「ナグ・ハマディ写本」の版間の差分

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'''ナグ・ハマディ写本'''あるいは'''ナグ・ハマディ文書'''(The Nag Hammadi library)とは[[1945年]]に[[上エジプト]]・[[ケナ県]]の{{仮リンク|ナグ・ハディ|arz|نجع حمادى}}村の近くで見つかった初期キリスト教文書。
'''ナグ・ハマディ写本'''(ナグ・ハマディしゃほん、{{lang|en|The Nag Hammadi Codices}})あるいは'''ナグ・ハマディ文書'''(ナグ・ハマディぶんしょ、{{lang|en|The Nag Hammadi library}})とは[[1945年]]に[[上エジプト]]・[[ケナ県]]の{{仮リンク|ナグ・ハマディ|arz|نجع حمادى}}(より正確には、ナグゥ・アル=ハムマーディ{{sfn|荒井|1994|p=12}})村の近くで見つかった初期キリスト教文書のことである
ナグ・ハマディ写本は、二十世紀最大の考古学的発見に数えられており{{sfn|クロスニー|2006|p=178}}、
事実、初期キリスト教の研究を飛躍的に進展させた{{sfn|クロスニー|2006|p=178}}。
ナグ・ハマディ写本は、古代キリスト教を知るための原資料としては[[死海写本]]につぐ重要性を持つと見なされている{{sfn|クロスニー|2006|p=178}}。


==概要==
==概要==
農夫ムハマド・アリ・サマン(Mohammed Ali Samman)が偶然土中から掘り出したことで発見された。発見時、文書は壷におさめられ、皮で綴じられた[[コデックス]](冊子状の写本)の状態であった。写本の多くは[[グノーシス主義]]の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなく[[ヘルメス思想]]に分類される写本や[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|国家]]』の抄訳も含まれている。ナグ・ハマディ写本研究の第一人者{{仮リンク|ジェームズ・M・ロビンソン|en|James M. Robinson}}(James M. Robinson)による英語版の『ナグ・ハマディ写本』の解説では、本もともとエジプトの[[パコミオス派]]({{仮リンク|パコミオス|en|Pachomius the Great}}がはじめた共住修道生活(cenobitism)を行うグループ)の[[修道院]]に所蔵されていたが、司教であった[[アレクサンドリアアタナシオス]]ら367年に聖書正典ではない文書を用いないようにという指示が出た{{Sfn|athanasius}}ために隠匿されたのではないかとしている
写本は、農夫ムハマド・アリアッマン{{sfn|荒井|1994|p=12}}(Muhammad &#x2bd;Al&#x12b; al-Samm&#x101;n){{sfn|robinson|1988|p=22}}が偶然土中から掘り出したことで発見された。発見時、文書は壷におさめられ、羊の皮でカバーされた[[コデックス|コーデックス]](冊子状の写本)の状態であった{{sfn|荒井|1994|p=13}}。ナグ・ハマディ写本は全部で13冊からなっている。より正確に言うと、12冊の写本と8枚の断片からなっており<ref group="注">数え方は文献によって異同がある。C.Markschies, ''Gnosis: An Introduction'', 2000, p.49では、11冊の完全な写本と2つの断片、と数えている。断片の形でしか残されてないコーデックスXIIを1冊と数えるかどうかで勘定の仕方が変わっているようである。</ref>、後者は13冊目の写本から破られたものと6冊目の裏表紙に挟まれていたものである{{sfn|robinson|1988|p=10}}。写本の多くは[[グノーシス主義]]の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなく[[ヘルメス思想]]に分類される写本や[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|国家]]』の抄訳も含まれている。ナグ・ハマディ写本研究の第一人者{{仮リンク|ジェームズ・M・ロビンソン|en|James M. Robinson}}(James M. Robinson)による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、本写本はエジプトの修道士{{仮リンク|パコミオス|en|Pachomius the Great}}がはじめた修道士共同体(後世の[[修道院]]に相当する){{sfn|荒井|1994|p=12}}に所蔵されていたのかもしれないという{{sfn|robinson|1988|p=12}}。


写本は[[コプト語]]で書かれているが、[[ギリシャ語]]から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。写本の中でもっとも有名なものは[[新約聖書]][[外典]]である『[[トマスによる福音書]]』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見された[[オクシリンコス・パピルス]]の内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。このことから本写本の成立はギリシャ語で『[[トマスによる福音書]]』書かれた80年以降、すなわち1世紀から2世紀であると見れる。また[[パピルス]]と字体の調査から、写本された時期は西暦350年から400年の間と推定される{{sfn|pagels|1996|p=11}}。さら土中秘匿されたのが3世紀から4世紀であるとみなされている
写本は[[コプト語]]で書かれているが、[[ギリシャ語]]から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。写本の中でもっとも有名なものは[[新約聖書]][[外典]]である『[[トマスによる福音書]]』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見された[[オクシリンコス・パピルス]]{{Refnest|group="注"|より正確に言えば、オクシリンコスで発見された大量のパピルスのうちの3枚、{{仮リンク|オクシリンコス・パピルス 1|en|Papyrus Oxyrhynchus 1}}, {{仮リンク|オクシリンコス・パピルス 654|en|Papyrus Oxyrhynchus 654}}, {{仮リンク|オクシリンコス・パピルス 655|en|Papyrus Oxyrhynchus 655}}である{{sfn|荒井|1994|p=26}}{{sfn|robinson|1988|p=124}}。}}の内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。写本がられた時期に関してほとんど議論の余地がなく、西暦350年から400年の間と推定されている{{sfn|荒井|1994|p=26}}{{sfn|ペイゲルス|1996|p=11}}。この年代は、カートナージ{{Refnest|group="注"|各写本のカバーを補強するため、その裏側張らている厚紙のこと{{sfn|荒井|1994|p=19}}。日付のつい手紙や領収書が反故紙として使われているで、写本の年代特定できる{{sfn|荒井|1994|p=19-20}}。}}やコプト語の字体から決定できる{{sfn|pagels_en|1989|p=xvi}}。写本が土中に埋められたのは4世紀よりも以前である{{sfn|robinson|1988|p=2}}

一方、写本に収録された各編の原本の成立時期については異論があり確定できていない{{sfn|pagels_en|1989|p=xvi}}{{Refnest|group="注"|例えば、『トマスによる福音書』の成立時期に関して、クィスペルらは140年頃だと主張して{{sfn|pagels_en|1989|p=xvi}}おり、新約聖書成立(60年から110年頃)よりも後のことであろうと考える研究者がいる{{sfn|pagels_en|1989|p=xvii}}。その一方でヘルムート・ケストナーは、まとめられたのは140年頃だろうが、『トマスによる福音書』の一部は新約成立以前の1世紀後半のものを含むかもしれないと主張している{{sfn|pagels_en|1989|p=xvii}}。その他の例では、『真理の福音』があげられる。[[リヨン]]の司教[[エイレナイオス]](イレナエウスと書かれる場合もある)は180年頃に5巻からなる書物『偽称グノーシスの正体暴露とその反駁』(普通は『異端反駁』と略称されている){{sfn|荒井他|1997|p=329}}の中で『真理の福音』と呼ばれている有名な福音書を神へのひどい冒涜であるとして非難した{{sfn|pagels_en|1989|p=xviii}}。この『真理の福音』が、ナグ・ハマディ写本に収められている『真理の福音』と同じものなのかすら議論がある{{sfn|pagels_en|1989|p=xviii}}。}}。


ナグ・ハマディ文書そのものは[[カイロ]]の{{仮リンク|コプト博物館|arz|المتحف القبطى}}に所蔵されている。
ナグ・ハマディ文書そのものは[[カイロ]]の{{仮リンク|コプト博物館|arz|المتحف القبطى}}に所蔵されている。

ナグ・ハマディ写本の発見以前、少数の例外を除くとキリスト教グノーシス派由来の直接的な文献はほとんど発見されていなかった。
そのため、グノーシス派に関する研究は、反異端の立場からグノーシス派を非難した古代の正統教会の教父たちが残した文献に頼らざるを得なかった{{sfn|クロスニー|2006|p=180}}。ナグ・ハマディ写本は古代キリスト教の異端としては最初で最大の勢力だったキリスト教グノーシス派の原資料にあたり{{sfn|荒井|1994|p=17-18}}、キリスト教グノーシス派の教理・神話論などを正統教会の偏見を通さずに知ることが出来ることから重要な写本である。


==発見の経緯==
==発見の経緯==
[[File:Eg-NagHamadi-map.png|thumb|写本が発見されたナグ・ハマディの位置]]
[[File:Eg-NagHamadi-map.png|thumb|写本が発見されたナグ・ハマディの位置]]
ナグ・ハマディ写本が発見された経緯について最初に調査したのはフランス人古代オリエント学者
[[ジャン・ドレス]]{{sfn|荒井|1994|p=14}}(Jean Doresse)で、[[1950年]]1月のことである{{sfn|クロスニー|2006|p=187}}。
この時の結果は[[1960年]]に『ナグ・ハマディ文書の発見―キリスト教の基盤を揺るがす現地調査の記録』として出版された{{sfn|クロスニー|2006|p=187}}。
ドレスの調査した時期は写本が発見されてから5年しか経っておらず、写本発見に関する証人たちの
証言内容は信頼できるものだったという{{sfn|クロスニー|2006|p=187}}が、
ドレスは厳密に言えばコプト学の専門家ではなかった{{sfn|クロスニー|2006|p=187}}ことから、
J.M.ロビンソンはその調査結果に不満足だった{{sfn|クロスニー|2006|p=190}}。
そこでロビンソンは、1970年代初めに数ヵ月に渡って調査を実施し、
その結果をまとめて、『ファクシミリ版ナグ・ハマディ文書』の最終巻の序文で公表した{{sfn|クロスニー|2006|p=192}}。
ロビンソンによる調査結果の概要は以下の通りである。
ただし、ロドルフ・カッセル([[スイス]]のコプト学の第一人者){{sfn|クロスニー|2006|p=183}}、
マルチン・クラウス([[ミュンスター大学|ドイツ・ミュンスター大学]]の著名なコプト学者){{sfn|クロスニー|2006|p=183}}
らのように、ロビンソンによる調査内容に対して批判的な者も存在する{{sfn|クロスニー|2006|p=192}}ことにも留意する必要がある。
カッセルは、[[エジプト]]の農民は報酬を得ようとして話をでっちあげる傾向があり{{sfn|クロスニー|2006|p=193}}、
地元住民にとって何の重要性もない、取るに足らない出来事を、発見から何十年も経っているのに
詳しく覚えているのは不自然である{{sfn|クロスニー|2006|p=193}}と批判している{{Refnest|group="注"|証言を聞く時には、ロビンソンは常にウイスキーを一本と十ポンド札一枚を村人たちに渡していた{{sfn|クロスニー|2006|p=190}}。この額は当時としてはかなり高額だったという{{sfn|クロスニー|2006|p=190}}。}}。
===ジャバル・アッターリフ===
文書発見の経緯は、アラブ人農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン{{sfn|荒井|1994|p=12}}が偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。[[1945年]]12月、ムハマンドは、弟のカリファ(Kal&#x12b;fah)と共にラクダに乗って、
ジャバル・アッターリフ{{sfn|荒井|1994|p=12}}(Jabal al-T&#x101;rif)の南側へ出かけた{{sfn|robinson|1988|p=22}}。
ジャバル・アッターリフは、ナイル峡谷の北壁を下限として北側に連なる石灰岩からなる山岳地帯で、その南斜面には
150以上の洞穴がミツバチの巣のようにあいている{{sfn|荒井|1994|p=12}}{{sfn|pagels_en|1989|p=xiii}}。
これらの洞穴はもともとは自然にできたものだったが、既に[[エジプト第6王朝|第6王朝]]の時期には中をくりぬき彩色を施して墓所として使っていた{{sfn|pagels_en|1989|p=xiii}}。


この地方では、サバッサ([[硝酸塩]]を含んだ軟土){{sfn|荒井|1994|p=12}}を
文書発見の経緯は1945年12月、エジプト人農夫がナイルのほとり{{仮リンク|ナグウ・ハンマーディ|arz|نجع حمادى}}村に近いハムラ・ドム(Hamra Dom)で肥料に使う土を得るため、洞窟の内部の土を掘っていたところ、偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。農夫は文書を秘匿し、密かに売却しようと考えた。
ジャバル・アッターリフから掘り出して[[肥料]]として使っていた{{sfn|robinson|1988|p=22}}。
ムハマンドがジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘ってサバッサを採取していたところ、
鍬の先に何かが当たった{{sfn|荒井|1994|p=13}}。掘り下げてみると、4つの把手が付いた高さが1mもある素焼きの壷が現れた{{sfn|荒井|1994|p=13}}。
この壷が出てきた場所は、ジャバル・アッターリフのふもとの[[エジプト第6王朝|第六王朝]]時代の墓地跡(ケノポスキオンからほぼ真北に約30km北上した付近)から東に約1km離れた場所である{{sfn|荒井|1994|p=14}}。


当初、ムハマンドは壷を割ることをためらっていた{{sfn|robinson|1988|p=23}}。
文書は無造作に扱われ、かまどの近くに置かれていたため、発見者の母親によって大部分は燃やされてしまった{{sfn|pagels|1996|p=8}}。
ムハマンドの証言によると、中に[[ジン (アラブ)|ジン]]が入っているのではないかと恐れたからである
{{sfn|robinson|1988|p=23}}。しかし、金(きん)が入っているかもしれないと思い直して、鍬で壷を割ってみた
{{sfn|robinson|1988|p=23}}。壷の中から出てきたのは13冊の本で、[[パピルス]]でできており皮で装丁されていた
{{sfn|pagels_en|1989|p=xiii}}。ムハマンドはその本を服でくるんでから肩にかけて、
家に持ち帰った{{sfn|robinson|1988|p=23}}。この本が現在ナグ・ハマディ写本と呼ばれているものである。
ムハマンドは持ち帰ったあと本をばらして、かまどの隣に敷いてあったわらの上に置いた{{sfn|pagels_en|1989|p=xiii}}。
これらの写本は最終的には全てコプト博物館の収蔵品になったが、そこに至った経緯は複雑である。


この発見の半年前の1945年5月7日の夜に、2人の兄弟の父親アリー(畑の[[灌漑]]の夜警の仕事をしていた)が、
古文書発見のうわさは徐々に広まっていった。[[1946年]]に彼が事情あって(一説には殺人事件に関与していたため{{sfn|pagels|1996|p=8}})村を離れることになったとき、[[コプト派]]のある司祭に文書を託した{{Sfn|markschies|2000}}。司祭の義理の兄弟はこの文書の一部をコプト博物館に売却した(これがコデックスIIIにあたる)。同博物館の研究員だった[[ジャン・ドレーセ]](Jean Doresse)は同文書の重要性を初めて認識し、[[1948年]]にその内容を公開した。件の司祭は写本を骨董商に売却していたが、エジプト政府によって買い取られ、[[1956年]]に[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]が政権につくと国有財産としてコプト博物館に収められた。だが、一つだけ国外に流出した写本があった。それはベルギーの骨董商に買い取られたもので、最終的に[[チューリヒ]]のカール・グスタフ・ユング財団が買い取って[[1951年]]に心理学者の[[カール・グスタフ・ユング]]当人に寄贈している。この写本(コデックスI)はこうしてユング・コデックスと呼ばれるようになった。
見回り中に1人の泥棒を殺した{{sfn|robinson|1988|p=23}}。アリーはその仕返しを受けて翌朝までに殺された{{sfn|robinson|1988|p=23}}。この事件が、後のナグ・ハマディ写本の運命と関係してくる。


ムハマンドが写本を発見した1ヶ月後、家の近くの道端で日中の暑さで眠りこけている男がいた{{sfn|robinson|1988|p=23}}。
[[1961年]]にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こったが、最終的に[[1975年]]にコプト博物館へ寄贈された。こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。それは11の写本および二つの断片からなり、総ページ数は1000ページにも及ぶ{{Sfn|markschies|2000|p=48}}。
隣人がこの男を見かけると、男を指差してムハマンドに、お前の父親を殺したのはこの男だ、と言った{{sfn|robinson|1988|p=23}}。この男は、アーマド・イスマイル(Ahmad &#x12a;sm&#x101;&#x2bb;&#x12b;l)という名で、
警官イスマイル・フセインの息子だった{{sfn|robinson|1988|p=23}}。
アーマドはハワラ族で、父親はアル・カスル(al-Qasr)村の外からやってきた人物だったので、村では疎外されていた{{sfn|robinson|1988|p=23}}。

ムハンマドは、家に駆け込むと兄弟と母親にこのことを告げた{{sfn|robinson|1988|p=23}}。アーマドを捕まえると、一家で、
アーマドの手足を徐々に切り刻み、心臓をえぐり出して全員でむさぼり食い、[[血の復讐]]を行った{{sfn|robinson|1988|p=23}}。
ハワラ族はジャバル・アッターリフのふもとに村を作って住んでいたので、復讐されることを恐れて、この後
ムハマンドは壷を見つけた場所に近づこうとはしなかった{{sfn|robinson|1988|p=23}}。
後に、ムハマンドを説得して壷を発見した場所まで案内させたのだが、そのためには変装をさせ、政府の護衛を付け、更に
金品を見返りに与えねばならなかった{{sfn|robinson|1988|p=23}}。

===コーデックスIII===
アーマドが殺されたことをアル・カスル村の住人は喜び、警察の捜査でも目撃者が証言しようとはしなかったが、
警察はムハマンドに目をつけ、毎日夕方になると殺害に使った武器が見つからないかと家にやってくるようになった
{{sfn|robinson|1988|p=24}}。ムハマンドは写本が警察に見つかることを恐れた{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}。

壷から発見された本が[[コプト語]]で書かれていたことから、[[キリスト教]]のものであると言われたムハマンドは、
村のコプト教の司祭、アックンムス・バシリユス・アブド・アッマシー
(al-Qummus Bas&#x12b;l&#x12b;y&#x16b;s 'Abd al-Masih){{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}に相談して、
これらの本のうち1,2冊{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}を司祭の家で預かってもらえないかと頼んだ
{{sfn|robinson|1988|p=24}}。(なお、別の文献の説明では、村を離れることになったときに司祭に文書を託した{{Sfn|markschies|2000}}ことになっている。)

バシリユスは結婚しており、義兄のラジブ・アンドラウス(R&#x101;ghib Andrawus)が、
[[コプト教会]]の学校で英語と歴史を教えていた{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
村々を巡回して生徒たちに教えており、アル・カスル村にやって来てバシリユスの妻の家に泊まったときに、
バシリユスは現在コーデックスIIIと呼ばれている写本を見せた{{sfn|robinson|1988|p=24}}。

その価値に気づいたラジブは司祭を説得して写本のうち1冊を手に入れ{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}
[[カイロ]]へ持っていき、友人{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}で[[コプト語]]に興味を持っていた医者ジョージ・ソビイ
(Goerge Sobhi)に見せた{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
コーデックスIIIを三百ポンドで買い取ることで話はまとまったが、支払いは遅れに遅れた{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
最終的にはラジブに二百五十ポンド、コプト博物館へ五十ポンド寄付することで決着がつき、
コーデックスIIIはコプト博物館に収蔵されることになった{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
収蔵されたのは[[1946年]]10月4日のことである{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
13冊ある写本の中で、最も早くコプト博物館に収められたのがこのコーデックスIIIである{{sfn|荒井|1994|p=14}}。

===コーデックスIとIII以外の行方===
一方、無価値だと思ったか、もしくは災いを招くと思ったかして{{sfn|robinson|1988|p=25}}、
ムハマンドの母親は写本の一部を、わらと一緒に炊きつけとしてかまどで燃やしてしまった{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}{{sfn|robinson|1988|p=25}}{{sfn|ペイゲルス|1996|p=8}}。
現在わずかの断片しか残っていないことから、コーデックスXIIが燃やされたものと見られる{{sfn|robinson|1988|p=25}}。
また、中には捨ててしまったものもあった{{sfn|pagels_en|1989|p=xvi}}。
コーデックスIII以外の写本は、近隣の文盲の[[ムスリム]]との物々交換に使われたり二束三文で買われたりしていった
{{sfn|robinson|1988|p=25}}。

写本を手に入れた者の1人がナシド・バサダ(N&#x101;shid Bas&#x101;dah)で、ナグ・ハマディの金商人と計って
カイロで写本を売り、代金を山分けした{{sfn|robinson|1988|p=25}}。また、伝えられるところでは、
ある穀物商(アル・カバルの複数の村人によると、フィクリー・ジャバライル(Fikr&#x12b; Jabar&#x101;'&#x12b;l)
のことだという)が別の写本を手に入れてカイロで売り、手に入れた代金でカイロに店を構えたとも言われている
{{sfn|robinson|1988|p=25}}。
この話はよく知られているらしいが、フィクリー自身は断固として関与を否定している{{sfn|robinson|1988|p=25}}。

写本の大部分を手に入れたのはバヒジ・アリ(Bah&#x12b;j &#x2bd;Ali)で、アル・カスル村のならず者だった
{{sfn|robinson|1988|p=25}}{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。
この地方では有名だった古物商と一緒にカイロに行き、まずシェファード・ホテルのマンスーアの店に行き
{{sfn|robinson|1988|p=25}}、次にカイロ在住のベルギー人古物収集家{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}
フォキオン・J・タノ(Phokion J.Tano)の店で売った{{sfn|robinson|1988|p=25}}。
タノは全て買い取り、また、ナグ・ハマディにまで出かけて残っている写本を全て入手した{{sfn|robinson|1988|p=25}}。

一方、コプト博物館長(当時)のトーゴ・ミナ(Togo Mina)はタノが写本を買い取ったことを聞きつけて、
国外流出はさせない、写本は全て博物館に売れと説得した{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。
[[1948年]]、エジプト公教育省はタノと交渉して、写本を買い取りコプト博物館に収納しようとしていた
{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。
しかし、タノは、写本はカイロ在住のイタリア人収集家ダッターリのものであると主張して政府の介入を避けようとした
{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。
国外流出を防止するためにエジプト考古最高評議会([[考古最高評議会]]の前身)はダッターリ所有の写本を接収した
{{sfn|robinson|1988|p=25-26}}。写本は、1948年にコプト博物館に保管された{{sfn|荒井|1994|p=15}}。
ダッターリは対価として十万ポンドを要求したが、政府は一切支払わなかった{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。
そのため、所有権がどちらにあるのかエジプト政府とダッターリの間で裁判沙汰となり{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}、
[[1952年]]まで争われた{{sfn|荒井|1994|p=15}}。裁判は政府側の勝訴に終わった{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。

[[ナセル]]が大統領になってからは、4千ポンドの形ばかりの代価と共に写本は国有化され、
最終的にコプト博物館の所有物になった{{sfn|robinson|1988|p=26}}。
この段階でコーデックスIを除く写本がコプト博物館に収納された。

===ユング・コーデックス===
コーデックスIの大半は、カイロ在住の[[ベルギー]]人古物商のアルベール・エイド(Albert Eid)を通じて
エジプト国外に流出した{{sfn|robinson|1988|p=24}}{{Refnest|group="注"|コーデックスⅠは写本の発見直後に、前半の約三分の一と後半の約三分の二に二分割され、それぞれカイロの古物市場に売りに出された{{sfn|荒井他|1998a|p=382}}。このうちの後半三分の二の部分(五十一葉と百六の小断片のパピルス)が「ユングコーデックス」に相当する{{sfn|荒井他|1998a|p=382}}。ユングコーデックスの最後には本来さらに二葉四ページ分のパピルスがあったはずであることが確認されているが、それらは失われてしまった{{sfn|荒井他|1998a|p=382}}}}。

[[1949年]]、エイドは政府の介入を恐れ、大量の輸出品の中に写本を紛れ込ませてアメリカへ密輸出した
{{sfn|pagels_en|1989|p=xxvi}}。
同年、エイドは[[ニューヨーク]]で{{sfn|robinson|1988|p=24}}、二万二千ポンドで売却しようとしたが失敗した
{{sfn|pagels_en|1989|p=xxvi}}。エジプト政府が売却に反発することを顧客が恐れたのが失敗した理由らしい
{{sfn|pagels_en|1989|p=xxv}}。
エイドはベルギーに戻り、写本をパスワード付きの保管箱にしまいこんだ{{sfn|pagels_en|1989|p=xxvi}}。
その後、アン・アーボール(Ann Arbor)でこれらを売却しようとしたが同様に失敗した{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
また、パリでも売却しようとした{{sfn|markschies|2000|p=48}}がこちらも失敗している。
エジプト政府はエイドを考古物の密輸出の罪で訴追し、六千ポンドの罰金刑の判決が出たが、
判決前にエイドは亡くなった{{sfn|pagels_en|1989|p=xxvi}}。

一方、エイドの未亡人は秘密裏に写本を売却しようとしていた{{sfn|pagels_en|1989|p=xxvi}}。
古代キリスト教史家のG.クィスペル(ユトレヒト大学教授(当時))によると、自身はこの写本が密輸出されたものだとは
知らなかったとのことだが、ユング研究所を説得して、写本を購入するように急がせた{{sfn|pagels_en|1989|p=xxvi}}。
写本は、[[1952年]]5月10日になって、エイドの未亡人から{{sfn|robinson|1988|p=24}}、クィスペルを
介して{{sfn|荒井|1994|p=15}}{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}[[チューリヒ]]のユング研究所の手に渡った
{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
これらは、誕生日祝いのプレゼントとして研究所から[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]へ贈られた
{{sfn|荒井|1994|p=15}}ため、コーデックスIの整理番号が付けられるまでは「ユング・コーデックス」と
呼ばれていた{{sfn|荒井|1994|p=15}}。

ユング・コーデックスは、[[1956年]]から[[1975年]]にかけて6巻にわたって出版された{{sfn|robinson|1988|p=25}}。
[[1961年]]にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こった{{sfn|markschies|2000|p=48-49}}が、
少しずつエジプトに返却されていき、最終的にユネスコが買い取って[[1975年]]に{{sfn|荒井他|1998a|p=382}}
ユング・コーデックスの全てがコプト博物館に収蔵された{{sfn|robinson|1988|p=24}}。
こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。
写本の総ページ数は1000ページにも及ぶ{{Sfn|markschies|2000|p=48}}。

===「トマスによる福音書」の発見===
ナグ・ハマディ写本の中で最初に世間に公表されたのはコーデックスIIIの一部である。
コプト博物館の研究員(当時)だったジャン・ドレスは
[[1947年]]にコーデックスIIIに含まれる「エジプト人福音書」を解読し、翌[[1948年]]にその内容を学会誌に公表した
{{sfn|荒井|1994|p=14}}。

また、「ユング・コーデックス」には失われたページがあることに気づいたクィスペルは、
[[1955年]]の春にエジプトに飛んで、コプト博物館にそれらのページがないかどうかを調べた{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}。
博物館から写本の写真を借り受けてからすぐにカイロのホテルに戻って、クィスペルは解読を始めた
{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}。この時に発見したのがコーデックスIIに含まれていた「[[トマスによる福音書]]」である。
「トマスによる福音書」の断片は1890年代にギリシア語版が発見されていたが、福音書全体が発見されたのは
これが初めてだった{{sfn|pagels_en|1989|p=xiv}}。
ドレスとクィスペルは「トマスによる福音書」を含むナグ・ハマディ写本の一部を学会誌に発表したり、新聞紙上で紹介し
世界のジャーナリズムにセンセーションを巻き起こした{{sfn|荒井|1994|p=15-16}}。


==各言語への翻訳==
==各言語への翻訳==
[[1956年]]、カイロでユング・コデックスに含まれる写本の一部が初めて翻訳・出版された。ファクシミリ版出版も計画された、エジプトの政治状況が不安定だったため、遅々として進まなかった。
[[1956年]]、カイロでユング・コデックスに含まれる写本の一部が初めて翻訳・出版された。また、一部のコーデックスが、コプト博物館長パホル・ラビブによって{{sfn|荒井|1994|p=17}}ファクシミリ版出版された。そのうち最初のものはコーデックスⅡで、同様に1956年のことである{{sfn|荒井|1994|p=17}}。しかし、エジプトの政治状況が不安定だったため、その後のファクシミリ版の出版は遅々として進まなかった。また出版されたファクシミリ版も、写真技術が劣っていて不鮮明な部分が多いという欠点があった{{sfn|荒井|1994|p=17}}


[[1966年]]に[[イタリア]]の[[メッシーナ]]でグノーシス主義の研究者たちによるシンポジウムが開かれ、そこでグノーシス主義の研究のためにナグ・ハマディ写本早急に公開すること求められた。シンポジウムのまとめ役だった研究者のジェームズ・ロビンソンはアメリカの[[クレアモント大学]]キリスト教研究所の協力を得て、ナグ・ハマディ写本の英訳の出版を推し進めることになった。[[1970年]]には[[国際連合教育科学文化機関]]とエジプト政府の文化庁共同で立ち上げたナグ・ハマディ文書委員会委員長にロビンソンが選ばれた。同時に待望のファクシミリ版が1972年から1977年にかけて徐々に公開され、1979年と1984年に相次いでオランダ、[[ライデン]]の[[E.J.ブリル]](E.J. Brill)によって出版された。
[[1966年]]に[[イタリア]]の[[メッシーナ]]でグノーシス主義の研究者たちによるシンポジウム、第1回「グノーシス主義をめぐる国際集会」が開かれ、そこでグノーシス主義の研究のためにナグ・ハマディ写本およびそこに含まれる全文書の刊行と、早急に公開すること求めるアピールを公表、同時に、そのための資金援助を全参加者の名で[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]に要請し{{sfn|荒井|1994|p=18-19}}。シンポジウムのまとめ役だった研究者のジェームズ・ロビンソンはアメリカの[[クレアモント大学]]キリスト教研究所の協力を得て、ナグ・ハマディ写本の英訳の出版を推し進めることになった。[[1970年]]{{sfn|荒井|1994|p=19}}にはユネスコとエジプト政府の文化庁によって共同でナグ・ハマディ写本ファクシミリ版刊行国際委員会が編成され{{sfn|荒井|1994|p=19}}、委員長にロビンソンが選ばれた。
同時に待望のコーデックスⅠからⅩⅢまでのファクシミリ版が[[1972年]]から[[1977年]]にかけて徐々に出版、
[[1979年]]にはカートナージのファクシミリ版、[[1984年]]に全巻の「概説」がオランダ、[[ライデン]]の[[E.J.ブリル]](E.J. Brill)によって出版された{{sfn|荒井|1994|p=19-20}}。


ファクシミリ版の出版によって各言語への翻訳が本格化した。ロビンソンは1977年にブリルとアメリカの出版社{{仮リンク|ハーパー&ロー|en|Harper & Row}}(Harper & Row)の共同出版という形で英語版を出版。1981年から1984年にかけてペーパーバック版も出版された。最終的に1988年に校訂版が出版された。1987年には[[エール大学]]の{{仮リンク|ベントリー・レイトン|en|Bentley Layton}}によっても英語版(The Gnostic Scriptures: A New Translation with Annotations (Garden City: Doubleday & Co., 1987)が出版されている。
ファクシミリ版の出版によって各言語への翻訳が本格化した。ロビンソンは1977年にブリルとアメリカの出版社{{仮リンク|ハーパー&ロー|en|Harper & Row}}(Harper & Row)の共同出版という形で英語版を出版。1981年から1984年にかけてペーパーバック版も出版された。最終的に1988年に校訂版が出版された。1987年には[[エール大学]]の{{仮リンク|ベントリー・レイトン|en|Bentley Layton}}によっても英語版(The Gnostic Scriptures: A New Translation with Annotations (Garden City: Doubleday & Co., 1987)が出版されている。
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{{仮リンク|アレクザンデル・ボーリヒ|de|Alexander Böhlig}}(Alexander Bohlig)、マルティン・クラウゼ(Martin Krause)ら西ドイツの研究者たちも早くから翻訳を進めていたが、2001年にようやくドイツ語版の完全版が出版されている。
{{仮リンク|アレクザンデル・ボーリヒ|de|Alexander Böhlig}}(Alexander Bohlig)、マルティン・クラウゼ(Martin Krause)ら西ドイツの研究者たちも早くから翻訳を進めていたが、2001年にようやくドイツ語版の完全版が出版されている。


日本語版は1997年から1998年にかけて[[荒井献]]、[[小林稔 (聖書学者)|小林稔]]らの手によって岩波書店から全四巻出版されてい
日本語版は、写本の大部分が[[1997年]]から[[1998年]]にかけて[[荒井献]]、[[小林稔 (聖書学者)|小林稔]]らの手によって[[岩波書店]]から『ナグハマディ文書』全四巻として出版された。岩波書店の『ナグハマディ文書』には、グノーシス主義に属さない文書やギリシア哲学の影響を受けたものなどが含まれていないが、それらの未訳だった文書は[[2010年]]に『グノーシスの変容』と題して同じく岩波書店から出版され、これによって日本語訳が完了した(ただし、プラトンの『国家』の日本語訳を含まない)


==各コデックスの内容==
==各コデックスの内容==
ナグ・ハマディ写本には、全部で52編の作品が収められているが、そのうちの6編は同じものを写したものである
{{Col-begin}}
{{sfn|robinson|1988|p=12}}
{{Col-2}}
(「ヨハネのアポクリュフォン」(II 1とIII 1、IV 1)、「エジプト人の福音書」(III 2とIV 2)、「聖なるエウグノストスの手紙」(III 3とV 1)、「真理の福音」(I 1とXII 2、後者は断片)、「この世の起源について」(II 5とXIII 2、後者は断片)が重複している)。
*コデックスI(ユング・コデックス)
また、写本が発見される以前にオリジナルのギリシア語版(プラトンの「国家」(VI 5)、「感謝の祈り」(VI 7)、
**使徒パウロの祈り
「セクストスの金言」(XII 1))が発見されていたり、ラテン語訳(アスクレビオス21-29(VI 8))やコプト語訳(「ヨハネのアポクリュフォン」(II 1)、「イエス・キリストの知恵」(III 4))で見つかっていたものもある{{sfn|robinson|1988|p=12}}。
**ヤコブのアポクリュフォン
このうちコプト語訳の2編は、「ベルリン写本」{{Refnest|group="注"|正確には「ベルリン・グノーシス主義パピルス(Papyrus Berolinensis Gnostics)」という{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。[[1896年]]にドイツの博物館の手に渡り、現在はベルリンの[[ボーデ博物館]]に収蔵・一部展示されている{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。写本自体の成立は遅くとも5世紀初頭という説が有力である{{sfn|荒井他|1997|p=288}}。}}と呼ばれるパピルスに書かれていた{{sfn|robinson|1988|p=12}}。
**真理の福音
従って、写本の発見によって新たに知られるようになった作品は全部で40編である{{sfn|robinson|1988|p=12}}。
**復活に関する教え
このうちの3編は、実際にはナグ・ハマディ写本発見以前に断片の形で見つかっていた{{sfn|robinson|1988|p=12}}。
**三部の教え
「トマスによる福音書」(II 2)がギリシア語で、「この世の起源について」(II 5)「シルヴァノスの教え」(VII 4)は
*コデックスII
コプト語版で発見されていたが、それはナグ・ハマディ写本が発見された後に同定されたものである
**ヨハネのアポクリュフォン
{{sfn|robinson|1988|p=12}}。
**[[トマスによる福音書]]
**[[フィリポによる福音書]]
**アルコーンの本質
**この世界の起源について
**魂の解明
**闘争者トマスの書
*コデックスIII
**ヨハネのアポクリュフォン
**エジプト人の福音書
**聖なるエウグノストス
**イエスの知恵
**救い主の対話
*コデックスIV
**ヨハネのアポクリュフォン
**エジプト人の福音書
*コデックスV
**エウグノストス
**パウロの黙示録
**ヤコブの黙示録一
**ヤコブの黙示録二
**アダムの黙示録
*コデックスVI
**ペトロと十二使徒の言行録
**雷、全きヌース
**真正な教え
**われらの大いなる力の概念
**[[プラトン]]の『国家』の一部 - 本来グノーシス主義とは無関係だが、ここに収められている版はかなりグノーシス寄りに改変されている。
** 第八の教え、第九の教え - ヘルメス文書の一部
** 感謝の祈り - ヘルメス思想による祈り
** アスクレピオス21-29 -ヘルメス思想に属する教説
{{Col-2}}
*コデックスVII
**シェームの釈義
**偉大なるセツの第二の教え
**ペトロの黙示録
**シルワノスの教え
**セツの三つの柱
*コデックスVIII
**ゾストゥリアノス
**使徒ペトロのフィリポへの手紙
*コデックスIX
**メルキゼデク
**ノレアの思想
**真理の証言
*コデックスX
**マルサネース
*コデックスXI
**知識の解明
**ヴァレンティアヌス派の解説
**アロゲネース
**ヒュプシフロネー
*コデックス XII(断片)
** シクストゥスの言葉
** 真理の福音(断片)
** 断片
*コデックス XIII(断片をまとめたもの)
** 三つのプロテノイア
** この世界の起源について
{{Col-end}}


以下がナグ・ハマディ文書の詳細である。題名の日本語訳は荒井献『トマスによる福音書』(1994)に従った。
==脚注==

<references />
===コーデックスⅠ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! コーデックス || 番号 || 題名 || 備考
|-
| rowspan="5" |I
| 1
| 使徒パウロの祈り
|style="text-align:left"|「使徒パウロの祈り」に関する古代の伝承記録はないので、ナグ・ハマディ写本の発見によって初めて存在の知られた文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=564}}。題名は本文の最後にギリシア語で書かれていることから、ギリシア語の原本からのコプト語訳だと考えられる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=563}}{{sfn|robinson|1988|p=27}}。わずか2ページの文書で、パピルスにはページがふられていない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=563}}。コーデックスIの「ヤコブのアポクリュフォン」から最後の「三部の教え」まで筆写したあとに「使徒パウロの祈り」を書き写し、その後製本した際にコーデックスIの最初に綴じこんだ、というのが定説である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=564}}{{sfn|robinson|1988|p=27}}。「[[ヨハネの福音書]]」からの引用と見られる部分があるので、オリジナルのギリシア語版は新約聖書成立後からコーデックスIの制作時期(4世紀前半)までに成立したと見られるがそれ以上のことはわからない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=564}}。ヴァレンティノス派の作品だったかもしれないと考える研究者もいる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=564}}{{sfn|robinson|1988|p=27}}。
|-
| 2
| ヤコブのアポクリュフォン
| style="text-align:left"|古代の文献に記録はないので、ナグ・ハマディ写本の発見で初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998b|p=465}}。本文書に題名は記されておらず、「ヤコブのアポクリュフォン」という呼び名は通称である{{sfn|荒井他|1998b|p=465}}。その他「外典ヤコブの手紙」という呼び方をされる場合もある{{sfn|荒井他|1998b|p=465}}。「ヤコブの黙示録」という呼び方をする文献もあるが、内容と一致しないので不適当な呼び方である{{sfn|荒井他|1998b|p=465}}。アポクリュフォンとは、「秘密の教え」{{sfn|荒井他|1998b|p=465}}あるいは「秘密の書」{{sfn|pagels_en|1989|p=xxiv}}という意味で、手紙の差出人であるヤコブが、自分とペトロだけに啓示されたイエスのアポクリュフォンを、それを知りたいとの願いに答えて受取人に伝えた手紙という体裁で書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=465-466}}。ギリシア語原本からのコプト語訳であると考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=466}}。簡単な手紙の挨拶文の後、アポクリュフォン本体が書かれ、最後に結びとして手紙の受取人に向けた祈りと勧告が書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=466}}。当時の手紙は、冒頭に差出人と受取人の名前を書くのが慣習になっていたが、この部分が欠損しているため共に推測に頼るしかない{{sfn|荒井他|1998b|p=468}}。手紙の差出人はヤコブという名であったと推測されるが、義人ヤコブ(または、主の兄弟ヤコブとも呼ばれる)のことだろうとの仮説が研究者間の多数意見である{{sfn|荒井他|1998b|p=469}}。言うまでもなく、これは架空の設定に過ぎず、実際に義人ヤコブが書いた手紙ではない{{sfn|荒井他|1998b|p=472}}。受取人については議論があり不明である{{sfn|荒井他|1998b|p=470}}。ギリシア語原本の成立年代を特定する手がかりはなく、いくつかの仮説が出されているにとどまる{{sfn|荒井他|1998b|p=477}}。イエスの復活の550日後に12弟子が集まっているところへイエスが出現し、ペトロとヤコブを脇に連れて行き二人と対話した内容がアポクリュフォン本体部分に相当するが、その内容にはとりとめがない{{sfn|荒井他|1998b|p=467}}。ペトロ・ヤコブという弟子を通してではあるが、イエスの直弟子よりも、本文書を担ったグループを上位に置いて正統教会に対立する見解を見せることと、殉教を高く評価する点が特徴的である{{sfn|荒井他|1998b|p=476}}。なお、当時の正統教会の論者は、一般的にグノーシス主義者が殉教を忌避していると非難しているが、現在の研究では受け入れられていない{{sfn|荒井他|1998b|p=476-477}}。
|-
| 3
| 真理の福音
| style="text-align:left"|題名は本文の最初にも最後にも書かれていない{{sfn|荒井他|1998a|p=369}}。文書の書き出しが「真理の福音」で始まるので、これを用いた通称である{{sfn|荒井他|1998a|p=369}}。保存状態は比較的良好で、一部を除いて欠損部分の修復は容易である{{sfn|荒井他|1998a|p=367}}。原本はギリシア語であったとみられる{{sfn|荒井他|1998a|p=367}}。シリア語原本、コプト語原本を唱える仮説もあるが定説には至っていない{{sfn|荒井他|1998a|p=367}}。コーデックスⅠの他に、コーデックスⅩⅡにも別の異本(パピルス六葉分)が収録されているが、後者は保存状態がきわめて悪く、パピルスの順序を示す字母(ページ数)さえ確認できない{{sfn|荒井他|1998a|p=367-368}}。コーデックスⅩⅡ所収の「真理の福音」は断片でしかなく、欠損部分が非常に多く、コーデックスⅠを利用して復元する以外にない{{sfn|荒井他|1998a|p=368}}。ただし、1か所だけだが、コーデックスⅩⅡの断片を利用してコーデックスⅠの「真理の福音」が復元可能な場所がある{{sfn|荒井他|1998a|p=368}}。これら2つの異本の原本が同一なのかそれとも別々なのかを決定する決め手は乏しい{{sfn|荒井他|1998a|p=368}}。エイレナイオスは「異端反駁」の中で、ヴァレンティノス派の人々が「実際に存在している福音書よりも多くの福音書を所有していて」現在(180年-185年頃)よりも「あまり古くない時代に彼らによって著された福音書に、使徒たちの諸福音書と内容的一致が全くないにも関わらず『真理の福音書』という表題を付している」と述べている{{sfn|荒井他|1998a|p=370}}。ここで言及されている「真理の福音」と、ナグ・ハマディ写本収録の「真理の福音」が同一のものであるとの説が古くからあるが、「異端反駁」にその内容が引用されておらずたんなる憶測にすぎない{{sfn|荒井他|1998a|p=371}}。ただし、広い意味でヴァレンティノス派に属する文書であることは既に定説になっている{{sfn|荒井他|1998a|p=374}}。全体は序言とそれに続く三部で構成されている{{sfn|荒井他|1998a|p=372}}。第1部はプラネー(迷い)の生成から始まる。その後、啓示者・教師としてのイエスとその働きについて説明される{{sfn|荒井他|1998a|p=372}}。第2部は、イエスのもたらした啓示の効果の、第3部は父への再統合に至るプロセスの説明である{{sfn|荒井他|1998a|p=373}}。典型的なグノーシス主義の文書であるが{{sfn|荒井他|1998a|p=373}}、一方でそのキリスト論は、グノーシス諸派のそれよりは正統教会の諸文書におけるキリスト論に近い{{sfn|荒井他|1998a|p=376}}。
|-
| 4
| 復活に関する教え
| style="text-align:left"|本文書に関する古代の記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998b|p=500}}。題名は本文の最後に書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=308}}が、内容が書簡であるのに「教え(ロゴス)」という題名が付くのは奇妙なので、題名は写字生か製本した者が事後的に付け加えたもので、元は無表題だっただろう、というのが研究者間の定説である{{sfn|荒井他|1998b|p=481}}。保存状態は良好で、欠損部分の復元は容易である{{sfn|荒井他|1998b|p=480}}。コーデックスⅠでは、この「復活の関する教え」のみが他の文書の写字生とは別の人物によって書き写されたことが書体学的に裏付けられている{{sfn|荒井他|1998b|p=480}}。文章の一部に新約聖書の正典化がある程度進んでいることをうかがわせる部分があるので、成立時期は二世紀後半と考えるのが一般的である{{sfn|荒井他|1998b|p=501}}。形式的には書簡の体裁で書かれているが、実際に書簡として送られたものなのか、それとも、単に書簡の形式を借りただけなのかは不明である{{sfn|荒井他|1998b|p=481}}。ただし、実際に書かれた書簡であるとの説が有力になりつつある{{sfn|荒井他|1998b|p=483}}。「わが子レギノスよ」という呼びかけで始まっており、レギノスという人物に宛てた手紙の形式で書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=481}}が、この人物の歴史的実在性は実証されていない{{sfn|荒井他|1998b|p=484}}。
|-
| 5
| 三部の教え
| style="text-align:left"|本書に関する古代の証言は残されていないので、ナグ・ハマディ文書発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998a|p=392}}。本文に題名は書かれていないので、「三部の教え」という名前は通称である{{sfn|sfn|荒井他|1998a|p=383}}。この呼び名は、本文書が記号によって三部に明確に分離されていることからきている{{sfn|荒井他|1998a|p=383}}。文書の保存状態は非常に良好である{{sfn|荒井他|1998a|p=383}}。ただし、写字生による筆写は粗雑であり、コプト語訳も稚拙である{{sfn|荒井他|1998a|p=383-384}}。そのため、内容の読解は簡単ではない{{sfn|荒井他|1998a|p=385}}。また、文書の表現が暗示的・抽象的である点も内容の理解を困難にさせている{{sfn|荒井他|1998a|p=385}}。間違いなくギリシア語原本からのコプト語訳である{{sfn|荒井他|1998a|p=384}}。ただし、写字生が訳したのではなく、それ以前に誰かがコプト語訳を行い、それをそのままコーデックスⅠに写し取ったものである{{sfn|荒井他|1998a|p=385}}。原本の成立年代は、三世紀から四世紀初頭だろうとの推測が研究者間での一般的な見解である{{sfn|荒井他|1998a|p=397}}。本文書は三部分に分けられており、第1部はプレーローマ界の生成の次第、第2部は人間の創造について、第3部は地上に存在する三種類の人間種族の終末論的運命について書かれている{{sfn|荒井他|1998a|p=385}}。全体として、プレーローマ界から地上の世界までの空間にどのような存在が、そのような位階関係で存在するのか、どのようにして生成されてきたのかを説明する文書だといえる{{sfn|荒井他|1998a|p=386}}。理由を表す接続詞tscheが絶え間なく出現する特徴のある文書{{sfn|荒井他|1998a|p=389}}で、世界の構成・様々な存在に3層構造を課す点にも特徴がある{{sfn|荒井他|1998a|p=386}}。キリスト教を前提にして書かれており{{sfn|荒井他|1998a|p=393}}、ヴァレンティノス派に特有の用語を含むことから、研究者間では広い意味でヴァレンティノス派の中で生み出された文書だというのが定説である{{sfn|荒井他|1998a|p=393}}。
|}

===コーデックスⅡ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="7" | II
| 1
| ヨハネのアポクリュフォン
| style="text-align:left"|復活したイエスが昇天する前にヨハネに向かって語った黙示録の体裁を借りて、人間の創造、堕落、救済について説いた書で、主として[[創世記]]の初めの部分を神秘主義的に再解釈している{{sfn|robinson|1988|p=104}}。グノーシス主義の重要な著作である{{sfn|robinson|1988|p=104}}。エイレナエオスの『異端反駁』に、「ヨハネのアポクリュフォン」の主要な教えに関して書かれていることから、185年以前には成立していたことがわかる{{sfn|robinson|1988|p=104}}。「ヨハネのアポクリュフォン」が最初に発見されたのは[[1896年]]のことで、あるドイツ人エジプト学者がカイロで購入した古文書(「ベルリン写本」)に含まれていた{{sfn|pagels_en|1989|p=xxiv}}。この古文書の中には同時に「[[マリアによる福音書]]」も含まれていたことも知られている{{sfn|pagels_en|1989|p=xxiv}}。「ヨハネのアポクリュフォン」の成立時期に関して、[[150年]]よりも以前であるに違いないと主張されたこともあった{{sfn|robinson|1988|p=30}}が依然として議論の余地がある。いずれにしても[[314年]]以降に成立することがないのははっきりしている{{sfn|robinson|1988|p=30}}。「ヨハネのアポクリュフォン」のコプト語訳には3つのバージョンがあり、Ⅱ1とⅣ1は同じギリシア語のテクストから訳されたものである{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。一方、Ⅲ1は別のより短いギリシア語版からのコプト語訳である{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。コーデックスⅡ1, Ⅳ1の方がⅢ1よりも長いので前者を長写本、後者を短写本と通称している{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。一方、ベルリン写本(BG 8502, 2)はナグ・ハマディ写本とは別のコプト語版である{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。写本の状態は「ベルリン写本」のものが最もよい{{sfn|荒井他|1997|p=287}}。コーデックスⅡ収録の「ヨハネのアポクリュフォン」は、最初の六ページに渡って大きな欠損があり、この部分はベルリン写本を参照して推測的に復元する以外にない{{sfn|荒井他|1997|p=288}}。「ヨハネのアポクリュフォン」に書かれているのはキリスト教グノーシス派の世界創造・救済神話で、その首尾一貫した説明は、数多いグノーシス主義文書の中でも稀なものである{{sfn|荒井他|1997|p=294}}。
|-
| 2
| [[トマスによる福音書|トマス福音書]]
|
|-
| 3
| [[ピリポによる福音書|ピリポ福音書]]
|
|-
| 4
| アルコーンの本質
|style="text-align:left"|アルコーンとは、ギリシア語で支配者を意味する{{sfn|荒井他|1997|p=補注2}}。物質的世界を支配する存在で、造物神ヤルダバオートを第1のアルコーンとしてその配下に七人、十二人あるいはもっと多数のアルコーンが存在しこの世を統治していると考えられた{{sfn|荒井他|1997|p=補注2}}。本書はコーデックスIIの中では保存状態のよいほうである{{sfn|荒井他|1997|p=309}}。題名は古代の慣習にならって本文の最後に記されている{{sfn|荒井他|1997|p=309}}。原本がギリシア語であることは本文より明瞭である{{sfn|荒井他|1997|p=313}}。ギリシア語原本の成立年代については見解がわかれている{{sfn|荒井他|1997|p=313}}。本文書と「この世の起源について」との間には著しい平行関係があり{{sfn|荒井他|1997|p=312, 316}}、両文書は共通の資料を用いているというのが多数意見である{{sfn|荒井他|1997|p=312}}。弟子が質問を行い、それに師が答えるという問答形式に従っており{{sfn|荒井他|1997|p=309}}、細かい部分になると必ずしも理解しやすくはない{{sfn|荒井他|1997|p=310}}が、全体の構成は2部に大別できる{{sfn|荒井他|1997|p=310}}。前半は、匿名の語り手が創世記1-6章(アダムの創造からノアの洪水まで)をグノーシス主義的に再解釈して説明する{{sfn|荒井他|1997|p=310}}。後半は、突然語り手がノーレア{{Refnest|group="注"|アダムとエヴァがセツを産んだ後にもうけた娘のことで、セツの妹であり同時に妻である{{sfn|荒井他|1997|p=補注14}}。が、「アルコーンの本質」ではむしろノアの妻であることが前提されている{{sfn|荒井他|1997|p=補注14}}。}}に変わり、ノーレアが天使エレレートから受けた啓示を両者の対話形式で物語る{{sfn|荒井他|1997|p=310}}。後半部分で、改めてアルコーンの生成から説き起こされ、最後に救済論・終末論の予言で終わる{{sfn|荒井他|1997|p=310}}。前半と後半で内容や語り方が異なっていることから、「アルコーンの本質」の編集者は少なくとも2つの資料を用いてそれらをつなぎ合わせたものと考えられている{{sfn|荒井他|1997|p=311}}。グノーシス主義の分派のどこに属する文書なのかについては見解がわかれていてはっきりしない{{sfn|荒井他|1997|p=312}}。
|-
| 5
| この世の起源について
| style="text-align:left"|本文の最初にも最後にも題名は書かれていない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=318}}。元となった写本に書かれていなかったか、または筆写した際に書き写すのを忘れたかして題名が書かれなかったものと推測される{{sfn|荒井・大貫|2010|p=318}}。「この世の起源について」はH.M.シェンケが1959年に行った提案以来研究者間で一般的に使われている呼び名だが、これとは別に「無表題グノーシス主義文書」という呼び方がされることもある{{sfn|荒井・大貫|2010|p=318}}。保存状態はかなり良好で欠損部分は少なく、その部分も修復は容易な所が多い{{sfn|荒井・大貫|2010|p=319}}。原本はギリシア語であったことは本文にギリシア語の借用語が多いことから明瞭である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=319}}。「この世の起源について」はコーデックスII以外に2つの異本が存在する。1つはナグ・ハマディ写本収録のコーデックスXIII、もう1つは大英博物館に保存されている写本断片(MS, Or, 4926(1))である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=319}}。コーデックスXIIIの最終ページの下十行にコーデックスIIの最初の部分と並行する文章が残されているがそれ以降は伝わっていない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=319}}。大英博物館の写本断片に関しては、存在自体は1905年には知られていたが「この世の起源について」の異版であることは1972年になってCh.オイエンによって初めて解読された{{sfn|荒井・大貫|2010|p=319}}。コーデックスII以外は断片でしかないため、テクスト批判には限定的にしか使えない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=320}}。「この世の起源について」は、カオス以前にこの世は何も存在しないと一般に言われているがそれが誤りであるということを著者が論証しようとした文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=155}}。非体系的ではあるが救済神話を書き表している{{sfn|荒井・大貫|2010|p=320}}。ただ、その書き方は首尾一貫性に乏しく多くの挿話・逸脱を含む{{sfn|荒井・大貫|2010|p=320}}。[[マニ教]]の神話との類似性を指摘する研究者は多い{{sfn|荒井・大貫|2010|p=324}}。一般にマニ教よりも「この世の起源について」の方が時期的に古いとの見解が受け入れられている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=324}}。「この世の起源について」ではピスティス・ソフィアが陰に陽に活躍することから、キリスト教グノーシス主義の作品「ピスティス・ソフィア」と同じ系列に属することは間違いない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=325}}。また、ナグ・ハマディ写本収録の「アルコーンの本質」との間に著しい並行性が見られる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=325}}。このことから「この世の起源について」と「アルコーンの本質」は第3の共通の文献を使っていると推定する研究者が多い{{sfn|荒井・大貫|2010|p=326}}。本文書を書くにあたって、著者が多くの資料を使っていることは確実である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=325}}。新・旧約聖書以外に、「預言者モーゼの至高天使」「ノーライアの書の第一巻」「ソロモンの書」「十二人の下の天の宿命の星位の書」「預言者ヒエラリアスの第七の世界」「聖なる書」が本文に引用されているがいずれも未知の書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=325}}。
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| 6
| 魂の解明
| style="text-align:left"|題名は、本文の最初と最後にそれぞれ記されている{{sfn|荒井他|1998b|p=361}}。「魂の解明」と呼ばれているが、書かれている題名を直訳すると「魂に関する解明」である{{sfn|荒井他|1998b|p=361}}。ギリシア語原本からのコプト語訳だったと考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=361}}。原本の成立年代に関して正確なことはわからない。コーデックスⅡの成立時期が四世紀前半と考えられ、また、ギリシア語原本が存在したことはほぼ確実であるので、原本の成立は二世紀後半から三世紀だろうと推定されている{{sfn|荒井他|1998b|p=370}}。内容は、魂(プシケー)の堕落とその救済に関するグノーシス主義的解明と勧告{{sfn|荒井他|1998b|p=361-362}}を説いた説教あるいは説話である{{sfn|荒井他|1998b|p=363}}。書かれているプシケー神話が比較的単純で一貫性を持っていることから、初期研究において、[[シモン・マグス|魔術師シモン]](20世紀末の研究レベルでは、シモンの歴史的実在性は疑われている{{sfn|荒井他|1998b|p=364}})あるいはシモン以前まで起源を遡る仮説が出された{{sfn|荒井他|1998b|p=364}}が、それに異議を唱える研究者もいる{{sfn|荒井他|1998b|p=364}}。「真正な教え」「ピリポによる福音書」と共通点が多い文書で、プローティノスの『エネアデス』内に書かれているプシケーの物語と非常によく似ている{{sfn|荒井他|1998b|p=369}}。旧約・新約聖書からの引用の他、[[オデュッセイア]]からの引用も見られる{{sfn|荒井他|1998b|p=362}}。
|-
| 7
| 闘技者トマスの書
| style="text-align:left"|題名は本文の最後に書かれているが「闘技者トマスの書」という呼び方は通称である{{sfn|荒井他|1998b|p=373}}。最後の部分に書かれている文言は「トマスの書/闘技者記す/完全なる者たちへ」である{{sfn|荒井他|1998b|p=373}}。トマスと闘技者を同一の人物とみなして「闘技者トマスの書」と呼んでいる{{sfn|荒井他|1998b|p=373}}。ただし、別人であるとの可能性も残されている{{sfn|荒井他|1998b|p=373}}。厳密に言うと、題名の後にも若干量の文書が書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=58}}。飾り枠の中に「私を憶えよ、私の兄弟よ、/あなたたちの祈りの[中]で。/平安あれ、聖徒たちに、/そして、霊的人々に。」と書かれているが、コーデックスⅡの作成者が付記したもので本文書とは無関係だと思われる{{sfn|荒井他|1998b|p=58}}。文書の保存状態はかなり良好である{{sfn|荒井他|1998b|p=372}}。ギリシア語原本からのコプト語訳と考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=372}}。ギリシア語原本は、三世紀の前半におそらくエデッサで成立したと推定されている{{sfn|荒井他|1998b|p=381}}。2部構成{{sfn|荒井他|1998b|p=377}}の「啓示対話」の文書で、トマスの問いに対してイエスが答える形式で「隠されている事柄」が読者に啓示されていく{{sfn|荒井他|1998b|p=374}}。ただし、文書全体は対話形式に従っているものの、内実共にそれに忠実なのは最初の5分の3までで、残りの5分の2は、実質的にはイエスのモノローグによる説教である{{sfn|荒井他|1998b|p=375}}。後半の説教部分にはグノーシス的要素は見られず、むしろ[[マタイによる福音書|マタイ福音書]]や[[ルカによる福音書|ルカ福音書]]の「山上の説教」と並行する句が認められる{{sfn|荒井他|1998b|p=375}}。文書全体を貫くキーワードが「火炎」「獣」である{{sfn|荒井他|1998b|p=377}}。「火炎」は欲情、劫火の、「獣」は人間の身体、性欲、交合の隠喩として用いられている{{sfn|荒井他|1998b|p=377}}。題名にある「闘技」とは、これらの肉欲と闘うという意味である{{sfn|荒井他|1998b|p=376}}。全体としてはグノーシス主義の文書とは言えず{{sfn|荒井他|1998b|p=378}}、グノーシス主義者に対してではなく正統教会の外延をなした修道者向けに書かれた文書だとみられる{{sfn|荒井他|1998b|p=380}}。
|}

===コーデックスⅢ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="5" | III
| 1
| ヨハネのアポクリュフォン
|
|-
| 2
| エジプト人福音書
| style="text-align:left"|「エジプト人の福音書」という名前は本文書の通称である{{sfn|荒井他|1998a|p=355}}。文書の最後に書かれている本来の題名は「大いなる見えざる霊の聖なる書」である{{sfn|荒井他|1998a|p=355}}。文書の最初の部分に「…なる書」(…の部分が欠損している)と書かれている{{sfn|荒井他|1998a|p=132}}のだが、文書の最後に、写字生による後記が書き込まれており、その部分に「エジプト人の福音書」という言葉が書かれていることから、欠損部分を「エジプト人の聖」と推測して復元している{{sfn|荒井他|1998a|p=355}}。いずれにしても、「福音書」という言葉を欠損部分に詰め込むだけの空白的な余地はない{{sfn|荒井他|1998a|p=355}}。アレクサンドリアのクレメンスなどが引用している「エジプト人の福音書」は本文書とは別ものである{{sfn|荒井他|1998a|p=355}}。原本はギリシア語である{{sfn|荒井他|1998a|p=355}}。コーデックスⅢとⅣにそれぞれ1部筆写されているが、保存状態は前者の方が良好である{{sfn|荒井他|1998a|p=356}}。ただし、コプト語訳は後者の方が理解しやすい{{sfn|荒井他|1998a|p=356}}。コーデックスⅣの「エジプト人の福音書」は、後記二の途中までしか残っていないので最後がどのように終わっているのかは不明である{{sfn|荒井他|1998a|p=357}}。破損箇所が多かったり、コプト語訳の文意がはっきりしない所も多く、写本の写し間違いが避けられないなどから、不明点も多い{{sfn|荒井他|1998a|p=361}}。ぞれぞれの文書の欠損部分は両者を比較して推測により補うしかないが、共に同じ原本からのコプト語であるかどうかを決定的にする証拠があるわけではない{{sfn|荒井他|1998a|p=357}}。本文の前に簡単な序文が置かれており、また、本文が終わったあとに、賛美(洗礼式文)一、賛美(洗礼式文)二、後記一、後記二、写字生による後記が書かれており、これらの最後に表題が書かれている{{sfn|荒井他|1998a|p=129-130}}。また、2つの賛美の部分には古代の魔術文書に見られる呪文が書かれている{{sfn|荒井他|1998a|p=166-167}}。本文は2部に大別される。第1部では、「大いなる見えざる霊」を出発点にしてさまざまな存在が生み出されていく天界成立の神話が書かれている{{sfn|荒井他|1998a|p=358-360}}。第2部は、セツの誕生と救済活動を扱っている{{sfn|荒井他|1998a|p=357}}。「エジプト人の福音書」はセツ派の文書で、セツ派に属する著者が、セツ派の読者に向けて自分たちの自己理解と救済論を、神話の中に織り込んで説明したものである{{sfn|荒井他|1998a|p=361}}。
|-
| 3
| 聖なるエウグノストスの手紙
| style="text-align:left"|題名は、コーデックスⅢに収録された文書の方には本文の最後に「祝されたエウグノストス」、コーデックスⅤの方には本文の末尾に単に「エウグノストス」と書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=503}}。書簡なので当時の慣習通り、冒頭に手紙の差出人と受取人の名が書かれており、差出人と題名はコーデックスⅢ、Ⅴ共に一致している{{sfn|荒井他|1998b|p=503}}。一般に、コーデックスⅢの文書を「聖なるエウグノストス」、コーデックスⅤの方を「エウグノストス」と呼んでいる{{sfn|荒井他|1998b|p=503}}。原本はギリシア語だったと推測される{{sfn|荒井他|1998b|p=504}}。原本の成立年代については諸説あり不明である{{sfn|荒井他|1998b|p=510-511}}。確実なことは、ナグ・ハマディ写本に収録されている「イエスの知恵」よりも前に書かれた文書であるという点だけである{{sfn|荒井他|1998b|p=511}}。教師エウグノストスが弟子に送った書簡という形式で書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=503}}。コーデックスⅢの方にはキリスト教グノーシス主義者によって改変された部分がある{{sfn|荒井他|1998b|p=504}}。
|-
| 4
| イエス・キリストの知恵
| style="text-align:left"|題名は本文冒頭と最後に書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=384}}。最初に書かれている題名は「イエス・キリストの知恵」、最後に書かれているのは「イエスの知恵」である{{sfn|荒井他|1998b|p=384}}。ギリシア語原本からのコプト語訳だと考えられている{{sfn|荒井他|1998b|p=389}}。本文書の前に収録されている「エウグノストス」と本文書は内容が酷似している{{sfn|荒井他|1998b|p=384}}。「エウグノストス」をもとにして、それに新たに文書を付け足して作ったのが「イエスの知恵」であるという仮説が一般的に受け入れられている{{sfn|荒井他|1998b|p=385}}。したがって、「イエスの知恵」の成立年代の方が「エウグノストス」よりも後であろうと推測される{{sfn|荒井他|1998b|p=385}}。原本の成立時期については研究者によって様々で、一世紀末から三世紀初めまでと幅広い{{sfn|荒井他|1998b|p=389-390}}。ナグ・ハマディ写本の発見以前に、ベルリン写本の中にも同一の文書(BG 8502)があることが知られていた{{sfn|荒井他|1998b|p=384}}。また、オクシリンコス・パピルス(OP 1081)にもギリシア語断片が残されている{{sfn|荒井他|1998b|p=389}}。「エウグノストス」にはキリスト教的要素がほとんどないのに対して、「イエスの知恵」はキリスト教グノーシス主義の文書であると言える{{sfn|荒井他|1998b|p=385}}。キリスト教徒をグノーシス主義に導くというよりも、非キリスト教グノーシス主義者をキリスト教グノーシス主義に引き込むことが主目的で書かれた文書であるらしい{{sfn|荒井他|1998b|p=388}}。
|-
| 5
| 救い主の対話
| style="text-align:left"|題名は、本文の冒頭と最後にそれぞれ書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=444}}。古代の文献に記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998b|p=462}}。ギリシア語原本からのコプト語訳だと考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=445}}。内容は、主とその弟子たちとの対話である{{sfn|荒井他|1998b|p=444}}。題名に「救い主」とあるが、本文ではほとんどそのように呼ばれることはなく、もっぱら「主」と呼ばれている{{sfn|荒井他|1998b|p=444}}。また、弟子として登場するのは、ほとんどの場合、ユダ、マタイ、マリアの3人で{{sfn|荒井他|1998b|p=444}}、登場する救い主は復活前のイエスである{{sfn|荒井他|1998b|p=444}}。文書全体としては、対話形式にまとめられたイエスの語録集と言える{{sfn|荒井他|1998b|p=445}}。ただし、「トマスによる福音書」とは異なり、共観福音書伝承との関係が深いわけではない{{sfn|荒井他|1998b|p=444}}。また、すべてが資料に基づいてまとめられたものでのなく、一部に著者による筆が加えられていると考えられている{{sfn|荒井他|1998b|p=455-457}}。ギリシア語原本の成立時期の推定に対する明確な証拠はないが、二世紀前半であると推測されている{{sfn|荒井他|1998b|p=462-463}}。
|}

===コーデックスⅣ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="2" | IV
| 1
| ヨハネのアポクリュフォン
| style="text-align:left"|コーデックスIV収録の「ヨハネのアポクリュフォン」は、コーデックスIIのコプト語訳「ヨハネのアポクリュフォン」をもとにして筆写されている。IV 1の保存状態はナグ・ハマディ写本中最悪であり、単体では読解不可能である{{sfn|荒井他|1997|p=289}}。
|-
| 2
| エジプト人福音書
|
|}

===コーデックスⅤ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="5" | V
| 1
| 聖なるエウグノストスの手紙
|
|-
| 2
| コプト語パウロ黙示録
| style="text-align:left"|「パウロの黙示録」に関する古代の伝承記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=267}}。当文書とは別にギリシア語(およびそのラテン語その他への訳)で「パウロの黙示録」という文書が存在するが、ナグ・ハマディ写本収録の「パウロの黙示録」とは別物である{{sfn|荒井他|1998c|p=268}}。題名は文書の最後に括弧つきで書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=267}}。題名が文書の冒頭にも書かれていたとみられる痕跡が残っているが、その部分は写本が破損しており推定による復元でしかないが、研究者によって一般的に支持されている{{sfn|荒井他|1998c|p=267}}。文書の保存状態はあまりよくない{{sfn|荒井他|1998c|p=267}}。原本の成立時期を二世紀後半と推定する研究者が多いが積極的な証拠があるわけではない{{sfn|荒井他|1998c|p=277}}。本文書は、[[ガラテヤの信徒への手紙|ガラテア人への手紙]]と[[コリントの信徒への手紙二|コリント人への第二の手紙]]に書かれているパウロの体験を下敷きにした創作物{{sfn|荒井他|1998c|p=269}}で、それをグノーシス主義的に改変している。たとえば、パウロの昇天体験では第三の天までしか書かれていないが、本文書では第十の天まで存在することになっていて、うち第一から第七の天が被造世界(ヤルダバオート以下のアルコーンによって作られた世界)に、第八の天以上がプレーローマ界に相当している{{sfn|荒井他|1998c|p=271}}。「小さな子供」(精霊のこと)によるパウロへの啓示が書かれており、精霊の案内でパウロが第三の天から順に天を昇って行き、最後に第十の天に達して終わる{{sfn|荒井他|1998c|p=269}}。
|-
| 3
| ヤコブの第一の黙示録
| style="text-align:left"|「ヤコブの黙示録第一」「ヤコブの黙示録第二」というのは研究者によってつけられた通称である{{sfn|荒井他|1998c|p=281-282}}。ナグ・ハマディ写本収録のどちらの文書の題名も「ヤコブの黙示録」と書かれているため、混乱を避けるために伝統的に、最初の「ヤコブの黙示録」を「第一」、後の「ヤコブの黙示録」を「第二」と名付けている{{sfn|荒井他|1998c|p=282}}。「ヤコブの黙示録第一」の題名は、本文の最初と最後にそれぞれ「ヤコブの黙示録」と書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=281}}。このうち、最初に書かれている題名の方は、原本にはなくコーデックスVの作成者が先行文書である「パウロの黙示録」との区切りのために事後的に挿入したものと考えられる{{sfn|荒井他|1998c|p=281}}。エイレナイオスの「異端反駁」、エピファニオスの「薬籠」の中に「ヤコブの黙示録」に関する記述が残されている{{sfn|荒井他|1998c|p=286}}。文書の保存状態は、最初の方は比較的良好だが、後になるにつれて欠損が多くなり始め、最後の数ページは復元がほとんど不可能である{{sfn|荒井他|1998c|p=280}}。原本はギリシア語だったとみられる{{sfn|荒井他|1998c|p=280}}。2か所だけだが、ギリシア語ではなくシリア語表記(ギリシア語では「ゴルゴダ」「タダイオス」である所が、シリア語表記の「ガウゲーラン」「アッダイ」にそれぞれなっている)されている箇所があるので、用いた原本がシリア系統の伝承だった可能性がある{{sfn|荒井他|1998c|p=280-281}}。本文より、著者がエイレナイオスの「異端反駁」を知っていたことが読み取れるので、成立年代はそれ以降(180年頃以降)だろうとみられる{{sfn|荒井他|1998c|p=289}}。また、「ヘプライ人による福音書」に比べてイエスとヤコブの関係が強化・神話化されているので、成立時期は早くても三世紀前半と推定される{{sfn|荒井他|1998c|p=289}}。ヤコブの質問にイエスが答える、典型的な啓示文学の様式に従っており、全体は二部に大別される{{sfn|荒井他|1998c|p=282}}。第一部はイエスの受難以前の対話、第二部は復活後のイエスとの対話である{{sfn|荒井他|1998c|p=282}}。明らかにグノーシス主義の文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=285}}。「ヤコブの黙示録第一」はチャコス写本の中にも収録されているが、ナグ・ハマディ写本所収のものとは内容が少し異なっている{{sfn|クロスニー|2006|p=309}}{{sfn|荒井・大貫|2010|p=409-410}}。
|-
| 4
| ヤコブの第二の黙示録
| style="text-align:left"|題名は本文の最初に「ヤコブの黙示録」と書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=292}}。本文の最後にも「ヤコブの黙示録」と書かれていると推測してそのように復元した校訂本が存在するが、これは誤読による誤りで、一般には後書きされた表題は存在しなかったと推測されている{{sfn|荒井他|1998c|p=292}}。「ヤコブの黙示録第二」という呼び名は研究者によってつけられた通称である{{sfn|荒井他|1998c|p=282}}。文書の保存状態はあまりいい方ではない{{sfn|荒井他|1998c|p=291}}。ギリシア原本をコプト語訳したものである{{sfn|荒井他|1998c|p=291}}。「ヤコブの黙示録第一」と同様にシリア語伝承が一部用いられている可能性はあるが、「第一」とは異なりシリア語法は見られない{{sfn|荒井他|1998c|p=293}}。背後にあると考えられる救済神話が「第一」に比べて単純であるので、原本の成立時期は「第一」(三世紀前半)よりも早いだろうと推測されている{{sfn|荒井他|1998c|p=300}}。祭司の一人マレイムが、「義人」ヤコブから、殉教前に聞いた話を書きとめ、それをマレイムがテウダ(マレイムの親戚でヤコブの父)に伝えた、という体裁で書かれた文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=294}}。「第二」は「第一」と同様に、最初に「黙示」の部分が書かれたあと最後にヤコブの「殉教」が書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=293}}。ただし、殉教の部分は短く、欠損も多いため内容に不明な部分が多い{{sfn|荒井他|1998c|p=293}}。
|-
| 5
| アダム黙示録
| style="text-align:left"|題名は本文の最初と最後にそれぞれ書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=307}}。写本の保存状態は比較的良好な方である{{sfn|荒井他|1998c|p=303}}が、パピルスの質が悪くインクがにじんでおり判読の難しい箇所が少なくない{{sfn|荒井他|1998c|p=303}}。ギリシア語原本からのコプト語訳である{{sfn|荒井他|1998c|p=302}}。古代の文献から「アダムの黙示録」という名の文書が複数出回っていたことがわかっており{{sfn|荒井他|1998c|p=318}}、本文書は現存する唯一の「アダムの黙示録」である{{sfn|荒井他|1998c|p=304}}。エピファニオスの「薬籠」の中に「アダムの黙示録」に関して言及した部分があるが内容の引用がなされていないため、ナグ・ハマディ文書所収の「アダムの黙示録」と同じものを指していたのかどうかは不明である{{sfn|荒井他|1998c|p=317-318}}。ギリシア語原本の成立時期に関しては研究者間で多くの仮説が唱えられておりどれが優勢であるとも言えない{{sfn|荒井他|1998c|p=-319-320}}。全体は二部に大別される。第一部ではまず、かつてアダムとエヴァは栄光の中にあり造物神やアルコーンよりも高い地位にあったものが、造物神の怒りを買って男と女に分離され、栄光と認識を失い、造物神に隷属する存在になったことが語られる{{sfn|荒井他|1998c|p=304}}。そして、アダムが眠っている間に「三人の(天的)人間」が現れ、アダムに対して元々あった栄光と認識がセツの子孫の中に移動したことを伝える{{sfn|荒井他|1998c|p=304-305}}。その啓示を受けて自分たちの現実にアダムとエヴァが嘆息しているのを造物神が訝しり、自分の支配を確かなものとするために造物神は二人に性欲を植え付け、それによって二人は死の支配下に置かれる{{sfn|荒井他|1998c|p=305}}。これを自覚したアダムがセツに啓示の内容を語る{{sfn|荒井他|1998c|p=305}}。第二部はその啓示の内容である{{sfn|荒井他|1998c|p=305}}。ノアの洪水から最後の審判までの歴史が予言される{{sfn|荒井他|1998c|p=305-307}}。初期の研究では本文書にキリスト教の要素はないと考えられたが、その後は、キリスト教を前提にして書かれているとの見解が優勢である{{sfn|荒井他|1998c|p=313}}。
|}

===コーデックスⅥ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="8" |VI
| 1
| ペトロと十二使徒の行伝
| style="text-align:left"|以前は異論が唱えられたこともあったが、その後の研究者間では「ペトロと十二使徒の行伝」はナグ・ハマディ写本発見により初めて知られた文書であるとの見解で一致している{{sfn|荒井・大貫|2010|p=555}}。原本がギリシア語であったことは確実である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=555}}。題名は本文の最後に「ペトロと十二使徒の行伝」と書かれているが、実際には本文に現れる使徒の数は十二ではない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=555}}。ユダを除いた十一人であることが本文内に明示されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=555}}。二世紀から三世紀に著された一連の外典使徒行伝の中では比較的早い時期に成立しただろうというのが一般的な見解である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=555}}。語り手のペトロの人称が次々と変わっていることや話の筋にまとまりがないことなどから、複数の資料・伝承を利用して1つの文書にまとめようとしたがうまくいかなかったのだと考えられる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=560}}。本文書に正統キリスト教と矛盾する要素は見られず、従ってグノーシス主義の文書ではない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=561}}。
|-
| 2
| 雷、全きヌース
| style="text-align:left"|題名は本文の最初に飾り記号で囲って書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=392}}。ギリシア語原本からのコプト語訳だとみられる{{sfn|荒井他|1998b|p=392}}。原本の成立時期は、二世紀から三世紀と考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=404}}。「ヌース」とはギリシア語で叡智を意味する{{sfn|荒井他|1998b|p=393}}。題名にある「雷」(ギリシア語でブロンテー)は、本文には一切出てこない{{sfn|荒井他|1998b|p=393}}。なぜ、文書に現れない「雷」を題名にもってきたのかは推測以上のことはわからない{{sfn|荒井他|1998b|p=393}}。私章句(「私は…である。」という定型句)を駆使した自己啓示文書{{sfn|荒井他|1998b|p=393-394}}で、語り手は女性的啓示者である{{sfn|荒井他|1998b|p=393}}。特徴的なのは、語り手が、自身をアンビヴァレントな存在として語る点である{{sfn|荒井他|1998b|p=395}}。たとえば、「私は最初にして最後の者。私は尊敬されるものにして軽蔑される者。私は娼婦にして崇敬される者。」などがあげられ{{sfn|荒井他|1998b|p=394}}、その他にも多数現れる。「この世の起源について」「アルコーンの本質」と並行する箇所が含まれており{{sfn|荒井他|1998b|p=401-402}}、本文書もセツ派に由来する文書、もしくはセツ派の視点から編集された知恵文学だと考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=403}}。「雷・全きヌース」の思想的・宗教的位置づけは、研究者間で意見が分かれている。プレーローマ界からの「私」の脱落が書かれていない、反宇宙的・反身体的二元論が見られない、人間の創造神と思しき者が積極的に評価されている、などグノーシス主義の要素がないことからグノーシス的ではなく、ユダヤ教の知恵文学に近いという評価もあれば、「私」の両性具有的性格が既にグノーシス的神話を前提として書かれているとの意見もある{{sfn|荒井他|1998b|p=400-401}}。
|-
| 3
| 真正な教え
| style="text-align:left"|題名は、本文の最後に書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=406}}。本書の冒頭部分が破損しているため、本来、本文冒頭に題名が書かれていたのか否かは不明である{{sfn|荒井他|1998b|p=406}}。書かれている題名を直訳すると「真正なロゴス」である{{sfn|荒井他|1998b|p=406}}。ロゴスは幅広い対象を表す言葉だが{{sfn|荒井他|1998b|p=補注21}}、文書の中ではグノーシスまたは認識可能性として言われているので、通常は「真正な教え」と訳されている{{sfn|荒井他|1998b|p=406}}。保存状態は比較的良好である{{sfn|荒井他|1998a|p=406}}。成立年代を特定するための手がかりはないので、不明である{{sfn|荒井他|1998b|p=410}}。ユダヤ教・キリスト教との関連はごくわずかであり、ヘルメス文書を示唆するものもない{{sfn|荒井他|1998b|p=409}}。魂の起源、その堕落と物質世界に対する勝利について述べた文書で、人間の誕生から死までの順で書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=407}}。
|-
| 4
| われらの大いなる力の概念
| style="text-align:left"|題名は、本文の最初と最後にそれぞれ書かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=444}}。若干の欠損はあるがほぼ完全に残存しており、ナグ・ハマディ写本中最良の保存状態である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=444}}。明らかに原本はギリシア語だったことがわかる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=444}}。ナグ・ハマディ写本の発見によって初めて存在の知られた文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=444}}。この文書は理解しにくいことで定評がある{{sfn|荒井・大貫|2010|p=446}}。個々の文章や小さな段落ごとの意味はとれるが、段落間の意味をとろうとすると意味がわからなくなる、更には文書全体として何を言いたいのかわからないからである{{sfn|荒井・大貫|2010|p=445}}。唯一はっきりしていることは、被造世界全体の歴史が「肉のアイオーン」「心魂のアイオーン」「来るべきアイオーン」の3時期に区分されていることである{{sfn|荒井・大貫|2010|p=447-448}}。「肉のアイオーン」の時代は巨人族と共に生じノアの洪水で終わる{{sfn|robinson|1988|p=311}}。「心魂のアイオーン」では救済者が現れる。これは明らかに新約聖書のキリストに相当するが、キリストと呼ぶことは慎重に避けられており、また磔刑にも処せられない{{sfn|robinson|1988|p=311}}。この時代は、アルコーン間の戦争で終わる{{sfn|robinson|1988|p=311}}。アルコーンの外見はアンチ・キリストのようであり、炎によって世界を焼き尽くす{{sfn|robinson|1988|p=311}}。物質は炎で焼き尽くされるが魂はかえって浄化され、聖人たちと共に「来るべきアイオーン」の時代を永久に生きる、というのがおおまかな筋である{{sfn|robinson|1988|p=311}}。
|-
| 5
| [[プラトン]]の『国家』の一部<ref group="注">荒井「トマスによる福音書」では558B - 589B、J.M.Robinson,
''The Nag Hammadi Library in English''では588A-589Bと書かれている。</ref>
|style="text-align:left"| 本来グノーシス主義とは無関係だが、ここに収められている版はかなりグノーシス寄りに改変されている。ギリシア語版とは異なる部分が、コプト語訳をした者の訳が下手だったのが原因によるものなのか、意図してグノーシス化したのかを見極めるのは難しい{{sfn|robinson|1988|p=318}}。
|-
| 6
| 第八(オゴドアス)と第九(エンネアス)に関する談話
| style="text-align:left"|写本に含まれている文章には題名が書かれていないが、トリスメギストゥスやヘルメスの名が書かれていることや、以前から[[ヘルメス文書]]として知られているものとの強い類似性があるので、ヘルメス文書の一部だと考えられている{{sfn|robinson|1988|p=321}}。タイトルにある第八、第九とは、古代において地球を取り巻くと考えられていた天体の番号である{{sfn|robinson|1988|p=321}}。太陽、月、惑星からなる最初の7つの天体は人間の生活を支配する低級の力を、第8、第9の天体は聖なる世界の始まりをそれぞれ表しており、死後、魂は7つの天体を巡った後、第8、第9の天体に達し、そこで真の祝福を受けると考えられていた{{sfn|robinson|1988|p=321}}。この文書では更に10番目の天体の存在を暗に仮定しているようだが、その点はあまり明白ではない{{sfn|robinson|1988|p=321}}。
|-
| 7
| 感謝の祈り
| style="text-align:left"|題名は冒頭に書かれているが、書かれている題名は「これが彼らが唱えた祈りである」である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=524}}。したがって、「感謝の祈り」というのは通称である。ただし、この呼び名は研究上定着している{{sfn|荒井・大貫|2010|p=524}}。なぜ題名としてはふさわしくない「これが彼らが唱えた祈りである」を題名として書いたのかについては推測の域を出ない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=525}}。本文書「感謝の祈り」は、次に収録されている文書「アスクレピオス」の最後に置かれている第41章に相当する{{sfn|荒井・大貫|2010|p=523}}。古代のかなり早い段階で、「アスクレピオス」とは独立の祈りとして盛んに転写されて流布していたらしい{{sfn|荒井・大貫|2010|p=524}}。なぜ「感謝の祈り」を「アスクレピオス」の前に収録したのかについても推測の域を出ない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=525}}。原本がギリシア語であることは、他に残されている複数の資料から明らかである{{sfn|荒井・大貫|2010|p=523-524}}。ただし、ナグ・ハマディ写本収録の「感謝の祈り」「アスクレピオス」は、既にコプト語に訳されたものを筆写したものと推定されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=524}}。ラクタンティウスの「聖なる教え」の中にギリシア語の「完璧な教え」に関する記述が残されており{{sfn|荒井・大貫|2010|p=523}}、したがって原本は三世紀までには成立していたことははっきりしている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=526}}。本写本以外に、ミモーパピルス([[ルーヴル美術館]]所蔵、ギリシア語)にも収録されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=523}}。
|-
| 8
| アスクレピオス21-29<ref group="注">荒井「トマスによる福音書」では22-29、L.M.Robinson, ''The Nag Hammadi Library in English''では21-29となっている。</ref>
| style="text-align:left"|ヘルメス思想に属する教説。ヘルメス文書の1つ{{sfn|robinson|1988|p=330}}。以前は「完璧な教え」と呼ばれていた{{sfn|robinson|1988|p=330}}。オリジナルはギリシア語で書かれていた文書だが、完全な形で残されているのはラテン語訳のみである{{sfn|robinson|1988|p=330}}。ナグ・ハマディ写本のアスクレピオスは、中間部分をコプト語訳したもので、いくつかの部分でラテン語訳版とは大きく異なっている{{sfn|robinson|1988|p=330}}。コプト語訳版は、ラテン語訳版よりもギリシア語版に近い{{sfn|robinson|1988|p=330}}。始めにも終わりにもタイトルが書かれておらず、この点で他のナグ・ハマディ文書とは異なっている{{sfn|robinson|1988|p=330}}。
|}

===コーデックスⅦ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="5" | VII
| 1
| セームの釈義
| style="text-align:left"|題名は本文の冒頭に書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=325}}。ただし、本文中にセームはごくわずかしか現れず、内容はむしろ「セームへの釈義」というべきである{{sfn|荒井他|1998c|p=326}}。ギリシア語原本からのコプト語訳であることは本文より明白である{{sfn|荒井他|1998c|p=323}}。翻訳はかなり稚拙もしくは杜撰である{{sfn|荒井他|1998c|p=323}}。保存状態はきわめて良好で、わずかな欠損があるにすぎない{{sfn|荒井他|1998c|p=324}}。本文書は、内容の理解が難しいことで知られる{{sfn|荒井他|1998c|p=328}}。理由として、文体上の問題や、神話論で重要なキーワードが様々に言い換えられて用いられること、それらが時々で積極的にあるいは否定的に使われること{{sfn|荒井他|1998c|p=327}}、更に文書に論理的な構成が存在しないこと{{sfn|荒井他|1998c|p=328}}などがあげられる。おそらくは未完成な文書だと考えられる{{sfn|荒井他|1998c|p=328}}。ヒュッポリトスの「全異端反駁」の中に「セツの釈義」という名の文書に関する報告がある{{sfn|荒井他|1998c|p=333-335}}。初期の研究ではこの「セツの釈義」と「セームの釈義」は同一の文書か直接的な関係があるとの説が優勢だったが、その後は、より複雑な関係にあるとの説に変わってきた{{sfn|荒井他|1998c|p=336}}。ギリシア語原本の成立時期については、コーデックスVIIの成立時期(四世紀半ば)以前ということ以上はわからない{{sfn|荒井他|1998c|p=341}}。内容は、最初に至高神の御子デルデケアスが啓示を語り、その後に啓示された「証し」に解釈を加えたあと終末論と倫理に関する啓示が続く{{sfn|荒井他|1998c|p=328}}。更に、セームによる啓示があったあと、再びデルデケアスによる啓示があって、そこで終わる{{sfn|荒井他|1998c|p=328}}。
|-
| 2
| 大いなるセツの第二の教え
| style="text-align:left"|題名は本文の最後にギリシア語で書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=343}}。保存状態は極めて良く、事実上完全に保存されている{{sfn|荒井他|1998c|p=343}}。本文書に関する古代の記録はないので、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=343}}。ギリシア原本からのコプト語訳である{{sfn|荒井他|1998c|p=343}}。題名から容易に、「第一の教え」が存在したのではないかと考えたくなるが、現在では失われてしまったか、あるいは元々そのような文書はなかったのだと考えられている{{sfn|荒井他|1998c|p=346}}。ナグ・ハマディ写本所収の「セームの釈義」、あるいはヒッポリュトスの「全異端反駁」に報告されている「セツの釈義」が「大いなるセツの第一の教え」であるという仮説が唱えられたことがあったが、それを支持する研究者はほとんどいない{{sfn|荒井他|1998c|p=345}}。また、題名に「セツ」と書かれているにもかかわらず文書にセツは登場しない{{sfn|荒井他|1998c|p=346}}。また、セツ派に特徴的な思想・観念も現れない{{sfn|荒井他|1998c|p=346}}。なぜ、題名にセツの名を冠したのかは不明で、セツの名があるにもかかわらずセツ派の文書に含めないのが普通である{{sfn|荒井他|1998c|p=346}}。
|-
| 3
| コプト語ペトロ黙示録
| style="text-align:left"|題名は本文の最初と最後にギリシア語でそれぞれ書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=359}}。ギリシア原本からのコプト語訳であることは本文より明白である{{sfn|荒井他|1998c|p=358}}。誤訳や写し間違いの部分以外に、筆写した人物がオリジナルのテクストを改変している可能性も指摘されている{{sfn|荒井他|1998c|p=358}}。保存状態は非常によく、事実上完全に残っていると言ってよい{{sfn|荒井他|1998c|p=358}}。古代には「ペトロの黙示録」という名の文章はたくさん作られたことがわかっており、本文書もその中のひとつである{{sfn|荒井他|1998c|p=359}}。最も有名な「ペトロの黙示録」は、アレクサンドリアのクレメンス等が引用している書物で、エチオピア語訳やギリシア語訳の断片が残されているが、本文書はそれとは別物である{{sfn|荒井他|1998c|p=359}}。古代の伝承で「ペトロの黙示録」について書いた書物はたくさん存在するが、それらがどの「ペトロの黙示録」について書いているのかの手がかりはないので、少なくとも一義的に本文書について記録した古代の証言は存在しない{{sfn|荒井他|1998c|p=359}}。ギリシア語原本の成立時期に関する手がかりはなくはっきりしたことはわからないが、二世紀後半より後に成立していた可能性が高い{{sfn|荒井他|1998c|p=370}}。イエスの逮捕直前に忘我状態でペトロが見た幻を書いた文書で、イエスの逮捕と処刑に関する内容である{{sfn|荒井他|1998c|p=360}}。仮現論的キリスト論が展開されている{{sfn|荒井他|1998c|p=366}}。地上・天上ともに徹底的に二分されて書かれており{{sfn|荒井他|1998c|p=361}}、自分達と敵対する勢力を非難する内容である{{sfn|荒井他|1998c|p=364}}。敵対勢力とは、正統教会だけでなく、自分たちとは異なるいくつかの異端勢力だったと考えられる{{sfn|荒井他|1998c|p|364}}。グノーシス主義の通常の文書では、ペトロ以外の人物に「真の啓示」や「真の教え」を語らせ、それによってペトロの権威を否定・相対化しているが、本文書はそれとは異なり、ペトロ自身を利用して正統教会を否定する手法が特徴的である{{sfn|荒井他|1998c|p=369}}。グノーシス主義の文書であることは明瞭に見てとれる{{sfn|荒井他|1998c|p=361}}。
|-
| 4
| シルヴァノスの教え
| style="text-align:left"|本文書に関して古代の文献に記録はない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=532}}。ただし、「シルヴァノスの教え」という名前では記録に現れないだけで、ナグ・ハマディ写本以外の異本が存在する{{sfn|荒井・大貫|2010|p=532}}。1つは『大英博物館所蔵のコプト語手稿のカタログ』(1904年)にNo.979との整理番号で収録されている[[羊皮紙]]に書かれた文書(題名は書かれていない)で、「シルヴァノスの教え」の1部であることが1975年にわかった{{sfn|荒井・大貫|2010|p=532}}。他に、砂漠の隠遁生活の創始者として有名な聖アントニウス作と伝えられた一連の偽作文書をまとめたアラビア語写本(8-9世紀制作と推定)にも伝わっている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=532}}。また、後者のラテン語訳がミーニュのギリシア教父全集(ルーブル博物館蔵)第40巻1073-1080欄に収録されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=533}}。これらの諸文書の写本伝承関係については仮説の域を出ない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=533}}。ナグ・ハマディ写本収録の「シルヴァノスの教え」の保存状態はほぼ完全である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=531}}。ギリシア語原本をコプト語に翻訳したもので、題名は本文の最初に置かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=531}}。ナグ・ハマディ写本の多くがグノーシス主義の文書であるのに対して、「シルヴァノスの教え」の基本的な立場はアレクサンドリア神学にあり{{sfn|荒井・大貫|2010|p=536}}したがってグノーシス主義の文書ではなく{{sfn|robinson|1988|p=379}}{{sfn|荒井・大貫|2010|p=541}}、1部反グノーシス主義な議論を含んでいるとも言える{{sfn|robinson|1988|p=379}}。
|-
| 5
| セツの三つの柱
| style="text-align:left"|古代の伝承に記録はなく、ナグ・ハマディ文書の発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=373}}。題名は文書の最後に記されている{{sfn|荒井他|1998c|p=373}}。原本がギリシア語であることは確実である{{sfn|荒井他|1998c|p=373}}。コーデックスVIIの保存状態は写本全体の中でも最良であり、本書もほぼ完全な状態で残されている{{sfn|荒井他|1998c|p=373}}。原本の成立時期は、3世紀中頃から4世紀半ば以降と考えられる{{sfn|荒井他|1998c|p=383}}。ただし、3世紀半ばよりももっと以前という可能性も残されている{{sfn|荒井他|1998c|p=383}}。本書は、ドーシテオスという人物が、セツによって記されたという3つの碑文の内容を「そこに書かれてあった通りに」述べる、という形式によっている{{sfn|荒井他|1998c|p=374}}。碑文にはそれぞれ、セツによる高次の神的存在への賛美が書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=376}}。第3の柱の内容には、至高神を認識することが人間の救済であるというグノーシス主義の表明が見られる{{sfn|荒井他|1998c|p=377}}。オリゲネスの「偽クレメンス文書」その他によると、異端の始祖だと正統教会から非難された[[シモン・マグス|魔術師シモン]]には「サマリア人ドーシテオス」なる先生がいると書かれているが、本書の著者がこの「サマリア人ドーシテオス」と同一人物であるとの見方には否定的な研究者が多い{{sfn|荒井他|1998c|p=379}}。文書の名前の通り、セツ派の要素・哲学が支配的であり、キリスト教の要素は全くない{{sfn|荒井他|1998c|p=380}}。ユダヤ教・旧約聖書的要素も希薄である{{sfn|荒井他|1998c|p=380}}。本書は、特に「ツォストリアノス」「アロゲネス」「マルサネス」との並行箇所が多く{{sfn|荒井他|1998c|p=380}}これらの4文書はプロティノスと接触のあったキリスト教徒哲学者が書いたものであるとの推測が研究者間では一般的に受け入れられている{{sfn|荒井他|1998c|p=382}}。
|}

===コーデックスⅧ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="2" | VIII
| 1
|ツォストリアノス
| style="text-align:left"|題名は本文の最後に書かれているが、一見しただけでは意味不明の「隠し言葉」になっている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=468}}。これを一定の規則でギリシア語の文字に置き換えると「ツォストリアノスの真理の言葉。真[理]の神、ゾーロアストロス[の]言葉」という文字列が現れる([ ]の部分は本文損傷のために推定によって復元した箇所を表す{{sfn|荒井・大貫|2010|p=v}}){{sfn|荒井・大貫|2010|p=469}}。このあとがきから、ツォストリアノスとゾロアスターを同一人物とみなしていることがわかるが、古代に広く流布していた伝承から、明らかに両者が同一人物ではないことがわかっている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=469}}。ナグ・ハマディ写本中最長の文書であるが、保存状態はナグ・ハマディ写本中最悪である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=468}}。原本がギリシア語だったことは本文より明白である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=468}}。「ツォストリアノス」に関する古代の記録として、ポルピュリオスが書いた「プロティノスの一生と著作の順序について」(プロティヌス伝)があげられる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=471}}。この事実から、本書の原本の成立時期は2世後半から3世紀初めであろうというのが妥当だという{{sfn|荒井・大貫|2010|p=473}}。「ツォストリアノス」は、主人公のツォストリアノスが啓示者として遣わされた複数のアルコーンから講話を受け宇宙の階層構造を知る様子を描いている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=473-474}}。「ツォストリアノス」では、宇宙は11の階層を持つと説明されている。階層構造は、最上位から最下位への順で、見えざる霊・バルベーローのアイオーン・カリュプトスのアイオーン・プロートファネースのアイオーン・三重の男児のアイオーン・アウトゲネースのアイオーン・回心(メタノイア)・滞在(パロイケーシス)・対型(アンティテュポス)のアイオーン・空気の大地・この世界(地上)、である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=475-476}}。更に、回心・対型のアイオーン・この世界はそれぞれ、6層、7層、13層に分かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=476}}。各アイオーンでは多数のアルコーンが生み出され、特にアウトゲネースのアイオーンでのアルコーンの数は多い。「ツォストリアノス」はユダヤ教黙示録との類似性が強く、キリスト教との関係は希薄である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=479}}。セツ派の文書であることは確実である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=482}}。
|-
| 2
| ピリポに送ったペトロの手紙
| style="text-align:left"|題名は本文の最初に書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=513}}。一方、本文末尾には題名は書かれていない{{sfn|荒井他|1998b|p=513}}。原本はギリシア語だったと見られる{{sfn|荒井他|1998b|p=512}}。本文中に「ヨハネのアポクリュフォン」におけるソフィア神話やプロノイアの自己顕現に関する記事の要約が書かれていることから、本文書の成立時期は「ヨハネのアポクリュフォン」成立よりも後であることがわかる{{sfn|荒井他|1998b|p=518}}。新約正典・外典等にある「ペトロの名によって書かれた手紙」の系列に属する文書{{sfn|荒井他|1998b|p=514}}であるが、全体としては手紙になっておらず、文書の本体部分は啓示である。啓示の序言部分が手紙の形式で書かれているに過ぎない{{sfn|荒井他|1998b|p=513}}。また、題名に「ピリポ」とあるが、冒頭部分にわずか名前が出てくるだけである{{sfn|荒井他|1998b|p=515}}。「ヨハネのアポクリュフォン」「三体のプローテンノイア」がセツ派の文書と考えられていること、両者の要約が本文書内に見られることから、本文書もセツ派の文書であると考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=516}}。ほぼ同じ内容の文書が「チャコス写本」の中に含まれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=409}}。
|}

===コーデックスⅨ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="3" | IX
| 1
| メルキセデク
| style="text-align:left"|ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=454}}。題名の「メルキセデク」は本文の最初に装飾を施されて書かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=454}}。ギリシア語原本の成立時期は2世紀後半から3世紀前半にかけて、というのが研究者の多数意見である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=454}}。メルキセデクとは、旧約聖書ではよく知られた人物の名で、[[創世記]]十四章十七-二十節、[[詩篇]]百十篇四節などに現われている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=454}}。黙示録の体裁をとっているが、主人公のメルキセデクは常に地上に留まっている点が「ツォストリアノス」や「マルサネス」とは違っている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=455}}。全体は三部構成でできており、第1部は天使ガマリエールがメルキセデクの前に現われて与える啓示講和である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=454}}。第2部では、講話を聞き終わったメルキセデクが「いと高き父なる神」を賛美する{{sfn|荒井・大貫|2010|p=455}}。第3部は再び啓示講和で、ガマリエールとは別の複数の啓示者が現れてメルキセデクに語る{{sfn|荒井・大貫|2010|p=455}}。本文書はセツ派との密接な関係を持っている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=456}}と同時に、グノーシス主義的な「仮現論」(イエスの肉体は、その神的本質にとっては仮の宿りに過ぎないという見解)を論駁する文章も書かれており{{sfn|荒井・大貫|2010|p=457}}、矛盾した立場が同居している。このような矛盾は他のナグ・ハマディ写本所収の文書にも大なり小なり存在するが、特に「メルキセデク」においてはそれが明瞭である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=458}}。
|-
| 2
| ノレアの思い
| style="text-align:left"|保存状態の悪いコーデックスIXの中では比較的状態のいい文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=386}}。本文書に関する古代の記録はなく、ナグ・ハマディ文書の発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井他|1998c|p=386}}。エピファニオスの「薬籠」の中で「ノリアの書」という文書について言及されているが、本文書とは別物であるようである{{sfn|荒井他|1998c|p=386}}。題名は文書の冒頭・末尾共に書かれていない{{sfn|荒井他|1998c|p=386}}。一般的には「ノレアの思い」(あるいは「ノレアの思想」)が使われているが、「ノーレア頌歌」、「ノレアの洞察行為」と呼ぶ研究者もいる{{sfn|荒井他|1998c|p=386}}。わずか五十二行の短い文書で{{sfn|荒井他|1998c|p=386}}、ナグ・ハマディ写本収録の「アルコーンの本質」と多くの共通点を持っている{{sfn|荒井他|1998c|p=388}}。原本の成立時期として三世紀初頭と推定する研究者がいる{{sfn|荒井他|1998c|p=388}}。
|-
| 3
| 真理の証言
| style="text-align:left"|「真理の証言」という題名は、現代の研究者が付けた通称である{{sfn|荒井他|1998b|p=177}}。冒頭に題名が書かれておらず{{sfn|荒井他|1998b|p=139}}、また、文書の後半は完全に喪失しているため、最後に題名が書かれていたかどうかもわからない{{sfn|荒井他|1998b|p=176-177}}。元々コーデックスⅨ自体の保存状態が悪かったため、本文書の保存状態も悪く{{sfn|荒井他|1998b|p=413-415}}、ナグ・ハマディ文書中でも最悪の部類である{{sfn|荒井他|1998b|p=413}}。最大で約千四百十五行の文章だったと推定されるが、そのうち完全に残っているのは二百二十行に過ぎず、推定による復元を含めても七百二十行で全体の約45%でしかない{{sfn|荒井他|1998b|p=415}}。ギリシア語原本からのコプト語訳である{{sfn|荒井他|1998b|p=413}}。ただし、写字生がコプト語訳を行ったのではなく、すでに訳された文書を筆写したものと推定される{{sfn|荒井他|1998b|p=416}}。原本の成立時期については、二世紀末から三世紀初めとの説が唱えられているが、異論も出されていてよくわからない{{sfn|荒井他|1998b|p=430-431}}。大まかには3部構成からなっているが、欠損部が多くその区分はあいまいである{{sfn|荒井他|1998b|p=417}}。初期の研究では「書簡」として分類されていたが、現在では「説教」か「説教的な内容のパンフレット」と見なすのが研究者の多数派意見である{{sfn|荒井他|1998b|p=418}}。旧約外典・偽典、教父文書の他、旧約・新訳聖書からの頻繁な引用が見られる{{sfn|荒井他|1998b|p=419, 426}}文書で、極度な禁欲主義を説いている{{sfn|荒井他|1998b|p=422}}。真理を認識したものは駄弁と議論を排しながら、一生涯性的禁欲を貫くよう求めており、パコミウスの修道院運動と比べて「攻撃的・反世界的」だと評する研究者もいる{{sfn|荒井他|1998b|p=422}}。同時に正統教会の殉教の神学を否定し、グノーシス主義者として禁欲の生涯を送ることが真の殉教であると主張する{{sfn|荒井他|1998b|p=423}}、正統教会の洗礼は口先だけの世界拒否に過ぎないと非難する{{sfn|荒井他|1998b|p=424}}など、グノーシス主義から正統教会を非難した文書でもある。また、グノーシス主義内部に多くの分派が存在したことを明瞭に示す文書でもあり、ヴァレンティノス派、バシリデス派、シモン派の存在がはっきりと書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=424}}。読み方によっては、コッダイアノス派、カルポクラテス派の存在も見てとれる{{sfn|荒井他|1998b|p=424}}。キリスト教的グノーシス主義の文書である{{sfn|荒井他|1998b|p=426}}。
|}

===コーデックスⅩ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| X
| 1
| マルサネス
| style="text-align:left"|コーデックスXには「マルサネス」以外収録されていないが、元々そうだったのか、他に収録されていた文書があって失われてしまったのかはわからない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=496}}。写本の保存状態はナグ・ハマディ文書中最悪である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=496}}。完全またはほぼ完全に残っているページは数えるほどしかなく大半のページは大きく欠損している、あるいは完全に消失してしまっている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=496}}。原本がギリシア語で書かれていたことは明らかである{{sfn|荒井・大貫|2010|p=497}}。題名の「マルサネス」は本文の最後に書かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=497}}。損傷が激しく読みにくかったが1970年代に解読され、その後は研究上確定している{{sfn|荒井・大貫|2010|p=497}}。内容は広義の黙示録と言え、「ツォストリアノス」とよく似ている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=500}}が、「ツォストリアノス」に比べて記述はずっと簡略である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=503}}。「マルサネス」は、主人公のマルサネスが啓示者の助けを借りて、宇宙の階層構造を最下位の地上から最上位の至高の存在まで認識していく過程を描いている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=500}}。「マルサネス」では、宇宙は13層から成っていると説明されており、各層は「…の封印」と名付けられている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=500}}。「第3,2,1の封印」が物質的な世界であるこの世に相当し、「第13の封印」が至高者の世界である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=499-500}}。「ツォストリアノス」では「見えざる霊」が最高の至高の存在だったが、「マルサネス」ではその更に上位に「今だかつて知られたことのない沈黙者」という存在をおいている点が新しい{{sfn|荒井・大貫|2010|p=503}}。
|}

===コーデックスⅩⅠ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="4" | XI
| 1
| グノーシスの解釈
| style="text-align:left"|本文の最初と最後の2回「グノーシスの解釈」という題名が書かれているが、本文の内容とは必ずしも合致していない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=436}}。むしろ、様々な既存の文書がグノーシス(知識)によって正しく解明される、という意味で解するのが適当であるという{{sfn|荒井・大貫|2010|p=436}}。「グノーシスの解釈」は古代の文献に証言がなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=436}}。保存状況は本写本中最悪で、本来あるはずの約半分しか現存していない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=435}}。原本がギリシア語であったことは確実である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=435}}。原本の成立時期については推測の域を出ない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=436}}。内容は、「グノーシスの解釈」の著者とその読者が属した教会が分裂状況にあり、それを何とか乗り越えるために作られた実際の説教である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=437}}。グノーシス主義の文書であることは明瞭だが、その性格を「キリスト教的グノーシス主義」というべきか、それとも「グノーシス主義的キリスト教」と呼ぶべきかは微妙な問題であるという{{sfn|荒井・大貫|2010|p=438}}。
|-
| 2
| ヴァレンティノス派の解明
| style="text-align:left"|ヴァレンティノス派の宇宙論・救済論・終末論の重要なポイントが要約されている文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=424}}。欠損が多く、平均して各ページの三分の一は完全に失われている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=422}}。そのため、不明な部分も多い{{sfn|荒井・大貫|2010|p=424}}。ヴァレンティノス派の教義については、エイレナイオスの『異端反駁』第1巻冒頭に書かれているのと、本写本の「三部の教え」が参考になる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=424}}。「ヴァレンティノス派の解明」というタイトルは本文の初め・終わりにも書かれていない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=423}}。もともと無表題の文書だったと推測されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=423}}。「ヴァレンティノス派の解明」という名前は現代の研究者によって付けられた通称である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=423}}。本文に無数のギリシア語の借用語が見られることから原本がギリシア語であることは確実である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=422}}。成立年代の詳しいことはわからない。ヴァレンティノスが登場したのは2世紀半ばであるので、それ以降、コーデックスXI成立の4世紀前半までいうことしかわからない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=423}}。ヴァレンティノス派と言っても更に分派が存在しているので、本文書がそのどの派のものなのかは議論があり確定していない{{sfn|荒井・大貫|2010|pp=432-433}}。
|-
| 3
| アロゲネス
| style="text-align:left"|アロゲネスとは、異人という意味である{{sfn|荒井他|1998c|p=390}}。エピファニオスが「薬籠」の中で、アルコーン派の人々が「アロゲネースたちと呼ばれる諸文書を持っている」と述べているので、古代にはアロゲネスの名を冠した諸文書が存在していたことがわかる{{sfn|荒井他|1998c|p=390}}。本文書は、その一連の文書の中の1つと考えられる。一方、エイレナイオスやヒッポリュトスの書物には「アロゲネースたち」に関する記述はないので、アロゲネスの名を冠した諸文書は、三世紀以後に展開されたものと推測される{{sfn|荒井他|1998c|p=391}}。題名は文書の末尾に書かれている{{sfn|荒井他|1998c|p=390}}。ギリシア原本をコプト語訳した文書だと考えられる{{sfn|荒井他|1998c|p=239}}。アロゲネスが啓示を受けそれを「わが子メッソス」のために記録するという体裁の文書で、経済的援助者か弟子のために作られた説話である{{sfn|荒井他|1998c|p=393}}。なお、「チャコス写本」に含まれている「アロゲネースの書」はナグ・ハマディ写本所収の「アロゲネス」とは内容が異なる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=410}}。
|-
| 4
| ヒプシフロネー
| style="text-align:left"|「ヒプシフロネー」とはギリシア語で「高慢な」を意味する形容詞の女性単数形だという{{sfn|荒井・大貫|2010|p=151}}。古代の文献に記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=465}}。保存状態は非常に悪く残っている四ページのパピルスのどのページの本文も半分以上欠落している{{sfn|荒井・大貫|2010|p=464}}。この他に、おそらく「ヒプシフロネー」の一部だろうと推測される断片が大小六つほど残っている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=464}}。題名は本文の最初に書かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=465}}。欠落部分が多すぎて推測以上のことは何もわからない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=466}}。
|}

===コーデックスⅩⅡ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="3" | XII
| 1
| セクストゥスの金言
| style="text-align:left"|ナグ・ハマディ写本以外に、パトモス写本(10世紀)とヴァチカン写本(14世紀)にも伝わっている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=544}}。後者は共にギリシア語で書かれている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=544}}。これ以外にも、ラテン語訳の写本(ラテン教父の一人ルフィヌスによるラテン語訳)やシリア語訳、アルメニア語訳、ゲオルギア語訳、エチオピア語訳が伝わっている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=546}}。ルフィヌスは、伝説によればと断った上で、三世紀半ばのローマの司教クシュストゥス二世の作であると述べている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=548}}。一方、ヒエロニュモスは、ルフィヌスの言はでたらめで真の作者は「ピュタゴラス主義者セクストゥス」であると書いているが、実際にこれが誰のことなのかははっきりしない{{sfn|荒井・大貫|2010|p=549}}。ナグ・ハマディ写本の「セクストゥスの金言」がギリシア語原本からコプト語訳したものであるのは本文より明瞭に見て取れる{{sfn|荒井・大貫|2010|p=544}}。「セクストゥスの金言」は古代末期の多くの文献に記録が残されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=546}}。その最初のものはオリゲネスによる「ケルテス論駁」である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=546}}。これより、ギリシア語原本は二世紀末に成立したものと推定されている{{sfn|荒井・大貫|2010|p=549}}。コーデックスXII所収の「セクストゥスの金言」はパピルス5枚10ページ分しか残っておらず、どのページも上部が欠損していて単独での復元は難しい{{sfn|荒井・大貫|2010|p=544}}。本書にグノーシス的な要素は皆無である{{sfn|荒井・大貫|2010|p=551}}。
|-
| 2
| 真理の福音(の一部)
|
|-
| 3
| 断片
|
|}

===コーデックスⅩⅢ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| rowspan="2" | XIII
| 1
|三体のプローテンノイア
| style="text-align:left"|題名は、本文の最後にギリシア語で書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=433}}。ただし、正確には「顕現の教え 三」「三体のプローテンノイア 三」「父によって書かれたる聖なる書」「完全なる知識をもって」と書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=206}}。「顕現の教え 三」は、本文書の第3部についていた表題と考えられる{{sfn|荒井他|1998b|p=433}}(第1部には「プローテンノイアの教え 一」の表題が書かれている{{sfn|荒井他|1998b|p=433}}。第2部の表題は欠損のために不明であるが、「[宿]命[論 二]」と復元されている{{sfn|荒井他|1998b|p=433}})。「父によって書かれたる聖なる書」「完全なる知識をもって」については、なぜ書かれたのかは不明である{{sfn|荒井他|1998b|p=433}}。プローテンノイアとは、ギリシア語の「プローテー」(最初の、という意味)と同じくギリシア語の「エンノイア」(思考、の意味)を合成して作った造語である{{sfn|荒井他|1998b|p=432}}。保存状態は中程度で、復元不可能な部分もある{{sfn|荒井他|1998b|p=432}}。ギリシア語原本からのコプト語訳だと推定される{{sfn|荒井他|1998b|p=432}}。本文書の神話論は、セツ派の文書である「エジプト人福音書」「ヨハネのアポクリュフォン」との並行箇所が多く、特に「ヨハネのアポクリュフォン」とは共通部分が多い{{sfn|荒井他|1998b|p=437}}。コーデックスⅡとⅣ所収の「ヨハネのアポクリュフォン」(通称「長写本」)のエピローグを拡大して成立した文書に見える{{sfn|荒井他|1998b|p=437}}が、「ヨハネのアポクリュフォン」自体の成立史が複雑である上に、「三体のプローテンノイア」自体も伝承史的に最も古い基層に2次的に文章を付加して作られたと見られるので、相互の関係は単純ではない{{sfn|荒井他|1998b|p=439}}。「三体のプロテーンノイア」は「[[ヨハネによる福音書]]」との関連性が指摘されている{{sfn|荒井他|1998b|p=440}}
|-
| 2
| この世界の起源について(の一部)
| style="text-align:left"|「三体のプローテンノイア」の最終ページあとがきに続いて、「この世の起源について」の冒頭十行分だけが残されている{{sfn|荒井他|1997|p=155}}。このことから、コーデックスIIの「この世の起源について」とは別の異本が存在したことがわかるが、コーデックスXIIIには冒頭十行分以外は残されていない{{sfn|荒井他|1997|p=155}}。
|}

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注" />
===出典===
{{Reflist|3}}


==参考文献==
==参考文献==
* 荒井献他訳、『ナグ・ハマディ文書』全四巻、岩波書店、1997年~1998年
*{{citation|和書|author=荒井献他訳|year=1997|title=ナグ・ハマディ文書Ⅰ救済神話|publisher=岩波書店|
ISBN=4-00-026107-X
|ref={{SfnRef|荒井他|1997}}}}
*{{citation|和書|author=荒井献他訳|year=1998|title=ナグ・ハマディ文書Ⅱ福音書|publisher=岩波書店|
ISBN=978-4-00-026108-1
|ref={{SfnRef|荒井他|1998a}}}}
*{{citation|和書|author=荒井献他訳|year=1998|title=ナグ・ハマディ文書Ⅲ説教・書簡|publisher=岩波書店|
ISBN=978-4-00-026109-8
|ref={{SfnRef|荒井他|1998b}}}}
*{{citation|和書|author=荒井献他訳|year=1998|title=ナグ・ハマディ文書Ⅳ黙示録|publisher=岩波書店|
ISBN=4-00-026110-X
|ref={{SfnRef|荒井他|1998c}}}}
*{{citation|和書|author=荒井献・大貫隆|title=ナグ・ハマディ文書 チャコス文書 グノーシスの変容|publisher=岩波書店|year=2010|isbn=978-4-00-022629-5|ref={{SfnRef|荒井・大貫|2010}}}}
*{{citation|和書|last=荒井|first=献|year=1994|title=トマスによる福音書|publisher=講談社学術文庫|ISBN=4-06-159149-5
|ref={{SfnRef|荒井|1994}}}}(1984年4月に講談社から発刊された「隠されたイエス―トマスによる福音書」を増補・改訂して文庫化したもの)
*{{citation|last=Robinson|first=James|year=1988|title=The Nag Hammadi Library in English(The Third Completely Revised Edition)|isbn=0-06-0669-35-7|ref={{SfnRef|robinson|1988}}}}
*{{citation|last=Pagels|first=Elaine|year=1989|title=The Gnostic Gospels|publisher=Vintage Books|isbn=0-679-72453-2|ref={{SfnRef|pagels_en|1989}}}}. (1979年にランダム・ハウス社から発刊された本の再刊本)
* {{cite book | author=Markschies, Christoph (trans. John Bowden), | title=Gnosis: An Introduction | publisher=T & T Clark | year=2000 | isbn=0567089452 | ref={{SfnRef|markschies|2000}}}}
* {{cite book | author=Markschies, Christoph (trans. John Bowden), | title=Gnosis: An Introduction | publisher=T & T Clark | year=2000 | isbn=0567089452 | ref={{SfnRef|markschies|2000}}}}
* {{Cite book|和書|title=ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教の正統と異端|author=エレーヌ・ペイゲルス|others=荒井献(訳)、湯本和子(訳)|publisher=白水社|year=1996|isbn=4560028990|ref={{SfnRef|ペイゲルス|1996}}}}
* {{Cite web|url=http://www.ccel.org/ccel/schaff/npnf204.xxv.iii.iii.xxv.html|title=NPNF2-04. Athanasius: Select Works and Letters - Christian Classics Ethereal Library|accessdate=2015-06-17|ref={{SfnRef|athanasius}}}}
* {{Cite book|和書|title=ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教正統と異端|author=エレペイゲルス|others=荒井献(訳)、湯本和子(訳)|publisher白水社|year=1996|isbn=4560028990|ref={{SfnRef|pagels|1996}}}}
* {{Cite book|和書| title=ユダ福音書を追え | author=バートクロニー | others=| publisher=日経ナショナル ジオグラフィック | year=2006 | isbn=978-4-93-145060-8 |ref={{SfnRef|クロスニー|2006}}}}

== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commonscat|Nag Hammadi}}
{{commonscat|Nag Hammadi}}

2016年4月29日 (金) 15:33時点における版

ナグ・ハマディ写本の一部(トマスの福音書)

ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディしゃほん、The Nag Hammadi Codices)あるいはナグ・ハマディ文書(ナグ・ハマディぶんしょ、The Nag Hammadi library)とは1945年上エジプトケナ県ナグ・ハマディエジプト・アラビア語版(より正確には、ナグゥ・アル=ハムマーディ[1])村の近くで見つかった初期キリスト教文書のことである。 ナグ・ハマディ写本は、二十世紀最大の考古学的発見に数えられており[2]、 事実、初期キリスト教の研究を飛躍的に進展させた[2]。 ナグ・ハマディ写本は、古代キリスト教を知るための原資料としては死海写本につぐ重要性を持つと見なされている[2]

概要

写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン[1](Muhammad ʽAlī al-Sammān)[3]が偶然土中から掘り出したことで発見された。発見時、文書は壷におさめられ、羊の皮でカバーされたコーデックス(冊子状の写本)の状態であった[4]。ナグ・ハマディ写本は全部で13冊からなっている。より正確に言うと、12冊の写本と8枚の断片からなっており[注 1]、後者は13冊目の写本から破られたものと6冊目の裏表紙に挟まれていたものである[5]。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・M・ロビンソン英語版(James M. Robinson)による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、本写本はエジプトの修道士パコミオス英語版がはじめた修道士共同体(後世の修道院に相当する)[1]に所蔵されていたのかもしれないという[6]

写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルス[注 2]の内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。写本が作られた時期に関してはほとんど議論の余地がなく、西暦350年から400年の間と推定されている[7][9]。この年代は、カートナージ[注 3]やコプト語の字体から決定できる[12]。写本が土中に埋められたのは4世紀よりも以前である[13]

一方、写本に収録された各編の原本の成立時期については異論があり確定できていない[12][注 4]

ナグ・ハマディ文書そのものはカイロコプト博物館に所蔵されている。

ナグ・ハマディ写本の発見以前、少数の例外を除くとキリスト教グノーシス派由来の直接的な文献はほとんど発見されていなかった。 そのため、グノーシス派に関する研究は、反異端の立場からグノーシス派を非難した古代の正統教会の教父たちが残した文献に頼らざるを得なかった[17]。ナグ・ハマディ写本は古代キリスト教の異端としては最初で最大の勢力だったキリスト教グノーシス派の原資料にあたり[18]、キリスト教グノーシス派の教理・神話論などを正統教会の偏見を通さずに知ることが出来ることから重要な写本である。

発見の経緯

写本が発見されたナグ・ハマディの位置

ナグ・ハマディ写本が発見された経緯について最初に調査したのはフランス人古代オリエント学者 ジャン・ドレス[19](Jean Doresse)で、1950年1月のことである[20]。 この時の結果は1960年に『ナグ・ハマディ文書の発見―キリスト教の基盤を揺るがす現地調査の記録』として出版された[20]。 ドレスの調査した時期は写本が発見されてから5年しか経っておらず、写本発見に関する証人たちの 証言内容は信頼できるものだったという[20]が、 ドレスは厳密に言えばコプト学の専門家ではなかった[20]ことから、 J.M.ロビンソンはその調査結果に不満足だった[21]。 そこでロビンソンは、1970年代初めに数ヵ月に渡って調査を実施し、 その結果をまとめて、『ファクシミリ版ナグ・ハマディ文書』の最終巻の序文で公表した[22]。 ロビンソンによる調査結果の概要は以下の通りである。 ただし、ロドルフ・カッセル(スイスのコプト学の第一人者)[23]、 マルチン・クラウス(ドイツ・ミュンスター大学の著名なコプト学者)[23] らのように、ロビンソンによる調査内容に対して批判的な者も存在する[22]ことにも留意する必要がある。 カッセルは、エジプトの農民は報酬を得ようとして話をでっちあげる傾向があり[24]、 地元住民にとって何の重要性もない、取るに足らない出来事を、発見から何十年も経っているのに 詳しく覚えているのは不自然である[24]と批判している[注 5]

ジャバル・アッターリフ

文書発見の経緯は、アラブ人農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン[1]が偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。1945年12月、ムハマンドは、弟のカリファ(Kalīfah)と共にラクダに乗って、 ジャバル・アッターリフ[1](Jabal al-Tārif)の南側へ出かけた[3]。 ジャバル・アッターリフは、ナイル峡谷の北壁を下限として北側に連なる石灰岩からなる山岳地帯で、その南斜面には 150以上の洞穴がミツバチの巣のようにあいている[1][25]。 これらの洞穴はもともとは自然にできたものだったが、既に第6王朝の時期には中をくりぬき彩色を施して墓所として使っていた[25]

この地方では、サバッサ(硝酸塩を含んだ軟土)[1]を ジャバル・アッターリフから掘り出して肥料として使っていた[3]。 ムハマンドがジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘ってサバッサを採取していたところ、 鍬の先に何かが当たった[4]。掘り下げてみると、4つの把手が付いた高さが1mもある素焼きの壷が現れた[4]。 この壷が出てきた場所は、ジャバル・アッターリフのふもとの第六王朝時代の墓地跡(ケノポスキオンからほぼ真北に約30km北上した付近)から東に約1km離れた場所である[19]

当初、ムハマンドは壷を割ることをためらっていた[26]。 ムハマンドの証言によると、中にジンが入っているのではないかと恐れたからである [26]。しかし、金(きん)が入っているかもしれないと思い直して、鍬で壷を割ってみた [26]。壷の中から出てきたのは13冊の本で、パピルスでできており皮で装丁されていた [25]。ムハマンドはその本を服でくるんでから肩にかけて、 家に持ち帰った[26]。この本が現在ナグ・ハマディ写本と呼ばれているものである。 ムハマンドは持ち帰ったあと本をばらして、かまどの隣に敷いてあったわらの上に置いた[25]。 これらの写本は最終的には全てコプト博物館の収蔵品になったが、そこに至った経緯は複雑である。

この発見の半年前の1945年5月7日の夜に、2人の兄弟の父親アリー(畑の灌漑の夜警の仕事をしていた)が、 見回り中に1人の泥棒を殺した[26]。アリーはその仕返しを受けて翌朝までに殺された[26]。この事件が、後のナグ・ハマディ写本の運命と関係してくる。

ムハマンドが写本を発見した1ヶ月後、家の近くの道端で日中の暑さで眠りこけている男がいた[26]。 隣人がこの男を見かけると、男を指差してムハマンドに、お前の父親を殺したのはこの男だ、と言った[26]。この男は、アーマド・イスマイル(Ahmad Īsmāʻīl)という名で、 警官イスマイル・フセインの息子だった[26]。 アーマドはハワラ族で、父親はアル・カスル(al-Qasr)村の外からやってきた人物だったので、村では疎外されていた[26]

ムハンマドは、家に駆け込むと兄弟と母親にこのことを告げた[26]。アーマドを捕まえると、一家で、 アーマドの手足を徐々に切り刻み、心臓をえぐり出して全員でむさぼり食い、血の復讐を行った[26]。 ハワラ族はジャバル・アッターリフのふもとに村を作って住んでいたので、復讐されることを恐れて、この後 ムハマンドは壷を見つけた場所に近づこうとはしなかった[26]。 後に、ムハマンドを説得して壷を発見した場所まで案内させたのだが、そのためには変装をさせ、政府の護衛を付け、更に 金品を見返りに与えねばならなかった[26]

コーデックスIII

アーマドが殺されたことをアル・カスル村の住人は喜び、警察の捜査でも目撃者が証言しようとはしなかったが、 警察はムハマンドに目をつけ、毎日夕方になると殺害に使った武器が見つからないかと家にやってくるようになった [27]。ムハマンドは写本が警察に見つかることを恐れた[28]

壷から発見された本がコプト語で書かれていたことから、キリスト教のものであると言われたムハマンドは、 村のコプト教の司祭、アックンムス・バシリユス・アブド・アッマシー (al-Qummus Basīlīyūs 'Abd al-Masih)[28]に相談して、 これらの本のうち1,2冊[28]を司祭の家で預かってもらえないかと頼んだ [27]。(なお、別の文献の説明では、村を離れることになったときに司祭に文書を託した[29]ことになっている。)

バシリユスは結婚しており、義兄のラジブ・アンドラウス(Rāghib Andrawus)が、 コプト教会の学校で英語と歴史を教えていた[27]。 村々を巡回して生徒たちに教えており、アル・カスル村にやって来てバシリユスの妻の家に泊まったときに、 バシリユスは現在コーデックスIIIと呼ばれている写本を見せた[27]

その価値に気づいたラジブは司祭を説得して写本のうち1冊を手に入れ[28] カイロへ持っていき、友人[28]コプト語に興味を持っていた医者ジョージ・ソビイ (Goerge Sobhi)に見せた[27]。 コーデックスIIIを三百ポンドで買い取ることで話はまとまったが、支払いは遅れに遅れた[27]。 最終的にはラジブに二百五十ポンド、コプト博物館へ五十ポンド寄付することで決着がつき、 コーデックスIIIはコプト博物館に収蔵されることになった[27]。 収蔵されたのは1946年10月4日のことである[27]。 13冊ある写本の中で、最も早くコプト博物館に収められたのがこのコーデックスIIIである[19]

コーデックスIとIII以外の行方

一方、無価値だと思ったか、もしくは災いを招くと思ったかして[30]、 ムハマンドの母親は写本の一部を、わらと一緒に炊きつけとしてかまどで燃やしてしまった[28][30][31]。 現在わずかの断片しか残っていないことから、コーデックスXIIが燃やされたものと見られる[30]。 また、中には捨ててしまったものもあった[12]。 コーデックスIII以外の写本は、近隣の文盲のムスリムとの物々交換に使われたり二束三文で買われたりしていった [30]

写本を手に入れた者の1人がナシド・バサダ(Nāshid Basādah)で、ナグ・ハマディの金商人と計って カイロで写本を売り、代金を山分けした[30]。また、伝えられるところでは、 ある穀物商(アル・カバルの複数の村人によると、フィクリー・ジャバライル(Fikrī Jabarā'īl) のことだという)が別の写本を手に入れてカイロで売り、手に入れた代金でカイロに店を構えたとも言われている [30]。 この話はよく知られているらしいが、フィクリー自身は断固として関与を否定している[30]

写本の大部分を手に入れたのはバヒジ・アリ(Bahīj ʽAli)で、アル・カスル村のならず者だった [30][32]。 この地方では有名だった古物商と一緒にカイロに行き、まずシェファード・ホテルのマンスーアの店に行き [30]、次にカイロ在住のベルギー人古物収集家[32] フォキオン・J・タノ(Phokion J.Tano)の店で売った[30]。 タノは全て買い取り、また、ナグ・ハマディにまで出かけて残っている写本を全て入手した[30]

一方、コプト博物館長(当時)のトーゴ・ミナ(Togo Mina)はタノが写本を買い取ったことを聞きつけて、 国外流出はさせない、写本は全て博物館に売れと説得した[32]1948年、エジプト公教育省はタノと交渉して、写本を買い取りコプト博物館に収納しようとしていた [32]。 しかし、タノは、写本はカイロ在住のイタリア人収集家ダッターリのものであると主張して政府の介入を避けようとした [32]。 国外流出を防止するためにエジプト考古最高評議会(考古最高評議会の前身)はダッターリ所有の写本を接収した [33]。写本は、1948年にコプト博物館に保管された[34]。 ダッターリは対価として十万ポンドを要求したが、政府は一切支払わなかった[32]。 そのため、所有権がどちらにあるのかエジプト政府とダッターリの間で裁判沙汰となり[32]1952年まで争われた[34]。裁判は政府側の勝訴に終わった[32]

ナセルが大統領になってからは、4千ポンドの形ばかりの代価と共に写本は国有化され、 最終的にコプト博物館の所有物になった[35]。 この段階でコーデックスIを除く写本がコプト博物館に収納された。

ユング・コーデックス

コーデックスIの大半は、カイロ在住のベルギー人古物商のアルベール・エイド(Albert Eid)を通じて エジプト国外に流出した[27][注 6]

1949年、エイドは政府の介入を恐れ、大量の輸出品の中に写本を紛れ込ませてアメリカへ密輸出した [37]。 同年、エイドはニューヨーク[27]、二万二千ポンドで売却しようとしたが失敗した [37]。エジプト政府が売却に反発することを顧客が恐れたのが失敗した理由らしい [32]。 エイドはベルギーに戻り、写本をパスワード付きの保管箱にしまいこんだ[37]。 その後、アン・アーボール(Ann Arbor)でこれらを売却しようとしたが同様に失敗した[27]。 また、パリでも売却しようとした[38]がこちらも失敗している。 エジプト政府はエイドを考古物の密輸出の罪で訴追し、六千ポンドの罰金刑の判決が出たが、 判決前にエイドは亡くなった[37]

一方、エイドの未亡人は秘密裏に写本を売却しようとしていた[37]。 古代キリスト教史家のG.クィスペル(ユトレヒト大学教授(当時))によると、自身はこの写本が密輸出されたものだとは 知らなかったとのことだが、ユング研究所を説得して、写本を購入するように急がせた[37]。 写本は、1952年5月10日になって、エイドの未亡人から[27]、クィスペルを 介して[34][28]チューリヒのユング研究所の手に渡った [27]。 これらは、誕生日祝いのプレゼントとして研究所からユングへ贈られた [34]ため、コーデックスIの整理番号が付けられるまでは「ユング・コーデックス」と 呼ばれていた[34]

ユング・コーデックスは、1956年から1975年にかけて6巻にわたって出版された[30]1961年にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こった[39]が、 少しずつエジプトに返却されていき、最終的にユネスコが買い取って1975年[36] ユング・コーデックスの全てがコプト博物館に収蔵された[27]。 こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。 写本の総ページ数は1000ページにも及ぶ[38]

「トマスによる福音書」の発見

ナグ・ハマディ写本の中で最初に世間に公表されたのはコーデックスIIIの一部である。 コプト博物館の研究員(当時)だったジャン・ドレスは 1947年にコーデックスIIIに含まれる「エジプト人福音書」を解読し、翌1948年にその内容を学会誌に公表した [19]

また、「ユング・コーデックス」には失われたページがあることに気づいたクィスペルは、 1955年の春にエジプトに飛んで、コプト博物館にそれらのページがないかどうかを調べた[28]。 博物館から写本の写真を借り受けてからすぐにカイロのホテルに戻って、クィスペルは解読を始めた [28]。この時に発見したのがコーデックスIIに含まれていた「トマスによる福音書」である。 「トマスによる福音書」の断片は1890年代にギリシア語版が発見されていたが、福音書全体が発見されたのは これが初めてだった[28]。 ドレスとクィスペルは「トマスによる福音書」を含むナグ・ハマディ写本の一部を学会誌に発表したり、新聞紙上で紹介し 世界のジャーナリズムにセンセーションを巻き起こした[40]

各言語への翻訳

1956年、カイロでユング・コーデックスに含まれる写本の一部が初めて翻訳・出版された。また、一部のコーデックスが、コプト博物館長パホル・ラビブによって[41]ファクシミリ版で出版された。そのうち最初のものはコーデックスⅡで、同様に1956年のことである[41]。しかし、エジプトの政治状況が不安定だったため、その後のファクシミリ版の出版は遅々として進まなかった。また出版されたファクシミリ版も、写真技術が劣っていて不鮮明な部分が多いという欠点があった[41]

1966年イタリアメッシーナでグノーシス主義の研究者たちによるシンポジウム、第1回「グノーシス主義をめぐる国際集会」が開かれ、そこでグノーシス主義の研究のためにナグ・ハマディ写本およびそこに含まれる全文書の刊行と、早急に公開することを求めるアピールを公表、同時に、そのための資金援助を全参加者の名でユネスコに要請した[42]。シンポジウムのまとめ役だった研究者のジェームズ・ロビンソンはアメリカのクレアモント大学キリスト教研究所の協力を得て、ナグ・ハマディ写本の英訳の出版を推し進めることになった。1970年[10]にはユネスコとエジプト政府の文化庁によって共同でナグ・ハマディ写本ファクシミリ版刊行国際委員会が編成され[10]、委員長にロビンソンが選ばれた。 同時に待望のコーデックスⅠからⅩⅢまでのファクシミリ版が1972年から1977年にかけて徐々に出版、 1979年にはカートナージのファクシミリ版、1984年に全巻の「概説」がオランダ、ライデンE.J.ブリル(E.J. Brill)によって出版された[11]

ファクシミリ版の出版によって各言語への翻訳が本格化した。ロビンソンは1977年にブリルとアメリカの出版社ハーパー&ロー英語版(Harper & Row)の共同出版という形で英語版を出版。1981年から1984年にかけてペーパーバック版も出版された。最終的に1988年に校訂版が出版された。1987年にはエール大学ベントリー・レイトン英語版によっても英語版(The Gnostic Scriptures: A New Translation with Annotations (Garden City: Doubleday & Co., 1987)が出版されている。

アレクザンデル・ボーリヒドイツ語版(Alexander Bohlig)、マルティン・クラウゼ(Martin Krause)ら西ドイツの研究者たちも早くから翻訳を進めていたが、2001年にようやくドイツ語版の完全版が出版されている。

日本語版は、写本の大部分が1997年から1998年にかけて荒井献小林稔らの手によって岩波書店から『ナグハマディ文書』全四巻として出版された。岩波書店の『ナグハマディ文書』には、グノーシス主義に属さない文書やギリシア哲学の影響を受けたものなどが含まれていないが、それらの未訳だった文書は2010年に『グノーシスの変容』と題して同じく岩波書店から出版され、これによって日本語訳が完了した(ただし、プラトンの『国家』の日本語訳を含まない)。

各コーデックスの内容

ナグ・ハマディ写本には、全部で52編の作品が収められているが、そのうちの6編は同じものを写したものである [6] (「ヨハネのアポクリュフォン」(II 1とIII 1、IV 1)、「エジプト人の福音書」(III 2とIV 2)、「聖なるエウグノストスの手紙」(III 3とV 1)、「真理の福音」(I 1とXII 2、後者は断片)、「この世の起源について」(II 5とXIII 2、後者は断片)が重複している)。 また、写本が発見される以前にオリジナルのギリシア語版(プラトンの「国家」(VI 5)、「感謝の祈り」(VI 7)、 「セクストスの金言」(XII 1))が発見されていたり、ラテン語訳(アスクレビオス21-29(VI 8))やコプト語訳(「ヨハネのアポクリュフォン」(II 1)、「イエス・キリストの知恵」(III 4))で見つかっていたものもある[6]。 このうちコプト語訳の2編は、「ベルリン写本」[注 7]と呼ばれるパピルスに書かれていた[6]。 従って、写本の発見によって新たに知られるようになった作品は全部で40編である[6]。 このうちの3編は、実際にはナグ・ハマディ写本発見以前に断片の形で見つかっていた[6]。 「トマスによる福音書」(II 2)がギリシア語で、「この世の起源について」(II 5)「シルヴァノスの教え」(VII 4)は コプト語版で発見されていたが、それはナグ・ハマディ写本が発見された後に同定されたものである [6]

以下がナグ・ハマディ文書の詳細である。題名の日本語訳は荒井献『トマスによる福音書』(1994)に従った。

コーデックスⅠ

コーデックス 番号 題名 備考
I 1 使徒パウロの祈り 「使徒パウロの祈り」に関する古代の伝承記録はないので、ナグ・ハマディ写本の発見によって初めて存在の知られた文書である[45]。題名は本文の最後にギリシア語で書かれていることから、ギリシア語の原本からのコプト語訳だと考えられる[46][47]。わずか2ページの文書で、パピルスにはページがふられていない[46]。コーデックスIの「ヤコブのアポクリュフォン」から最後の「三部の教え」まで筆写したあとに「使徒パウロの祈り」を書き写し、その後製本した際にコーデックスIの最初に綴じこんだ、というのが定説である[45][47]。「ヨハネの福音書」からの引用と見られる部分があるので、オリジナルのギリシア語版は新約聖書成立後からコーデックスIの制作時期(4世紀前半)までに成立したと見られるがそれ以上のことはわからない[45]。ヴァレンティノス派の作品だったかもしれないと考える研究者もいる[45][47]
2 ヤコブのアポクリュフォン 古代の文献に記録はないので、ナグ・ハマディ写本の発見で初めて知られた文書である[48]。本文書に題名は記されておらず、「ヤコブのアポクリュフォン」という呼び名は通称である[48]。その他「外典ヤコブの手紙」という呼び方をされる場合もある[48]。「ヤコブの黙示録」という呼び方をする文献もあるが、内容と一致しないので不適当な呼び方である[48]。アポクリュフォンとは、「秘密の教え」[48]あるいは「秘密の書」[49]という意味で、手紙の差出人であるヤコブが、自分とペトロだけに啓示されたイエスのアポクリュフォンを、それを知りたいとの願いに答えて受取人に伝えた手紙という体裁で書かれている[50]。ギリシア語原本からのコプト語訳であると考えられる[51]。簡単な手紙の挨拶文の後、アポクリュフォン本体が書かれ、最後に結びとして手紙の受取人に向けた祈りと勧告が書かれている[51]。当時の手紙は、冒頭に差出人と受取人の名前を書くのが慣習になっていたが、この部分が欠損しているため共に推測に頼るしかない[52]。手紙の差出人はヤコブという名であったと推測されるが、義人ヤコブ(または、主の兄弟ヤコブとも呼ばれる)のことだろうとの仮説が研究者間の多数意見である[53]。言うまでもなく、これは架空の設定に過ぎず、実際に義人ヤコブが書いた手紙ではない[54]。受取人については議論があり不明である[55]。ギリシア語原本の成立年代を特定する手がかりはなく、いくつかの仮説が出されているにとどまる[56]。イエスの復活の550日後に12弟子が集まっているところへイエスが出現し、ペトロとヤコブを脇に連れて行き二人と対話した内容がアポクリュフォン本体部分に相当するが、その内容にはとりとめがない[57]。ペトロ・ヤコブという弟子を通してではあるが、イエスの直弟子よりも、本文書を担ったグループを上位に置いて正統教会に対立する見解を見せることと、殉教を高く評価する点が特徴的である[58]。なお、当時の正統教会の論者は、一般的にグノーシス主義者が殉教を忌避していると非難しているが、現在の研究では受け入れられていない[59]
3 真理の福音 題名は本文の最初にも最後にも書かれていない[60]。文書の書き出しが「真理の福音」で始まるので、これを用いた通称である[60]。保存状態は比較的良好で、一部を除いて欠損部分の修復は容易である[61]。原本はギリシア語であったとみられる[61]。シリア語原本、コプト語原本を唱える仮説もあるが定説には至っていない[61]。コーデックスⅠの他に、コーデックスⅩⅡにも別の異本(パピルス六葉分)が収録されているが、後者は保存状態がきわめて悪く、パピルスの順序を示す字母(ページ数)さえ確認できない[62]。コーデックスⅩⅡ所収の「真理の福音」は断片でしかなく、欠損部分が非常に多く、コーデックスⅠを利用して復元する以外にない[63]。ただし、1か所だけだが、コーデックスⅩⅡの断片を利用してコーデックスⅠの「真理の福音」が復元可能な場所がある[63]。これら2つの異本の原本が同一なのかそれとも別々なのかを決定する決め手は乏しい[63]。エイレナイオスは「異端反駁」の中で、ヴァレンティノス派の人々が「実際に存在している福音書よりも多くの福音書を所有していて」現在(180年-185年頃)よりも「あまり古くない時代に彼らによって著された福音書に、使徒たちの諸福音書と内容的一致が全くないにも関わらず『真理の福音書』という表題を付している」と述べている[64]。ここで言及されている「真理の福音」と、ナグ・ハマディ写本収録の「真理の福音」が同一のものであるとの説が古くからあるが、「異端反駁」にその内容が引用されておらずたんなる憶測にすぎない[65]。ただし、広い意味でヴァレンティノス派に属する文書であることは既に定説になっている[66]。全体は序言とそれに続く三部で構成されている[67]。第1部はプラネー(迷い)の生成から始まる。その後、啓示者・教師としてのイエスとその働きについて説明される[67]。第2部は、イエスのもたらした啓示の効果の、第3部は父への再統合に至るプロセスの説明である[68]。典型的なグノーシス主義の文書であるが[68]、一方でそのキリスト論は、グノーシス諸派のそれよりは正統教会の諸文書におけるキリスト論に近い[69]
4 復活に関する教え 本文書に関する古代の記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[70]。題名は本文の最後に書かれている[71]が、内容が書簡であるのに「教え(ロゴス)」という題名が付くのは奇妙なので、題名は写字生か製本した者が事後的に付け加えたもので、元は無表題だっただろう、というのが研究者間の定説である[72]。保存状態は良好で、欠損部分の復元は容易である[73]。コーデックスⅠでは、この「復活の関する教え」のみが他の文書の写字生とは別の人物によって書き写されたことが書体学的に裏付けられている[73]。文章の一部に新約聖書の正典化がある程度進んでいることをうかがわせる部分があるので、成立時期は二世紀後半と考えるのが一般的である[74]。形式的には書簡の体裁で書かれているが、実際に書簡として送られたものなのか、それとも、単に書簡の形式を借りただけなのかは不明である[72]。ただし、実際に書かれた書簡であるとの説が有力になりつつある[75]。「わが子レギノスよ」という呼びかけで始まっており、レギノスという人物に宛てた手紙の形式で書かれている[72]が、この人物の歴史的実在性は実証されていない[76]
5 三部の教え 本書に関する古代の証言は残されていないので、ナグ・ハマディ文書発見によって初めて知られた文書である[77]。本文に題名は書かれていないので、「三部の教え」という名前は通称である[78]。この呼び名は、本文書が記号によって三部に明確に分離されていることからきている[79]。文書の保存状態は非常に良好である[79]。ただし、写字生による筆写は粗雑であり、コプト語訳も稚拙である[80]。そのため、内容の読解は簡単ではない[81]。また、文書の表現が暗示的・抽象的である点も内容の理解を困難にさせている[81]。間違いなくギリシア語原本からのコプト語訳である[82]。ただし、写字生が訳したのではなく、それ以前に誰かがコプト語訳を行い、それをそのままコーデックスⅠに写し取ったものである[81]。原本の成立年代は、三世紀から四世紀初頭だろうとの推測が研究者間での一般的な見解である[83]。本文書は三部分に分けられており、第1部はプレーローマ界の生成の次第、第2部は人間の創造について、第3部は地上に存在する三種類の人間種族の終末論的運命について書かれている[81]。全体として、プレーローマ界から地上の世界までの空間にどのような存在が、そのような位階関係で存在するのか、どのようにして生成されてきたのかを説明する文書だといえる[84]。理由を表す接続詞tscheが絶え間なく出現する特徴のある文書[85]で、世界の構成・様々な存在に3層構造を課す点にも特徴がある[84]。キリスト教を前提にして書かれており[86]、ヴァレンティノス派に特有の用語を含むことから、研究者間では広い意味でヴァレンティノス派の中で生み出された文書だというのが定説である[86]

コーデックスⅡ

II 1 ヨハネのアポクリュフォン 復活したイエスが昇天する前にヨハネに向かって語った黙示録の体裁を借りて、人間の創造、堕落、救済について説いた書で、主として創世記の初めの部分を神秘主義的に再解釈している[87]。グノーシス主義の重要な著作である[87]。エイレナエオスの『異端反駁』に、「ヨハネのアポクリュフォン」の主要な教えに関して書かれていることから、185年以前には成立していたことがわかる[87]。「ヨハネのアポクリュフォン」が最初に発見されたのは1896年のことで、あるドイツ人エジプト学者がカイロで購入した古文書(「ベルリン写本」)に含まれていた[49]。この古文書の中には同時に「マリアによる福音書」も含まれていたことも知られている[49]。「ヨハネのアポクリュフォン」の成立時期に関して、150年よりも以前であるに違いないと主張されたこともあった[88]が依然として議論の余地がある。いずれにしても314年以降に成立することがないのははっきりしている[88]。「ヨハネのアポクリュフォン」のコプト語訳には3つのバージョンがあり、Ⅱ1とⅣ1は同じギリシア語のテクストから訳されたものである[43]。一方、Ⅲ1は別のより短いギリシア語版からのコプト語訳である[43]。コーデックスⅡ1, Ⅳ1の方がⅢ1よりも長いので前者を長写本、後者を短写本と通称している[43]。一方、ベルリン写本(BG 8502, 2)はナグ・ハマディ写本とは別のコプト語版である[43]。写本の状態は「ベルリン写本」のものが最もよい[43]。コーデックスⅡ収録の「ヨハネのアポクリュフォン」は、最初の六ページに渡って大きな欠損があり、この部分はベルリン写本を参照して推測的に復元する以外にない[44]。「ヨハネのアポクリュフォン」に書かれているのはキリスト教グノーシス派の世界創造・救済神話で、その首尾一貫した説明は、数多いグノーシス主義文書の中でも稀なものである[89]
2 トマス福音書
3 ピリポ福音書
4 アルコーンの本質 アルコーンとは、ギリシア語で支配者を意味する[90]。物質的世界を支配する存在で、造物神ヤルダバオートを第1のアルコーンとしてその配下に七人、十二人あるいはもっと多数のアルコーンが存在しこの世を統治していると考えられた[90]。本書はコーデックスIIの中では保存状態のよいほうである[91]。題名は古代の慣習にならって本文の最後に記されている[91]。原本がギリシア語であることは本文より明瞭である[92]。ギリシア語原本の成立年代については見解がわかれている[92]。本文書と「この世の起源について」との間には著しい平行関係があり[93]、両文書は共通の資料を用いているというのが多数意見である[94]。弟子が質問を行い、それに師が答えるという問答形式に従っており[91]、細かい部分になると必ずしも理解しやすくはない[95]が、全体の構成は2部に大別できる[95]。前半は、匿名の語り手が創世記1-6章(アダムの創造からノアの洪水まで)をグノーシス主義的に再解釈して説明する[95]。後半は、突然語り手がノーレア[注 8]に変わり、ノーレアが天使エレレートから受けた啓示を両者の対話形式で物語る[95]。後半部分で、改めてアルコーンの生成から説き起こされ、最後に救済論・終末論の予言で終わる[95]。前半と後半で内容や語り方が異なっていることから、「アルコーンの本質」の編集者は少なくとも2つの資料を用いてそれらをつなぎ合わせたものと考えられている[97]。グノーシス主義の分派のどこに属する文書なのかについては見解がわかれていてはっきりしない[94]
5 この世の起源について 本文の最初にも最後にも題名は書かれていない[98]。元となった写本に書かれていなかったか、または筆写した際に書き写すのを忘れたかして題名が書かれなかったものと推測される[98]。「この世の起源について」はH.M.シェンケが1959年に行った提案以来研究者間で一般的に使われている呼び名だが、これとは別に「無表題グノーシス主義文書」という呼び方がされることもある[98]。保存状態はかなり良好で欠損部分は少なく、その部分も修復は容易な所が多い[99]。原本はギリシア語であったことは本文にギリシア語の借用語が多いことから明瞭である[99]。「この世の起源について」はコーデックスII以外に2つの異本が存在する。1つはナグ・ハマディ写本収録のコーデックスXIII、もう1つは大英博物館に保存されている写本断片(MS, Or, 4926(1))である[99]。コーデックスXIIIの最終ページの下十行にコーデックスIIの最初の部分と並行する文章が残されているがそれ以降は伝わっていない[99]。大英博物館の写本断片に関しては、存在自体は1905年には知られていたが「この世の起源について」の異版であることは1972年になってCh.オイエンによって初めて解読された[99]。コーデックスII以外は断片でしかないため、テクスト批判には限定的にしか使えない[100]。「この世の起源について」は、カオス以前にこの世は何も存在しないと一般に言われているがそれが誤りであるということを著者が論証しようとした文書である[101]。非体系的ではあるが救済神話を書き表している[100]。ただ、その書き方は首尾一貫性に乏しく多くの挿話・逸脱を含む[100]マニ教の神話との類似性を指摘する研究者は多い[102]。一般にマニ教よりも「この世の起源について」の方が時期的に古いとの見解が受け入れられている[102]。「この世の起源について」ではピスティス・ソフィアが陰に陽に活躍することから、キリスト教グノーシス主義の作品「ピスティス・ソフィア」と同じ系列に属することは間違いない[103]。また、ナグ・ハマディ写本収録の「アルコーンの本質」との間に著しい並行性が見られる[103]。このことから「この世の起源について」と「アルコーンの本質」は第3の共通の文献を使っていると推定する研究者が多い[104]。本文書を書くにあたって、著者が多くの資料を使っていることは確実である[103]。新・旧約聖書以外に、「預言者モーゼの至高天使」「ノーライアの書の第一巻」「ソロモンの書」「十二人の下の天の宿命の星位の書」「預言者ヒエラリアスの第七の世界」「聖なる書」が本文に引用されているがいずれも未知の書である[103]
6 魂の解明 題名は、本文の最初と最後にそれぞれ記されている[105]。「魂の解明」と呼ばれているが、書かれている題名を直訳すると「魂に関する解明」である[105]。ギリシア語原本からのコプト語訳だったと考えられる[105]。原本の成立年代に関して正確なことはわからない。コーデックスⅡの成立時期が四世紀前半と考えられ、また、ギリシア語原本が存在したことはほぼ確実であるので、原本の成立は二世紀後半から三世紀だろうと推定されている[106]。内容は、魂(プシケー)の堕落とその救済に関するグノーシス主義的解明と勧告[107]を説いた説教あるいは説話である[108]。書かれているプシケー神話が比較的単純で一貫性を持っていることから、初期研究において、魔術師シモン(20世紀末の研究レベルでは、シモンの歴史的実在性は疑われている[109])あるいはシモン以前まで起源を遡る仮説が出された[109]が、それに異議を唱える研究者もいる[109]。「真正な教え」「ピリポによる福音書」と共通点が多い文書で、プローティノスの『エネアデス』内に書かれているプシケーの物語と非常によく似ている[110]。旧約・新約聖書からの引用の他、オデュッセイアからの引用も見られる[111]
7 闘技者トマスの書 題名は本文の最後に書かれているが「闘技者トマスの書」という呼び方は通称である[112]。最後の部分に書かれている文言は「トマスの書/闘技者記す/完全なる者たちへ」である[112]。トマスと闘技者を同一の人物とみなして「闘技者トマスの書」と呼んでいる[112]。ただし、別人であるとの可能性も残されている[112]。厳密に言うと、題名の後にも若干量の文書が書かれている[113]。飾り枠の中に「私を憶えよ、私の兄弟よ、/あなたたちの祈りの[中]で。/平安あれ、聖徒たちに、/そして、霊的人々に。」と書かれているが、コーデックスⅡの作成者が付記したもので本文書とは無関係だと思われる[113]。文書の保存状態はかなり良好である[114]。ギリシア語原本からのコプト語訳と考えられる[114]。ギリシア語原本は、三世紀の前半におそらくエデッサで成立したと推定されている[115]。2部構成[116]の「啓示対話」の文書で、トマスの問いに対してイエスが答える形式で「隠されている事柄」が読者に啓示されていく[117]。ただし、文書全体は対話形式に従っているものの、内実共にそれに忠実なのは最初の5分の3までで、残りの5分の2は、実質的にはイエスのモノローグによる説教である[118]。後半の説教部分にはグノーシス的要素は見られず、むしろマタイ福音書ルカ福音書の「山上の説教」と並行する句が認められる[118]。文書全体を貫くキーワードが「火炎」「獣」である[116]。「火炎」は欲情、劫火の、「獣」は人間の身体、性欲、交合の隠喩として用いられている[116]。題名にある「闘技」とは、これらの肉欲と闘うという意味である[119]。全体としてはグノーシス主義の文書とは言えず[120]、グノーシス主義者に対してではなく正統教会の外延をなした修道者向けに書かれた文書だとみられる[121]

コーデックスⅢ

III 1 ヨハネのアポクリュフォン
2 エジプト人福音書 「エジプト人の福音書」という名前は本文書の通称である[122]。文書の最後に書かれている本来の題名は「大いなる見えざる霊の聖なる書」である[122]。文書の最初の部分に「…なる書」(…の部分が欠損している)と書かれている[123]のだが、文書の最後に、写字生による後記が書き込まれており、その部分に「エジプト人の福音書」という言葉が書かれていることから、欠損部分を「エジプト人の聖」と推測して復元している[122]。いずれにしても、「福音書」という言葉を欠損部分に詰め込むだけの空白的な余地はない[122]。アレクサンドリアのクレメンスなどが引用している「エジプト人の福音書」は本文書とは別ものである[122]。原本はギリシア語である[122]。コーデックスⅢとⅣにそれぞれ1部筆写されているが、保存状態は前者の方が良好である[124]。ただし、コプト語訳は後者の方が理解しやすい[124]。コーデックスⅣの「エジプト人の福音書」は、後記二の途中までしか残っていないので最後がどのように終わっているのかは不明である[125]。破損箇所が多かったり、コプト語訳の文意がはっきりしない所も多く、写本の写し間違いが避けられないなどから、不明点も多い[126]。ぞれぞれの文書の欠損部分は両者を比較して推測により補うしかないが、共に同じ原本からのコプト語であるかどうかを決定的にする証拠があるわけではない[125]。本文の前に簡単な序文が置かれており、また、本文が終わったあとに、賛美(洗礼式文)一、賛美(洗礼式文)二、後記一、後記二、写字生による後記が書かれており、これらの最後に表題が書かれている[127]。また、2つの賛美の部分には古代の魔術文書に見られる呪文が書かれている[128]。本文は2部に大別される。第1部では、「大いなる見えざる霊」を出発点にしてさまざまな存在が生み出されていく天界成立の神話が書かれている[129]。第2部は、セツの誕生と救済活動を扱っている[125]。「エジプト人の福音書」はセツ派の文書で、セツ派に属する著者が、セツ派の読者に向けて自分たちの自己理解と救済論を、神話の中に織り込んで説明したものである[126]
3 聖なるエウグノストスの手紙 題名は、コーデックスⅢに収録された文書の方には本文の最後に「祝されたエウグノストス」、コーデックスⅤの方には本文の末尾に単に「エウグノストス」と書かれている[130]。書簡なので当時の慣習通り、冒頭に手紙の差出人と受取人の名が書かれており、差出人と題名はコーデックスⅢ、Ⅴ共に一致している[130]。一般に、コーデックスⅢの文書を「聖なるエウグノストス」、コーデックスⅤの方を「エウグノストス」と呼んでいる[130]。原本はギリシア語だったと推測される[131]。原本の成立年代については諸説あり不明である[132]。確実なことは、ナグ・ハマディ写本に収録されている「イエスの知恵」よりも前に書かれた文書であるという点だけである[133]。教師エウグノストスが弟子に送った書簡という形式で書かれている[130]。コーデックスⅢの方にはキリスト教グノーシス主義者によって改変された部分がある[131]
4 イエス・キリストの知恵 題名は本文冒頭と最後に書かれている[134]。最初に書かれている題名は「イエス・キリストの知恵」、最後に書かれているのは「イエスの知恵」である[134]。ギリシア語原本からのコプト語訳だと考えられている[135]。本文書の前に収録されている「エウグノストス」と本文書は内容が酷似している[134]。「エウグノストス」をもとにして、それに新たに文書を付け足して作ったのが「イエスの知恵」であるという仮説が一般的に受け入れられている[136]。したがって、「イエスの知恵」の成立年代の方が「エウグノストス」よりも後であろうと推測される[136]。原本の成立時期については研究者によって様々で、一世紀末から三世紀初めまでと幅広い[137]。ナグ・ハマディ写本の発見以前に、ベルリン写本の中にも同一の文書(BG 8502)があることが知られていた[134]。また、オクシリンコス・パピルス(OP 1081)にもギリシア語断片が残されている[135]。「エウグノストス」にはキリスト教的要素がほとんどないのに対して、「イエスの知恵」はキリスト教グノーシス主義の文書であると言える[136]。キリスト教徒をグノーシス主義に導くというよりも、非キリスト教グノーシス主義者をキリスト教グノーシス主義に引き込むことが主目的で書かれた文書であるらしい[138]
5 救い主の対話 題名は、本文の冒頭と最後にそれぞれ書かれている[139]。古代の文献に記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[140]。ギリシア語原本からのコプト語訳だと考えられる[141]。内容は、主とその弟子たちとの対話である[139]。題名に「救い主」とあるが、本文ではほとんどそのように呼ばれることはなく、もっぱら「主」と呼ばれている[139]。また、弟子として登場するのは、ほとんどの場合、ユダ、マタイ、マリアの3人で[139]、登場する救い主は復活前のイエスである[139]。文書全体としては、対話形式にまとめられたイエスの語録集と言える[141]。ただし、「トマスによる福音書」とは異なり、共観福音書伝承との関係が深いわけではない[139]。また、すべてが資料に基づいてまとめられたものでのなく、一部に著者による筆が加えられていると考えられている[142]。ギリシア語原本の成立時期の推定に対する明確な証拠はないが、二世紀前半であると推測されている[143]

コーデックスⅣ

IV 1 ヨハネのアポクリュフォン コーデックスIV収録の「ヨハネのアポクリュフォン」は、コーデックスIIのコプト語訳「ヨハネのアポクリュフォン」をもとにして筆写されている。IV 1の保存状態はナグ・ハマディ写本中最悪であり、単体では読解不可能である[144]
2 エジプト人福音書

コーデックスⅤ

V 1 聖なるエウグノストスの手紙
2 コプト語パウロ黙示録 「パウロの黙示録」に関する古代の伝承記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[145]。当文書とは別にギリシア語(およびそのラテン語その他への訳)で「パウロの黙示録」という文書が存在するが、ナグ・ハマディ写本収録の「パウロの黙示録」とは別物である[146]。題名は文書の最後に括弧つきで書かれている[145]。題名が文書の冒頭にも書かれていたとみられる痕跡が残っているが、その部分は写本が破損しており推定による復元でしかないが、研究者によって一般的に支持されている[145]。文書の保存状態はあまりよくない[145]。原本の成立時期を二世紀後半と推定する研究者が多いが積極的な証拠があるわけではない[147]。本文書は、ガラテア人への手紙コリント人への第二の手紙に書かれているパウロの体験を下敷きにした創作物[148]で、それをグノーシス主義的に改変している。たとえば、パウロの昇天体験では第三の天までしか書かれていないが、本文書では第十の天まで存在することになっていて、うち第一から第七の天が被造世界(ヤルダバオート以下のアルコーンによって作られた世界)に、第八の天以上がプレーローマ界に相当している[149]。「小さな子供」(精霊のこと)によるパウロへの啓示が書かれており、精霊の案内でパウロが第三の天から順に天を昇って行き、最後に第十の天に達して終わる[148]
3 ヤコブの第一の黙示録 「ヤコブの黙示録第一」「ヤコブの黙示録第二」というのは研究者によってつけられた通称である[150]。ナグ・ハマディ写本収録のどちらの文書の題名も「ヤコブの黙示録」と書かれているため、混乱を避けるために伝統的に、最初の「ヤコブの黙示録」を「第一」、後の「ヤコブの黙示録」を「第二」と名付けている[151]。「ヤコブの黙示録第一」の題名は、本文の最初と最後にそれぞれ「ヤコブの黙示録」と書かれている[152]。このうち、最初に書かれている題名の方は、原本にはなくコーデックスVの作成者が先行文書である「パウロの黙示録」との区切りのために事後的に挿入したものと考えられる[152]。エイレナイオスの「異端反駁」、エピファニオスの「薬籠」の中に「ヤコブの黙示録」に関する記述が残されている[153]。文書の保存状態は、最初の方は比較的良好だが、後になるにつれて欠損が多くなり始め、最後の数ページは復元がほとんど不可能である[154]。原本はギリシア語だったとみられる[154]。2か所だけだが、ギリシア語ではなくシリア語表記(ギリシア語では「ゴルゴダ」「タダイオス」である所が、シリア語表記の「ガウゲーラン」「アッダイ」にそれぞれなっている)されている箇所があるので、用いた原本がシリア系統の伝承だった可能性がある[155]。本文より、著者がエイレナイオスの「異端反駁」を知っていたことが読み取れるので、成立年代はそれ以降(180年頃以降)だろうとみられる[156]。また、「ヘプライ人による福音書」に比べてイエスとヤコブの関係が強化・神話化されているので、成立時期は早くても三世紀前半と推定される[156]。ヤコブの質問にイエスが答える、典型的な啓示文学の様式に従っており、全体は二部に大別される[151]。第一部はイエスの受難以前の対話、第二部は復活後のイエスとの対話である[151]。明らかにグノーシス主義の文書である[157]。「ヤコブの黙示録第一」はチャコス写本の中にも収録されているが、ナグ・ハマディ写本所収のものとは内容が少し異なっている[158][159]
4 ヤコブの第二の黙示録 題名は本文の最初に「ヤコブの黙示録」と書かれている[160]。本文の最後にも「ヤコブの黙示録」と書かれていると推測してそのように復元した校訂本が存在するが、これは誤読による誤りで、一般には後書きされた表題は存在しなかったと推測されている[160]。「ヤコブの黙示録第二」という呼び名は研究者によってつけられた通称である[151]。文書の保存状態はあまりいい方ではない[161]。ギリシア原本をコプト語訳したものである[161]。「ヤコブの黙示録第一」と同様にシリア語伝承が一部用いられている可能性はあるが、「第一」とは異なりシリア語法は見られない[162]。背後にあると考えられる救済神話が「第一」に比べて単純であるので、原本の成立時期は「第一」(三世紀前半)よりも早いだろうと推測されている[163]。祭司の一人マレイムが、「義人」ヤコブから、殉教前に聞いた話を書きとめ、それをマレイムがテウダ(マレイムの親戚でヤコブの父)に伝えた、という体裁で書かれた文書である[164]。「第二」は「第一」と同様に、最初に「黙示」の部分が書かれたあと最後にヤコブの「殉教」が書かれている[162]。ただし、殉教の部分は短く、欠損も多いため内容に不明な部分が多い[162]
5 アダム黙示録 題名は本文の最初と最後にそれぞれ書かれている[165]。写本の保存状態は比較的良好な方である[166]が、パピルスの質が悪くインクがにじんでおり判読の難しい箇所が少なくない[166]。ギリシア語原本からのコプト語訳である[167]。古代の文献から「アダムの黙示録」という名の文書が複数出回っていたことがわかっており[168]、本文書は現存する唯一の「アダムの黙示録」である[169]。エピファニオスの「薬籠」の中に「アダムの黙示録」に関して言及した部分があるが内容の引用がなされていないため、ナグ・ハマディ文書所収の「アダムの黙示録」と同じものを指していたのかどうかは不明である[170]。ギリシア語原本の成立時期に関しては研究者間で多くの仮説が唱えられておりどれが優勢であるとも言えない[171]。全体は二部に大別される。第一部ではまず、かつてアダムとエヴァは栄光の中にあり造物神やアルコーンよりも高い地位にあったものが、造物神の怒りを買って男と女に分離され、栄光と認識を失い、造物神に隷属する存在になったことが語られる[169]。そして、アダムが眠っている間に「三人の(天的)人間」が現れ、アダムに対して元々あった栄光と認識がセツの子孫の中に移動したことを伝える[172]。その啓示を受けて自分たちの現実にアダムとエヴァが嘆息しているのを造物神が訝しり、自分の支配を確かなものとするために造物神は二人に性欲を植え付け、それによって二人は死の支配下に置かれる[173]。これを自覚したアダムがセツに啓示の内容を語る[173]。第二部はその啓示の内容である[173]。ノアの洪水から最後の審判までの歴史が予言される[174]。初期の研究では本文書にキリスト教の要素はないと考えられたが、その後は、キリスト教を前提にして書かれているとの見解が優勢である[175]

コーデックスⅥ

VI 1 ペトロと十二使徒の行伝 以前は異論が唱えられたこともあったが、その後の研究者間では「ペトロと十二使徒の行伝」はナグ・ハマディ写本発見により初めて知られた文書であるとの見解で一致している[176]。原本がギリシア語であったことは確実である[176]。題名は本文の最後に「ペトロと十二使徒の行伝」と書かれているが、実際には本文に現れる使徒の数は十二ではない[176]。ユダを除いた十一人であることが本文内に明示されている[176]。二世紀から三世紀に著された一連の外典使徒行伝の中では比較的早い時期に成立しただろうというのが一般的な見解である[176]。語り手のペトロの人称が次々と変わっていることや話の筋にまとまりがないことなどから、複数の資料・伝承を利用して1つの文書にまとめようとしたがうまくいかなかったのだと考えられる[177]。本文書に正統キリスト教と矛盾する要素は見られず、従ってグノーシス主義の文書ではない[178]
2 雷、全きヌース 題名は本文の最初に飾り記号で囲って書かれている[179]。ギリシア語原本からのコプト語訳だとみられる[179]。原本の成立時期は、二世紀から三世紀と考えられる[180]。「ヌース」とはギリシア語で叡智を意味する[181]。題名にある「雷」(ギリシア語でブロンテー)は、本文には一切出てこない[181]。なぜ、文書に現れない「雷」を題名にもってきたのかは推測以上のことはわからない[181]。私章句(「私は…である。」という定型句)を駆使した自己啓示文書[182]で、語り手は女性的啓示者である[181]。特徴的なのは、語り手が、自身をアンビヴァレントな存在として語る点である[183]。たとえば、「私は最初にして最後の者。私は尊敬されるものにして軽蔑される者。私は娼婦にして崇敬される者。」などがあげられ[184]、その他にも多数現れる。「この世の起源について」「アルコーンの本質」と並行する箇所が含まれており[185]、本文書もセツ派に由来する文書、もしくはセツ派の視点から編集された知恵文学だと考えられる[186]。「雷・全きヌース」の思想的・宗教的位置づけは、研究者間で意見が分かれている。プレーローマ界からの「私」の脱落が書かれていない、反宇宙的・反身体的二元論が見られない、人間の創造神と思しき者が積極的に評価されている、などグノーシス主義の要素がないことからグノーシス的ではなく、ユダヤ教の知恵文学に近いという評価もあれば、「私」の両性具有的性格が既にグノーシス的神話を前提として書かれているとの意見もある[187]
3 真正な教え 題名は、本文の最後に書かれている[188]。本書の冒頭部分が破損しているため、本来、本文冒頭に題名が書かれていたのか否かは不明である[188]。書かれている題名を直訳すると「真正なロゴス」である[188]。ロゴスは幅広い対象を表す言葉だが[189]、文書の中ではグノーシスまたは認識可能性として言われているので、通常は「真正な教え」と訳されている[188]。保存状態は比較的良好である[190]。成立年代を特定するための手がかりはないので、不明である[191]。ユダヤ教・キリスト教との関連はごくわずかであり、ヘルメス文書を示唆するものもない[192]。魂の起源、その堕落と物質世界に対する勝利について述べた文書で、人間の誕生から死までの順で書かれている[193]
4 われらの大いなる力の概念 題名は、本文の最初と最後にそれぞれ書かれている[194]。若干の欠損はあるがほぼ完全に残存しており、ナグ・ハマディ写本中最良の保存状態である[194]。明らかに原本はギリシア語だったことがわかる[194]。ナグ・ハマディ写本の発見によって初めて存在の知られた文書である[194]。この文書は理解しにくいことで定評がある[195]。個々の文章や小さな段落ごとの意味はとれるが、段落間の意味をとろうとすると意味がわからなくなる、更には文書全体として何を言いたいのかわからないからである[196]。唯一はっきりしていることは、被造世界全体の歴史が「肉のアイオーン」「心魂のアイオーン」「来るべきアイオーン」の3時期に区分されていることである[197]。「肉のアイオーン」の時代は巨人族と共に生じノアの洪水で終わる[198]。「心魂のアイオーン」では救済者が現れる。これは明らかに新約聖書のキリストに相当するが、キリストと呼ぶことは慎重に避けられており、また磔刑にも処せられない[198]。この時代は、アルコーン間の戦争で終わる[198]。アルコーンの外見はアンチ・キリストのようであり、炎によって世界を焼き尽くす[198]。物質は炎で焼き尽くされるが魂はかえって浄化され、聖人たちと共に「来るべきアイオーン」の時代を永久に生きる、というのがおおまかな筋である[198]
5 プラトンの『国家』の一部[注 9] 本来グノーシス主義とは無関係だが、ここに収められている版はかなりグノーシス寄りに改変されている。ギリシア語版とは異なる部分が、コプト語訳をした者の訳が下手だったのが原因によるものなのか、意図してグノーシス化したのかを見極めるのは難しい[199]
6 第八(オゴドアス)と第九(エンネアス)に関する談話 写本に含まれている文章には題名が書かれていないが、トリスメギストゥスやヘルメスの名が書かれていることや、以前からヘルメス文書として知られているものとの強い類似性があるので、ヘルメス文書の一部だと考えられている[200]。タイトルにある第八、第九とは、古代において地球を取り巻くと考えられていた天体の番号である[200]。太陽、月、惑星からなる最初の7つの天体は人間の生活を支配する低級の力を、第8、第9の天体は聖なる世界の始まりをそれぞれ表しており、死後、魂は7つの天体を巡った後、第8、第9の天体に達し、そこで真の祝福を受けると考えられていた[200]。この文書では更に10番目の天体の存在を暗に仮定しているようだが、その点はあまり明白ではない[200]
7 感謝の祈り 題名は冒頭に書かれているが、書かれている題名は「これが彼らが唱えた祈りである」である[201]。したがって、「感謝の祈り」というのは通称である。ただし、この呼び名は研究上定着している[201]。なぜ題名としてはふさわしくない「これが彼らが唱えた祈りである」を題名として書いたのかについては推測の域を出ない[202]。本文書「感謝の祈り」は、次に収録されている文書「アスクレピオス」の最後に置かれている第41章に相当する[203]。古代のかなり早い段階で、「アスクレピオス」とは独立の祈りとして盛んに転写されて流布していたらしい[201]。なぜ「感謝の祈り」を「アスクレピオス」の前に収録したのかについても推測の域を出ない[202]。原本がギリシア語であることは、他に残されている複数の資料から明らかである[204]。ただし、ナグ・ハマディ写本収録の「感謝の祈り」「アスクレピオス」は、既にコプト語に訳されたものを筆写したものと推定されている[201]。ラクタンティウスの「聖なる教え」の中にギリシア語の「完璧な教え」に関する記述が残されており[203]、したがって原本は三世紀までには成立していたことははっきりしている[205]。本写本以外に、ミモーパピルス(ルーヴル美術館所蔵、ギリシア語)にも収録されている[203]
8 アスクレピオス21-29[注 10] ヘルメス思想に属する教説。ヘルメス文書の1つ[206]。以前は「完璧な教え」と呼ばれていた[206]。オリジナルはギリシア語で書かれていた文書だが、完全な形で残されているのはラテン語訳のみである[206]。ナグ・ハマディ写本のアスクレピオスは、中間部分をコプト語訳したもので、いくつかの部分でラテン語訳版とは大きく異なっている[206]。コプト語訳版は、ラテン語訳版よりもギリシア語版に近い[206]。始めにも終わりにもタイトルが書かれておらず、この点で他のナグ・ハマディ文書とは異なっている[206]

コーデックスⅦ

VII 1 セームの釈義 題名は本文の冒頭に書かれている[207]。ただし、本文中にセームはごくわずかしか現れず、内容はむしろ「セームへの釈義」というべきである[208]。ギリシア語原本からのコプト語訳であることは本文より明白である[209]。翻訳はかなり稚拙もしくは杜撰である[209]。保存状態はきわめて良好で、わずかな欠損があるにすぎない[210]。本文書は、内容の理解が難しいことで知られる[211]。理由として、文体上の問題や、神話論で重要なキーワードが様々に言い換えられて用いられること、それらが時々で積極的にあるいは否定的に使われること[212]、更に文書に論理的な構成が存在しないこと[211]などがあげられる。おそらくは未完成な文書だと考えられる[211]。ヒュッポリトスの「全異端反駁」の中に「セツの釈義」という名の文書に関する報告がある[213]。初期の研究ではこの「セツの釈義」と「セームの釈義」は同一の文書か直接的な関係があるとの説が優勢だったが、その後は、より複雑な関係にあるとの説に変わってきた[214]。ギリシア語原本の成立時期については、コーデックスVIIの成立時期(四世紀半ば)以前ということ以上はわからない[215]。内容は、最初に至高神の御子デルデケアスが啓示を語り、その後に啓示された「証し」に解釈を加えたあと終末論と倫理に関する啓示が続く[211]。更に、セームによる啓示があったあと、再びデルデケアスによる啓示があって、そこで終わる[211]
2 大いなるセツの第二の教え 題名は本文の最後にギリシア語で書かれている[216]。保存状態は極めて良く、事実上完全に保存されている[216]。本文書に関する古代の記録はないので、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[216]。ギリシア原本からのコプト語訳である[216]。題名から容易に、「第一の教え」が存在したのではないかと考えたくなるが、現在では失われてしまったか、あるいは元々そのような文書はなかったのだと考えられている[217]。ナグ・ハマディ写本所収の「セームの釈義」、あるいはヒッポリュトスの「全異端反駁」に報告されている「セツの釈義」が「大いなるセツの第一の教え」であるという仮説が唱えられたことがあったが、それを支持する研究者はほとんどいない[218]。また、題名に「セツ」と書かれているにもかかわらず文書にセツは登場しない[217]。また、セツ派に特徴的な思想・観念も現れない[217]。なぜ、題名にセツの名を冠したのかは不明で、セツの名があるにもかかわらずセツ派の文書に含めないのが普通である[217]
3 コプト語ペトロ黙示録 題名は本文の最初と最後にギリシア語でそれぞれ書かれている[219]。ギリシア原本からのコプト語訳であることは本文より明白である[220]。誤訳や写し間違いの部分以外に、筆写した人物がオリジナルのテクストを改変している可能性も指摘されている[220]。保存状態は非常によく、事実上完全に残っていると言ってよい[220]。古代には「ペトロの黙示録」という名の文章はたくさん作られたことがわかっており、本文書もその中のひとつである[219]。最も有名な「ペトロの黙示録」は、アレクサンドリアのクレメンス等が引用している書物で、エチオピア語訳やギリシア語訳の断片が残されているが、本文書はそれとは別物である[219]。古代の伝承で「ペトロの黙示録」について書いた書物はたくさん存在するが、それらがどの「ペトロの黙示録」について書いているのかの手がかりはないので、少なくとも一義的に本文書について記録した古代の証言は存在しない[219]。ギリシア語原本の成立時期に関する手がかりはなくはっきりしたことはわからないが、二世紀後半より後に成立していた可能性が高い[221]。イエスの逮捕直前に忘我状態でペトロが見た幻を書いた文書で、イエスの逮捕と処刑に関する内容である[222]。仮現論的キリスト論が展開されている[223]。地上・天上ともに徹底的に二分されて書かれており[224]、自分達と敵対する勢力を非難する内容である[225]。敵対勢力とは、正統教会だけでなく、自分たちとは異なるいくつかの異端勢力だったと考えられる[226]。グノーシス主義の通常の文書では、ペトロ以外の人物に「真の啓示」や「真の教え」を語らせ、それによってペトロの権威を否定・相対化しているが、本文書はそれとは異なり、ペトロ自身を利用して正統教会を否定する手法が特徴的である[227]。グノーシス主義の文書であることは明瞭に見てとれる[224]
4 シルヴァノスの教え 本文書に関して古代の文献に記録はない[228]。ただし、「シルヴァノスの教え」という名前では記録に現れないだけで、ナグ・ハマディ写本以外の異本が存在する[228]。1つは『大英博物館所蔵のコプト語手稿のカタログ』(1904年)にNo.979との整理番号で収録されている羊皮紙に書かれた文書(題名は書かれていない)で、「シルヴァノスの教え」の1部であることが1975年にわかった[228]。他に、砂漠の隠遁生活の創始者として有名な聖アントニウス作と伝えられた一連の偽作文書をまとめたアラビア語写本(8-9世紀制作と推定)にも伝わっている[228]。また、後者のラテン語訳がミーニュのギリシア教父全集(ルーブル博物館蔵)第40巻1073-1080欄に収録されている[229]。これらの諸文書の写本伝承関係については仮説の域を出ない[229]。ナグ・ハマディ写本収録の「シルヴァノスの教え」の保存状態はほぼ完全である[230]。ギリシア語原本をコプト語に翻訳したもので、題名は本文の最初に置かれている[230]。ナグ・ハマディ写本の多くがグノーシス主義の文書であるのに対して、「シルヴァノスの教え」の基本的な立場はアレクサンドリア神学にあり[231]したがってグノーシス主義の文書ではなく[232][233]、1部反グノーシス主義な議論を含んでいるとも言える[232]
5 セツの三つの柱 古代の伝承に記録はなく、ナグ・ハマディ文書の発見によって初めて知られた文書である[234]。題名は文書の最後に記されている[234]。原本がギリシア語であることは確実である[234]。コーデックスVIIの保存状態は写本全体の中でも最良であり、本書もほぼ完全な状態で残されている[234]。原本の成立時期は、3世紀中頃から4世紀半ば以降と考えられる[235]。ただし、3世紀半ばよりももっと以前という可能性も残されている[235]。本書は、ドーシテオスという人物が、セツによって記されたという3つの碑文の内容を「そこに書かれてあった通りに」述べる、という形式によっている[236]。碑文にはそれぞれ、セツによる高次の神的存在への賛美が書かれている[237]。第3の柱の内容には、至高神を認識することが人間の救済であるというグノーシス主義の表明が見られる[238]。オリゲネスの「偽クレメンス文書」その他によると、異端の始祖だと正統教会から非難された魔術師シモンには「サマリア人ドーシテオス」なる先生がいると書かれているが、本書の著者がこの「サマリア人ドーシテオス」と同一人物であるとの見方には否定的な研究者が多い[239]。文書の名前の通り、セツ派の要素・哲学が支配的であり、キリスト教の要素は全くない[240]。ユダヤ教・旧約聖書的要素も希薄である[240]。本書は、特に「ツォストリアノス」「アロゲネス」「マルサネス」との並行箇所が多く[240]これらの4文書はプロティノスと接触のあったキリスト教徒哲学者が書いたものであるとの推測が研究者間では一般的に受け入れられている[241]

コーデックスⅧ

VIII 1 ツォストリアノス 題名は本文の最後に書かれているが、一見しただけでは意味不明の「隠し言葉」になっている[242]。これを一定の規則でギリシア語の文字に置き換えると「ツォストリアノスの真理の言葉。真[理]の神、ゾーロアストロス[の]言葉」という文字列が現れる([ ]の部分は本文損傷のために推定によって復元した箇所を表す[243])[244]。このあとがきから、ツォストリアノスとゾロアスターを同一人物とみなしていることがわかるが、古代に広く流布していた伝承から、明らかに両者が同一人物ではないことがわかっている[244]。ナグ・ハマディ写本中最長の文書であるが、保存状態はナグ・ハマディ写本中最悪である[242]。原本がギリシア語だったことは本文より明白である[242]。「ツォストリアノス」に関する古代の記録として、ポルピュリオスが書いた「プロティノスの一生と著作の順序について」(プロティヌス伝)があげられる[245]。この事実から、本書の原本の成立時期は2世後半から3世紀初めであろうというのが妥当だという[246]。「ツォストリアノス」は、主人公のツォストリアノスが啓示者として遣わされた複数のアルコーンから講話を受け宇宙の階層構造を知る様子を描いている[247]。「ツォストリアノス」では、宇宙は11の階層を持つと説明されている。階層構造は、最上位から最下位への順で、見えざる霊・バルベーローのアイオーン・カリュプトスのアイオーン・プロートファネースのアイオーン・三重の男児のアイオーン・アウトゲネースのアイオーン・回心(メタノイア)・滞在(パロイケーシス)・対型(アンティテュポス)のアイオーン・空気の大地・この世界(地上)、である[248]。更に、回心・対型のアイオーン・この世界はそれぞれ、6層、7層、13層に分かれている[249]。各アイオーンでは多数のアルコーンが生み出され、特にアウトゲネースのアイオーンでのアルコーンの数は多い。「ツォストリアノス」はユダヤ教黙示録との類似性が強く、キリスト教との関係は希薄である[250]。セツ派の文書であることは確実である[251]
2 ピリポに送ったペトロの手紙 題名は本文の最初に書かれている[252]。一方、本文末尾には題名は書かれていない[252]。原本はギリシア語だったと見られる[253]。本文中に「ヨハネのアポクリュフォン」におけるソフィア神話やプロノイアの自己顕現に関する記事の要約が書かれていることから、本文書の成立時期は「ヨハネのアポクリュフォン」成立よりも後であることがわかる[254]。新約正典・外典等にある「ペトロの名によって書かれた手紙」の系列に属する文書[255]であるが、全体としては手紙になっておらず、文書の本体部分は啓示である。啓示の序言部分が手紙の形式で書かれているに過ぎない[252]。また、題名に「ピリポ」とあるが、冒頭部分にわずか名前が出てくるだけである[256]。「ヨハネのアポクリュフォン」「三体のプローテンノイア」がセツ派の文書と考えられていること、両者の要約が本文書内に見られることから、本文書もセツ派の文書であると考えられる[257]。ほぼ同じ内容の文書が「チャコス写本」の中に含まれている[258]

コーデックスⅨ

IX 1 メルキセデク ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[259]。題名の「メルキセデク」は本文の最初に装飾を施されて書かれている[259]。ギリシア語原本の成立時期は2世紀後半から3世紀前半にかけて、というのが研究者の多数意見である[259]。メルキセデクとは、旧約聖書ではよく知られた人物の名で、創世記十四章十七-二十節、詩篇百十篇四節などに現われている[259]。黙示録の体裁をとっているが、主人公のメルキセデクは常に地上に留まっている点が「ツォストリアノス」や「マルサネス」とは違っている[260]。全体は三部構成でできており、第1部は天使ガマリエールがメルキセデクの前に現われて与える啓示講和である[259]。第2部では、講話を聞き終わったメルキセデクが「いと高き父なる神」を賛美する[260]。第3部は再び啓示講和で、ガマリエールとは別の複数の啓示者が現れてメルキセデクに語る[260]。本文書はセツ派との密接な関係を持っている[261]と同時に、グノーシス主義的な「仮現論」(イエスの肉体は、その神的本質にとっては仮の宿りに過ぎないという見解)を論駁する文章も書かれており[262]、矛盾した立場が同居している。このような矛盾は他のナグ・ハマディ写本所収の文書にも大なり小なり存在するが、特に「メルキセデク」においてはそれが明瞭である[263]
2 ノレアの思い 保存状態の悪いコーデックスIXの中では比較的状態のいい文書である[264]。本文書に関する古代の記録はなく、ナグ・ハマディ文書の発見によって初めて知られた文書である[264]。エピファニオスの「薬籠」の中で「ノリアの書」という文書について言及されているが、本文書とは別物であるようである[264]。題名は文書の冒頭・末尾共に書かれていない[264]。一般的には「ノレアの思い」(あるいは「ノレアの思想」)が使われているが、「ノーレア頌歌」、「ノレアの洞察行為」と呼ぶ研究者もいる[264]。わずか五十二行の短い文書で[264]、ナグ・ハマディ写本収録の「アルコーンの本質」と多くの共通点を持っている[265]。原本の成立時期として三世紀初頭と推定する研究者がいる[265]
3 真理の証言 「真理の証言」という題名は、現代の研究者が付けた通称である[266]。冒頭に題名が書かれておらず[267]、また、文書の後半は完全に喪失しているため、最後に題名が書かれていたかどうかもわからない[268]。元々コーデックスⅨ自体の保存状態が悪かったため、本文書の保存状態も悪く[269]、ナグ・ハマディ文書中でも最悪の部類である[270]。最大で約千四百十五行の文章だったと推定されるが、そのうち完全に残っているのは二百二十行に過ぎず、推定による復元を含めても七百二十行で全体の約45%でしかない[271]。ギリシア語原本からのコプト語訳である[270]。ただし、写字生がコプト語訳を行ったのではなく、すでに訳された文書を筆写したものと推定される[272]。原本の成立時期については、二世紀末から三世紀初めとの説が唱えられているが、異論も出されていてよくわからない[273]。大まかには3部構成からなっているが、欠損部が多くその区分はあいまいである[274]。初期の研究では「書簡」として分類されていたが、現在では「説教」か「説教的な内容のパンフレット」と見なすのが研究者の多数派意見である[275]。旧約外典・偽典、教父文書の他、旧約・新訳聖書からの頻繁な引用が見られる[276]文書で、極度な禁欲主義を説いている[277]。真理を認識したものは駄弁と議論を排しながら、一生涯性的禁欲を貫くよう求めており、パコミウスの修道院運動と比べて「攻撃的・反世界的」だと評する研究者もいる[277]。同時に正統教会の殉教の神学を否定し、グノーシス主義者として禁欲の生涯を送ることが真の殉教であると主張する[278]、正統教会の洗礼は口先だけの世界拒否に過ぎないと非難する[279]など、グノーシス主義から正統教会を非難した文書でもある。また、グノーシス主義内部に多くの分派が存在したことを明瞭に示す文書でもあり、ヴァレンティノス派、バシリデス派、シモン派の存在がはっきりと書かれている[279]。読み方によっては、コッダイアノス派、カルポクラテス派の存在も見てとれる[279]。キリスト教的グノーシス主義の文書である[280]

コーデックスⅩ

X 1 マルサネス コーデックスXには「マルサネス」以外収録されていないが、元々そうだったのか、他に収録されていた文書があって失われてしまったのかはわからない[281]。写本の保存状態はナグ・ハマディ文書中最悪である[281]。完全またはほぼ完全に残っているページは数えるほどしかなく大半のページは大きく欠損している、あるいは完全に消失してしまっている[281]。原本がギリシア語で書かれていたことは明らかである[282]。題名の「マルサネス」は本文の最後に書かれている[282]。損傷が激しく読みにくかったが1970年代に解読され、その後は研究上確定している[282]。内容は広義の黙示録と言え、「ツォストリアノス」とよく似ている[283]が、「ツォストリアノス」に比べて記述はずっと簡略である[284]。「マルサネス」は、主人公のマルサネスが啓示者の助けを借りて、宇宙の階層構造を最下位の地上から最上位の至高の存在まで認識していく過程を描いている[283]。「マルサネス」では、宇宙は13層から成っていると説明されており、各層は「…の封印」と名付けられている[283]。「第3,2,1の封印」が物質的な世界であるこの世に相当し、「第13の封印」が至高者の世界である[285]。「ツォストリアノス」では「見えざる霊」が最高の至高の存在だったが、「マルサネス」ではその更に上位に「今だかつて知られたことのない沈黙者」という存在をおいている点が新しい[284]

コーデックスⅩⅠ

XI 1 グノーシスの解釈 本文の最初と最後の2回「グノーシスの解釈」という題名が書かれているが、本文の内容とは必ずしも合致していない[286]。むしろ、様々な既存の文書がグノーシス(知識)によって正しく解明される、という意味で解するのが適当であるという[286]。「グノーシスの解釈」は古代の文献に証言がなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[286]。保存状況は本写本中最悪で、本来あるはずの約半分しか現存していない[287]。原本がギリシア語であったことは確実である[287]。原本の成立時期については推測の域を出ない[286]。内容は、「グノーシスの解釈」の著者とその読者が属した教会が分裂状況にあり、それを何とか乗り越えるために作られた実際の説教である[288]。グノーシス主義の文書であることは明瞭だが、その性格を「キリスト教的グノーシス主義」というべきか、それとも「グノーシス主義的キリスト教」と呼ぶべきかは微妙な問題であるという[289]
2 ヴァレンティノス派の解明 ヴァレンティノス派の宇宙論・救済論・終末論の重要なポイントが要約されている文書である[290]。欠損が多く、平均して各ページの三分の一は完全に失われている[291]。そのため、不明な部分も多い[290]。ヴァレンティノス派の教義については、エイレナイオスの『異端反駁』第1巻冒頭に書かれているのと、本写本の「三部の教え」が参考になる[290]。「ヴァレンティノス派の解明」というタイトルは本文の初め・終わりにも書かれていない[292]。もともと無表題の文書だったと推測されている[292]。「ヴァレンティノス派の解明」という名前は現代の研究者によって付けられた通称である[292]。本文に無数のギリシア語の借用語が見られることから原本がギリシア語であることは確実である[291]。成立年代の詳しいことはわからない。ヴァレンティノスが登場したのは2世紀半ばであるので、それ以降、コーデックスXI成立の4世紀前半までいうことしかわからない[292]。ヴァレンティノス派と言っても更に分派が存在しているので、本文書がそのどの派のものなのかは議論があり確定していない[293]
3 アロゲネス アロゲネスとは、異人という意味である[294]。エピファニオスが「薬籠」の中で、アルコーン派の人々が「アロゲネースたちと呼ばれる諸文書を持っている」と述べているので、古代にはアロゲネスの名を冠した諸文書が存在していたことがわかる[294]。本文書は、その一連の文書の中の1つと考えられる。一方、エイレナイオスやヒッポリュトスの書物には「アロゲネースたち」に関する記述はないので、アロゲネスの名を冠した諸文書は、三世紀以後に展開されたものと推測される[295]。題名は文書の末尾に書かれている[294]。ギリシア原本をコプト語訳した文書だと考えられる[296]。アロゲネスが啓示を受けそれを「わが子メッソス」のために記録するという体裁の文書で、経済的援助者か弟子のために作られた説話である[297]。なお、「チャコス写本」に含まれている「アロゲネースの書」はナグ・ハマディ写本所収の「アロゲネス」とは内容が異なる[298]
4 ヒプシフロネー 「ヒプシフロネー」とはギリシア語で「高慢な」を意味する形容詞の女性単数形だという[299]。古代の文献に記録はなく、ナグ・ハマディ写本発見によって初めて知られた文書である[300]。保存状態は非常に悪く残っている四ページのパピルスのどのページの本文も半分以上欠落している[301]。この他に、おそらく「ヒプシフロネー」の一部だろうと推測される断片が大小六つほど残っている[301]。題名は本文の最初に書かれている[300]。欠落部分が多すぎて推測以上のことは何もわからない[302]

コーデックスⅩⅡ

XII 1 セクストゥスの金言 ナグ・ハマディ写本以外に、パトモス写本(10世紀)とヴァチカン写本(14世紀)にも伝わっている[303]。後者は共にギリシア語で書かれている[303]。これ以外にも、ラテン語訳の写本(ラテン教父の一人ルフィヌスによるラテン語訳)やシリア語訳、アルメニア語訳、ゲオルギア語訳、エチオピア語訳が伝わっている[304]。ルフィヌスは、伝説によればと断った上で、三世紀半ばのローマの司教クシュストゥス二世の作であると述べている[305]。一方、ヒエロニュモスは、ルフィヌスの言はでたらめで真の作者は「ピュタゴラス主義者セクストゥス」であると書いているが、実際にこれが誰のことなのかははっきりしない[306]。ナグ・ハマディ写本の「セクストゥスの金言」がギリシア語原本からコプト語訳したものであるのは本文より明瞭に見て取れる[303]。「セクストゥスの金言」は古代末期の多くの文献に記録が残されている[304]。その最初のものはオリゲネスによる「ケルテス論駁」である[304]。これより、ギリシア語原本は二世紀末に成立したものと推定されている[306]。コーデックスXII所収の「セクストゥスの金言」はパピルス5枚10ページ分しか残っておらず、どのページも上部が欠損していて単独での復元は難しい[303]。本書にグノーシス的な要素は皆無である[307]
2 真理の福音(の一部)
3 断片

コーデックスⅩⅢ

XIII 1 三体のプローテンノイア 題名は、本文の最後にギリシア語で書かれている[308]。ただし、正確には「顕現の教え 三」「三体のプローテンノイア 三」「父によって書かれたる聖なる書」「完全なる知識をもって」と書かれている[309]。「顕現の教え 三」は、本文書の第3部についていた表題と考えられる[308](第1部には「プローテンノイアの教え 一」の表題が書かれている[308]。第2部の表題は欠損のために不明であるが、「[宿]命[論 二]」と復元されている[308])。「父によって書かれたる聖なる書」「完全なる知識をもって」については、なぜ書かれたのかは不明である[308]。プローテンノイアとは、ギリシア語の「プローテー」(最初の、という意味)と同じくギリシア語の「エンノイア」(思考、の意味)を合成して作った造語である[310]。保存状態は中程度で、復元不可能な部分もある[310]。ギリシア語原本からのコプト語訳だと推定される[310]。本文書の神話論は、セツ派の文書である「エジプト人福音書」「ヨハネのアポクリュフォン」との並行箇所が多く、特に「ヨハネのアポクリュフォン」とは共通部分が多い[311]。コーデックスⅡとⅣ所収の「ヨハネのアポクリュフォン」(通称「長写本」)のエピローグを拡大して成立した文書に見える[311]が、「ヨハネのアポクリュフォン」自体の成立史が複雑である上に、「三体のプローテンノイア」自体も伝承史的に最も古い基層に2次的に文章を付加して作られたと見られるので、相互の関係は単純ではない[312]。「三体のプロテーンノイア」は「ヨハネによる福音書」との関連性が指摘されている[313]
2 この世界の起源について(の一部) 「三体のプローテンノイア」の最終ページあとがきに続いて、「この世の起源について」の冒頭十行分だけが残されている[314]。このことから、コーデックスIIの「この世の起源について」とは別の異本が存在したことがわかるが、コーデックスXIIIには冒頭十行分以外は残されていない[314]

脚注

注釈

  1. ^ 数え方は文献によって異同がある。C.Markschies, Gnosis: An Introduction, 2000, p.49では、11冊の完全な写本と2つの断片、と数えている。断片の形でしか残されてないコーデックスXIIを1冊と数えるかどうかで勘定の仕方が変わっているようである。
  2. ^ より正確に言えば、オクシリンコスで発見された大量のパピルスのうちの3枚、オクシリンコス・パピルス 1英語版, オクシリンコス・パピルス 654英語版, オクシリンコス・パピルス 655英語版である[7][8]
  3. ^ 各写本のカバーを補強するために、その裏側に張られている厚紙のこと[10]。日付のついた手紙や領収書が反故紙として使われているので、写本の年代特定ができる[11]
  4. ^ 例えば、『トマスによる福音書』の成立時期に関して、クィスペルらは140年頃だと主張して[12]おり、新約聖書成立(60年から110年頃)よりも後のことであろうと考える研究者がいる[14]。その一方でヘルムート・ケストナーは、まとめられたのは140年頃だろうが、『トマスによる福音書』の一部は新約成立以前の1世紀後半のものを含むかもしれないと主張している[14]。その他の例では、『真理の福音』があげられる。リヨンの司教エイレナイオス(イレナエウスと書かれる場合もある)は180年頃に5巻からなる書物『偽称グノーシスの正体暴露とその反駁』(普通は『異端反駁』と略称されている)[15]の中で『真理の福音』と呼ばれている有名な福音書を神へのひどい冒涜であるとして非難した[16]。この『真理の福音』が、ナグ・ハマディ写本に収められている『真理の福音』と同じものなのかすら議論がある[16]
  5. ^ 証言を聞く時には、ロビンソンは常にウイスキーを一本と十ポンド札一枚を村人たちに渡していた[21]。この額は当時としてはかなり高額だったという[21]
  6. ^ コーデックスⅠは写本の発見直後に、前半の約三分の一と後半の約三分の二に二分割され、それぞれカイロの古物市場に売りに出された[36]。このうちの後半三分の二の部分(五十一葉と百六の小断片のパピルス)が「ユングコーデックス」に相当する[36]。ユングコーデックスの最後には本来さらに二葉四ページ分のパピルスがあったはずであることが確認されているが、それらは失われてしまった[36]
  7. ^ 正確には「ベルリン・グノーシス主義パピルス(Papyrus Berolinensis Gnostics)」という[43]1896年にドイツの博物館の手に渡り、現在はベルリンのボーデ博物館に収蔵・一部展示されている[43]。写本自体の成立は遅くとも5世紀初頭という説が有力である[44]
  8. ^ アダムとエヴァがセツを産んだ後にもうけた娘のことで、セツの妹であり同時に妻である[96]。が、「アルコーンの本質」ではむしろノアの妻であることが前提されている[96]
  9. ^ 荒井「トマスによる福音書」では558B - 589B、J.M.Robinson, The Nag Hammadi Library in Englishでは588A-589Bと書かれている。
  10. ^ 荒井「トマスによる福音書」では22-29、L.M.Robinson, The Nag Hammadi Library in Englishでは21-29となっている。

出典

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  • 荒井献・大貫隆『ナグ・ハマディ文書 チャコス文書 グノーシスの変容』岩波書店、2010年。ISBN 978-4-00-022629-5 
  • 荒井献『トマスによる福音書』講談社学術文庫、1994年。ISBN 4-06-159149-5 (1984年4月に講談社から発刊された「隠されたイエス―トマスによる福音書」を増補・改訂して文庫化したもの)
  • Robinson, James (1988), The Nag Hammadi Library in English(The Third Completely Revised Edition), ISBN 0-06-0669-35-7 
  • Pagels, Elaine (1989), The Gnostic Gospels, Vintage Books, ISBN 0-679-72453-2 . (1979年にランダム・ハウス社から発刊された本の再刊本)
  • Markschies, Christoph (trans. John Bowden), (2000). Gnosis: An Introduction. T & T Clark. ISBN 0567089452 
  • エレーヌ・ペイゲルス『ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教の正統と異端』荒井献(訳)、湯本和子(訳)、白水社、1996年。ISBN 4560028990 
  • ハーバート・クロスニー『ユダの福音書を追え』日経ナショナル ジオグラフィック社、2006年。ISBN 978-4-93-145060-8 

関連項目