得点を挙げた他<ref>{{cite web|url=http://www.figc.it/nazionali/DettaglioConvocato?codiceConvocato=18&squadra=1|title=Nazionale in cifre: Convocazioni e presenze in campo (Albertini, Demetrio)|website=figc.it|publisher=FIGC|language=Italian|accessdate=9 April 2015}}</ref>、6試合でキャプテンを務めた。1992年には[[UEFA U-21欧州選手権1992]]と[[バルセロナオリンピックにおけるサッカー競技|バルセロナオリンピック]]にそれぞれ出場し、U-21欧州選手権ではチームの優勝に貢献した。[[1994 FIFAワールドカップ|1994年]]と[[1998 FIFAワールドカップ|1998年]]のワールドカップ、[[UEFA EURO '96|1996年]]と[[UEFA EURO 2000|2000年]]の[[UEFA欧州選手権]]に出場した。[[2002 FIFAワールドカップ|2002年]]のワールドカップにも出場する予定だったが、直前にイギリスの[[リーズ]]で行われたイングランドとの親善試合で負傷したため、出場できなかった。
ACミランの副会長、[[アドリアーノ・ガッリアーニ]]が、最近20年間のミランで最も素晴らしい4人([[フランコ・バレージ]]、[[アレッサンドロ・コスタクルタ]]、[[パオロ・マルディーニ]]、'''デメトリオ・アルベルティーニ''')の選手の中の1人に挙げている。


==== 1994 FIFAワールドカップ ====
== その他 ==
1994年、アルベルティーニは初のメジャー大会となる[[1994 FIFAワールドカップ]]に出場した。彼は[[ロベルト・ドナドーニ]]や[[ディノ・バッジョ]]らと共に「エンジン・ルーム」と呼ばれる強固な中盤を形成し、グループリーグ第3戦の[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]戦ではマッサーロの決勝ゴールをアシストし、チームのグループリーグ敗退の聞きを救った<ref>{{cite web|author1=Giancarlo Padovan|title=Massaro, nove minuti di felicità|trans_title=Massaro, nine minutes of happiness|url=http://www.storiedicalcio.altervista.org/mondiali_1994_messico.html|publisher=Il Corriere della Sera|accessdate=18 May 2015|language=Italian|date=29 June 1994}}</ref>。また、準決勝の[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]戦では、[[ロバルト・バッジョ]]の決勝ゴールをアシストし、チームを決勝に導いた<ref>{{cite web|author1=Giancarlo Padovan|title=Roby Baggio ci porta in Paradiso|trans_title=Roby Baggio leads us to Paradise|url=http://www.storiedicalcio.altervista.org/mondiali_1994_bulgaria.html|publisher=Il Corriere della Sera|language=Italian|accessdate=1 August 2014|date=14 July 1994}}</ref>。決勝の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では、バランスのとれたプレーでブラジルを無得点に抑えたが、PK戦の末に敗れた<ref>{{cite web|url=http://www.storiedicalcio.altervista.org/mondiali_1994_brasile.html|title=Sconfitti, a testa alta|trans_title=Defeated, with our heads held high|publisher=La Repubblica|language=Italian|author1=Gianni Mura|date=18 July 1994|accessdate=18 May 2015}}</ref><ref>{{cite web|url=http://backofthenetblog.wordpress.com/2012/11/18/even-great-players-can-miss-penalties/|title=Even great players can miss penalties|accessdate=7 January 2016}}</ref>。
少年時代は[[ユヴェントスFC|ユベントス]]のファンであった。


==== UEFA EURO '96 ====
{{Navboxes|title = イタリア代表- 出場大会|titlestyle =background:#0066BC; color:#FFFFFF;
1996年に出場した[[UEFA EURO '96]]では、イタリア代表は準世界チャンピオンとしてドイツと共に本命視され、アルベルティーニは背番号10番を付けていた。しかし、初戦の[[サッカーロシア代表|ロシア]]戦には勝利したものの、2戦目の[[サッカーチェコ代表|チェコ]]との試合で敗れると、3戦目の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦で引き分けたため、グループリーグ敗退が決まった。アルベルティーニ自身も良いプレーができず、大会後のインタビューで、監督の[[アリーゴ・サッキ]]は「このチームは今までで最高のチームだったが、アルベルティーニの復帰を急がせたことはミスだった」と話した<ref>{{cite web|url=http://www.worldsoccer.com/features/interview-with-arrigo-sacchi|title=Interview with Arrigo Sacchi|publisher=World Socer|author=|last=Ferrato|first=Luca|accessdate=2 August 2013}}</ref>。

==== 1998 FIFAワールドカップ ====
1998年、アルベルティーニは[[チェーザレ・マルディーニ]]の下、再び[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]に出場した。チームはベスト8まで進出し、準々決勝では[[ジネディーヌ・ジダン]]が出場停止で不在の[[サッカーフランス代表|フランス]]と対戦したが、PK戦でアルベルティーニはPKを外し、チームは敗れた<ref name="The official website of FIFA">{{cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=1013/results/matches/match=8781/report.html|title=Match Report|publisher=FIFA.com|accessdate=3 August 2013}}</ref>。その後、フランス代表は大会で優勝した。

==== UEFA EURO 2000 ====
2000年、アルベルティーニは[[ディノ・ゾフ]]の下で4度目のメジャー大会である[[UEFA EURO 2000]]に出場した。アルベルティーニは中盤の明確なリーダーと位置付けられ、[[ルイジ・ディ・ビアジョ]]の隣、[[ステファノ・フィオーレ]]や[[フランチェスコ・トッティ]]の後ろでプレーした。彼の攻撃のテンポのコントロールとチャンスの創出、イタリアの中盤を制御する上での創造的な役割は、イタリアにとってとても重要な役割だった<ref>{{cite web|title=Gli Azzurri non sbagliano contro la Romania|url=http://it.uefa.com/uefaeuro/season=2000/matches/round=1459/match=65180/postmatch/report/index.html|accessdate=29 January 2015}}</ref>。アルベルティーニはグループリーグの[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦ではトッティの先制点を<ref>{{cite web|title=L'Italia non si ferma Totti illumina, chiude Fiore|url=http://www.repubblica.it/online/camp_europeo/partita2/partita2/partita2.html|website=repubblica.it|publisher=La Repubblica|accessdate=29 January 2015}}</ref>、準々決勝の[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦では[[フィリッポ・インザーギ]]の2得点目を<ref>{{cite web|title=Gli Azzurri non sbagliano contro la Romania|url=http://it.uefa.com/uefaeuro/season=2000/matches/round=1459/match=65180/postmatch/report/index.html|accessdate=29 January 2015}}</ref>それぞれアシストし、最終的には決勝でフランスに敗れて準優勝に終わった<ref name=goal.com>{{cite web|url=http://www.goal.com/en-india/news/477/euro-2012/2012/06/08/3156243/blast-from-the-past-euro-2000-final-france-2-1-italy|title=Blast from the past: Euro 2000 Final: France-Italy 2-1|publisher=goal.com|author=Abilash Nalapat|date=8 June 2012|accessdate=4 August 2013}}</ref>ものの、チームの中で「創造者」として高い評価を得て<ref>{{cite web|url=http://soccer-europe.com/Archives/EuropeanChampionships/Euro2000/Data/Performers.html|title=Euro 2000 Goals & Assists|website=soccer-europe.com|accessdate=12 January 2015}}</ref>、大会選定のベストチームにも選ばれた。

=== 引退後 ===
2005年12月5日、アルベルティーニは現役引退を表明し、指導者としての道に進む意志があることを伝えた。2006年3月15日には、ACミランの選手とFCバルセロナの選手による引退試合が行われた。試合はアルベルティーニが直接フリーキックを決めたACミランが3-2で勝利した。試合後、アルベルティーニはファンから万雷の拍手を受けた<ref>{{cite web|title=Addio Albertini, vincono le stelle|url=http://www.tgcom24.mediaset.it/sport/articoli/articolo300983.shtml|accessdate=2014-07-20}}</ref>。

2006年には、[[ベルガモ]]の[[セルヴィーノ]]に彼の名前からとったサッカーアカデミー「“スクオーラ・カルチョ・デメトリオ・アルベルティーニ」の創設にも携わった。[[ミラノ]]と[[レッチェ]]で開催された第1回のアカデミーには、1000以上の若い選手達が参加した<ref>{{cite web|title=Scuola Calcio Albertini, buona la prima settimana a Moggio|url=http://www.leccosportweb.it/news.aspx?id=9773&idsport=1&sport=calcio&data=03-08-2011&idstagione=201112&titolo=scuola-calcio-albertini-buona-la-prima-settimana-a-moggio/|website=leccosportweb.it|accessdate=6 April 2015|language=Italian|date=3 August 2011}}</ref>。9月19日

2006年5月18日、イタリアサッカー界の相次ぐスキャンダルによる混乱を防ぐために、アルベルティーニは[[イタリアサッカー連盟]]の副会長に就任した。9月19日に、臨時会長の{{仮リンク|グイド・ロッシ|it|Guido Rossi}}が辞任すると、アルベルティーニも辞任を発表した。その後彼は、会長に就任した[[ジャンカルロ・アベーテ]]によって再び副会長に任命され、2013年に再選された<ref>{{cite web|author1=Chiara Biondini|title=Figc:Tavecchio-Albertini vicepresidenti|url=http://www.tuttomercatoweb.com/altre-notizie/figctavecchio-albertini-vicepresidenti-438052|website=tuttomercatoweb.com|language=Italian|date=5 April 2013|accessdate=2016-11-23}}</ref>。

2016年、アルベルティーニは破産した[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマFC]]の経営面でのサポートを請け負い、2015-16シーズンにセリエBへの降格にとどまるようにするために、新たな受け皿となるスポンサーや選手の確保などの最善策を講じる考えを示していた<ref>{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/soccer/news/20150404/ser15040415300012-n1.html|title=アルベルティーニ氏、パルマ支援に尽力「セリエBからの再出発に全力尽くす」|newspaper=サンケイスポーツ|date=2015-04-04|accessdate=2015-06-23}}</ref>が、6月22日午後2時の締め切り時刻までオファーがなく破産が確定し、パルマFCは消滅した<ref>{{Cite news|url=http://www.footballchannel.jp/2015/06/22/post93994/|title=パルマが破産発表。来季からアマリーグの4部へ|publisher=フットボールチャンネル|date=2015-06-22|accessdate=2015-06-23}}</ref>。しかしその後もアルベルティーニはアドバイザーとして、パルマFCの後身であるSSDパルマ・カルチョ1913に留まり、クラブをサポートする意志を表明した<ref>{{cite web|title=Albertini explains Parma role|url=http://www.football-italia.net/64698/albertini-explains-parma-role|website=football-italia.net|publisher=Football Italia|accessdate=6 April 2015|date=3 April 2015}}</ref>。

また、アルベルティーニは、サッカー指導者の研究者でもあり、サッカー経営シミュレーションゲームのフランチャイズでもある<ref>{{cite web|title=7 things we learned from the Football Manager film|url=http://www.redbull.com/uk/en/games/stories/1331684397299/football-manager-documentary-7-things-we-learned|publisher=Redbull UK|accessdate=12 November 2015|date=13 October 2014}}</ref>。

== 個人成績 ==
=== クラブ ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!rowspan="2"|シーズン
!rowspan="2" width="100"|所属クラブ
!rowspan="2" width="100"|所属リーグ
!colspan="2"|リーグ戦
!colspan="2"|カップ戦
!colspan="2"|ヨーロッパ戦
!colspan="2"|その他
!colspan="2"|合計
|-
!width="40"|出場
!width="40"|得点
!width="40"|出場
!width="40"|得点
!width="40"|出場
!width="40"|得点
!width="40"|出場
!width="40"|得点
!width="40"|得点
!width="40"|Goals
|-
|[[セリエA (サッカー) 1988-1989|1988–89]]||rowspan="3"|[[ACミラン|ミラン]]||rowspan="3"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]
||1||0||-||-||-||-||-||-||1||0
|-
|[[セリエA (サッカー) 1989-1990|1989-90]]
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|[[セリエA (サッカー) 1990-1991|1990-91]]
||-||-||2||0||-||-||-||-||2||0
|-
|[[セリエB (サッカー) 1990-1991|1990-91]]||[[カルチョ・パドヴァ|パトヴァ]]||[[セリエB (サッカー)|セリエB]]
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|-
|[[セリエA (サッカー) 1991-1992|1991-92]]||rowspan="11"|[[ACミラン|ミラン]]||rowspan="11"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]
||28||3||5||0||-||-||-||-||33||3
|-
|[[セリエA (サッカー) 1992-1993|1992-93]]
||29||2||6||0||7||1||1||0||43||3
|-
|[[セリエA (サッカー) 1993-1994|1993-94]]
||26||3||0||0||13||1||2||0||41||4
|-
|[[セリエA (サッカー) 1994-1995|1994-95]]
||30||2||4||0||11||0||2||0||47||2
|-
|[[セリエA (サッカー) 1995-1996|1995-96]]
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|-
|[[セリエA (サッカー) 1997-1998|1997-98]]
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|-
|[[セリエA (サッカー) 1998-1999|1998-99]]
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|-
|[[セリエA (サッカー) 1999-2000|1999-00]]
||26||1||1||0||5||0||1||0||33||1
|-
|[[セリエA (サッカー) 2000-2001|2000-01]]
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|-
|[[セリエA (サッカー) 2001-2002|2001-02]]
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|-
|[[セリエA (サッカー) 2003-2004|2003-04]]||[[SSラツィオ|ラツィオ]]||rowspan="2"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]
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|-
|[[リーガ・エスパニョーラ2004-2005|2004-05]]||[[FCバルセロナ|バルセロナ]]||[[リーガ・エスパニョーラ]]
||5||0||-||-||1||0||-||-||6||0
|-
!colspan="3"|ミランでの通算
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|-
!colspan="3"|キャリア通算
!391!!31!!49!!4!!74!!5!!7!!0!!521!!40
|}

※ヨーロッパ戦は、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]、[[UEFAカップ]]、[[UEFAスーパーカップ]]を含む。

=== 代表 ===
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!colspan=3|[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]<ref>{{cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/albertini-intl.html|title=Demetrio Albertini - International Appearances |publisher=Rsssf.com|accessdate=2016-11-23}}</ref>
|-
!年
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|-
|-
|1991
||1||0
|-
|1992
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|-
|1993
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|-
|1994
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|-
|1995
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|-
|1996
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|-
|1997
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|-
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|-
|1999
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|-
|2000
||11||0
|-
|2001
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|2002
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== タイトル ==
=== クラブ ===
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*[[セリエA (サッカー)|セリエA]](5) :[[セリエA (サッカー) 1991-1992|1991-92]]、[[セリエA (サッカー) 1992-1993|1992-93]]、[[セリエA (サッカー) 1993-1994|1993-94]]、[[セリエA (サッカー) 1995-1996|1995-96]]、[[セリエA (サッカー) 1998-1999|1998-99]]
*[[スーペルコッパ・イタリアーナ]](3) :1992、1993、1994
*[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ/UEFAチャンピオンズリーグ]](2) :[[UEFAチャンピオンズカップ 1989-90|1989-90]], [[UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94|1993-94]]
*[[UEFAスーパーカップ]](2) : 1989、1994
*[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]](1) :1989

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=== 代表 ===
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=== 個人 ===
*[[UEFA EURO 2000]] 大会ベストチーム<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/uefaeuro/finals/history/memories/newsid=1627525.html|title=UEFA Euro 2000 team of the tournament|website=uefa.com|publisher=UEFA|accessdate=31 March 2015|date=1 January 2011}}</ref>
*[[ACミラン]]の殿堂<ref name="AC Milan Hall of Fame: Demetrio Albertini"/>

== 脚注 ==
{{Reflist|25em}}

== 外部リンク ==
*[http://www.figc.it/nazionali/DettaglioConvocato?codiceConvocato=18&squadra=1 デメトリオ・アルベルティーニ] - FIGCによる統計 {{it icon}}
*[http://www.national-football-teams.com/player/11284/Demetrio_Albertini.html デメトリオ・アルベルティーニ] - National-Football-Teamsによる統計 {{en icon}}

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2016年11月23日 (水) 09:55時点における版

デメトリオ・アルベルティーニ
名前
愛称 コンダクター、デミー
プレーテ(司祭)、メトロノーム
ラテン文字 Demetrio Albertini
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1971-08-23) 1971年8月23日(52歳)
出身地 ロンバルディア州の旗 ロンバルディア州ミラノ県
ベザーナ・イン・ブリアンツァ
身長 180cm
体重 77kg
選手情報
ポジション MF(DH, CH)
利き足 右足
ユース
1985-1988 イタリアの旗 ミラン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1990 イタリアの旗 ミラン 2 (0)
1990-1991 イタリアの旗 パドヴァ 28 (5)
1991-2002 イタリアの旗 ミラン 293 (21)
2002-2003 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 28 (2)
2003-2004 イタリアの旗 ラツィオ 23 (2)
2004 イタリアの旗 アタランタ 14 (1)
2005 スペインの旗 バルセロナ 5 (0)
代表歴
1989 イタリアの旗 イタリア U-18 7 (0)
1990-1992 イタリアの旗 イタリア U-21 17 (0)
1992 イタリアの旗 イタリア オリンピック代表 5 (2)
1991-2002 イタリアの旗 イタリア 79 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

デメトリオ・アルベルティーニ(Demetrio Albertini, 1971年8月23日-)はイタリアロンバルディア州出身の元同国代表サッカー選手ポジションMFレジスタ)。1990年代のACミランとイタリア代表のレギュラーを務め[1]セリエA制覇と2度のUEFAチャンピオンズリーグなど、多くのタイトルを獲得した。また、キャリア終盤にはスペインのFCバルセロナに移籍し、最終シーズンにはリーガ・エスパニョーラを制覇した。

イタリア代表では、FIFAワールドカップUEFA欧州選手権にそれぞれ2度出場し、共に1度決勝に進出した。2005年12月引退し、2006年7月にイタリアサッカー連盟(FIGC)副会長に就任した。

経歴

クラブチーム

ACミラン

パドヴァでプレーするアルベルティーニ。

モンツァ・エ・ブリアンツァ県ベザーナ・イン・ブリアンツァで生まれ、10歳でイタリアの名門ACミランの入団テストに合格。1989年1月15日のホームのコモ戦で、わずか17歳でセリエAデビューを果たした。しかしその後は出場機会に恵まれず、1990年からセリエBパドヴァにレンタルで移籍した。パドヴァでは28試合に出場して5得点を挙げ、最も有望な若手イタリア人選手に送られるディアドラ賞を獲得した[2]。その活躍が認められて翌シーズンにミランに復帰すると、その年から中盤のレギュラーの地位を確立した[3][4]

1991-91シーズンのセリエA優勝を喜ぶアルベルティーニ

アルベルティーニはミランで、1992年からの3連覇を含むセリエAを5度、公式戦出場406試合(セリエA293試合、コッパ・イタリア46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、UEFAチャンピオンズリーグ5得点)の記録を残し、イタリア・スーパーカップを3度、UEFAチャンピオンズリーグUEFAスーパーカップをそれぞれ1度ずつ獲得している[3][4]。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。

ミラン離脱後

2002年からは、スペインの強豪アトレティコ・マドリードに移籍し、28試合に出場して2得点を挙げた。しかし1年後の2003年、ジュゼッペ・パンカロがミランへ去った母国イタリアのSSラツィオに移籍した[5]。このシーズン、アルベルティーニは28試合に出場して2得点を挙げ、ラツィオのコッパ・イタリアでの優勝に貢献した。2004年からはアタランタBCに移籍し14試合に出場した後、2005年、元チームメイトのフランク・ライカールトが指揮するスペインの名門FCバルセロナに移籍[4]し、5試合に出場した後に引退した[4]

代表

代表では、サッカーイタリア代表として1991年12月21日にイタリアのフォッジャで行われたキプロス戦でデビューし、2-1で勝利を飾った。その後、2002年まで歴代8位の79試合に出場して3得点を挙げた他[6]、6試合でキャプテンを務めた。1992年にはUEFA U-21欧州選手権1992バルセロナオリンピックにそれぞれ出場し、U-21欧州選手権ではチームの優勝に貢献した。1994年1998年のワールドカップ、1996年2000年UEFA欧州選手権に出場した。2002年のワールドカップにも出場する予定だったが、直前にイギリスのリーズで行われたイングランドとの親善試合で負傷したため、出場できなかった。

1994 FIFAワールドカップ

1994年、アルベルティーニは初のメジャー大会となる1994 FIFAワールドカップに出場した。彼はロベルト・ドナドーニディノ・バッジョらと共に「エンジン・ルーム」と呼ばれる強固な中盤を形成し、グループリーグ第3戦のメキシコ戦ではマッサーロの決勝ゴールをアシストし、チームのグループリーグ敗退の聞きを救った[7]。また、準決勝のブルガリア戦では、ロバルト・バッジョの決勝ゴールをアシストし、チームを決勝に導いた[8]。決勝のブラジル戦では、バランスのとれたプレーでブラジルを無得点に抑えたが、PK戦の末に敗れた[9][10]

UEFA EURO '96

1996年に出場したUEFA EURO '96では、イタリア代表は準世界チャンピオンとしてドイツと共に本命視され、アルベルティーニは背番号10番を付けていた。しかし、初戦のロシア戦には勝利したものの、2戦目のチェコとの試合で敗れると、3戦目のドイツ戦で引き分けたため、グループリーグ敗退が決まった。アルベルティーニ自身も良いプレーができず、大会後のインタビューで、監督のアリーゴ・サッキは「このチームは今までで最高のチームだったが、アルベルティーニの復帰を急がせたことはミスだった」と話した[11]

1998 FIFAワールドカップ

1998年、アルベルティーニはチェーザレ・マルディーニの下、再びワールドカップに出場した。チームはベスト8まで進出し、準々決勝ではジネディーヌ・ジダンが出場停止で不在のフランスと対戦したが、PK戦でアルベルティーニはPKを外し、チームは敗れた[12]。その後、フランス代表は大会で優勝した。

UEFA EURO 2000

2000年、アルベルティーニはディノ・ゾフの下で4度目のメジャー大会であるUEFA EURO 2000に出場した。アルベルティーニは中盤の明確なリーダーと位置付けられ、ルイジ・ディ・ビアジョの隣、ステファノ・フィオーレフランチェスコ・トッティの後ろでプレーした。彼の攻撃のテンポのコントロールとチャンスの創出、イタリアの中盤を制御する上での創造的な役割は、イタリアにとってとても重要な役割だった[13]。アルベルティーニはグループリーグのベルギー戦ではトッティの先制点を[14]、準々決勝のルーマニア戦ではフィリッポ・インザーギの2得点目を[15]それぞれアシストし、最終的には決勝でフランスに敗れて準優勝に終わった[16]ものの、チームの中で「創造者」として高い評価を得て[17]、大会選定のベストチームにも選ばれた。

引退後

2005年12月5日、アルベルティーニは現役引退を表明し、指導者としての道に進む意志があることを伝えた。2006年3月15日には、ACミランの選手とFCバルセロナの選手による引退試合が行われた。試合はアルベルティーニが直接フリーキックを決めたACミランが3-2で勝利した。試合後、アルベルティーニはファンから万雷の拍手を受けた[18]

2006年には、ベルガモセルヴィーノに彼の名前からとったサッカーアカデミー「“スクオーラ・カルチョ・デメトリオ・アルベルティーニ」の創設にも携わった。ミラノレッチェで開催された第1回のアカデミーには、1000以上の若い選手達が参加した[19]。9月19日

2006年5月18日、イタリアサッカー界の相次ぐスキャンダルによる混乱を防ぐために、アルベルティーニはイタリアサッカー連盟の副会長に就任した。9月19日に、臨時会長のグイド・ロッシイタリア語版が辞任すると、アルベルティーニも辞任を発表した。その後彼は、会長に就任したジャンカルロ・アベーテによって再び副会長に任命され、2013年に再選された[20]

2016年、アルベルティーニは破産したパルマFCの経営面でのサポートを請け負い、2015-16シーズンにセリエBへの降格にとどまるようにするために、新たな受け皿となるスポンサーや選手の確保などの最善策を講じる考えを示していた[21]が、6月22日午後2時の締め切り時刻までオファーがなく破産が確定し、パルマFCは消滅した[22]。しかしその後もアルベルティーニはアドバイザーとして、パルマFCの後身であるSSDパルマ・カルチョ1913に留まり、クラブをサポートする意志を表明した[23]

また、アルベルティーニは、サッカー指導者の研究者でもあり、サッカー経営シミュレーションゲームのフランチャイズでもある[24]

個人成績

クラブ

シーズン 所属クラブ 所属リーグ リーグ戦 カップ戦 ヨーロッパ戦 その他 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 得点 Goals
1988–89 ミラン セリエA 1 0 - - - - - - 1 0
1989-90 1 0 - - - - - - 1 0
1990-91 - - 2 0 - - - - 2 0
1990-91 パトヴァ セリエB 28 5 - - - - - - 28 5
1991-92 ミラン セリエA 28 3 5 0 - - - - 33 3
1992-93 29 2 6 0 7 1 1 0 43 3
1993-94 26 3 0 0 13 1 2 0 41 4
1994-95 30 2 4 0 11 0 2 0 47 2
1995-96 30 0 3 0 5 0 - - 38 0
1996-97 29 8 2 0 5 1 1 0 37 9
1997-98 28 0 9 2 - - - - 37 2
1998-99 29 2 3 0 - - - - 32 2
1999-00 26 1 1 0 5 0 1 0 33 1
2000-01 12 0 2 0 11 2 - - 25 2
2001-02 24 0 4 0 8 0 - - 36 0
2002-03 アトレティコ・マドリード リーガ・エスパニョーラ 28 2 2 1 - - - - 30 3
2003-04 ラツィオ セリエA 23 2 4 0 8 0 - - 35 2
2004-05 アタランタ 14 1 2 1 - - - - 16 2
2004-05 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 5 0 - - 1 0 - - 6 0
ミランでの通算 293 21 41 2 65 5 7 0 406 28
キャリア通算 391 31 49 4 74 5 7 0 521 40

※ヨーロッパ戦は、UEFAチャンピオンズリーグUEFAカップUEFAスーパーカップを含む。

代表

イタリア代表[25]
出場 得点
1991 1 0
1992 4 0
1993 6 0
1994 14 0
1995 8 2
1996 7 0
1997 9 0
1998 10 0
1999 6 0
2000 11 0
2001 2 0
2002 1 0
Total 79 2

タイトル

クラブ

ACミラン[3][4]
SSラツィオ[3][4]
FCバルセロナ[3][4]

代表

イタリア[3][4]

個人

脚注

  1. ^ AC Milan bid farewell to legend Albertini”. ESPN FC. 2013年8月4日閲覧。
  2. ^ demetrio albertini” (Italian). 2014年7月20日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g AC Milan Hall of Fame: Demetrio Albertini” (Italian). acmilan.com. 2015年3月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h Demetrio ALBERTINI: "Metronomo"” (Italian). magliarossonera.it. 2015年3月19日閲覧。
  5. ^ Albertini addio al veleno "Milan sei stato ingrato". Parigi vende Ronaldinho”. 2014年7月20日閲覧。
  6. ^ Nazionale in cifre: Convocazioni e presenze in campo (Albertini, Demetrio)” (Italian). figc.it. FIGC. 2015年4月9日閲覧。
  7. ^ Massaro, nove minuti di felicità” (Italian). Il Corriere della Sera (1994年6月29日). 2015年5月18日閲覧。
  8. ^ Roby Baggio ci porta in Paradiso” (Italian). Il Corriere della Sera (1994年7月14日). 2014年8月1日閲覧。
  9. ^ Sconfitti, a testa alta” (Italian). La Repubblica (1994年7月18日). 2015年5月18日閲覧。
  10. ^ Even great players can miss penalties”. 2016年1月7日閲覧。
  11. ^ Ferrato, Luca. “Interview with Arrigo Sacchi”. World Socer. 2013年8月2日閲覧。
  12. ^ Match Report”. FIFA.com. 2013年8月3日閲覧。
  13. ^ Gli Azzurri non sbagliano contro la Romania”. 2015年1月29日閲覧。
  14. ^ L'Italia non si ferma Totti illumina, chiude Fiore”. repubblica.it. La Repubblica. 2015年1月29日閲覧。
  15. ^ Gli Azzurri non sbagliano contro la Romania”. 2015年1月29日閲覧。
  16. ^ Abilash Nalapat (2012年6月8日). “Blast from the past: Euro 2000 Final: France-Italy 2-1”. goal.com. 2013年8月4日閲覧。
  17. ^ Euro 2000 Goals & Assists”. soccer-europe.com. 2015年1月12日閲覧。
  18. ^ Addio Albertini, vincono le stelle”. 2014年7月20日閲覧。
  19. ^ Scuola Calcio Albertini, buona la prima settimana a Moggio” (Italian). leccosportweb.it (2011年8月3日). 2015年4月6日閲覧。
  20. ^ Figc:Tavecchio-Albertini vicepresidenti” (Italian). tuttomercatoweb.com (2013年4月5日). 2016年11月23日閲覧。
  21. ^ “アルベルティーニ氏、パルマ支援に尽力「セリエBからの再出発に全力尽くす」”. サンケイスポーツ. (2015年4月4日). http://www.sanspo.com/soccer/news/20150404/ser15040415300012-n1.html 2015年6月23日閲覧。 
  22. ^ “パルマが破産発表。来季からアマリーグの4部へ”. フットボールチャンネル. (2015年6月22日). http://www.footballchannel.jp/2015/06/22/post93994/ 2015年6月23日閲覧。 
  23. ^ Albertini explains Parma role”. football-italia.net. Football Italia (2015年4月3日). 2015年4月6日閲覧。
  24. ^ 7 things we learned from the Football Manager film”. Redbull UK (2014年10月13日). 2015年11月12日閲覧。
  25. ^ Demetrio Albertini - International Appearances”. Rsssf.com. 2016年11月23日閲覧。
  26. ^ UEFA Euro 2000 team of the tournament”. uefa.com. UEFA (2011年1月1日). 2015年3月31日閲覧。

外部リンク