アメリカ施政権下の小笠原諸島
- アメリカ施政権下の小笠原諸島
- United States administered Bonin islands
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公用語 英語 首都 父島大村 -
ボニン諸島米国軍政府長官
(米海軍太平洋艦隊司令官が兼務) -
1945 - 1945 チェスター・ニミッツ 1967 - 1968 ジョン・ハイランド - ボニン諸島評議会議長[1]
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1945 - xxxx年 クラーク・ゴンザレス(Clark Gonzales)[1] - 面積
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1960年(昭和35年)[2] 106.14km² - 人口
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1940年(昭和15年)[3] 7,361人 1946年(昭和21年)[4] 129人 1970年(昭和45年)[3] 781人 - 変遷
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硫黄島の戦い終結 1945年(昭和20年)3月26日 日本軍が降伏文書に調印 1945年(昭和20年)9月3日 SCAPIN-677による日本の施政権停止 1946年(昭和21年)1月29日 サンフランシスコ講和条約発効 1952年(昭和27年)4月28日 日本に返還 1968年(昭和43年)6月26日
通貨 USドル(1945年 - 1968年) 時間帯 UTC +9(DST: なし)
アメリカ施政権下の小笠原諸島(アメリカしせいけんかのおがさわらしょとう)とは、1945年(昭和20年)の米軍による小笠原諸島(南方諸島)占領から、1968年(昭和43年)6月26日の小笠原本土復帰に至るまでの、23年間に及ぶアメリカ合衆国による統治時代のことである。
歴史
前史
小笠原諸島は、寛文10年2月(1670年4月)に長右衛門ら7名が母島に漂着して以来、日本ではその存在を知られていたが、幕府は延宝3年(1675年)5月に調査船を派遣したのみで、実効支配を行っていなかった[5]。19世紀に入り、欧米の捕鯨船が日本近海に出漁するようになると、小笠原諸島に寄港する船が増加し、文政10年(1827年)6月にはイギリス軍艦のブロッサム号(HMS Blossom)が父島に来航し、艦長のフレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)は父島をはじめとする小笠原群島の領有宣言を行っている[6]。しかし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されず[7]、文政13年5月10日(1830年6月26日) にアメリカ人ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら欧米人男性5人と太平洋諸島出身の男女20人がハワイから父島に入植し、小笠原諸島には欧米系島民が暮らすようになった[8][注 1]。
幕末には日本、アメリカ合衆国、イギリスの3国で小笠原諸島の領有権が争われた。幕府は17世紀に行った調査をもとに先占権を訴え、文久元年12月(1862年1月)に外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らを父島へ派遣し、欧米系島民と会談した。その結果、欧米系島民による既得権益が認められ、代わりに日本による小笠原諸島領有を了承させた[9]。幕府は翌文久2年8月(1863年9月)に八丈島から移住者30名を父島へ送った[10]が、同月に生麦事件が発生して日英関係が悪化したため、文久3年5月(1864年6月)に父島から撤収することになった[11]。最終的に小笠原諸島の領有権が決定するのは、1877年(明治8年)11月に明治政府が明治丸を父島へ派遣し、欧米系島民の代表者13名と小花作助ら小笠原回収委員が会談を行ってからであった。欧米系島民は日本による小笠原諸島領有を認め、翌1878年(明治9年)9月に明治政府は諸外国に対して小笠原諸島領有を宣言した[12]。
その後、1882年(明治15年)までに欧米系島民は全員日本に帰化した[13]。また1881年(明治14年)には、小笠原諸島への渡航禁止令が解除され、横浜からの定期船が増便された結果、日本本土や八丈島からの移民が入植するようになった[13]。1891年(明治24年)に硫黄島を含む火山列島[14]、1898年(明治31年)に南鳥島が日本領となり、それらの島々にも移民が入植した[15]。さらに第一次世界大戦の結果、日本は1920年(大正9年)に北マリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島などの島々を委任統治領として獲得すると、小笠原諸島はそれらミクロネシアの島々と日本本土を結ぶ中継地点として繁栄した[16]。
太平洋戦争
1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発した。米軍による反攻が開始されたのち、日本軍は1944年(昭和19年)5月に栗林忠道中将指揮の下、父島要塞守備隊を主力とした小笠原兵団を編成し、小笠原諸島の防衛にあたった。6月15日、父島や硫黄島が米軍による空襲を受けたため、7月に硫黄島島民約1,000人を含む島民6,886人が日本本土に強制疎開することになったが、825人の島民は軍属として残留した[17][18][4]。
1945年(昭和20年)2月19日から硫黄島の戦いが行われ、島民82人を含む21,900人の日本兵が戦死した。3月26日の日本軍の組織抵抗の終結に伴い、硫黄島は米軍の軍政下に入った。なお、小笠原諸島のその他の島へは米軍の上陸作戦は行われず、終戦まで日本軍が保持した。しかし米軍によって補給線が断たれたために食料は欠乏し、軍属1人あたり1日に乾パン3個、米飯と味噌汁1杯しか支給されず、父島と母島を合わせて200名あまりが餓死した[19]。
8月15日の玉音放送ののち、9月3日に駆逐艦ダンラップ(USS Dunlap (DD-384))が父島に入港した。ダンラップ艦上で降伏文書の調印が行われた結果、小笠原諸島の日本軍は米軍に降伏し、小笠原諸島全域が事実上米海軍の軍政下に入ることになった。
欧米系島民の帰島
1946年(昭和21年)1月29日、GHQよりSCAPIN-677が指令された。このSCAPIN-677によって小笠原諸島全域における日本の施政権が停止され、正式に米軍による軍政が始まった[20]。
日本本土に疎開した欧米系島民の多くは、戦時中は東京都練馬区の工場で薬莢作りに従事した[21]のち、終戦後は横須賀市田浦周辺に集住していた[22]。1945年(昭和20年)後半、アメリカ領事のアレクシス・ジョンソン(Alexis Johnson)に欧米系島民代表のフレッド・セイヴァリー(Fred Savory)が接触し、帰島許可を求める請願書を手渡した[23]。これを受けて、米軍は翌1946年(昭和21年)3月19日に、欧米系島民およびその配偶者(Families of American-European Origin)に限り父島への帰島を許可した。一方、4月には欧米系島民以外の旧島民代表がGHQに陳情し、帰島促進を求める請願書を提出したが、帰島許可は下りなかった[24]。
米軍による帰島許可を受けて、10月17日に欧米系島民のうち129人が駆逐艦欅で父島に帰島した[23]。帰島当初、父島に戦前から残っていた建物は2軒のみであった[25]ため、欧米系島民たちは父島の米軍兵舎で1,2家族ごとに共同で暮らし、食料は日本軍の貯蔵庫にあったものを利用していた[26]。10月19日には住民自治組織であるボニン諸島評議会(Bonin island council)[注 2]と五人委員会が設立された[1]。五人委員会は島民から選挙によって選出された男性5人が月に1回集まり、住宅、農業、漁業について話し合う機関であった[26]。
12月21日、昭和南海地震を原因とした津波が父島に押し寄せ、島民たちの住宅環境はさらに劣悪となった[1]。そのため、米軍はサイパンの捕虜収容所から物資を輸送し、米軍から住宅資材の提供を受けた島民たちは、大村地区に戦前の土地の区割りと関係なく住宅を建てて移住した[27]。これは電気や上下水道を安価に利用するために行われた措置であった[27]が、返還後に土地の所有権をめぐって民事訴訟で争われたケースもある[28]。
帰島当初、島民たちは農業、漁業を共同で行い、得た食料は全て世帯あたりの人数に応じて分配していた[26]。1948年(昭和23年)には島民の積立金と米軍からの借入金を元にボニン諸島貿易会社(Bonin Islands Trading Company 略称:BITC)が設立される[27]と、各家庭で買い物ができるようになり[26]、島で手に入らない食料品や日用品、衣類や玩具などの買い物についてはシアーズ(Sears)百貨店のカタログ販売が利用された[29]。また、ボニン諸島貿易会社を介して島民たちは海産物や農産品をグアムやサイパンへ輸出し、現金収入を得ることが可能となった[26]。ボニン諸島貿易会社は、設立当初の時点で1年に10,000ドルあまりの利益を得ていた[27]。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、アメリカが小笠原諸島を信託統治下に置くことを国際連合に提案し、その提案が国際連合で可決されるまでの期間、アメリカが小笠原諸島の行政、立法、司法のすべての権限を行使することが規定された[30][注 3]。そのため、東京都小笠原支庁および各村の役場が廃止された[4][注 4]。
帰島運動
一方、欧米系島民以外の多くの旧島民は小笠原諸島へ帰島することができなかった。旧島民の多くは疎開によって着の身着のままやってきた者が多く、また帰島を希望するが故に日本本土に生活基盤を築かなかった者も多かったため、生活に困窮した[31]。帰島を希望する旧島民たちは1947年(昭和22年)7月に小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟を設立して、GHQや日本、アメリカ両政府に対して陳情を繰り返した[31]。なお、1955年(昭和30年)当時、帰島を希望する旧島民の数は旧島民全体の37%にあたる2,600人であった[32]。帰郷促進連盟がアメリカ政府に送った陳情書の数は、1947年(昭和22年)から1962年(昭和37年)の16年間で86通に及んだが、父島に核兵器を保管[33]していたアメリカ国防総省の反対によって運動の成果は実らなかった[34]。
また、帰郷促進連盟は日米両政府に対して生活補償金の支払いを求め続けた。当初、日米両政府は補償金の支払いを拒否していたが、日本政府からは1955年(昭和30年)に1億円、翌1956年(昭和31年)に4,000万円の見舞金が支給され[35]、アメリカ政府からは1959年(昭和34年)に請求額の半額にあたる600万ドルが支給された[35]。しかし、補償金の配分を巡って帰郷促進連盟は4つの派閥に分かれて対立し、補償金の配分が完了するのは1963年(昭和38年)になってからであった[35]。
アメリカ統治の終了
小笠原諸島をめぐる日米間の交渉は1950年代から行われており、アメリカ国務省は条件付きながらも小笠原諸島返還に前向きであった[34]。1956年(昭和31年)、駐日大使のジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison)は国務長官のジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)に対し、「個人的には、日本が十分な海軍力を整えれば、直ぐに小笠原諸島を返還することが日本とのパートナーシップの構築へ貢献できると思う」と述べている[36]。また同じ年、アメリカ国務省日本担当官であったジェームズ・マーティンJr(James V.Martin Jr)は「米国が琉球と小笠原諸島の返還に積極的でないのは、日本が中立主義に傾く可能性への恐怖である」と外務省の駐米一等書記官に話している[37]。しかし、アメリカ国防総省の反対によって小笠原諸島返還交渉は遅々として進まなかった[34]。
1967年(昭和42年)11月、佐藤栄作首相とリンドン・ジョンソン大統領が会談した結果、日米間で南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)が締結された。翌1968年(昭和43年)4月5日には日米間で本協定が締結・調印され、5月22日、採決を棄権した日本共産党を除き、全会一致で国会の承認を受けた[38]。
そして6月26日正午、父島のアメリカ海軍司令部前で返還式典が行われ、小笠原諸島は日本に復帰した。返還後、欧米系島民には3年間の国籍猶予期間が与えられたため、アメリカ国籍を選択してアメリカに移住した者も少なくない[39]。また、小笠原諸島は返還後日米安全保障条約の範囲に含まれたため[40]、引き続き硫黄島と南鳥島には硫黄島ロランC主局と南鳥島ロランC局の管理を目的として、アメリカ沿岸警備隊が駐留した。その後、硫黄島ロランC主局は1994年(平成6年)に廃局となり、南鳥島ロランC局は1993年(平成5年)に海上保安庁に引き渡されたため、小笠原諸島から米軍は撤収した[15]。
また返還後、欧米系島民以外の旧島民の帰島も自由となったが、実際に小笠原諸島へ帰島した旧島民の数は、1982年(昭和57年)の時点で649人であった[32]。
地理
サンフランシスコ講和条約と南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定によると、ここで定義されている南方諸島及びその他の諸島とは、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島となっている[30]。なお、SCAPIN-677にはこの他に中ノ鳥島の名があるが、これは実在しない島である[20]。
また、返還まで一般住民のいる島は父島のみで、ほかに父島、硫黄島、南鳥島に米軍が駐留していた。南鳥島は1945年(昭和20年)から米軍が駐留していたが、1947年(昭和22年)の台風発生に伴う高潮で被害を受けたために撤退し、一時無人島となっていた。その後、1951年(昭和26年)から日本の気象庁がアメリカ政府の委託を受けて気象観測業務を行ったが、1963年(昭和38年)に南鳥島ロランC局が完成したことを受けて撤収し、以後返還後に至るまでアメリカ沿岸警備隊が駐留した[15]。ほかは母島を含めて全て無人島であった。
政治
小笠原諸島は、サンフランシスコ講和条約第3条によって、沖縄と同様に日本の潜在的主権が確認されていた[41]。しかし、サンフランシスコ講和条約第3条には、アメリカを小笠原諸島に対する唯一の施政権者とすることも規定されていたため、小笠原諸島は返還までアメリカ海軍の軍政下に置かれた[4]。
アメリカによる小笠原諸島統治の最高責任者はボニン諸島米国軍政府(United States Military Government of the Bonin islands)長官であり、アメリカ海軍太平洋艦隊司令官が兼務した[42]。また、ボニン諸島米国軍政府副長官はグアムに駐在するマリアナ地域司令官(Commander Marianas)が兼務し[42]、その下に小笠原諸島に対する実務を担当する、ボニン・マリアナ諸島軍政府主任将校(Cheif Military Government officer Bonins-Marianas islands group)が置かれた[42]。この体制は1947年(昭和22年)7月に太平洋諸島信託統治領が発足し、サイパンを含む北マリアナ諸島がその一部となった後も変化はなかった[42]。そのため小笠原諸島は、日本が潜在的主権を持つのにもかかわらず、行政上は太平洋諸島信託統治領と一括で管理されることになった[42]。
住民
欧米系島民およびその配偶者と米軍関係者が在住していた。米軍関係者は1955年(昭和30年)頃の時点で、父島に11世帯150人あまりが暮らしていた[43]。また、島民男性の中には米軍から許可をもらい、日本本土でお見合いをする者もいた[44]。
公用語は英語であったが、島民たちは日英混合の小笠原方言を話しており、家庭によって日本語や英語の理解度が異なっていた[45]。そのため、島民の中には日本語の読み書きや敬語を上手に使えず、返還後に来島した東京都職員などとトラブルになるケースもあった[46]。
文化
アメリカ文化の影響
島民はプロテスタント(聖公会[47])が多かったため、クリスマスを祝ったり[48]、復活祭にイースター・エッグを作るといった宗教行事も行われた[49]。また、ハロウィン[50]やアメリカ独立記念日[48]にはパーティが行われた。
銃の所持も自由であったため、ハンティングが盛んに行われた[51]。ハンティングでは主に野生化したヤギを撃っていたが、返還後日本の法律が適用されたことにより、自由に銃を扱えなくなった結果、聟島列島ではヤギが異常繁殖して植生破壊を引き起こした[51]。
日本文化の影響
食文化に関しては、パンやダンプリングのほか、沖縄と同様にスパムやコンビーフ、チリコンカーンの缶詰も食べられた[52]。しかしながら、米食をはじめ日本の影響も強く、鉄火味噌や糠漬けも食べられた[53]。茶や味噌、醤油などは島では稀少であったため、台風の際に父島の湾内へ避難してきた日本船の船員から、果物と物々交換で入手することもあった[54]。
交通
アメリカ海軍の輸送船や揚陸艦が不定期に就航したほか、月に1回、グアムとの間に3機のHU-16D型飛行艇が就航していた。これらのHU-16D型飛行艇には「チチ・バード」の愛称がつけられ、父島~グアム間を5時間で結んだ[55]。また、島には医師が常駐していなかったため、重病の場合はグアムで治療を受けた[56]。しかし、日本本土との行き来は特別な許可がない限り禁止されており、前述のお見合いを除くと歯科治療の場合のみ渡航の許可が下りることがあった[57]。島民は特定の国のパスポートを所持しておらず、アメリカ海軍が発給した渡航証明書でグアムや日本本土へ渡航した[58]。
また、日本人の小笠原諸島への渡航は1965年(昭和40年)5月の墓参団[4][59][注 5]など特別な場合を除いて許可は下りなかった[60]。台風接近の際に、日本の漁船が父島の湾内で仮泊することは認められたが、船員の上陸は許可されなかった[54]。
教育
島民子弟への教育は、帰島当初は米軍兵舎の一角で行われ、イギリスの商社で40年間働いていた欧米系島民のフランク・ゴンザレス(Frank Gonzales)が英語で授業を行った[61]。その後1956年(昭和31年)にラドフォード提督初等学校(Admiral Radford Elementary School)が設立され、ハワイから日系人の教師が着任し、島民および米軍子弟の教育にあたった[62]。
教育制度はアメリカと同様であり、幼稚園から7年生(1966年(昭和41年)より9年生[63])まではラドフォード提督初等学校で教育が行われ、卒業後グアムの高校に進学した[64]。またその間の学費は無料であった[64]。授業は全て英語で行われ、日本語を話すと叱られることもあった[65]。生徒たちは大きな部屋で全学年一緒に勉強し、朝登校して星条旗を掲揚した後、昼は一旦家に帰って昼食を摂り、午後再び登校した[64]。野外映画やキャンプなどの課外授業は頻繁に行われ、潜水艦や米軍基地に見学へ行くこともあった[66]。また、小笠原諸島の日本返還が決まると、日本語の読み書きなど返還に向けた準備教育も行われた[67]。
グアムに進学した生徒たちは、アメリカ海軍関係者の「スポンサー」の家にホームステイし、そこから通学した。スポンサーとそりが合わない場合は、1年ごとにスポンサーを変えることもできた[68]。そのまま大学に進学する者もいたが、返還時に日本の高校生の年齢であった生徒は、新設された東京都立小笠原高等学校に編入学した[69]。
脚註
注釈
- ^ 最初の入植者である25人の出身地は、欧米人はアメリカ人2名、イギリス人2名、デンマーク人1名で、太平洋諸島出身者はハワイ諸島をはじめ、マリアナ諸島、カロリン諸島のポンペイ島、ギルバート諸島、マルキーズ諸島、タヒチなど、ポリネシアやミクロネシア各地からの出身者で構成されていた。
- ^ ボニン諸島とは小笠原諸島の別名で、江戸時代の日本人が小笠原諸島を無人島(ぶにんじま)と呼んでいたのが語源である。林子平の『三国通覧図説』にも無人島と記されており、それがヨーロッパに伝わった。
- ^ サンフランシスコ講和条約第3条で規定されたのは、信託統治可決までアメリカが小笠原諸島の行政、立法、司法のすべての権限を行使することであり、小笠原諸島に対する主権の放棄は規定されていない。そして最終的に、アメリカは小笠原諸島を信託統治下に置く提案を国際連合に対してしなかった。そのため、日本は小笠原諸島を放棄せずに済み、小笠原諸島に対する潜在的主権を返還まで持ち続けることができた。
- ^ 返還後、小笠原支庁は再設置された。
- ^ 1965年(昭和40年)5月の墓参は、硫黄島班25名と父島・母島班37名に分かれ、硫黄島班は日本航空のチャーター便を利用し、父島・母島班は海上保安庁の巡視船宗谷を利用した。その後、1966年(昭和41年)に第2回、1967年(昭和42年)に第3回墓参が行われた。
出典
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参考文献
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- ロバート・D・エルドリッヂ(Robert D. Eldridge).(2008年). 『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』, 南方新社. ISBN 4861241405
関連項目
外部リンク
- 小笠原村(公式サイト)
- 【1968年6月26日】 小笠原諸島返還 23年ぶりに復帰 - YouTube
- 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)(データベース『世界と日本』) - 東京大学 東洋文化研究所(田中明彦研究室ほか)
- 小笠原諸島の言語と文化 - ダニエル・ロング