ヘロドトス

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ヘロドトスの胸像

ヘロドトスヘーロドトス: Ἡρόδοτος, Hēródotos、:Herodotus、前484年頃 - 前430年頃[1][2])は、古代ギリシア歴史家。今日まで伝存されている古典古代の歴史書の中では最古である『歴史』の執筆で名高く、しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。

生涯

彼の著作『歴史』の知名度・重要性に反して、ヘロドトス自身の人生について知られていることは少なく、ビザンツ帝国10世紀頃に成立したスダ(スダ辞典)におけるヘロドトスと関連する事項への言及と、古典古代の作家の断片的な言及、そしてヘロドトス自身の叙述から拾い集められる記述以外の情報はほとんど無い[3][4]

スダによればヘロドトスは小アジア南部にある都市ハリカルナッソス(現:トルコボドルム)の出身で、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという[4]。また兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた[4]。ハリカルナッソスがある地方はカリアと呼ばれており、この都市は前900年頃にペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシア人の植民市であった[5][2]。しかし前5世紀にはハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、ヘロドトス自身も古代ギリシア語のイオニア方言を話した[2][5]。また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスもカリア系の名前である[2][5]が、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である[5]。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である[5]。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す[2]

ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった[1]。ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる[1]。その後アルテミシア1世の息子、または孫の僭主リュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、ヘロドトスとパニュアッシスは、リュグダミスに反対する政争に加わったが、パニュアッシスは殺害され、ヘロドトス自身も故国を追われ、サモスでの亡命生活に入った[1]。リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、恐らく前450年代初め頃に彼の政権は打倒された[1]。この過程にもヘロドトスは関わったとする見解もある[1]

サモスにある程度の期間滞在した後、ヘロドトスは各国を訪れた[6][3]。その過程と時系列は大雑把にしかわからないが、彼はまずアテナイに行き、ついで前443年にイタリアに建設された新植民市トゥリオイに移住した[7][3]。この都市はアテナイの支配者ペリクレスがギリシア各地から移民を集めて建設した都市であったがヘロドトスが参加した経緯は不明である[7][3]

彼がサモスを去ってから死亡するまでの間に、少なくともアテナイキュレネクリミアウクライナ南部、フェニキアエジプトバビロニアなどを旅したはずであるが[8][9]、その具体的な年代をどこに当てはめるべきかは明確ではない。ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう[9]

彼はペロポネソス戦争勃発の頃(前431年)にはまだ生存していたと言われ、最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、いずれも明確な証拠はない[7][9]

著作

オクシュリンコス・パピルス 2099から発見された『歴史』8巻断片。2世紀

ヘロドトスは現在では日本語で『歴史』、英語ではThe Historiesと言うタイトルで知られる著作を残した。この作品冒頭でヘロドトスは以下のように著者名と執筆の目的・方法を書いている。

これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(Ἱστορίαι ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。-『歴史』巻1序文、桜井訳[10]

この文章は著述の方法として調査・探求(Ἱστορίαι、historia)という単語を用いた現存最古の用例である[10]。最初に著者名を筆記し、執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、ヘロドトスに先行して各ポリスの伝承などを散文で綴っていたロゴグラポイと呼ばれる文筆家の一人、ミレトスのヘカタイオスを意識したものであったと見られる[11][10]。このような文章は前4世紀には10例ほどが知られており、ヘロドトスのそれはその中でも最古の部類に属する[11]

ヘロドトスの『歴史』は全9巻からなるが、この9巻分類はヘロドトス自身によるものではなく、アレクサンドリアの学者によるものである[9]。現在に残る『歴史』の全体構成はヘロドトスが当初から構想していたものではなく、後から追補される際に整えられたものであると推定される[12]。少なくとも最後の3巻部分は最初の6巻部分よりも先に作られていたことを示す各種の内部証拠が存在する[12]

この著作は現代風に解釈するならば一種の同時代史と見ることができる。序文に記された戦いがは全ギリシアを巻き込んだペルシア戦争であり、異邦人(バルバロイ)がペルシア人のことであるのは当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった[13]

執筆姿勢

ヘロドトス自身には当時、現代的な意味での「歴史」を書くという明確な意識はなく、自らを歴史家とはみなしていなかったと考えられる[14][15]。ヘロドトスが用いた調査・探求(Ἱστορίαι ヒストリエー)というギリシア語の単語は英語のhistory(歴史)やフランス語のhistoire(歴史)の語源となったことは広く知られている[14]。しかし、『歴史』本文においてヘロドトスがこのhistoriaという単語を用いる時、基本的には「調査」もしくはその方法としての「尋問」という意味で使用されている[14]。つまり、ヘロドトス自身の意識としてはこの著作は現代の概念でいう「歴史」を書いたものではなく、「自身による研究調査結果」を語るものであった[14]。ただし柿沼重剛の指摘によれば、ヘロドトス以前にはhistoriaが意味する「探求」とは神話や系譜、地誌に関することであったが、ヘロドトスはこれを「人間界の出来事」にまで広げたという[16]

彼が調査・探求して記した『歴史』は今日でいう「同時代史」に相当するものであり、当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった[17]。そしてそのための探求の方法は現代の歴史研究の手法とは異なり、史料を確認し情報を収集するよりも、現地を回り関係者に聴取し、また自ら経験するのがその主たる手法であった[17]

彼は自らの目で確認することに努めたが、不足する情報は伝聞や証言によって補った[18]。その中にはヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、彼はそれを『歴史』に掲載している。このような執筆姿勢は以下のような記述からも明らかである。

この王についての(エジプトの)祭司の話はなお続き、右の事件の後ランプシニトスは、ギリシア人がハデス(冥界)の在るところと考えている地下へ生きながら下ったということで、ここでデメテルと骰子を争い、互いに勝敗のあった後、女神から黄金の手巾を土産に貰い、再び地上へ帰ったという。このランプシニトスの下界降りが起縁となって、彼が地上へ帰ってからエジプトでは祭を催すようになったという。(中略)このようなエジプト人の話は、そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである。-『歴史』巻2§122-123、松平訳[19]

一方でこの態度は彼の著作中において徹底はしておらず、採録の基準は曖昧であったし、神々と人間との関わりのような問題についてもはっきりと首尾一貫した哲学的姿勢を持っていたわけではない[20]。ヘロドトスは英雄時代の歴史に立ち入ることはなく、しばしば触れる神話的伝承についても懐疑的な姿勢を取り、神々がかつて人間と交わったという説話や神の出現と言った出来事を事実として承認することはしなかった。だがこの姿勢はしかし神話を明確に拒絶するほど徹底したものでもなかった[20]。ヘロドトスはまた、こうした神話的な説話に対して時折風刺を加えてもいる[20]

テッサリアの住民自身のいうところでは、ペネイオスの流れているかの峡谷は、神ポセイドンの作られたものであるというが、もっともな言い分である。というのは地震を起こすのがポセイドンで、地震による亀裂をこの神の仕業であると信ずる者ならば、かの峡谷を見れば当然ポセイドンが作られたものであるというはずで、私の見るところ、かの山間の亀裂は地震の結果生じた物に相違ないのである。-『歴史』巻7§129、松平訳[21]

また、ローマ時代のプルタルコスエウセビオスによれば、ヘロドトスは『歴史』の内容を各地で口演していたという。このヘロドトスが聴衆に向けて語り聞かせていたという情報は事実であると考えられ、このことが聴衆を楽しませるための様々な説話・余談の挿入、本筋からの脱線という『歴史』の特徴を形作ったとも考えられる[22]

評価

ヘロドトスは歴史叙述の成立過程、史学史において必ず言及される人物であり、しばしば「歴史の父(pater historiae)」と呼ばれる。彼をこう呼んだ最初の人物は古代ローマの政治化・哲学者であるキケロである[16]。キケロは著作の『法律について』の一節でヘロドトスをこのように呼んでいるが、それがなぜなのかについて理由を説明していない[16]大戸千之はもしキケロに代わって説明するならば、ヘロドトスが「歴史の父」と呼ばれる理由は以下のようなものであるという。それはヘロドトスが著作において、執筆者とテーマ(ペルシア戦争の調査研究)を明示したこと、そしてその調査研究手法として「自らできる限り調査する」「情報を突き合わせ吟味・検討する」「調査結果を正確に報告し、直接的な情報と間接的な情報の弁別、情報に対する自身の評価、自分が信じる情報と信頼はしないが重要な情報の区別」といった後の歴史研究の基本に通じる姿勢を持っていたことによるのである[23]

また、ギリシアでは既にヘロドトスの没後100年あまりの間に、詩とは異なる「歴史」というジャンルは明確に確立されており、早くも前4世紀に生きたアリストテレスはヘロドトスを歴史家として分類し、以下のような有名な言葉を残している。

歴史家と詩人は、韻文で語るか否かという点に差異があるのではなくて-事実、ヘロドトスの作品は韻文にすることができるが、しかし韻律の有無にかかわらず、歴史であることにいささかの代わりもない-、歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。-『詩学』第9章、松本・岡訳[24]

こうして歴史家として称えられたヘロドトスの『歴史』は名著の誉れ高く、失われることなく、また名声を損なうことなく現代まで伝えられた古典古代の「歴史書」の中では最古のものである[3]

一方でヘロドトスに対しては、荒唐無稽なエピソードをむやみに掲載することや、余談や脱線があまりに多く作品の全体構成や叙述がアンバランスでまとまりが悪いこと、「聞いたままに記す」というその姿勢が正確さを追求しないための逃げ口上である、というような批判が古くからされてきた[25]。具体的には、ペルシア戦争をテーマにして『歴史』を書いたにもかかわらず、全9巻のうち、第5巻まで延々と各国の神話・伝説・歴史の叙述が続き、前史の部分があまりに冗長であることや、話としては面白くともほとんど事実とは考え難いような話があまりに多く掲載されていることなどが常に批判の対象となっている[25]

このような批判は既に古代から行われていた。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んだキケロはの文章は「歴史の父であるヘロドトスやテオポンポスには無数の作り話(fabulae)があるが」というものであるし[26]、アリストテレスはヘロドトスが伝えたライオンの出産についてのアラビア人の話を「馬鹿げている」と評している[27]。さらに古く、小アジア出身の医師でアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)に仕えたクテシアスはヘロドトスを「嘘つき」と批判していたことが伝わっており、以降の古代ギリシアの歴史家たちの間では、「実証的な」描写で名高いトゥキュディデスと比較されヘロドトスの評価はかなり厳しいものであったとも言われる[28]。近現代においても、『ローマ帝国衰亡史』で名高いイギリスの歴史学者エドワード・ギボンは、ヘロドトスが話として面白いエピソードをふんだんに交えていることについて、「ある時は子供のために、ある時は哲学者のために書いている」と評している[29]

だが、トゥキュディデスもまた現代の歴史学の研究においては単純に信用できるものとはされておらず、古代人によるヘロドトスへの批判はそれ自体が事実誤認によるところがあったという指摘もあり、現代ではヘロドトスの復権は著しい[28]。ヘロドトスの記述のうち古代ギリシアの地誌に関する研究においては、その信憑性の高さを認める見解も存在する[30]

総体としてはヘロドトスは、明確な問題意識の設定、能動的な情報収集、情報自体の批判・検証、公平な立場から事物の推移・原因を考える姿勢などを打ち出したことから、彼の著作『歴史』は歴史学の誕生を告げるものである評価される[31]。歴史学者大戸千之はヘロドトスの評価について以下のようにまとめている。

歴史学は、事実を語るために情報を収集し、それらを批判的に検討する営為である、ということができる。ヘロドトスの仕事は、その鏑矢といってよい。今日的観点からすれば、先立つ語りの伝統[注釈 1]の殻を抜けきれておらず、批判的検討にもナイーヴすぎるところがある点は蔽えないけれども、歴史学の第一歩を踏み出した栄誉は、彼にあたえられるべきであると考えたい[32]

脚注

注釈

  1. ^ 聴衆の存在を前提に、様々な挿話によってその関心を惹きつけるホメロス以来の伝統的な事物の語りの伝統。

出典

  1. ^ a b c d e f 松平 下, p. 373
  2. ^ a b c d e 桜井 2006, p. 12
  3. ^ a b c d e ベリー 1966, p. 38
  4. ^ a b c 松平 下, p. 371
  5. ^ a b c d e 松平 下, p. 372
  6. ^ 桜井 2006, p. 14
  7. ^ a b c 桜井 2006, p. 16
  8. ^ 大戸 2012, p. 51
  9. ^ a b c d ベリー 1966, p. 39
  10. ^ a b c 桜井 2006, p. 20
  11. ^ a b 大戸 2012, p. 53
  12. ^ a b ベリー 1966, p. 40
  13. ^ 大戸 2012, p. 55
  14. ^ a b c d 大戸 2012, p. 57
  15. ^ 桜井 2006, pp. 25-26
  16. ^ a b c 大戸 2012, p. 58
  17. ^ a b 大戸 2012, p. 60
  18. ^ 大戸 2012, p. 61
  19. ^ 『歴史』巻2 §122-123
  20. ^ a b c ベリー 1966, pp. 45-51
  21. ^ 『歴史』巻7 §129
  22. ^ 大戸 2012, pp. 74-77
  23. ^ 大戸 2012, pp. 58-59
  24. ^ 桜井 2006, pp. 26-27
  25. ^ a b 大戸 2012, p. 71
  26. ^ 桜井 2006, p. 41
  27. ^ 大戸 2012, p. 72
  28. ^ a b 桜井 2006, p. 42
  29. ^ 大戸 2012, p. 73
  30. ^ 桜井 2006, p. 43
  31. ^ 大戸 2012, p. 86
  32. ^ 大戸 2012, pp. 86-87

参考文献

  • ヘロドトス歴史 上』松平千秋訳、岩波書店岩波文庫〉、1971年12月。ISBN 978-4-00-334051-6 (ワイド版も刊(2008年)、文庫初版は1971-72年、初刊は筑摩書房世界古典文学全集10」)
  • ヘロドトス歴史 中』松平千秋訳、岩波書店岩波文庫〉、1972年1月。ISBN 978-4-00-334052-3 
  • ヘロドトス歴史 下』松平千秋訳、岩波書店岩波文庫〉、1972年2月。ISBN 978-4-00-334053-0 
  • 大戸千之『歴史と事実 ポストモダンの歴史学批判をこえて』京都大学学術出版会〈学術選書057〉、2012年11月。ISBN 978-4-87698-857-0 
  • 桜井万里子『ヘロドトスとトゥキュディデス』山川出版社〈ヒストリア023〉、2006年5月。ISBN 978-4-634-49194-6 
  • J.B.ベリー 著、高山一十 訳『古代ギリシアの歴史家たち』修文館、1966年4月。ISBN 978-4-87964-025-3 (1990年4月改訂版)

関連文献


関連項目