大鳴戸灘之助

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大鳴戸 灘之助(おおなると なだのすけ、生年不明 - 1817年9月29日文化14年8月19日[1])は、江戸時代後期(享和 - 文化年間)に活躍した元力士大坂相撲[2]から東京相撲に移ったが、所属部屋は大坂・東京とも不明。

本名・身長・体重も不明[1]播磨国(現在の兵庫県南西部)出身。

最高位は東前頭2枚目。

大坂相撲でデビューしたのち、姫路藩抱えとして1801年11月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1808年3月場所で、西二段目6枚目(十枚目格)に昇進[1]。十両時代は5割前後の勝率を保ち続け、1811年2月場所で新入幕を果たした。1812年11月場所で6勝2敗2休、翌1813年1月場所で5勝0敗4休1無の好成績を挙げた(この場所での東前頭2枚目が最高位である)が、その後は低迷(もっともこの頃の記録は散逸が多い)。記録上では1815年11月場所で5勝2敗2休1の成績を挙げたのを最後に、東京相撲での出場が途絶えた[1]。そして、1817年8月19日に現役中のまま死去した。初土俵の年代から換算して30 - 40代で没したと考えられている。

幕内通算 7場所 31勝14敗4分6無10休の成績を残した。

改名歴は1回ある:大鳴戸 音右エ門 → 大鳴戸 灘之助[1]

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